濡羽色めく春時雨
フランが立っていたのは、州立病院から十分ほど歩いた先にある、バス路線や基幹街道を外れた裏通りだった。旅行者向けの格安モーテルや土産物屋が慎ましく軒を連ねる区画だった。記憶が確かなら、この更に裏手には、妓楼の立ち並ぶ色街があったはずだ。女学生が一人でこの時間にふらつくにはあまりに相応しくない。
「人間の……私のすることに、理由なんてない。それなら、今、この場所、この時間に私が居ることに、理由なんて……」
どこまでが人間のすることか。どこまでが人間の手を離れた現象なのか。あのカール・クレヴィングのほざく戯言にいちいち拘泥していたら、それこそ何もできないのではなかろうか。
こぢんまりした店構えのブティックやガラス細工屋は、駅前のアーケードやデパートメントストアで目を肥やした人間からすれば、お世辞にも垢ぬけているとは言い難い。いずれも納魂祭が開催される日程は休業しているらしく、またニセの濃霧の影響もあってか、人気はまったくと言っていいほど無かった。
確かに白く濁った霧こそ視界から消え失せたものの、代わりに周囲の大気に薄っすらと紫がかった靄が浮遊しているのに気が付いた。なんだか、喉がいがらっぽい。単に何かを燃やした煙とも思えず、姿勢を低く屈めてハンカチで口元を押さえた。
「なんだろう……これ」
屈んだことで、暗がりに無造作に放られていたそれを発見することができた。手に取ってみると、それは黒光りする刀剣。ライフルの先端に装着する、年代物の銃剣だった。それも、一振りだけではない。毒々しげな紫雲がぽろぽろと取り落としていったかの如く、路地裏の道なりに抜身の刀剣類が散乱していた。比較的背の高い集合住宅の壁面に、屋上近くから一列に並んで突き刺さっている光景さえ見られた。
長剣、突剣、懐刀、曲剣、大鉈、円刃。多種多様な刀剣のそのいずれもが赤黒い血錆に包まれており、歩を進めるにつれて、今さっき使用したばかりと言わんばかりに鮮血が付着したものが見受けられるようになった。刀身の血液は乾ききっていない。この異常な現象を引き起こした元凶といえる存在が、この墓標の如く立ち並ぶ刃の先に、いる。
咳込むと、ハンカチに少々の喀血が付着した。喉にも胸にも痛みがないだけに、余計に不気味だった。長居するわけにはいかない、しかしここで何も果たさず引き返すわけにもいかない。散乱している中で状態の良い銃剣を片手に、無臭の毒に肺を少しずつ焼かれながら、それでもフランは先へと進んだ。
「ぎああああっ、げえっ、え゛っ」
屠殺される山羊の断末魔めいた悲鳴が、うらぶれた色街の一角に響いた。間違いなく、この先で何かが起こっている。誰かが、この錆まみれの刃で皮や肉を削られているのだろうか。残酷な妄想とは裏腹に、フランの綱渡りは終わらない。足が勝手に前へと踏み出していく。銃剣を握る手の力が、自然と強くなっていく。
「あんたの次はディートリヒ・ガーデルマンだ!! その次は……ははははッ!!」
唐突に響いた、恍惚交じりの奇声にフランは身構えた。絶叫は、通りに面する塀に身を隠したフランの位置から、左手にほんの数区画離れた場所からのようだった。
「ああもう誰でもいい、全員あんたと同じ目に遭わせてやるからな。これが縁ってやつだ、これが絆ってやつだろう? あんた達が僕に結びつけた絆だ、そっちからほどいてチャラになんかさせるもんか」
耳を塞ぎたくなるような残虐な宣言だった。どれだけの憎悪があの場で発散されているのか。そして、その濃厚な憎しみもまた、理由なき人間の感情によるものなのか。声の主は、錆びた刃で拷問されている人間個人のほか、彼の仲間にも怨恨があるのだろうか。
「それにしても……ディートリヒ・ガーデルマン……?」
意外な名前だった。義姉と同じく、長らく魔術の才に恵まれることのなかった男の名だ。妹には、フランの受験した入学試験を首席でパスしたベルンハルデ・ヘンシェルがいたので、ディートリヒの名は自然と頭に入っていた。二人と直接的な面識はないが、ベルンハルデに関しては兄を凌ぐ魔術行使の技能を有した天才だと周囲から目されていたのを聞いた。
あの場にいるであろうディートリヒの縁者に誰が仮定できるかといえば、短絡的だが、妹君のベルンハルデだろうか。それでは、あのガーデルマン兄妹の二人は黒衣の怪人の仲間? 義姉と自分を襲撃し、ラプチェフ氏を殺したのは、彼らの意向でもある? それともまったく無関係で、あの場で起きていることは、関与すべきでないのだろうか?
