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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
フランの冒険
104/105

東京都渋谷区道玄坂一丁目

 列車の乗り入れるホームに向かうための道なりにはたいてい駅員がいて、購入した切符への入鋏を済ませてから客車へと乗り込む。現にフランは今までそうして列車を利用してきたのだし、それ以外の方法があるなど夢にも思わなかった。


 相変わらず駅構内に人の気配は感じられない、駅員はおろか自分たちと同く雨宿りを目的とした浮浪者すらも。鼠や野良猫の一匹もおらず、生物と言えるものはフランとベルンハルデのたった二人だけ。にもかかわらず、数本の切れかけの蛍光灯だけが、この駅構内が打ち捨てられた廃墟でないことを主張していた。


 幅十メートルほどの比較的広い中央通路から、開けた場所に出た。構内の明度はさらに落ち込み、光源と言えば眼前に複数鎮座する物体の放つ淡い照明だけだった。


 等間隔に八基ほど設置されたそれは機械らしく、形状は板のような直方体が軒並み横たわったようなもの。それぞれ隣接する筐体との間には正方形のうすい板がぽつんと取り付けられ、フランにはそれが扉の役割を担っているように見えた。


 周囲を見渡すも、やはり人の姿はない。


 ベルンハルデを自身の背後に庇いながら、フランは機械へ近寄って調べてみた。上部には薄っすらと深い青に光る楕円に、長方形のシルエットが浮かんだピクトグラム。そのすぐ真下には、一文字に開いた挿入口のような箇所があった。


「切符を改札するための機械……でしょうか?」


 確信を持てずかぶりを振って、ベルンハルデの表情を確かめる。彼女もこんな代物を見るのは初めてらしく、不安げな視線を唸る筐体群に投げかけていた。


 どうしたらよいかわからない、何の気なしに首をひねりながら謎のピクトグラムに手をやると、突如筐体からの甲高い音と共に、ばつんと勢いよく正方形の板が観音開きよろしく開け放たれた。


「奥に駅員の方がいないか見てきます、こんな状況でも無賃乗車をするわけにはいきませんから」


「お姉様、私も……」


 つかつかと筐体の間を通り抜けるフランに倣い、ベルンハルデもまた小走りにそれに続いた。ところが、再びの不快な機械音が鳴り響いたとともに、彼女だけは通すまいと板の扉が閉じてしまった。


「ベルンハルデさん!?」


 咄嗟に彼女の安否を確認しようと振りむいた。


 振り向いた先には、湿気っぽい薄暗がりの駅構内など、どこにもなかった。


 まばたき一回の刹那、フランを取り巻く世界がまたも、またしても無遠慮に切り替わった。


 人、人、人人人。


 広大な空間に、数百数十数千をゆうに越える人間が、西へ東へ忙しなく行きかっていた。


 やけに低い天井に備え付けられた照明は、どれも寿命の付きかけたおんぼろというわけではない。ところどころが修繕用のシートに覆われてはいるものの、先ほどの妖しい洞窟めいた空間に比べればよほど洗練された印象を受ける。


 ただ、快適と呼ぶには、この環境はよほど足りない。壁面は床は圧迫感のあるクリーム色、換気設備がないわけではないにせよ、淀んだ空気が圧し掛かってくるような感覚すらあった。


 ひっきりなしに聴覚に溢れるのは無数の足音、無数の声、空間内になみなみと充填されたような噪音と雑音。そして意図不明な機械音の数々。


 ぴー。


 ぴっ。


 ぴぴっ。


 ぴぴぴぴっ。


 駅、駅だ。駅の改札だ、それに間違いはない。


 行きかう人々の大半はフォーマルなビジネススーツを見に纏っていたし、地階からは発着する列車の振動が感じられる。言語こそわからないが、そこここの設置されたスピーカーは、運行情報を伝えているのだろう。天井から吊り下げられた黒のプレートには、電飾によって表示が切り替わる仕組みが施されているらしい。発着時刻の表示の横に記されているのは、おそらく行先だろうとフランは思った。


 ただ、やはり客の購入した乗車券に鋏を入れる駅員の姿はない。その代わり、利用客がが先ほどの機械へ切符を投入すると、入鋏された切符が手元へ排出されてくる。筐体の中身がどうなっているか、フランには想像がつかなかった。


