まさかだろ
「眠っている間に見た夢に気をもむのは、眼がさめていながら夢を見るようなものだ」
Axel Gustafsson Oxenstierna
「じゃあねイシュタル、また来るからね」
そう語りかけ、最愛の少女に別れの口づけをしたマグダと共にフランは帰路についていた。
午後四時を回っていたとはいえ、未だ周囲は正午のように明るい。もう少し北ならずっと明るいままだと、何の気なしに恩師が呟いていたのをフランは思い出していた。
「かわいらしい……というか、とても綺麗な子ですね。あの、イシュタルさん」
「でしょう」
「どこから盗ってきたんですか」
「まさかでしょう」
軽口を叩けるほど、自分でもあずかり知らぬうちにマグダに気を許せるようになっていた。
平静さをたたえたと思えば、ひとたび口を開くと太陽のように大らかに笑う。静と動のはっきりとした表情を見せる彼女は、同年の少年少女とは一線を画す器量の大きさを感じさせる。
「いつから一緒なんですか」
「去年から。私が使ってた部屋にいつの間にかいて……可愛いし、寝る時あったかいから、それからずっと」
「動物か何かじゃないんですから」
器量の大きさ、というより自身の思いつきに忠実なのか。奔放な物言いに、今更ながらフランは嘆息ぎみに苦笑した。
「でも、考えなしってわけじゃないからさ。私はいま満十六、あと二年で成人でしょう」
「言い訳ができなくなってきますよ。見様によっては略取です」
「だからチクられる前にさ。大学入ったら、あの子の里親になろうと思ってるの」
「里親?」
「そ。それなら誰にも文句言われる筋合いはない」
「短絡的」
「そうかな?」
「思いつきで浮浪児ひとり抱えていける程、世の中簡単じゃありません。今からでも施設に彼女を預けるのが得策だと思いますが」
「御忠告は有難いけど、もう決めた事だから。手切れ金でそれなりに慎ましくしていれば、そこまで困窮はしないんじゃないかなってさ」
「手切れ金?」
「大学は出してやるから、それからはうちの姓を名乗るなってさ」
そんな札付きでは、嫁の貰い手すら足踏みするだろうに。ホリゾントへの引越しの際に持ち家を買い与えてよこすあたり、シュヴァイツァーには及ばないものの中流以上の裕福な家庭である事は想像に難くない。
「なおさら就職先が一介の使用人じゃ難しくなってくるじゃないですか」
「それじゃああのくたびれた資料館で司書でもやるよ。そうすればホリゾントに入学したイシュタルと毎日お昼からいっしょにいられるからね」
「勿体ない……」
「高望みする気は毛頭ないよ。ただ、女二人で飢え死にする気もないだけ。その為なら、私は何だってする」
「どこかに嫁ぐ気もないと?」
「ないねえ……子供を産む気はあるけど、男と暮らす気は無いよ」
「なんですか、それ……?」
「その通りの意味。抱かれるのは構わないけど口説かれるのはNGって事」
「女になら?」
「ぜひ口説かれてみたいものです」
マグダは笑みを浮かべて投げキッスをするも、フランににべもなく手で払われてしまう。
そうでもしないと気を保っていられないかのように、続いてフランはチューベローズの香りから逃れるためぶるぶると顔を震わせた。同年の話相手をも誘惑する彼女の仕草は、春を鬻ぐ椿姫からの敬愛か。
「残念ですけど、私ノーマルですから」
「へえ。貴女になら、口説かれてあげても良かったのに」
マグダの言う別邸から歩いて五分弱。
ホリゾント学徒寮5号棟のガーデンアーチをくぐってもなお、マグダはつかず離れずフランの真横を保ったまま、官能的な香りをまき散らしつづけていた。
「このままついてきても何もないですよ。私も寮に越してきたばかりですし」
「ひどいな。物乞いか何かに見える?」
全五階層のうち、女子に割り当てられている階層は二階と三階。大した距離はないとし、螺旋階段を伝って自室である二階へ目指す。相も変わらず、マグダはフランの背後につきっきりだった。
「それなりに古い建物なのに、内装ピカピカでいいよねえここ。一階層隔てたらグチャドロのゴミ空間って言うけど、ここはアタリだ。やったね」
鈴のように笑ってはしゃぐと、マグダはフランを小走りで追い抜いていった。あるドアの前に立つと、胸ポケットから鍵を取り出して施錠をいとも容易く解いてみせる。
「は……?」
「じゃ、私の部屋ここだから。またね、フランツィスカ」
「私の部屋って……」
第5号棟二階、西側螺旋階段から廊下を直進、談話室を通り過ぎてさらに直進した三番目の部屋。
208号室、先日フランに宛てられたばかりの部屋であった。
ひらひら笑顔で室内から手を振るマグダ。ぎごちない愛想笑いを顔に張り付けながら、フランは閉じられゆくドアの隙間に革靴を挟み込んだ。
「ただいま、マグダさん……」
「えっ」
ぽかんと口を開けて呆けていたマグダも、ようやくフランの意を呑みこんだらしい。事前に知らされていた同居人も室内にいるわけでもなし、やがてマグダは再び笑顔でフランを出迎えた。
「えっと……おかえり、フランさん?」