否、あり得ない。
カール・クレヴィングがいかにおめでたい頭の持ち主であろうと、明確にフラン本人に向けて、事件の渦中へ踏みだすよう誘導していたのは疑いようがない。寮での襲撃を知り得ていた彼女が怪人たちの一味の一人であろうことは事実と考えていいだろう、一過性の享楽を追求する計画性皆無の殺人者という線も除外できる。
カールの目的がわからない。自分や義姉に陰惨な事件を特等席で見せつけたいだけの、変態嗜好の持ち主というだけなのか。それにしては、発言と同様に手段が回りくどすぎる。愉快犯の気まぐれとして片付けてしまうには、ひどく腑に落ちない点が多い。
第一、あの場で行われている私刑めいた制裁は何だ。2名が黒衣の一味だとすれば、発言からしてなにがしかの重大な裏切りがあったのは明らかだ。仲間うちでの不和を部外者にわざわざ見せつけるメリットは何だというのだ。人知を越えた能力を有する魔人2人の間を割って仲裁でもしろというのか。
その線も、考えられない。現状のフランに実現不可能なことを要求する愚は犯さない、その必要はないはずだ。単に怖がらせたいなら、リンチの最中を目の前に持ってきた方が手っ取り早い。逃亡の可能性を残したまま放り出して、いちいち行動を選択させるなどお粗末すぎる。
今は、理由をあれこれ考えるべきではない。
今の非力な自分に出来ること、すべきことだけをするだけ。
奥歯を噛み締めると、色濃い鉄の臭いがした。肺腑を蝕んでいる元凶であろう不気味な靄は、幸いにも先ほどに比べて薄まってきているように見えた。
それから数分もしないうちに、やがて周囲の穢れた大気を洗い流すように、しとしとと雨粒が天頂から降り注ぎはじめた。息を殺して塀から身を乗り出し、おそるおそる街路を歩みだす。
「ンなにしてんのォ? お嬢さん」
「ひっ」
意図せぬ自分以外の来訪者に、咄嗟にちいさな悲鳴をあげてしまった。足元に傘のかたちの影が落ちた。頭上からの声の方に顔を向けると、純白の傘を手にした二メートル近い長身の女がそこにいた。
「もたもたしてると濡れ鼠になっちゃうよお」
「あ、いえ、わ、私は……」
「ⅢとⅤのお目付けって、もしかしてあなただったりするぅ? あーいや、そんなんでもないかぁ、一昨日はあなたの顔なんか見てないしィ」
傘にあしらわれたフリルや、鈴の音のような女の声色は、成熟した女性然とした彼女の外見とは著しい齟齬を感じさせる。一回り年下の女児と会話を交わしているような奇妙な錯覚。極端に腰の括れを主張するコケティシュな空色のリブドレスを着、傘以外の手荷物は持ち合わせていないようだった。ひときわ目を引いたのは、白く輝く象牙色の頭髪から天を衝き、鈍く琥珀に光る巨大な一対の角だ。都市部の有角人種のように、民族的アイデンティティの表現としてその姿を残すのみの双角とは異なる、超自然的な威厳すら醸し出す魔性の二本角。魔神の力を司る高等竜のそれにも劣らぬ神々しさ――――
「ま、どうでもいっかあ。血の気の多いおばかワンちゃん二匹に御用なら、尻込みしてないで行ってきたらいいよ。今ならどっちもじゃれ合うのに疲れてヘトヘトだよ。話し相手になるかどうかはわかんないけどさあ」
一人でまくし立てかと思えばくるりと踵を返し、私刑の現場とは反対の方向に女は歩き出した。鼻歌交じりにできかけの水たまりをばちゃばちゃ踏み付けていく様は、やはり年相応の振舞には思えなかった。
見送る事しかできなかった。思考の処理能力のキャパシティを遥かに超えている、彼女がカールひいては黒ずくめ連中と通じているのは明白だ。隠語のようなものを用いた代名詞まで発言にはあったのだ。そうでありながら、フランは呆け顔で彼女の背を眺め続ける事しかできなかった。