 頭上の案内表示には、未知の象形文字の並びに続いて、フランの知る表音文字でのブリタニア式綴りが記されていた。


■■■ ■■■■■  Shibuya Sta. Hachiko Gates


Shibuya(シブヤ)……駅……?」


 16年の人生で、そんな地名は聞いたことがなかった。ホリゾントがかつてそう呼称されていたとは考えにくい。Fukutoshin(ライン)、Den-en-toshi(ライン)、Hanzōmon(ライン)といった、併記されている各方面路線らしき名称にもまったく記憶に覚えがなかった。

 

 呆気にとられていたフランは、背後からいきなり突き飛ばされ転倒した。そういえば、自分は改札機能を有しているらしい機械を通ったのだった。なるほど、自分の予想は外れていなかったとみえる。暗い色のスーツに身を包んだ老若男女が、フランの利用した改札機械の間を、余裕なさげな勇み足で通り抜けていく。フランの背を押したと思しき背広の男は、ほんの一瞬彼女を一瞥するかと思えば、小さく舌打ちしてさっさと早足に去っていった。平たい顔、平たい顔、平たい顔、見たことない顔、見慣れない顔。彼らの身体的特徴に見覚えは、あった。


 ハデスの眼を覗いたときに見た、悪趣味が過ぎる白昼夢。そこに登場した人々は、ちょうどこんな顔をしていた。ホリゾントの学園敷地ではめったにお目にかかれない東洋人に近しい肌の色味と骨格が、そこでは我が物顔で闊歩していた。


「×××××××××××××××××××」


 立ち上がろうとしたところを、半袖のワイシャツにネクタイ、黒の制帽といったいで立ちの初老男性に話しかけられた。男のシャツの胸ポケットに提がっている長方形のプラスチック製のバッジには、案内表示板に記載されていた鉄道会社の車掌らしきエンブレムと同じものがあった。


「ごめんください、あなたは駅員の方ですか」


 ところどころ噛みながらのフランの言葉が伝わっていないのか、男性は首をかしげながら掌を見せ、フランの発言を制した。ちょっと待ってくれ、といった苦し紛れの所作か。彼は関係者の詰め所と思しき区画に声をかけると、続いて裏手側のドアから二十代半ばほどの若い男がやってきた。服装を見るに、彼もまた初老の男と同じく駅の職員に違いなかった。


「すみません、お待たせしました」


 ところどころたどたどしく発音も怪しいが、彼の口からは紛れもなくフランが精通しているブリタニア語が確かに発された。馴染みある言語がようやく耳にできたことで、フランは少し安心した。同時に、ようやく自分が爪先までずぶ濡れだったことを思い出す。


「失礼ですが、切符はお持ちですか? ご用件をお伺いしても?」


「切符は……すみません、持っていないんです。券売機も見当たらなくて」


「かしこまりました、それではご案内いたしましょう。本日はどちらへ向かわれるご予定でしょうか」


「ま、待って。ごめんなさい、そうじゃなくて、確認させてください。ここは……ここは一体どこなのですか」


「どこ……ええと、もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか」


「ここは西部帝国領ヴェステンヴァルト……ではないのですか? ホリゾントキュステという地名をご存知ですか!?」


 考えあぐねた様子で、男性は少々眉間に皺を寄せた。表情の読み取りづらい顔つきをしているものの、どうやら腹を立てたというわけではないらしい。失礼、と一端の会話を打ち切り、何やらスラックスのポケットから取り出した。掌に収まるサイズの、カードのような長方形のプレートだ。表面には写真や図画、多種多様なデータが羅列され、男性の指先だけの操作で頁をめくるように、保存されている情報が表示されては消えていく。空想科学を題材にした三文小説にのみ存在を許されたガジェットが、フランの眼前には確かにあった。眼鏡のヴォーパル鋼には魔力は通電していない、しかしこの光景は先ほどの偽物の濃霧に撒かれた時のような幻覚なのだろうか。


