到達
ぐわんぐわんと、音なき音が頭蓋内に反響する。
額の皮膚が裂け、正午の晴天に細かな血の玉が舞った。
迫りくる嘔吐感を、しかし歯を食い縛って耐えきり、ハインはベルンハルデへ向き直った。
「こういうのは、勧誘した張本人のハルトマン少尉がやるものだと思っていたけれどね」
既に、あの雑多な小蟲を見下すような笑みは彼女の顔から消えていた。
「あなたの事、どうもいけ好かないの。だから、丁度良かったかも」
悠々と歩み寄り、己の間合いに到達した瞬間、ベルンハルデの右フックが風を切りハインへ迫る。
初撃こそ両腕で防ぎいなす事はできたが、威力を完全に殺せたわけではない。カールの言によれば、ハインの身体もエクスキャリバーによって常時強化の恩恵にあずかっているとの事だったが、しかし魔人として熟練したベルンハルデの拳が彼の腕骨にひびを入れる事など容易い。
驚異的なストロークの短さで打ちこまれる連打の前に耐え切れず、ついに両腕のブロックが緩まったその時、隙を逃さぬベルンハルデのストレートがハインの頬を打ち抜いた。
尚もくずおれず、後退するに留めるハインだったが、ベルンハルデの追撃は止まない。踏込みからの勢いを殺さぬまま体勢をスライディングへ移行し、両の脚をハインの脚に絡ませ強引に地へ叩きつける。
意識しないまま足元の自由を奪われ、ハインはすぐさま立ち上がるべく半身を起こそうとするも、側頭目がけて飛来するベルンハルデの硬い爪先によって阻止された。
「これじゃ、私が弱いものいじめしてるみたい。なに、どういうつもりなの」
ずきずき痛む側頭を片手で押さえ、ハインは低くうめきつつようやく膝で体を支え、息絶え絶えに改めて向き直る。
湖面のごとく、澄み渡るほどの蒼に広く広く染まった青空のもと、午後の科目のある同級生たちは今頃教科書の貸し借りやレポートの工面に追われている事だろう。同居人を持っていかれたクルトは、諦めて寮にでも戻っただろうか? ここから見える実習棟で、教員たちは何を想って学徒たちを前に立つのか。少なくとも、ハインに近い心境の者は、この敷地にはいまい。
この一角に戦慄。ベルンハルデの放つ威圧に晒される自分と、敷地内の日常に内包されている人々を比較して、ハインは初めて自覚した。『ここ』こそが、非日常だと。
ブフナーの言う通り、日常を意識してこそ非日常へ立ち向かう刃は研ぎ澄まされる、その真意をようやくおぼろげながらも理解が追い付いてきた。
「人の話聞いてるの?」
膝立ちのハインの身体は、またしても頭部への回し蹴りによって力なく投げ出された。
新品の制服は血と土くれにまみれ、全身がじわじわと痛む。始まって十分足らずの暴行に、ハインの身体は既に悲鳴を挙げはじめていた。フックとストレートの嵐に晒された両の腕は、指先ひとつ動かすだけで感覚を麻痺させるほどの痛みが走る。頭部に与えられた打撃によって、軽度の脳震盪にも侵されていた。
「女々しい人だと思ってたけど、一応鞘として目覚めたところだけは評価してた。でも、そうやって大人しくしてれば同情を買えるとか思わないで。あなたがここで死んだところでね、私は痛くもかゆくもないの。それとも、付け焼刃すら用意できないなら、いっその事ここで諦めた方が得策かもね」
聞こえる。
ベルンハルデの声は、確かに聞こえる。
一字一句、その意図すらもはっきり理解できる。
「悔しいとか感じないわけ? 新入りだから優しくしてくださいとか、まだそんな事どこかで思ってるんじゃない?」
その侮蔑に満ちた感情がたっぷりこめられた台詞を、この耳で聞きとる事ができる。
「立って」
しかし、なぜだ。
同じ兄妹のはずのディートリヒ。
あの男と比較すると、どうしてこんなにも。
「立ってよ」
こんなにも彼女は彩り鮮やかに言葉を紡ぐのか。憤怒と軽蔑という焔を燻らせ、骨も砕けよと暴行を与える彼女は、なまめかしい感情と生の意志を見て、聞いて取れる。鉄面皮に表情を隠しておきながら、その意図や本心はこちらの理性で汲むことができる。
