マグダとフランとイシュタル
フランを抱えたまま少女が降り立ったのは、とあるアパートメントのベランダ。建材を見るに、さほど築年数を経ていないと思われる物件だった。
「とうちゃーく、いらっしゃいませ」
フランと同じく飛竜を追って市街を駆けずり回った直後とは到底考えられなかった。息ひとつ切らさず、顔に疲労の色は見られない。
続いて自身とさほど変わらない体格の少女を支えたまま屋根の上を駆けてきたとは思えない、つくづく底なしのバイタリティの持ち主である。
「ど、どこですか……ここは」
「私の……まー、別荘というかなんというか」
「別荘?」
「広かないけどぜーんぜん快適なもんよ。バストイレ付の2LDK、前の住人は夫はエルフに貢いでスッカラカン、妻はモルヒネでヘロヘロ、お家賃払えず何処かへ去っていったところを、私が買い上げちゃいました」
「買い上げた!?」
「親の金だけどね」
「そんな安い買い物でもないでしょう……あ、貴女……」
「マグダだよ、べっぴんさん」
べっと悪戯っぽく舌を出すと、彼女は純白のレースカーテンで覆われている窓ガラスを拳で叩いた。
「ただいま、イシュタル。私だよ」
そう声をかけると、室内からカーペットを叩く足音がぱたぱたと聞こえてきた。小さな人影が窓際へ近づくと、カーテンの隙間から瑪瑙を思わせる鮮やかな瞳が覗いた。煌めく銀のブロンドの髪束がはらりとちらつき、人影が十二、三の少女だとようやくわかった。
「イシュタル、あけて」
マグダの再びの呼びかけに応じて、少女イシュタルは嬉々とした表情で施錠を解き、ガラス窓を開け放った。勢いよく飛びついたイシュタルに怯むことなくマグダは彼女を抱え上げ、頬を互いにやわらかく触れさせた。
薄手のキャミソール姿で恥じらいもほどほどに肌を放り出す彼女は、透き通るような色白。ラメ細工の施された髪留めで束ねられた髪束を振り振り、マグダの頬にごく自然にキスをする。
「おかえりなさい、マグダ。ティーセット、買えた? うりきれてなかった?」
「それがねイシュタル、ほんとに申し訳ないんだけど……犬に噛まれたというかなんというか」
「マグダ、怪我したの!?」
「いいや、違くって。ちょっとしつけのなってないドラッヘにお灸をすえてやったわけでさ」
室内からは濃い珈琲の香りが漂い、フランを酔わせた。棒立ちのままのフランを見かね、イシュタルを抱えたままマグダは部屋に入るよう促した。
「お二人は姉妹か何か? それとも……ご家族?」
「いーえ、赤の他人。私もイシュタルも、一緒にいたいから。お互い傍にいたいだけ」
「仲がいいんですね」
「そこらの自称親友同士よりかは喧嘩もしないしうるさく喚かない自信はある」
テーブルに置かれた茶請けのチョコウエファーをひとかじり、マグダは先の爛漫さから一転して沈着した様子で珈琲に口を運んだ。
かつては淑女然としていたはずの先ほどの服装を脱ぎ捨てたマグダの今の着こなしは、白のシンプルなブラウスに黒のスラックス。来賓の前、という事でリボンタイのワンポイントも忘れていない。
しみ一つないテーブルクロスには三人分のカップ、中央には多彩な菓子の盛り付けられたバスケット。直上には古風なシャンデリア、共同体のブランドで統一されている家具一式は、市街の中堅ビジネスホテルにも劣らないほどに優雅かつ素朴な雰囲気を醸し出す。温かみのある木製家具に囲まれ、確かにこれは住人でなくとも長居したくなる隠れ家だ。
ちらちらと控えめに来客を横目に見やる少女イシュタルの視線を感じ、愛想笑いを返すとフランは自分のカップに注がれた珈琲に口をつけた。
「う゛っ……」
「ははは、飲み慣れてない? イシュタル、ミルクを」
「失礼……申し訳ありません」
「よそで暮らしてた事でもある? 」
たどたどしく杯にミルクと角砂糖を入れてくれるイシュタルを目に、フランはいたたままれない気分になる。マグダの察しの通り、これまで舌をブリタニアで育ててきたフランにとって、ブラックをそのまま一杯は無理があった。
当初の苦味の大半が甘味に塗り潰された珈琲を味わいつつ、フランはぼそりと切り出した。
「それで……さっきの件なのですが」
「まぁたぁ。メンドくさいって言ってんでしょうがよ」
「場合によっては刑事事件になりうるかもしれなんですよ。そうなったら……」
「少なくとも、悪いことはしてないでしょうが? 私も、貴女も。飛竜が祭りの気に中てられてトチ狂って抜け出して落っこちた、それでおしまいっ」
「……」
「あ、機嫌悪そう」
「良くはありません」
「私にしては、貴女こそどうしてそこまでお役人の役に立ちたいのかわからないよ。付き合ったところでお駄賃くれるわけでなし、プライベート優先した方がましでしょ」
「そういうかっこつけで、公務への協力を欠かすほど私は不真面目じゃないだけです」
「かっこつけ?」