「申し訳ありません、ホリゾントキュステ……ですか、そういった名称は現在駅名として利用されていないようでして」


「そんなはず……」


 たった今そこから来たのだと声高に主張したいところだったが、なんとか堪えた。


「すみません、あの……ここがどこなのか教えていただくことはできますか」


「どこか、と言いますと……渋谷(シブヤ)です、東京都(トウキョウト)渋谷区(シブヤク)道玄坂(ドウゲンザカ)。そしてここは渋谷(シブヤ)の駅です」


 ここがどこなのか。それが国名を問うていることを理解するのに、男性は一考を要した


「ええと……日本(ジャパン)ですよ。西部帝国領ヴェステンヴァルトというのは……すみませんが、私ではわかりかねます」


皇国(ヤーパン)……!?」


 文献や教科書でのみ知る、東洋の島国。大陸の東端にある列島に存在する、皇帝を国家元首に据えながらも民主国家を称する、嘗ては大陸社会において広く黄金郷(ジパング)とも噂された奇妙な辺境国。暗記しただけの断片的な知識を繋ぎ合わせたところで、現状を打開、もしくは発展するほどの成果は得られそうにない。


 焦り気味に、フランは首筋に流れる冷や汗を手で拭った。改めて周囲を見渡すと、頭上にある案内板に目が留まった。正確には、時刻表に並ぶように設置されている時計だ。


 現在時刻は、四時三十分を示していた。


「もう一つ、お聞きしていいですか。今は何時でしょう」


 男性は再び長方形の表面に目を落とした。


「夕方の四時半ですね」


「……今日は、何月の、何日ですか」


 一九三三年、四月一九日。ホリゾントとどれほどの時差があるかは知らなかったが、望みが薄いとはいえ、自身が先ほどまで認識していたはずの日付が男性の口から発されるのをフランは期待した。立て続けの、それも正気を疑うような質問責めに、平静を保っていた男性の表情にやや陰りが見え始めた。


「九月七日です。西暦二〇二三年の九月七日です」


「は……?」


 掴んだ藁ごと激流に投げ出されるような無力感が、フランの思考を貫いていった。


 二〇二三年。


 フランの生きる時代から、実に九十年の年月を重ねたあとの世界。


 信じがたい、信じられない。これも何かのまやかしだ、一瞬のうちに人間が未来の世界へ、それも遠く離れた極東の島国へと跳躍を果たすなど。現代の人類の持ちうる技術では到底不可能だ、絵空事だ。


 夢でも見てるに違いない、こんなことはありえない。あっていいはずがない。


「……お客様、ご気分が優れないようでしたら救急車の手配をいたしますが」


「私はおかしくなんてなってない!!」


 ジャケットの内ポケットからケースに収まった学生証兼身分証を取り出して、眼前の男性に突き付けた。


「今は一九三三年のはずです、ご覧になってください! 私は今月からホリゾントへ入学した人間です、偽造なんかじゃありません! い、今が二〇二三年だなんて、信じられるわけが――――」


 興奮にいきり立つフランを男性は両の平手で諫めるしぐさをしてみると、そそくさと先ほど自分が出てきた詰め所へと小走りで戻っていった。そのうち、二分もしないうちに彼は灰色の紙束を手に持ってフランのもとへ帰ってきた。数日分の新聞のようだった。記されている文字はどれも彼らが用いる象形文字なので、フランが読むことができない。彼は新聞紙の一面記事に記載されている文字列に指先を示した。


 2023■(■■35■)


   9■7■

   ■■■


「これが今朝がたの朝刊です。前日のものもご確認されますか?」


 そう言うと、彼は過去三日分の新聞に加え、気を利かせたのか、若い男女がフルカラーで鮮やかに印刷された表紙の小冊子をフランに手渡した。こちらはどうやら旅行会社のプランニング誌らしかった。表紙や巻末に書かれている年月日には、どれも二〇二三年という記載があった。


「そんな……う、嘘……嘘だわ」


 新聞紙に至っても同様だった。男性は発行会社別に三種の新聞を用意してくれたが、いずれも年数の記載に違いはない。フランが今、地に足を付けている場所が二〇二三年九月の、極東の最果てだという事実を、短い文字列は冷徹に主張してくる。


「そうだ……ベルンハルデさんは……あの、私のほかにもう一人、びしょ濡れで改札を抜けようとした子がいたはずなんです、ご存じありませんか」


「いえ、お連れ様がいるようだったとは引き継いでおりませんで……」


 休む暇なく迫る理不尽に、フランの意識は限界が近かった。眩暈とかすかな頭痛が頭蓋の奥から絶え間なく思考を苛み、あまりの息苦しさに肺腑がぶるぶる震え出す。ふらつく足取りで改札の外側へ戻ろうとすると、男性が甲斐甲斐しく肩を支えてくれた。


――――こんな事になるのなら、無理を言ってでも少し強い薬を処方してもらうんだった……!