女が去ってから、ようやくフランは病院の待合室に傘を置き忘れてきたのに気が付いた。
刀剣の道しるべは、血痕に切り替わっていた。
路地に敷かれた花崗岩の敷石。路地の奥に続く、引きずったような血液の痕跡があった。加えて、路地から出て行く足跡も。判で押したが如くにくっきりと。
「一仕事終わった後……ということ?」
敵対者の処断を済ませ、一人がここから立ち去った。雨脚は徐々に強まってきている、血痕から状況を子細に読み取るのは諦めた方がいいだろう。意を決し、フランは処刑場となった現場へと歩を進めていく。
不自然に突き立った刀剣類、そして廃墟よろしく外壁と屋根の抉れた、安宿だったであろう建造物の数々。そして、灰色の闇から湧きたつ湿気混じりの血の匂い。鼻をつくほどの、吐き気を催す鉄臭さ。
息が苦しい。体中の体毛が峙つ。ラプチェフ氏の骸を発見したときのことが断片的に思い出される。しかし、状況はあの時とは違う。黒電話も現れていないし、おかしな幻聴も今のところない。ここに来たのはフラン個人の意思だ。水流を揺蕩うクラゲのように、こんなところへ無為に流されてきたわけではない。フランの、フランによる、フランのための綱渡り。向こう岸を目指して、霧雨の立ち込めた綱を、おっかなびっくり歩いていく。そう決めたのだ。
粘ついた、水っぽい、空気の抜ける音。
雨天時に聞こえてくるはずのない音が、歩んでいくうちに強まってくる。
それはおそらく呼吸の音。かき消えそうなほどか細い音。
音の主は、袋小路で瓦礫に囲まれていた。煤けたビルの壁面に背中を預け、真紅の中に四肢を放り出していた。足元や周囲の壁を生々しく彩るのは、その喉元の深い傷跡から流れ出したとは考えづらいほどの、夥しい量の血痕。血液の描く有機的なまだら模様は、一見したところ未だ乾ききってはいなかった。
血に濡れている部分はない。鼻先はひしゃげて潰れ、顎部は外れて骨の一部まで砕けているよう。少し近づいて、気づいた。上下の唇は、襤褸のようにところどころがちぎれ飛び、閉じなくなった口の中には歯が一本もない。傍らには、肉がこびりついたままの歯列が、白を悪目立ちさせながら血溜まりに浮かんでいた。
熟れすぎた果肉のように口を空けた喉元のふたつの裂傷は、動脈や気管どころか、脊髄までもが損傷していてもおかしくはない。他の暴行の痕跡を並べられても、素人目に見てもこれこそが致命傷。即死を免れたのが不幸に思えるほどに痛ましくておぞましい。
それでもなお、彼女は生きていた。
忌々しいあの黒衣でその身を飾った彼女もまた、常人ならざる異形の存在。
濁って乾いた虚ろな両目は、胴から頭を切り離された豚のそれ。吐瀉物と血で汚され、暴行によって変形していてなお、彼女の素性をフランは正確に思い出すことができた。
「ベルンハルデ……ヘンシェル……」
自分の名を呼ばれたのに気が付いたのか、黒衣の少女は言葉にならない呻きを僅かに発した。
「なに、何が言いたいんです」
ひざまずき、ベルンハルデの口元に顔を寄せた。衣服が汚れるのを厭う余裕はなかった。
こちらからかける言葉が見つからない。この惨状を目の当たりにしたとて、彼女にしてやれることなど自分にはない、できることといえば、発火寸前の意識で遺言を聞き流してやるくらいだ。
グズグズに崩れた唇を震わせ、全ての歯をこそぎ取られた口で、彼女はゆっくりと告げた。
「このまま殺して」と。