「悪ぶる事ばかり考えて、私たちの時分にはそう考える人がわんさといる。考えたくはないけれど、もしかしたら貴女もそのクチでは?」
「まさかあ。ギャングエイジなんかもう卒業したよ。人様に積極的に迷惑かける気はないよ」
「はぁ……」
どうにも調子が狂う。それなりに威圧を発しているつもりでも、目の前のマグダはちっとも動じない。半ばあきらめた様子で、フランはチョコウエファーにかじりついた。
「もう、いいです……わかりました」
「そちらはそもそもさ。どうしてそこまでおまわりさんに協力したいの? 卒業した時のコネでも欲しかったりする?」
「バカにしてます?」
「いいえ、ちいとも。やっぱりおいしい職にラクに就けたら嬉しいもの?」
「別に、将来に向けての努力を怠る気は毛頭ありません。自分の携わりたい仕事に就くためには、極力勉強を惜しまないつもりです」
「どんな仕事に就きたいの?」
「そこは、黙秘で」
公務員とだけ言うと、フランはそれきり口をつぐんだ。
高等部卒業後、既にフランには要職への門戸が開かれていた。帝国の魔術の名門であるシュヴァイツァーの一員である彼女は、その名に恥じることなくブリタニアでの留学において優秀な成績を修めており、既に魔術行使の技能は並みの公職員を凌いでいる。
確かに配属先である『蛇狩り』は、帝国内のポストとしてはたいへんな名誉職である。フランの望むが望むまいが、エリート街道に敷かれたレールは今なお着々と増設されていく。
ここまでの人生、何の挫折も失敗もなくフランはホリゾントの地へやってきた。入学時の試験で主席を逃してしまった事が悔やまれるが、それにしても些事にすぎない。
「貴女、名前は?」
「フランツィスカ」
「じゃあフランツィスカ。貴女はその目指す先が楽しいものだって確信はある? あるなら私にも紹介してほしいなあ」
「さて、どうでしょうね……」
『蛇狩り』の主任務は、主に東帝国領における情報運用、そして国内情勢の保安である。
かつての東西戦争の折に流布された人種差別、デマゴギーの防止や違法な結社、集会の取り締まりを行う警察官僚組織。その対象となるのは、『蛇』と呼ばれた極右勢力の首魁の思想を今なお信奉する人々である。
拝火人を虐殺し、原亜エルフの街々を焼き払ったという容疑がかけられた蛇の悪名は大陸全土に響き渡った。東西戦争の多くの虚実を巻き込んだ上で、彼らの存在はタブーとして表舞台からは抹消されている。
「やりがいはある仕事だと、そう私の先達は仰っておられました」
「やりがい、ねえ」
「ええ。自分の能力が評価されて、それが社会の役に立つならそれ以上の事はないでしょう」
「ふむ」
「才能と職が合致しているケースは希少です。それに奇跡的に滑り込めた私は、そうですね。幸せと言ってもいいかもしれません」
「へえ?」
「その運命的な合致が訪れないがために、何年も苦しんでいる人々も多いはず。そう考えれば、まだ私は恵まれている方と言っていいでしょうね」
「や、楽しいかどうか聞いてるのさ」
「楽しい……?」
「いくら女に生まれたからってさ、好きな事できなきゃ意味ないし。お話聞いてる限り、やっぱり貴女の内定してるお仕事ってお役人でしょう? それも、相当えらーい」
「あの、いつまでも私たちは学生でいられるわけではありませんよ。朝も早くから講義をさぼって遊びほうけていられるのも今のうちであって」
「それでプライベートの質を落とすくらいなら、私は一生日雇いでもいいなあ。そもそも私なんかじゃ、学校出たところで使用人くらいしかできないしね」
「考え方の相違でしょう。第一、貴女ほどの能力の持ち主なら日雇いで食べていくだなんて勿体ない」
「そういうものかな? まあ、少なくとも私も、環境変えたくてこっちに越してきたわけなんだけどね。やっぱり、ココロのどっかで将来の不安があったのかな」
「思考を行動に移す事は良い事です。それが未来に向けてのものならなおさらでしょうね」
「でも、贔屓にしてたピッツァの店も漬物がまずいバーにもサヨナラしちまった。寂しいねえ」
「は?」
「糞だるいミサ終わってさ、早引けして一杯やるのが本当に楽しかったんよ。バカな友達連れてダベってさ、そんでたまに教員にしょっぴかれて一週間停学」
怪訝な顔で眉をひそめるフランの視線に気づいたのか、あわててマグダは取り繕った。
「いや、こっちじゃそんな事しないよ。本当だよ?」
「嘘ではないといいのですが」
「マジだって、現にもう私なんか実家の後ろ盾もクソもないんだから。ここで学校出て自立しなきゃおしまいなのよ」
長い指でくっとカップを傾け、残りの珈琲を飲み干すマグダ。
「でもまあね。身から出た錆もまたスパイスさね。酸いも甘いもまとめて味わわなきゃ、人生損でしょ」
エクレアを両手で懸命に食べるイシュタル嬢の頭を撫ぜながら、妙に達観したような口調で語った。