 考えられるのは、環境の変化に基づく慢性的な心労による意識障害。これはすべて幻覚で、錯覚で、少々機能を病んだ脳の産み出した、実体のない譫妄に過ぎない。妄想だ、虚像だ。


 こんなものは夢だ、悪夢だ、白昼夢だ。お願いだから、誰かそうだと教えて頂戴。


「救護室が空いているようなので、そちらへご案内します。じきに救急車も来ますので、もう少しの辛抱ですよ」


男性の温厚な声色だけは認識できた。彼の不格好なブリタニア語が示す言葉の意味が頭に入ってこない。いろいろ世話を焼いてもらっておいて申し訳ないけれど、今はベルンハルデを探さなければ。彼女もまたこの異世界に紛れ込んでいるのなら放ってはおけないし、人外の術理を自在に操る魔人たる彼女なら、この理不尽を打開する策も持っているかもしれない。要は、彼女にしか縋ることができないのだ。


「ベルンハルデさん……ベルンハルデ、どこ……?」


 横一列に並ぶ改札機械の一番端を通って、見知った黒髪の少女を探す。


 機械の列を踏み越え、改札口の外へ出た、その瞬間。


 鋭利な錐の先端で後頭部を指し抉られかのような耐えがたい激痛が、ほんの一瞬フランの痛覚を蹂躙した。一閃の痛みののち、脊髄を通して名状し難い浮遊感と倦怠が身体の末端へ、溶けて広がるように流れ込んでいく。やがて血流が正常化し、喪っていた体温によって四肢の感覚が確かなものへと戻りだす。


 唾液が気管へ紛れたらしく、フランは激しく咳込んだ。


「お姉様っ!?」


 未だ不調の中にある聴覚へ聞こえてくるのは、くぐもったベルンハルデのものだった。


 周囲の状況を確認するのに、少々の時間が必要だった。ついさっきまでのShibuya(シブヤ)駅なる異界の風景はどこへ霧散したのやら、いつの間にか、フランの身体は煤けた地下鉄の駅構内へと帰還を果たしていた。


 それ自体は喜ばしいのではあるが、どうやら正気を失っている合間に、自分とベルンハルデを取り巻く事態は変移していたらしい。


 フランはいま、庇われるようにベルンハルデの左腕に抱かれている。片方の右手には、漆黒の刀身を有する奇怪な形状の剣が握られていた。三日月を思わせる曲線を無理やり直線状に配置したような、歪な剣だった。その切っ先が向いているのは、フランが無警戒に通過しようとした改札機械の向こう側。そこに佇む人物の額だった。


「立てますか、お姉様。私の後ろへ」


 ジャケットスタイルのスーツを着こなした、いやに小柄な少女だった。見れば、制帽含めたその服装は、オーダーメイドらしき駅職員の勤務服らしい。皮膚も頭髪も、暗がりの中ではそれ自体が仄かに発光している錯覚さえ覚えるほどの純白だった。馴染みの改札鋏をかちかち弄びながら、大きすぎる双眼で少女はベルンハルデを真っすぐ見据えていた。


「クク、フクク、クク……解、解せ、ない……わ……ね……(ドライ)……視野狭窄もいいところの……あなたが……どういう……風の……吹き回しでしょう」


 吃音を煩っているのか、彼女の帝国語はひどく聞き取りづらかった。ベルンハルデはそのすべてを聞き流しているらしく、改めて彼女は改札機械越しの謎めいた少女に詰め寄る。


「これはあなたの芸当かしら? ヘンリエッタ・シュナウファー」


 言い淀むことなくすらすらと、ベルンハルデは相対する人物の名を発してみせた。


「芸当……とは?」


「こうしてこれ見よがしに広域展開している絶対哲学領域。文化財保護の観点から、ホリゾントでは鉄道会社による地下路線の開発など行われてはいない。本調子ではないにせよ、引っかかるまで気づかなかった私も私だったわ。こんなにも分かり易い偽装術を、今の今まで見逃していただなんて」