あの、深淵の深みに蔦で包まれたようなディートリヒの真意と違って。
「怖気づいたの? 立てないの?」
傍らに立ったベルンハルデはそう問いかけると、ぐいと片手でハインの襟を掴みあげる。
眼前の相手への蔑視の念からの怜悧な無表情。並の大人ですら萎縮してしまうであろうその眼光で射抜かれつつ、ハインはしかし平静を保ったままでいた。
「怖くないな」
息を吐くようにこぼれたそんな台詞に、ベルンハルデは一瞬反応できないようだった。
「痛い、だけで……怖くない」
びく、とベルンハルデの目元が痙攣した。ポーカーフェイスを纏っていた外面が、僅かにだが揺らいだ。
「そう、怖くないのね」
「ええ。ただ、すごく痛い。痛い……」
「ふざけた事をべらべら言ってると、もっと痛い目見るわよ」
そうだ、この女は怖くない。
殺す、痛めつけると口にしておきながら、それでも僕の経験にはこの女よりもおぞましい存在がいた。
まだ、あのディートリヒの方が得体の知れない分、そちらの方がプレッシャーだ。
痛い、痛いだけ、そんな女は、
グレゴール・フルークより怖くない。
ベルンハルデは握りしめた片手を解き、ハインが倒れ込むより先に股間を強か膝で蹴り上げ、次いでその長い脚で彼の頭部を横薙ぎに蹴り飛ばした。以前のような手加減はせず、大理石すら砕けるであろう四割ほどの力で。
湧き上がる苛立ちから思わず大人げない振る舞いをしたと、ベルンハルデは自戒するように俯いた。たかだか序列に並んで数日の新参者相手に、何をここまで気をやっているのか。ああした稚拙な挑発に乗るほど、ベルンハルデ・ヘンシェルは短絡的ではないはず。なぜ、ここまで心が焦燥のうちに昂ぶるのか。
ちら、とハインの現状を横目で確認すると、彼は既に糸の切れた人形のごとく地に四肢を放り出していた。もはや、悪態をつく余裕すら残っていまい。フルークの慰み者風情が出過ぎた事を抜かすからこうなる。
しかし、砕いてやったはずのその慰み者の頭部は、ベルンハルデの予想に反し原型を留めていた。
はじけたトマトはどこにもなく、ただ横たわる新参者の姿はベルンハルデを嘲笑しているかのよう。
(あの蹴りに、反応した?)
既に、顛生具現に目覚めていた上での挑発か? 答えを得るべく、思案に脳のリソースを使うより先にベルンハルデは足早にハインへと近づく。徐々に歩行の速度は速まり、その頭蓋を今度こそ叩き潰すべく右脚を上げた瞬間、
「抜刀でガードしろ、ベル」
「は……!?」
『お兄様』ディートリヒの忠言が突如として冷たく響く。しかし、ベルンハルデを突き動かす苛立ちの炎の勢いを弱めるのに若干のラグが産まれ、そして。
正午の陰惨なる私刑の間に流れる時は凍った。ハインと縁を共にするベルンハルデには、少なくともそう感じた。ただの数秒が、数分にも数時間にも、数日にも数年にも思える錯覚。幾万幾億分の一に裁断された秒という単位に、びっしりと書き込まれたその旋律は、ベルンハルデの耳に確かに届いた。
Was hör' ich? Ist es wahr?
――――おお、これは夢ではあるまいか。
Eurydike werde ich sehn, meine Eurydike?
わが愛する恋人、そしてわが至福の刻がもう一度息づくというのか。
Doch doppelt Leiden wird mich erfüllen in jener Stunde,
しかしわたしの途は、耐えがたき二重の責苦に苛まれる。
wenn ich, berauschet vor Wonne,
世に二つとない甘美なるその瞬間に心を躍らせながらも、
auf sie nicht dürfte blicken, nicht drücken sie ans Herz!
