奈落のち濃霧
納魂祭の喧騒―――-もっとも、悪天候ゆえに大半の人々は屋内のビアホールに場所を移していたものの――――を避けるように走るバスに揺られ、州立病院に到着するころには、すでに午後五時を回っていた。
心療内科での診察は一時間もかからず、ごく簡単なカウンセリングののち、新年度からの環境の変化によるストレス障害によるものと診断された。今回は睡眠導入剤である少量のラボナ錠を処方、本格的な向精神薬の服用は様子見のち後日判断という結論に、フランはひとまず安堵した。奇妙な幻聴についても、根本的な原因がわからない以上、無暗な投薬は逆効果だというのが医師とフランの共通見解だった。
診察を終えたフランが待合室へ戻ると、窓が濁った白の一色に染まっていた。雨よりも先に、べたつく湿度をはらんだ重々しげな霧が街路に敷き詰められていた。待合室には、フランを含め10人に満たない男女がいる程度。各々帰り支度を済ませておきながら、フランと同じく帰路の心配を嘆く者が多い。
学園寮前からトロリーバスで駅前方面へ、そこからクラーニヒ河を渡ってバスを乗り継ぎ、十分ほど走ったその先に病院はあった。東側の道を挟んだ位置に住宅街、その先には霊園を要する小高い丘。クラーニヒ河を挟んだホリゾント東部は、三十年ほど前からベッドタウン化に向けた大規模な再開発が行われていると聞いていたが、確かに学生街然とした中央駅南口や大学周辺と比較すると、すれ違う人々の毛色が老若男女幅広い。
小児科に用事のあったのであろう親子連れに愛想笑いをしながら、フランは事前に用意しておいたバスの時刻表をハンドバッグから取り出した。運行に支障がなければ、午後五時四十五分には病院前ロータリーに到着するだろうが、この濃霧がどこまで深くなるかは見当がつかなかった。表通りを見れば、街道向かいのビルの輪郭すら霞んでいる。信号機と街灯のぼやけた照明が、濃霧の夕闇で音もなく妖しく揺れていた。
街路に生え並ぶマロニエの葉は、時間が止まったかのようにぴくりとも動かない。まったくの無風。荒天の予感は今朝がたからあったものの、まさかここまでの濃霧になろうとはまったく予想していなかった。長時間、そして夜間の外出はただでさえ控えるべき身の上だというのに、なんとも歯がゆい。矯正してようやく視力が0,5を上回る程度のフランがバスを待たずに霧中を無事に帰れるはずもなく、立ち往生するほかなかった。
待合室のソファに腰を落ち着け、今のところ役に立ちそうもない傘のハンドルを無心に弄んでいると、鼻腔に嗅いだ覚えのある香気がふわりと舞い込んだ。ほとんど反射的に振り返ると、見覚えのある赤毛が目に入った。チューベローズの香り。そして、業火のように爛々と猛る髪――――
「マグダ――――」
思わず立ち上がり、その所業を畏れながらも焦がれた友人の背を求めた。結われた後ろ髪とその香りだけを頼りに、逸る心を抑えもせず、その肩をわし掴む。その時初めて、彼女が純白のナースウェアに身を包んでいることに気づいた。
ゆっくりと女が振り返る。
外から風の音は聞こえない。
待合室で子をあやしていた母親も、今はこちらを見ていない。
一角で夫の愚痴をひそひそ語り合う老婦人たちも、その口をつぐんでいた。
「マグダ……?」
女には顔がなかった。
顔のあるべき場所に、顔がなかった。
ぽっかりと穴が開いていた。待合室の蛍光灯の照明を受けてなお、その漆黒が光度を持つことはない。周囲の光を吸い上げるように、穴の周囲は細かに歪んで、生物のように蠕動している。頭蓋の容積を遥かに超える深度がなければ、これほどの奈落を実現することはおよそ不可能。不安感をいたずらに煽り、これまで育んできた常識に、埒外の未知なる恐怖を腫瘍の如く植え付ける深淵が、そこにはあった。
鳥肌が立つ。生理的な嫌悪感から、喉元まで吐瀉物が競り上がる。
眼球が外に押し出されるような不快な違和感。
心臓が早鐘を鳴らし、臓腑がそれぞれの機能を狂わせたかのようにねじれ、血液が冷え切り逆流する。
見てはいけない。見てはだめ。見るな。見るんじゃない。
これは、生物が触れてよいものではない。
これは、心ある人間が縁を持つべきものではない。
首を背けろ、速やかに。二度とは見るな、絶対に。
血が、肉が、フランを形成するありとあらゆる細胞が。
フランを造った遺伝子が、これを見るなと警鐘を打ち鳴らしていた。
見てはいけない。
この深淵に、触れるべきではない。
それを覗くな、引き返せ。
厭だ、嫌だ、いやだいやだ。こんな、こんなものは見たくない。
こんなものを見るために私は生まれてきたんじゃない。
いやだ、いやだいやだ、やめて。許して。
一分一秒でも早く視界から『これ』を消してしまいたい。目を瞑れば済むこと、首を動かせば済むこと――――しかし、その意に反して身体は木偶に成り代わったかのように動いてくれない。
それはあまりに醜悪で、あまりに露悪的で、冒涜の過ぎる行為。
行為にして現象。現象にして、結果。理解の及ばぬ狂気の産物。
神の摂理の範疇に存在してはならない、名状し難い悪意の積層。
見たくない、見たくない。
誰か、誰か、お願い。
お願いだから! 私の、私の目を潰して!!