「フクク……それくらいは……気づけて……当然……そもそも……自分の身を守るために……こんなものは用意しない……」


「目的は何?」


「こちらが……聞きたいくらい……いかに特段の偽装法に秀でない……私の顛現術とて……そこの一般人に……封印を開錠されるほど……柔なものではない……」


「そちらからお姉様への干渉を企てたわけではないということ?」


「フクク、カカカッ……お姉……様ぁ? そこの……眼鏡猿が……? アンタぁ、(ツヴァイ)には愛想が尽きたってことぉ……? こいつア傑作……手ェも早けりゃア……尻も軽い……不埒で不孝者なことで……クク……フクククッ……! そんな女どもに……わざわざちょっかいかける暇なんかありませんわ……まるで……質の悪い……居直り強盗のよう……」


「今日はよく喋るんですのね。場合によっては(エルフ)。この場でその首叩き落としてやっても良くてよ」


「やれるもんなら……やってごらんなさいなァ……その青チョビた……情けなァい発露魔力で……何ができるかァ……見たところ……既に誰ぞと……一戦交えてきたとお見受けできますが……」


 かちん、ぱちんと鋏の音だけが響く。


「いやぁ……やめにしておきましょう……私もいつまでも……頭を患った野犬みたく……四六時中……その日の食事と……セックスだけを……考えているわけにも……いかない……身の上になりましたので……私ぁね……何かと忙しいのですよ……(ドライ)のお嬢さまぁ……」


 極力ポーカーフェイスを心掛けているようだが、ベルンハルデが憎悪と侮蔑を滾らせていることはまざまざとわかった。


雄豚に授乳(ナニをしゃぶら)されて育った家畜は挑発の仕方も満足にできないとみえる」


「鞍替えの速さが……取り柄の……あなたより……長生きできそうですわ……フクク……」


 品性をかなぐり捨てた低俗な罵り合いによる一触即発の空気は、文字通りに火薬庫めいていた。


 突如出現した魔人が一人――――ヘンリエッタ・シュナウファーがどれほどの暴威をあの小柄な体躯に宿しているかは未知数だったが、これを相手取るベルンハルデの分の悪さは、彼らについての知識を殆ど持ち合わせていないフランとて容易に理解できていた。


 かりかりと、硬いものが削り取られるのにも似た異音が、ベルンハルデの握る一振りの刃から発せられる。音を立てて刀身を蛇の如くにのたうつのは、紫に煌く稲妻のような魔力の迸り。ヘンリエッタへ向けられた、明確な形を持った戦意と敵意そのもの。その紫に、フランは見覚えがあった。あの虚像の濃霧を抜けたあとに見かけた、奇妙な靄の色と同じだ。肺腑を蝕む有毒の靄、ベルンハルデと彼女の振るう異能こそ、その出処に相違なかった。


「駄目、やめて、ベルンハルデさん。剣を納めて!」


「このままあの女が背を向ければそうしますわ、お姉様……!」


「彼女はあなたの……十三騎士団の仲間なのでしょう!? 殺し合う必要なんて……」


「そうもいかないということは、先ほどお教えした通りです。五つの柱の代替を天門に捧げるまで、対立は終わらない」


「その心酔ぶり……今なら……(ツヴァイ)すら……憂いなく贄に捧げそうですわね……」


「あなたを始末したら、彼に後を追わせましょうか」


 ニタニタと微笑を浮かべるばかりのヘンリエッタ・シュナウファー。


 彼女の背後からの一声が、双方に戦意の刃を下ろさせる結果になるなど、フランには想像もできなかった。


「フラン! フランツィスカ!!」


 その溌溂とした、バイタリティ溢れる声を、フランが聞き違えることなどなかった。


 声の主は灼熱に燃え盛るような赤毛を振り乱して、ヘンリエッタ・シュナウファーの傍らに駆け寄ってきた。出会って数週間の、親愛なるフランのルームメイトが、太陽のような笑顔をこちらに向けてきた。


「マグダ……マグダ、なの?」


「こんな顔した人間が他に何人もいるもんか」


 張り詰めた対立による緊張の糸をものともせず、実に気安い様子でマグダはヘンリエッタとベルンハルデの間に割って入ってきた。


 ベルンハルデはといえば、不快そうな表情をより一層曇らせ、闖入者の様子を伺っていた。


 自分が人殺しだと疑われていることなど露とも思わぬ様子で、マグダは自分との再会に喜んでいるようだった。それがなんだかこそばゆくて、誇らしかった。同時に、小さくない罪悪感がちくりと心を刺した。

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