息を呑む。未だ死にきれない自分の身を呪っての言動というのは理解できた。あまりの無力感に、あまりの無慈悲さに、あまりの、救いのなさに、フランは血が出るほどに唇を噛んだ。そも、そこまで親しい間柄でもないベルンハルデ個人に向けられた特別な感情からなる哀悼の意かどうかは定かではない。しかし、一個の生命が、こんなにも凄惨な幕切れを迎えてしまうことが、むやみやたらと悔しかった。
「私を放って、このまま死なせて」と。
感情を抑制することのできない人間に価値はない。そう教わって生きてきた。だが、この何より拙く尻の青い激情は、どうにも御しきれそうになかった。
どうして、どうして、どうして!
どうして彼女が、こんなことを口走らねばならないのか!
ベルンハルデは敵かもしれない。否、好ましからざる存在であることは想像に難くない。十中八九、エミリア・ハルトマンたちの仲間に違いない。それならば、彼らと敵対しているであろう、先ほどまでここにいた処刑人の方が、フランの信ずる社会正義に近しいのかもしれない。ここで事切れることこそがベルンハルデにとって最良であり、そして功利的な最善策足るのかもしれない。
それらはすべて後付けの『理由』だ。
この胸に去来する、理由なき義憤の解説にはなり得ない。
「死なせて」
明快で端的な幾度か目の遺言。それを遮るように、一際大きく液体が弾け飛ぶ音が響いた。水風船を破裂させるように、フランの目の前で血飛沫が勢いよく迸った。目元を拭った先には、またも先日のラプチェフ氏の事件を彷彿させる光景が広がっていた。
ジャケットとブラウスに包まれた胸部の肉を突き破って、ベルンハルデの胸元から、巨大な剣が屹立していた。剣身自体が青白く光り、また高温度で発熱しているらしい。抜身の刃は降り注ぐ雨粒を受けて水蒸気を纏い、そしてベルンハルデの土気色の皮膚を焼き焦がしていた。
喉元の傷口から、損壊した口元から、そして鼻から、黒く濁った血液を泡立たせて、ベルンハルデは絶叫した。羽を毟られた蜻蛉が地べたでもがくよう。意識を失っては、身を裂き臓腑を焼く激痛で覚醒させられる。体液という体液を撒き散らし、頭髪を頭皮ごと掻き毟って悶えた。拷問に次ぐ拷問、依然として意図のわからぬ残虐な責苦に、もはや彼女の絶命ができるだけ早く訪れてくれるよう、祈るほかなかった。
「もう、もういい……もういい、でしょう」
今まさに、文字通り屠殺されんとしているベルンハルデの肢体を、フランは無意識に抱擁していた。脇腹に高温の鉄塊が触れ、フランの体までを焦がし始める。
「彼女が何をしたっていうの……彼女がこうまで苦しむ理由がどこにあるというの」
声帯すら焼け、血液は沸騰し、ベルンハルデの頭部は破損したポンプのように血を噴き散らす。意識があるか定かではない、それでもなお、フランは自分の頬を彼女の頬と重ねて祈る。願わくば安寧なる死を、願わくば彼女の御霊に冥福あれと。
そしてフランは憎む。
フランが常日頃より憎むのは怠惰と不道徳、そして世に蔓延る悪である。だからこそ怠惰に自ら足を踏み入れんとし、免罪を得ようとした自分を憎んだし、だからこそこうしてベルンハルデを不必要に苛むものを憎んだ。仮にベルンハルデがエミリア・ハルトマンのような悪行を是としていたとしても、だ。人が糺すべきは人であり、憎み唾棄すべきは罪そのものであるべきだ。
死とは人生の終焉だ。万人が世界を生きた証なのだ。
敬虔であろうと、あるいは非行に走っていようとも。人外の神を除いて、いたずらに人の心身を切り刻んでよいはずがないのだ。人の死を欲する神など、人に死を欲させる神など、そんなものは神ではないのだ!
