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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
ハイン入団
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腐敗

「よく言われない? 女の子みたいだの何だのってさあ。オレもよく突っつかれるんだよね」


 ボブカットをふかふか揺らして人懐こく話すクルト・バヴィエールの容姿は、確かに彼の言う通り女子学徒に見間違う事もあろうというほど聡明で愛らしい。エルフの血でも混じっているのかと聞いても、本人は共和国(ガリア)系帝国猿人と言ってはばからない。


 バスタオル一枚から私服に着替える際にも、ハインは本当に同性かどうか懸念を抱きへどもどした。


「ほんとに、女の子じゃあないんだよね」


「くどいな! 証拠見せるかい、ゲイじゃなけりゃげんなりするだけだぜ」


 初対面の相手にさっぱりと言い切ってみせるあたり、ハインと違って人見知りとは無縁の人種らしい。


「それに、オレから言わせれば君だって紛らわしい顔してるぞ。女の子みたいなさらさらの黒髪でさ」


「まさか」


「パチこいたってしょうがないだろ、そのへん女子の制服着て歩いてごらん、野郎も女も両方わんさか寄ってくるぜ」


「付き合ってくれるなら考えるよ」


「やさしくエスコートしてくれよ」


 ははは、と笑い飛ばすと、クルトは狭い居間のソファに腰を沈めた。

 

 ハインにもクルトにも、その気はそもそもない。ない。




義姉(ねえ)さんの都合で、結構あっちこっち行ってたんだ。産まれこそ……ああ、共和国(ガリア)のパリでさ。そのあとサンクトペテルブルク、トボリスク」


「すごい、連合でも暮らした事があったんだ」


「オレは金魚のフンなだけだよ。義姉さんがかなり忙しい人でさ。ようやっとホリゾントに腰落ち着けたわけだ」


「記者か何かかな」


「まあ、そんなようなもんかね。戦争にも何度か顔突っ込んだ事あるっぽいから、かなり肝っ玉は強いぜ。蜘蛛とか素手で潰すからな」


 言って、クルトは苦々しげな顔をして卓の揚げ芋をつまんで口に放り込んだ。

 寮併設の食堂はこの時間閑散としており、クルトとハインを除けば部屋の隅で安酒とソーセージを片手に映画のパンフを眺める、先ほど玄関ですれ違った『あの』黒髪の大女がいるのみ。


「関わりたくないから離れようぜ、あの手のはキレると多分おっかねえ」


 というクルトの意見に賛同し離れた席をとったものの、なんとなく気になるのは両名とも同じだった。


「そちらの御実家は?」


「僕は……テュービンゲン。えっと、従兄弟がこっちに住んでて、たまに顔出すならっていう条件で」


「結構遠いな。そんにホリゾントが魅力だったのかい」


「まあね。技能方面の資格は二種技能取ったし、このまま教員免許もさくっと取ろうと思って」


「もう進路が決まってるわけか、いいね。それまでは青春……日常をこの学園で謳歌しようって魂胆か。頭悪そうには見えないし……おたく、けっこう勉強できる方だろ」


「……最低限にはね」


 青春を謳歌しよう、日常を学園で――――


 よもや、バカ正直に『憎い仇を殺しに来た』とは言えない。数日前までたんなるいち生徒であったハインに、この同居人にそれを打ち明ける勇気はなかった。彼の手を非日常の側へ引く事などできなかった。


 ブフナーの言った通り、やはり自分の身の上をありのまま語ったとして、果たしてどれだけの人間がそれに理解を示すだろうか。それまで共に暮らしていた少女たちは人間でないたんなる被造物、兄と恩師は自分を犯して何処かへ失踪。悲劇にしては中途半端で、冒険小説にしてもインパクトが足りぬ。


 謳歌すべき青春は奪われ、日常は黒い欲望で踏み躙られた。


 いまの自分に、ホリゾントでまたほかの日常を得る事ができるのか。少なくとも、それを即座に肯定できるほど、ハインに自信はなかった。ブフナーの『ギアの切り替え』は、思った以上に難しい。


 クルトとの会話の中でも、何かとフルークへの憎悪に単語が繋がっていく。連想ゲームの如き悪循環が、徐々にハインを苛んでいく。

 

 正面の席に座るクルトから焦点が外れ、視界がぼやけていくよう。

 連想ゲームは止まらない、一度あの髭面を浮かべてしまっては、堰を切ったかのように感情が流れてくる。成人男性の腕力で絨毯に押し倒され、操を弄ばれるあの感覚。頬が絨毯の繊維に押し付けられるあの感触。体内を侵しつくされる、あの不快感。


 ゼフィールに――――信頼を寄せていた幼馴染に、鉛の弾の返答を送られるあの無力感。


「おい」


 気が付けばクルトは身を乗り出し、頬の涙に手指を添えていた。


「気分、悪いか? オレ、変な事言ったか?」


 怪訝な表情で自分を気にかけるクルトに、ハインは居た堪れなくなる。ああ、なんと申し訳ない。こんな無力な僕に、あんな暴漢に為すがままにされた僕に、殺人を胸に秘めて君の同居人となってしまった僕に、こんな僕に時間を割いてもらうのが本当に申し訳ない。


