マグダは奔る
マグダレーネ・マライヒ・ヴィトゲンシュタイン 28/03/1932
正午過ぎの青空を仰ぎながら、フランツィスカ・オルブリヒトは市街を疾走していた。
視線の先に映るのは癇癪を起こしたかのような雄叫びをあげ、落ち着きなく翼膜をばたつかせる黒い翼竜。イルべガンと呼ばれる、連合はウラル山脈以南原産の飛竜種だ。
その凶暴かつ熱しやすい躁急な気性から、騎乗に向けての調教には困難を要する。鋭利な刃そのものと言っても過言ではない黒の爪牙は、何人もの調教師と新米騎士を手にかけてきたのだとフランは聞いていた。ここ西帝国ではベテランの乗り手が己の技能のお披露目にこの竜種を用いるばかり、イルべガンは一般に流通していない希少な飛竜だといえよう。
「祭りに浮かれて、あんなものを東から持ってきたりするからッ!」
フランの誰に向けたわけでもない愚痴。
騎手を振り払って市街を舞うあのイルべガンは、17日に控えた納魂祭の見世物として運ばれてきたのであろう。現に彼女の通う学園を擁するここホリゾントキュステでは、3月末から街ぐるみで納魂祭に向けての準備で浮かれていた。駅前の市の屋台が大きな街道沿いにまで軒を連ね、薄い膜で作られたランタンに蝋燭を仕込んだ飾り付けが街路のいたるところに施される。升天教に準ずる正式な祭事でもなし、だからこそ市民の意識が高揚するのだろうか。敬虔という自覚こそないものの、升天教徒のフランはいささかはしゃぎ過ぎの感こそ覚えていた。
そして、そんな街道の只中に、あの錯乱した飛竜を放り込んだらどうなるか。
飛竜の高度は約30メートル、一般的なホリゾントの建造物の真上すれすれをせわしなく危なげに滑空していた。
咳き込むようなえずきをたびたび繰り返し、未消化の吐瀉物を路上に撒き散らしている。
もし輸送が陸路で行われたと考えるならば無理はないだろう。飛竜を列車で長時間拘束する際には細心の注意が払われる。そもそも推奨はされない輸送手段であり、小さいものでも全長が10メートルを越える飛竜をコンテナに詰めるなど、彼らの寿命をいたずらに縮める行為に他なるまい。ましてや竜種はあのイルべガンだ。
メインストリートに出られるまでに捕獲、制圧しなければ、最悪で犠牲者が出る可能性がある。
飛竜がホリゾント駅舎の天井を破るところを目撃した段でフランはそう直感し、追跡を始めた。人混みをかき分け、車道も歩道もお構いなしに駆ける。
非常事態を前に、手をこまねいていられるか。フランの正義感は、ひと度の着火で轟々と燃え滾っていた。
『魔術師』フランはぐっと靴底を地に押し付け、ぼそりと一言つぶやいた。
「J.R.O.L《強化跳躍、長期限定発動》」
自らの聴覚に訴えかける為の短縮詠唱が頭に響くと、詠唱の意図が瞬間的に現象へと変容する。
周囲の人々の常識という、既に誂えられたものに対しごく自然に、そして傲慢にフランの魔術が刷り込まれる。
腿に力を込めいざ蹴り出すと、ばつんと翠の光の粒が弾け、足元の石床が砕けた。
糸に吊られたかの如く、フランの身体は中空へと跳躍する。次いで突き出した右足で街路灯の天頂を新たな足場として捉え、すぐさま次の足場へと跳躍する。視線は変わらず、空でもがく黒竜に向けられたまま。
さすがはアークソード保有都市ホリゾントキュステ、魔力の効率的な変換をもあのランドマークが補助してくれているかのような錯覚すら感じてしまう。もとより術の行使に長けていたフランは、どこか宙を駆ける心地よさすら感じていた。魔術による強化に身を任せ街路灯、アパートメントの庇、屋根の縁、次々に颯爽と足場を経由して高度を高めていく。
一気にコンクリートづくりの五階建てタウンハウスの屋上まで駆け上ると、フランと竜の位置関係はついに水平なものとなる。三軒向かいの裏路地の上空、段差や障害を元のともせずフランは屋根から屋根へ飛び移っていく。
「I.W.S.B.M.P.《我が敬虔なるこの魂の傍らに祝福あらんことを》」
フランの続いての詠唱は、彼女が得手とする攻性術式のひとつ『紅の弾丸』。彼女の思考に従い、赤く発光する球体が周囲に五つ展開する。やがてそれらはいっそう光度を強めながら収縮していき、やがて弾丸を模したかたちへと変容する。
「Feuer」
短縮を用いぬ指示が直接指揮下にある弾丸へと伝わると、待機状態にあったかれらは主の命に従い、紅の光を携える線となって黒竜へと奔った。
射程圏内である15メートル。目視でフランはその距離を掴む事ができるほど、攻性魔術師として習熟していた。ゆえに、自らが生成した弾丸にも信頼を置いている。あの漆黒の鱗には焦げ目ほどしか付けられぬだろうが、確実に眼底に穴を開ける事はできるだろうと。
フランの視界には常に竜種は収まっている。動作性も正常、このまま被害を出さず諌められると半ば安堵していた。
「うるさいんだお前はっ!! このバカ竜!」
怒気を含んだ一喝が響き、フランは思わず集中を切らしてしまう。停止の念が奔り、射出された弾丸は急制動をかける。見ると、竜種の傍らには少女が追随していた。年の瀬はフランと同じ、ゆるく束ねた赤毛を盛る焔のように揺らして屋根の上で黒竜相手に怒鳴り散らす。
「あのねえ、何が気に入らないんだか知らないけど弁償してよ! どうしてくれんのこれ!」
取っ手の欠けたマグカップや割れた皿を片手に文句を垂れる少女。ぐるる、という飛竜の唸りにも怯まず、今度は飛竜の主に向けて弁償を請求し始める。
「ふざけんなバカ飼い主! 犬の手綱は握っとけよなー、絶対泣き寝入りなんかしないからな、ちくしょうめが!」
そう言って、少女はひらりと屋根から飛竜の背へと飛び乗った。
「そこの貴女っ、おやめなさい!! 危険です!!」
「暴れんなっ、こんにゃろが……!」
フランの忠告も無視し、もがく飛竜の上で必死にしがみつく少女。既に高度は半分以下にまで落ち、墜落やむなしと言ったところか。
加えてあの竜はイルべガン、弾みで軽く触れられたとしても人間には致命傷となりうる爪や牙がある。
しかし少女は畏れることなく鞍の残骸を握り、ようやく両の足を竜の背に着ける事に成功する。
そして腰を大きく捻っての一撃を、竜の後頭に向けて叩き降ろす。
「翼竜一匹じゃティータイムにもなんないんだよっ、トンチキが!」
ガチンという音の直後、落下速度をさらに増しながら竜と少女は街道手前の路地へと墜落していった。