右も左も潰して頂戴!! 両眼を抉って潰して頂戴!!
手首から下が、動く。肘から下が、動く。肩から下が持ち上がる。
両の手の中指と人差し指を立てて、ゆっくりとフランは顔の前に指先を動かす。
限界まで見開き、血走った眼球に指の腹が触れる、その瞬間――――
「やあ、ごきげんよう」
覚めぬ悪夢で大波に巻かれるかの如き責苦を途切れさせたのは、眼前から聞こえた清涼な挨拶だった。その一声で漆黒を抱える女の顔ならぬ顔は消え去り、フランの意識は正常に覚醒した。
無貌の奈落が広がっていた箇所には、中性的な印象を与える、薄い化粧の女性――――年嵩はたいしてフランと変わらないくらいなので、少女としたほうが適切であろう――――の顔があった。
「あ、あの……ごきげんよう」
自分が何をしようとしていたのかすら、今となってはわからなかった。錯乱していた理由がわからない、彼女を目の前にして、何をここまでいきり立っていたのか。遅れて、フランはどぎまぎしながら不格好に会釈した。赤だと思い込んでいた彼女の頭髪は、マグダとは似ても似つかない、艶めくブルネットだ。そして、極めつけはその服装。純白のナースウェアなどと、どうして見間違えてしまったのだろう。彼女が纏っているのは、フランと同じホリゾントの高等部女子制服だった。
「ご、ごめんなさい。知人と、間違えてしまったようです」
「なに、仕方のないこと。見れば少々滅入っておられる様子で。であるからこそ、医者にかかっておられるのでしょうが……どうか、お気に召されないでいただきたい」
柔和に笑みを浮かべてみせる少女に、フランは胸を撫で下ろした。ようやく緊張からの拍動が落ち着いてきたところだった。心の臓が収まる肉付きの薄い胸元に、不意に彼女の掌が触れた。クルトやハインとはまた異なる異性性――――彼女もまた女性には違いないのだろうが――――を有した甘い顔は、今では前髪と前髪が触れそうになるほど近づいている。不安と恐怖からなる早鐘は、いつしか違う性質のものへと変わっていた。
「あ、あの……何を?」
どこか愁色を思わせる作り物めいた、しかし穏やかな慈顔を崩さぬまま、少女は唇をうねらせる。
「君に、こうして会えたことが嬉しいのさ。行動することを択んだ、この世で誰より強かで美しい君に」
「す……すみません。以前どこかでお会いしましたか?」
少女は頷いて肯定の意を示した。言葉を交わした覚えはない、少なくとも同じ高等部で彼女を目にしたことはない。
「初対面ではあるが、確かに私と君との間に縁は結ばれている。そうでなければ、こうして触れ合うこととはできないからね。」
黒一色の長髪とプリーツスカートを翻して、少女はフランから離れた。
「私はカール。カール・クレヴィング」
指先の触れていた胸元から、さっと熱が奪われる感覚。その名前には、確かに憶えがあった。
「永劫の泥濘に足を取られながら、無垢なる希望を求める君をそのまま黙殺できるほど、私は薄情ではないよ。父性への依存は遍く生命に芽生える、ごく自然な感性だ。ゆえにそれを忘れて生きろと命ずるなど、私にはできない。君の昇華は未だ遠いが、停止でなく活動を旨とする正しき理性に、私は限りない賛辞を贈ろう」
そうだ。あの時だ。エミリア・ハルトマンの襲撃に遭ってから、クルトにシャワー室で発見されるまでの間の夢か、もしくは妄想か。先ほどと同じく、顔のない女を幻視した、あの時の。
「まさか……エミリア・ハルトマンの……仲間……?」
からからに乾いた喉から、何とかひねり出せた言葉はそれだけだった。
「名目上、もしくは便宜上という修飾が必要な表現だが、少なくとも私は彼女と敵対はしていないつもりだ。無論君ともね」
息を呑む。言葉を紡ぐには唾液が足りない。問い詰めるべき表現が、頭の中でまとまらない。間違いない。この少女、カール・クレヴィングは黒衣の奇人の仲間だ。言い分を鵜呑みにしないにしても、同類項の異常存在に違いあるまい。
