KPMベルリン
強化術を停止して路上に降り立った先には、無残にも頭部への拳での殴打で昏倒させられたイルべガンの姿があった。ときおり尻尾を痙攣させ、びたんと床を打つ。この竜がこれから先飛竜として空を駆ける事ができるかは判別し難かったが、当面の問題は解決できたかと思うとフランは胸を撫で下ろした。
暗がりの路地に散乱した木材やレンガを避けながら竜へと近づくと、唐突な呼びかけがフランの耳に届いた。
「これ、あなたの竜です?」
じっとりとした妄念を孕んだ声は、竜の傍らに散乱したワイン樽に腰掛けた少女からのもの。
先ほど屋根の上で目撃した際には身なりのよい少女だと感じたものだが、その洒落たフリルブラウスは落下の際にどこぞに引っかけたのかあちこちが破け、レースつきフレアスカートは襤褸布同前。
むっすりとした不機嫌な顔で砕けた陶器のかけらを弄りながら、ブーツで竜の横腹を踏みつけた。
「あなたは、さっきの……」
この竜を殴り倒した、という信じがたい事実は、なかなかフランの口からは出なかった。身体の強化術に長けているとはいえ、徒手空拳で飛竜を相手取るなどフランにすれば自殺行為だ。ましてイルべガンともなれば、機関銃を始めとした重火器で武装していたとしても制圧できるか定かではない。黒光りする強靭かつしなやかな強度を持つ鱗は、歩兵の携行銃程度では傷を付ける事が限界のはずである。
「ギャースカ鬱陶しいじゃじゃ馬離されちゃたまんないっての。ホリゾントの都会人は、こんなのペットにしてるわけ?」
どこかやさぐれた、しかし芯の通った覇気ある発声。
はるかに歳の離れた公人との面会を幾度も重ねている経験のあるフランでさえたじろぐほどの密度だった。
とはいえ、フランも国家保安の任を担う公人となるべく研鑽を積んでいる者の一人。気圧されるわけにはいかないと、きっと相手を睨み返す。
「いいえ。私もこの竜を追ってきただけ、責任者はこれから鉄道会社に照会して探すつもりです」
「それじゃあ貴女、警察か何か? そうには見えないけどね、私と同じくらいでしょ。じゃ何だろね、かわいそうに放し飼いにされている竜を見過ごせなくなった正義感溢れる天才騎手か何か?」
「私はただの学生です、ホリゾントの……」
「あーもう、何でもいいから弁償してよコレ! ざっけんじゃないわよ」
恐る恐る癇癪を起こす少女に近寄ると、彼女の手にした破片に施されるコバルトの柄が見てとれた。
「磁器の食器か何か?」
「ええ、お子様のお小遣いじゃ数十年タカってもスプーン一本買えないブランドのね」
ぎりぎりと歯ぎしりし、体のばねで立ち上がった彼女は強か竜の背を蹴りあげた。
「ぶっとばしやがった! 大事な大事な大事な大事な大事な大事な、この、あたしの、贈り物を、くっさい尻尾引っかけて台無しにしたんだよ!?」
「贈り物」
「そうさ! あーっアホくさ、質草にしてカネにしておいしいもの食べるわけでもなくこんなガラクタだけが残るなんて、さいーあく。ありえない」
「それは……何と言えばいいか。ご愁傷様です」
わしわしと赤毛を掻いていら立ちを露わにする少女。
直立した際の身長はフランより少し高めの痩身、この細腕からイルべガンの鱗と筋肉を一撃で打ちぬく拳が放たれるとは、一目では到底想えない。とはいえただ痩せているわけでなく、関節を曲げる度にすっきりと引き締まった筋肉が浮き出てその存在を誇示する。フランがこれまで見た事のない、まさしく健康体と言うべき理想的な体つきといえた。
「思わずカチ切れちゃったんで一発しばいちゃったんだけど……これ、私悪いんかな」
「悪いというと?」
「今になって考えてんだけどさ。向こうの方が賠償ふっかけてくる可能性あるわけ? なわけないわよね、こいつの怪我以前に私の損害の方が視野に入れられるべき問題でしょうに?」
「さて……」
些細と断じるわけにはいかない問題ではあるが、フランが気にかかっていたのはどう『一発しばいた』のかの一点である。このお転婆が、果たして名のある術士なのかどうかが気になって仕方がない。
「なんか、考えてたらクソだるく思えてきた。帰ろ」
「はっ!?」
「何大声出してんの。帰るんですよ私は」
「帰るって……大通りには達しなかったとはいえ、駅前ではそれなりの騒ぎになっています。じきに警察も来ます、ここに残って……」
「嫌です、めんどくさい。そもそも私は警察だとかのお相手が死ぬほど嫌なんです。その他大勢よりちょっと落ちるんです。中の下です」
「なっ……貴女、何を言い出すんですか」
「だから、帰るんですよ私は。家に。帰る。オーケイ?」
「貴女も参考人の一人です、それに責任者が特定できれば竜を登録している法人から賠償だって……」
「んー……」
賠償と聞いて少しだけ悩むようなそぶりを見せるが、少女はけろっとして言った。
「いいや、めんどくさい。いつ降ってくるかわからん大金より、目の前のティータイムの方が大切」
「めんどくさいって……」
「それにさあ……ほら、着替えたいの。いつまでもこんなみっともないカッコしてらんないし……あなたも女の子だったら分かってくれるっしょ」
「服くらいなら上着をお貸しします。軍警への協力はできうる限りして頂かないと……」
「警察官でもないあなたに言われる筋合いはございません。軍警への協力は市民の義務とか何十年前の頭でもの喋ってるのさ、もうFCAだって廃れてるってのに」
なんて女か!
モノへの執着もなければ模範的な市民が持ちうる社会倫理も欠如しているというのか? 人一倍義侠心に強いフランには、飛竜制圧に貢献した果敢な市民の一人は不真面目なアウトロー手前の不良少女に様変わりしたように見えた。
「いけません、しばらくはここに残って話だけでも」
「いーやーでーす。お茶会に遅れてはいけないんです、お着替えもしたいんですほっといてください」
だらだら理由をつけて立ち去ろうとする少女に憤り、咄嗟にフランはすれ違いざまにその手首を掴んだ。
「お待ちなさい!」
なるべく怪我をさせぬよう制圧しようと考えたフランだが、先の彼女の実力が無意識のうちにちらつき、踏み込みが遅れた。その一瞬の迷いを突かれ、今度は少女の方がフランの間合いに詰め寄った。
手首を返して拘束を抜けた少女はすとんとフランの足を払ってみせ、体勢を崩した彼女の背に片腕を回した。次いで両の脚が浮くのをフランが感じると、ようやく自身の状況が呑みこめた。
「ちょっと……何、は、離してくださいっ」
少女が軽快な足取りでフランを手籠めにした結果が、このお姫様抱っこであった。
互いの前髪が触れあいそうなくらいに近い距離で、少女はきざったらしく言った。
「それともお綺麗な人、あなたがお茶に招かれてくれますか?」
「は……?」
「イシュタルの淹れる珈琲は絶品だ。泥水だと思って馬鹿にするもんじゃあない、きっとやみつきになります」
吐息が顔にかかる度、薄いチューベローズの香りがフランの思考に混ざり込む。
初対面の不良少女に完封負けした事実よりも、同性にこんな無礼な誘いをされて自分が頬を染めている事に、フランは気恥ずかしさを覚えていた。