彼女の姿を見る事も、そのか細き肢体を抱く事も許されぬとは。
濁りに塗り潰された日常の救済を望むハインのウタ。
兄の忠告を耳にしておきながら、しかしベルンハルデは自らの能力を誇示しようとはしない。
この幼稚な、聞くに堪えない歌唱にを前にして、魔人として完成した自分が同じ力を以て制圧するなど、それは自らの自尊と矜持に背く行いに他ならない。
身に纏う『防性』の気質を高め、あくまでも聖剣の加護に預かる身体の強靭さで、このガキの術を受けきらねばなるまい。凍った時の中で、ベルンハルデは憎々しげに横たわるハインを睨みつける。術が届くより先に、この少年の頭蓋を踏み砕く。そこには一片の例外も許さない、許してなるものか
O du Geliebte, Beute wirst du tödlichem Schmerz!
愛しき人よ。あなたは死の痛みを我が身我が心にもたらす事だろう。
Schon seh' ich keine Wahl!
しかし、いまのわたしに選ぶべき他の途などない。
Mich foltert dies Schreckensbild; ach, schon bei dem Gedanken
わが目下に広がる光景は、げに恐ろしき拷問よ。
fühl ich in den Adern erstarren mein Blut.
其を想うだけで、わが血は生気を喪い凍りつく。
Tragen will ich's, ich will es mutig vollenden!
わたしはこの課せられし苦難に耐え、そして勇気を以て成し遂げよう。
Mein Unglück, nicht länger ist's zu tragen,
もはやわたしは、この責苦に耐えられぬ。
und lieber will ich erliegen den Gefahren, als ohne sie leben!
愛しき者の亡き世を是とするならば、わたしもまた昏き絶望に屈し亡びるまで。
Götter, leiht mir euren Schutz, ich werde gehorchen!
神よ、わが主よ。どうか加護を与えたまえ。わたしはあなたに従おう、我が内なるあなたの為に。
ウタの旋律が終わるのと同時にハインは首を起こした。奥歯を噛みしめ、全身の痛みに耐えながら、ハインはベルンハルデを睨み返す。
振り下ろされるベルンハルデの革靴が、ぎしりと音を立てて静止した。意図せぬ感触に僅かに動揺し、周囲を見回す。脚の自由が、利かない。
「抜刀!?」
『抜刀』特有の五芒方陣は、ハインの周囲には見られない。恐らくは不完全な、疑似的な『抜刀』の現象に過ぎないのだろう。しかし、ベルンハルデはすぐさま感づく。
半端に開いていたハインの右手が、ギリギリと少しずつ握られていく。
それに合わせ、ベルンハルデの脚がきしむ。見ると、表面には『糸』――――『弦』が食い込み、縛り付けられていた。少しでも力を入れると拘束は強まり、皮膚を直接灼かれているかのような痛みが走る。じわじわと食い込む『弦』は強化されているはずのベルンハルデの白い肌を裂き、鮮血で辺りを染めてゆく。
「これはッ……!?」
『弦』の纏う淡い発光は翠。色を頼りに周囲を見回すと、『弦』は周囲に点在する鉄製の案内板にそれぞれ縛り付けられている。恐らく『弦』は詠唱が始まる直前に展開したものであろう、いざ唄いあげた瞬間を狙わんとするベルンハルデの思惑を読み、ハインは『弦』によってすぐさまその脚を縛り上げた。
「ちっ……」
舌打ちし、『弦』を断ち切るべく自らも顛生具現の一端を展開する為、意識を制御するベルンハルデ。呼び寄せたるそれは、かつて自らの祖先が愛用していた長大な柄を持つ大太刀、牛馬をも一閃する巨大な斬馬刀―――――だが、僅差でハインの反応がその展開に勝る。
幾重にも巻きついた『弦』はハインの意に従い、緊縛を極限まで強めていく。靴下を、皮膚を、脂肪を裂き、骨に達し、少女の片脚を千切り飛ばす。
同時にハインは頭部をしたたかベルンハルデの召喚した巨大な『刀』の峰で殴打され、ついに意識を失った。