「探求の喜びと美性について、君は君の一族の誰よりも正しく認識している。聊か自縄自縛の気があるのが玉に瑕ではあるがね。一部の偏った念慮もまた、踏破すべき障壁としては申し分のないものだ。君のように若き勇敢な女性の灯を、どうして摘むことができようか」
「敵意がないというのなら、どうしてあんな……気味の悪いまやかしを見せつけてくるというのです」
「まやかし、とは?」
「顔のない……女の幻。以前あなたが私に近づいてきたときにも、趣味の悪いものを見せつけたはずです」
「私は感情の多寡で他者への対応を変えたりはしないよ。私はそこまで高等な機能を持ち合わせていない。この物質界においては、私はこの顔かたちでのみ活動しているつもりだが……君の証言によれば、縁遠きもの、もしくは異なる縁と深く繋がりを有するものに対しては、その限りとはいかないらしい不必要に危虞を煽ることがあったのであれば、陳謝しよう。以後はこの姿で君の前に現れるとするよ」
「あなたと縁を結んだ覚えなんて、ない」
「人と私を結びつける縁というのは、言わば無意識的なものなのだよ。それほどまでに私という存在は希薄で、それでいて無能なのだ。私は故意に干渉する対象を選択することはできないし、そも干渉そのものが許されない。私の認識と君の認識のチャネルが適合したことは、まさに奇跡と呼ぶべき運命の符合足りえるのさ」
「私はあなたを求めた事なんか、ない……!」
「私が求めた。永劫の水底から手を伸ばす耽溺者を。黎明の兆を、例えわずかな煌きしか捉えられなかったのだとしても、私は彼らの情熱の萌芽を見逃せない。そうすることができない。それが私の機能であり、義務であり、権能だからだ」
くるりと踵を返して、カールはエントランスのドアへと歩んでいく。
「私は君に真摯でありたいのさ、フランツィスカ・オルブリヒト。疑念に駆られ、激痛の恐怖に怯えながらも、己の視界を取り巻く黒雲を振り払わんとする。ゆえに、私は導くのだ。金羊の毛皮を求むがために、五十の櫂で海原に漕ぎ出す大いなるアルゴナウタイの扇動家」
「イアーソーンは死にます、自分の身から出た錆によって、メーデイアに殺される」
勇み足でフランはカールの背中を負った。病院の正面入口を抜けると、視界に広がるのは一面の白。一段と厚みと湿度を増した濃霧がフランを飲み込む。
「そうとも、私もそうでありたい。欲望に生かされ、欲望のままに亡んだイアーソーン。私の愛する古代の英雄の一柱だ。かれの権力への妄執も、メーデイアの偏愛もすべてが正しく肯定されるべき美徳だよ。私は英雄足りえたい、私は魔女足りえたい。ウロヴォロスでしかなかった私を目覚めさせたる魂は、そうであったがゆえに死んでいったのだからな」
三歩先の地面すら視認できない。声を頼りに追うほかない。寒さか、それとも怯えか、判別不能な震えを無理やり押し殺して、フランは再び歩き出す。手探りとも言えない、文字通りの彷徨。前後不覚の五里霧中。望むのは、カールがもたらす何かだけ。扇動家とはよく言ったものだ。絶妙に敵意を解しておきながら、咀嚼しきれない程度の無意味な問いかけを吹聴して姿を霧に晦ます。
断崖と断崖の合間に綱を張り、求めるならばさあ渡れ、恐れぬならばさあ渡れ、道化であることを強要してくる。それでいながら、自らもまた道化であることを望んでいる節すらある。
「いいかいフラン。メーデイアを誑かしたのは、アフロディーテでもヘーラーでもゼウスでもない。そんなものは要らないし、望むべきでもないのさ。メーデイアは愛すべくしてイアーソーンを愛し、殺すべくして彼を殺した。私が背を押し、私が断崖に張られた綱を渡らせた。向こう岸に何があるかは、私にも彼らにもわからないし、知る由もなかった。私が綱渡りを仕掛けたのは彼ら二人だけではないが、そのいずれも、綱から落ちて死ぬことはなかった……否、死ぬことは許されなかった。遍く死は向こう岸に用意されているものに他ならない、綱から落ちた先にアケローンの河は見当たらなかろう」