――――お願い、生きて。最期の時まで、『生かしてあげて』
それこそがフランの祈り。正規の祈祷とはおよそ呼べぬ、本能に寄った衝動的な感情の昂ぶり。
――――殺して、殺して、お願いだから私を消して。
――――お願い、生きて。そんなことは言わないで。あなたに死んでほしいと私は思わない。
傲慢の過ぎる主張というのはわかっていた。だが、祈らずにはいられなかった。こんなにも感情をむき出しに解き放つのは、産まれて初めてかもしれない。これが正しいと信じているし、こうせざるにはいられなかったから――――
『ところで』
『きみァいったいだれなんだ? われわれはもォ、しにたくない』
ズキン、と。
後頭部を強く殴打されたかの感覚、脳漿を震わせる不快な衝撃。
以前、ハデスの眼なる胡散臭いまじないに関わったときに聞こえた、意味不明な言葉の羅列、皮膚の裏を百足が這う堪えようのない疼痛が、うなじから全身を駆け巡り包み込む。
「クッ……う、ああああああああっ!!」
支えていたベルンハルデの肩から手が離れ、黒衣の身体が横に倒れこむ。激しく痙攣したまま、もはや呻き一つ上げたりしない。
フランもまた、筋肉が硬直したかのように体が動かない。震える四肢に力を込め、何とか上半身だけは持ち上がるものの、頭蓋内を掻き混ぜられる感覚が迸り、次の瞬間激しく嘔吐した。
『君が気持ちいいと我々は我々がわからない』
『君が気持ちいいと我々が我々をわからない』
『我々が気持ちいいと君は何も語らなくなる。我々はそれがわからない』
『われわれはもォ、しにたくない』
「死なないで……ベルンハルデ、さん……」
聴覚が捉えているのは雨音だけのはずなのに、思考は居るはずのない亡霊の戯言に嬲り犯されていた。しかし、それでもフランは語り続けた。悲しいから、悔しいから、何より自分が『ムカつく』から。
「私……たった三日で……これだけわけのわからない事にばかり巻き込まれて……もう、もうさすがに嫌なの……」
とめどなく咽喉から溢れる胃液でえずきながら、フランはベルンハルデのもとへ這い寄る。
「地下に埋まった亡霊だかが、あなたのそんな姿を望んでいるの? 亡霊の言うことを鵜呑みにした、そんな連中があなたをそうさせたの? それとも、あなたがそもそも亡霊に唆されたの?」
ぎり、と歯噛みして拳を敷石に叩きつけた。
「何よ、そもそも何なのよ亡霊って……バカバカしい、たとえ居るにしたって、湿っぽくて意味不明な恨みつらみを並べてくるだけのもんでしょうが……」
『君が気持ちいいと我々は我々がわからない』
うるさい馬鹿。
『君が気持ちいいと我々が我々をわからない』
ひっこめダボ。
『我々が気持ちいいと君は何も語らなくなる。我々はそれがわからない』
黙れボケ。
『われわれはもォ、しにたくない』
知るか死ね。
――――陳腐であろうと、愚直であろうと、不合理であろうと、人間のすることだから許されるのだ。人間以外が理由なく表出して、我が物顔で暴れ回ってよいはずがない
お呼びじゃない、言われなくてもわかってる。