 否定、否定、否定の感情。否定からの無力感が思考を包み、侵食していく。


 自身が知らずに落涙していた事すら気づかず、憎悪に胸をくゆらせていた自分がなんともはや情けない。


「ハインリッヒ!」


 親切な同居人の呼ぶ声もかなぐり捨て、ついにハインは席を立ち、寮の外へと駆けていった。




 寮敷地の石畳を駆け、街道の大通りを抜け、市場の裏道に入り込み、石造りのアパートメントに挟まれた路地裏にまで息絶え絶えで辿り着くと、ハインはついに身をかがめ、壁際に嘔吐した。


 全身が微弱に震え、思い切り深呼吸を試みても肺は満たされない、体内が淀んだ空気で充満しているかの錯覚すら覚える。ダニのびっしり住みつくぼさぼさ髭を蓄えた、黒山羊頭の大男。そいつの口臭が、自分の鼻から、のどから、耳から、尿道から、肛門から、毛穴から、爪の隙間から染み出てくるようだ。

 

 腐臭を放つ要因となる、黒くてぶよぶよした汚物がのどの奥、食堂にこびついて根ざしている。いくら未消化物を吐き戻し、胃液で内壁を傷めつけても汚物はとれない。胃の内容物がなくなっても、異物感と嘔吐感はなくならない。異臭と、何かが奥で引っかかった不快感はそのまま残る。


 げぼっとえずき、今度は絡まる痰を吐瀉物の上に吐きだした。


 ひりつくのどを苛むのは、今度は猛烈な粘りによるいがらっぽさ。気管支から、咽頭から、どろどろ濁った粘液が染み出してくる。こちらもひどい悪臭で、口を閉じる事さえできない。歯の隙間からだらだらと白濁した液がこぼれおち、びちびち周囲を汚していく。


 動物の精液だ。


 涙と鼻汁、汚汁で汚れきった顔を拭い、あまり倦怠と全身の疼痛に耐え切れず、両手で頭頂をかきむしった。めりめりと浅く根を張った雑草をこそぎ取るかのような感触ののち、頭髪は頭皮を巻き込んでハインの頭部から分離した。皮が裂け、頭蓋が露出し、しかし吹き出るのは血ではなくあの悪臭を放つぶよぶよした物体。


 血の代わりに、あのぶよぶよが血管を駆け巡っているのだ。


 酸素を運ぶ血液の代わりに、淀んだ汚濁をあらゆる器官に行き渡らせている。べろりと向けた頭皮から顔に、黒の粘液がしたたり落ちてそれを確信した。くさい、僕の身体がくさい。くさすぎる。人間の身体じゃあない、魔物だ。魔物の身体だ。勘弁してくれよ。獣だ、これでは獣の肉じゃないか。


 叫びたい、誰かこれを取ってくれ、かゆい、痛い、辛い、もういやだ、動物はいやだ。


 がさがさ耳ざわりな音に耳を傾けると、自分の皮膚がもぞもぞ蠢いている。やがて産毛の代わりにぞぶぞぶと針金のような体毛に生え変わったと思うと、そこに住まう大量の線虫が一斉にばちんと弾けた。全身すべてが線虫、ダニ、シラミまみれの毛深い一匹の動物、線虫の濁った体液に浸かって汚臭を垂れ流す源泉だ。


 これが魔物か。これは人間ではないし動物でもない、僕は魔物か。


 理性と野性の境界もない、どっちつかずの存在。これがぼくなのか

 

「そうだよ」


 ゼフィールの声がした。


「それ以外あるもんかよ、なぁハイン」


 ノイズが混じったような、実の兄の声がした。


 ふと、粘液にまみれた顔に触れてみる。


 がさがさした毛の束に手は吸い込まれ、皮膚がどこなのかもわからない。これは、髭だ。

 皮脂と脂と精液で汚れた、陰毛と区別のつかぬ髭だ。排水のたっぷり混じったテムズ川のごとき双眼、無様にこけた頬、黒いぶよぶよに蹂躙される頭部。


 ああ、手触りでわかるぞ。この顔は、ゲオルギイ・ラプチェフだ。


 僕はゲオルギイ・ラプチェフだ。人間でも動物でもない、気持ち悪いものだ。


 ああ、なんだそれ。


 死 に た




「死にたくないねえ、ああ死は嫌だ、だけどいつかはみんな死ぬ。簡単な事だな、乳飲み子すらもしかすると既に把握している事柄かもしれぬ。な、ハイン」


 ぷにっと片手でハインの両の頬をつまんだのは、カール・クレヴィングだった。


「あ、うぐ……」


 膝からくずおれ、息を整える。やがて二の腕や頭髪を触って確認してみるが、何ら変化は見られなかった。黒い粘液も、白濁した汁も、忌まわしいあの相貌も、今はどこにもなかった。