導かんとする意図が途切れることはない。霧に包まれるフランは、現実に綱を渡らされている。大地の途切れた断崖のその先を、カールの声という一本の綱を頼りに歩んでいる。向こう岸にある死へと、着実に近づいている。恐れはあった。こればかりは無くせない。無くせるものか。同時に、己を苛む幾多の理不尽に対する反骨の意思もまた芽生え始めていた。
「想うならば愛せよフラン。自分以外の存在に目もくれなくしてやると良い。想うならば憎めよフラン。どうして自分を見てくれないのだと、嚇怒の業火で焦がせば良い」
「いま、私が一番憎いと思っているのはあなたです、カール」
地を這う憎まれ口を叩きつけてやるくらいには、身体は温まっていた。
「いちいち周りくどい物言いで相手を煙に巻くやり口……はっきり言って、気に入りません」
「ああ、その意気だ。すばらしい。さすがは私の見染めた船員だ。アルベリヒ……アルマに勝るとも劣らぬその気迫――――」
「あの女と比べるな!!」
その名を出したのは偶然か、それとも恣意があったのか。忌むべき義姉の名をここで出されるとは思わず、フランは半ば脊髄反射的に怒気を飛ばしていた。
「私の機能に狂いはなかった」
怒鳴られてなお、カールは声だけで上機嫌さをアピールしてくる。フランのクールダウンを見越して、彼女は次の言葉を続けた。
「フラン。私も、『初恋に理由はない』と思うのだよ」
どきりとする。
『初恋に理由がいるのかい』という一文へのアンサー。
伊庭寧々子著『黎明回帰』
極東は皇国にて綴られた、互いを愛する二つの魂の悲恋譚。幾度もの死と転生を繰り返し、それでもなお愛を育んでは運命に引き裂かれる二人。時には男女であり、時には二人の男であり、そして時には二人の女でもある。幾度も出逢い、幾度も別れ、その都度恋の甘露に酔い、その都度喪った時間を取り戻すように愛を確かめ合う。転生を経た二人が出逢ったときには、必ずこの台詞が挿入されるのだ。
「理由をこじつけるのならば、例えば何かな? 神が繕った運命の赤い糸によるもの? それは著者の性的嗜好によるもの? あるいは、最終巻まで姿を見せなかった黒幕が、二人の思考を操作した結果によるもの? いずれにしてもナンセンスだ。重要なのはそこじゃない」
どこまでも、フランの主張と同じ意見。思考経路を盗撮、もしくは盗聴されている気分だ。同じ趣味を持つ友人のモニカですら、ここまで同意できる論旨で考察を発言してくれたことはない。
「『理由』を求めるなよフラン。なぜ自分はこんなにも危険な綱を渡っているのか。『理由』などないのさ。渡るほかに道はない、いくら叩いても壊れない橋など架かるものか。そんなものを信じて歩みを止めることほど愚かな行いはなかろう。虚構の神に縋るなよ、フラン。胡乱な理由をこじつけねば成立しないものが真実であるものか。君の心を動かした純愛の物語は、付け焼刃の安っぽい終止符で終わるほど小さくはまとまるまいよ。陳腐であろうと、愚直であろうと、不合理であろうと、人間のすることだから許されるのだ。人間以外が理由なく表出して、我が物顔で暴れ回ってよいはずがない」
足音が止む。早口でまくし立てていたカールが、ひとまず言葉を切った。
依然として霧は濃くなる一方であり、もはや足元はおろか、目の前に掌をかざしても視認できない。
「理由なき現象は、すべて虚ろな幻だ」
その言葉と共に、フランは眼鏡を外した。通電しないよう、主電源も切った。
『突如として街を覆った濃霧』など、そこには存在していなかった。
フランの裸眼では確かに周囲はぼやけて見えるものの、10センチ先すら視認できなかった先ほどとは比較にならない。そこには確かに、理由なき幻影を廃した現実の世界が広がっていた。
「今の霧は……あなたの仕業なのですか、カール!? カール……カール・クレヴィング!!」
たまらず張り上げた問いに対する返答はない。いま語るべきことはすべて語った、そうとでも言いたげな沈黙、そして静寂だけがそこに残っていた。