わたしは陳腐で面白みがなくて、目で見たものを鵜呑みして、合理性にも欠ける阿呆の代表。あのカール・クレヴィングは、生意気にもそんな当然のことをあげつらって笑いものにしただけに過ぎない。それなら、ご期待通りそうして振舞ってやろうと思った。祈りは自分のために、憎しみもまた自分の利のために。フランは、ベルンハルデに向かって吼えた。
誰もあなたを殺さない。
誰もあなたを死なせない。
あなたを殺すのはあなた自身。
用いるのは『身体が最期を迎えるまでを生きる』という殺害方法。
死だけを求めるのは、ダメ。
理由も道程もなしに、死ぬことだけを望まないで。
だってそんなの、狡いじゃない。
「生きなさい、ベルンハルデ。それが嫌なら、私のために」
その利己的で傲慢な宣言の直後に、ベルンハルデの身を焼く断罪の剣は、灰色の雨粒の中に露と消えた。
強かに地面を打つ雨の中、フランは再びベルンハルデを抱きかかえた。血と吐瀉物には相変わらず塗れていたが、拷問めいた傷の多くには、すでに治癒の兆しが見え始めていた。出血は収まっていたし、何より顎の骨を砕くほどの力で歯肉ごと削ぎ取られた歯が、この短期間で生え変わり始めていた。
雨水を顔に受けるたび、互いの顔から汚れが少しずつ落ちていく。
濡羽色の髪を撫でつけてやると、そこには学園の誰もが羨む高嶺の花、ベルンハルデ・ヘンシェルの麗姿が確かにあった。朦朧としている中で薄く開けた瞼からは覗くのは、ボーデン湖の湖面を思わせる潤んだ碧眼。頼りなげながら、確かな生気を感じられた。無残に引き裂かれていた唇もまた、時を巻き戻すように、あるべき姿へ回帰していく。
マグダとは異なるベクトルの美貌。マグダが動なら、彼女は静。
線の細く淑やかな、それでいて強靭な芯を感じさせる、姸麗にして蠱惑的なまでの艶姿。
裂かれた黒衣からまろび出たベルンハルデの乳房は、線の細い印象とは裏腹に大きく、張りのある艶肌が水をはじいていた。両乳房の合間のひどい火ぶくれも、驚異的な速度で治癒しつつあった。
再び、慈しみを込めてフランはベルンハルデの頬を撫ぜた。それを真似て、ベルンハルデもまた傍らのフランの頤に手をやる。何ら意味を有さない、少女二人の拙いスキンシップ。血濡れた二人の吐息は、雨音にまぎれて互いの耳に等しく届いているはずだった。
頤から指を耳たぶへ走らせる。無意味な指先の運動。気まぐれな手遊びにしか過ぎない行為を幾度か繰り返すと、やがてベルンハルデは初めてその口を開いた。
「やはり私には、いつもお姉様が着いていてくださるのですね」
それは、一瞬だけ首をもたげた不可解な不気味さ。咀嚼不能の不快感。
「ベルンハルデさん……?」
しかし、それは即座に湧き上がる驚愕と恍惚に塗り込められた。
そのことに、ついぞフランは気づかなかった。咀嚼せぬまま、フランは知らずに嚥下しつつあった。
「心配をかけてごめんなさい……お姉様」
「あなた……何を……」
気づかないふりをしたのかもしれなかった。
「いつものように、ベルとは呼んでくださらないのですか? お姉様」