 ゼフィールの声も、兄の声も聞こえない。ただ大通りの喧騒と、子供を叱る母親の怒号がどこか遠くから響いてくるだけ。


「どうかしたかね、ハインリッヒ・シュヴェーグラー。ほら、口をお拭きよ」


 相変わらずのにたにたをこしらえたカールは、ハインに水色のハンカチを差し出した。


 未だ荒い息の中、唇を拭ってようやくハインは呟いた。


「無理だよ……」


「何が、かね?」


「分別なんて無理だよ……できない……」


「しかし、君は現に選んでみせた。この私に、永劫の輪廻でなく、輪廻への亡びという応えをよこした」


「あなたの言う事は、いつも意味がわからない! 何なんだあなたは! 適当な事を並べ立ててぶつぶつぶつぶつ! 選んだって何だ、何を選ばせたんだよ!! 勝手な事言うな、ふざけるな!!」


「ふむ……」


 やれやれ、と肩をすくめるような仕草に激昂したハインは、カールの襟を掴みあげ、壁際に叩きつけた。


「他人事だと思って面白がってやがるな! お前も同じ目に遭ってみろ、泣きべそかいてさっき食べたポテト吐き散らしてみろ!! あの小汚い大男に抱かれてみろ!! 何とか言え! 言えよ!!」


 目を剥いて怒鳴るハインだったが、消耗と既に痛めたのどの不調が相まって噎せ、激しく咳き込んだ。


「全員で僕をからかってやがるのか!? あの騎士団だって、お前が役者集めてイヤガラセするように手配してんだよな!? ざけた野郎だよ、バカにすんのもいい加減にしろよ、おい!!」


「……」


「なんとか……言ってよ……嫌なんだよ……」


 激昂による怒号が止むのを推しはかってか、ついでカールが言葉を紡いだ。


「他人事ではないよ、ハイン。君の事を想わぬ刻など、一分一秒あるものか。私はいつでも、君や、君たちの平安と願っている」


 穏やかにふっと微笑むと、カールは肺いっぱいに息を吸い、声高らかに『唄って』みせた。



Tu ne quaesieris, scire nefas, quem mihi, quem tibi 

―――其を問うてはならぬ、其を識るのもまた許されざる事。


finem di dederint, Leuconoe, nec Babylonios

レウコノエよ、神々がいかな終焉を、我が魂や(なれ)に提ずるかなどは愚問なり。


temptaris numeros. ut melius, quidquid erit, pati,

バビロンが秘術を用いるもまた拙計、死がどのようなものであれ、征くほかに道はあらず。


seu pluris hiemes seu tribuit Iuppiter ultimam,

(ユピテル)が連なり多き冬を与え賜うにせよ、


quae nunc oppositis debilitat pumicibus mare

或いは、巨岩によってティレニアの海を荒らしている此度の冬が最期となるにせよ。


Tyrrhenum! sapias, vina liques et spatio brevi

ゆえに、(なれ)は賢明であれ。酒を濾し、有限なる生に釣り合わぬ愚策を慎もう。


spem longam reseces. dum loquimur, fugerit invida

我らが談笑に耽るこの間にも、狡知なる時というものは足早に過ぎ去ってゆく。


aetas. carpe(カルペ) diem(ディエム) quam minimum credula postero.

なれば、この日の花を摘め。時は待たぬ、明日を保証しうるものなどないのだから――――



 これまでの茶化しを感じない、荘厳かつ穏やかな調べ。メロディこそ即興だろうが、そのビブラートの爽やかな響きはハインの淀みを残さず中和する。


 いつの間にか緩めていた襟の拘束からするりと抜け出し、抗議するでもなくカールは笑う。


「怨嗟もまた向上心たりえる人間の重要な心的動作だ。しかし、自身の思考を害するのならば枷を施す必要がある。特に、君を停滞――――死へと向かわせるものならばなおさらだ。恐怖は無力感の母胎だ。際限なくその胎からおぞましき疲弊と虚脱という双子を産み下し、君の肉体を糧に肥えてゆく。いいかね、ハイン。怨嗟だけが人間を構成するものではあるまい、『この日の花を摘め』。恐怖を払う為に必要なのは、恐怖に立ち向かう仮面(ペルソナ)、そして恐怖と無縁の仮面(ペルソナ)だ」


 ブフナーの云う、顛生具現に必要なギアチェンジと同様の事をカールは言った。

 ハインの有する憎悪は裏を返せばフルークへの性的、物的恐怖と同様のもの。深層に根付き、思考に隙あらば食い破る悪性腫瘍。抜身のまま刃を提げていれば、たちまちそれは酸化し侵される。


「ハイン、君にいま与えられた時間でできる事は、己が身を呪う事だけではあるまいよ。美を食し、美を観、美を耳にせよ。刃を鍛えるというのは、そういう事さ」


「やいばを……鍛える」


「刃を守る鞘たる君が侵されては、刃が安心して眠る事もできまいよ。君が君を否定しては、刃は自刃の道具にしかならない。刃を向ける相手を定められるだけの肯定を、君はしなくてはならない」


 そう告げ終るとカールは振り返り、石畳を叩く乾いた靴音と共に霧消していった。

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