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カルネージルーラー  作者: 鈴堂アキラ
第一章~前篇~
9/21

異界7

 ノワールより約5キロメートル先にある、丘の上に点在する木々。その内の1本の木陰で横たわる、呼吸一つ満足にできない女性と、それを痛々しく見詰めるデュランの姿があった。


 奴隷市場からの救出中に意識を失った女性は、未だに意識は戻らずまぶたを閉じたまま、少ない呼吸だけを繰り返していた。

 改めて女性の全身を見回す。


 外見は骨と皮と申し訳程度の肉しか残されていない、枯れ枝のような痩躯だ。

 唇も水分不足でひび割れ、白髪のように薄くなった金髪の毛先は、無数の枝分かれを引き起こしている。


 だが、それらはまだ序の口なのだろう。ぼろ雑巾のような麻布の服では隠しきれない皮膚の色は、顔と手首から先を除いて黒々と変化していた。

 この黒い肌は殴打などの打撲痕による結果ではないことは、服の裾を少し捲るだけでも十分理解できる。


 衣服の下の皮膚はまるで色違いの皮膚を縫い合わせたように色合いがどれも異なり、色と色が並ぶもしくは重なる箇所には、皮膚が引き剥がされた痕が生々しく残されていた。

 外見だけでこれだ。恐らく内蔵は外見以上に深刻な状態にあるのだろう。何かしらの病に侵されている可能性は極めて高く、場合によっては幾つかの機能が停止している可能性があった。


 一通りの外見の状態確認を終えたデュランは、噛み締める力をより一層に強くして溢れ出そうとする激情を抑える。


「人間ほど尊厳を踏みにじれる生き物はいないよな……くそっ!」


 この異世界に来ることがなければ永遠に覚えることは無かったであろう、人間という種への怒り。ルードマンと名乗った男を思い出す度に、憤怒が猛る。

 黒い感情が思考を塗り潰そうとするが、視界に映る女性の弱り切った姿を意識することで怒りは抑えられ、優先するべき事柄を思い出させてくれる。


「苛立ってる場合じゃないな。先ずはこの人を助けないと」


 奴隷市場の檻の前で『死なせない』と宣誓を立てたが、具体的な肉体の治療手段を確立していないのが現状である。

 それでも何もせずに諦観する訳には行かないと考えているデュランは最初の行動として、左人差し指に嵌められた幻影の指輪を外した。


 肉体全体が陽炎のように揺らめき、外見が黒髪の青年から銀髪の人狼へとその姿を戻す。

 幻影の指輪を外したことで、指輪の効果によって抑え込まれていた能力が噴き出すように解放された。

 全身から迸る蒼い雷気は閃光の如く一際に輝くと、霧散するように収まった。常時発動型の特殊スキル『雷鎧装』の、抑え込まれていたことで放電されなかった余分の雷気が放出された結果だ。

 もし第三者が目撃していれば、視界を白く染める閃光によって、幻影が解除されたのではなく入れ替わったように映るだろう。


 幻影の指輪の効果が解かれたことにより、減少していたパラメータや効果半減となっていたスキル・アーツ・魔法が、本来の性能を引き出すことが可能となった。

 銀の体毛で覆われた右手を女性の身体の上に掲げ、掌を中心に白い三重の魔法陣が展開される。

 発動させる魔法は、デュランが創り、その身に修めた最高位の回復魔法。


「〈聖天身治/ホーリーリカヴァル〉」


 失った体力を完全に回復させる奇跡の力を、必要となる詠唱時間を経過させ、白光と共に発動させる。

 光が優しく女性を包み込み、古傷を含めたあらゆる傷口が閉じられ、失われかけていた体力が完全に回復。


 回復が完了したのか、女性を包み込んでいた白光は徐々に薄らぎ〈聖天身治/ホーリーリカヴァル〉の発動終了を見届けると、すぐさま新たな魔法陣を展開させる。

 次に発動させる魔法は、全ての状態異常を癒やす中位の治療魔法。


「〈状異救済/コンディションリリーフ〉」


 二重に展開された白い魔法陣は特殊スキル『中位詠唱破棄』により、瞬時に効果を発揮させた。

 肉体を蝕む毒・麻痺・眠り・混乱・火傷・凍傷・沈黙・盲目・魅力・石化・停止の効果を、完全に消去する〈状異救済/コンディションリリーフ〉の光にその身を包み込まれた女性の表情は、効果が表れたことにより次第に穏やかとなり、小さく絶え絶えであった呼吸音は正常の状態へと変化した。


 肉体を包み込む光が消えたことで〈状異救済/コンディションリリーフ〉の発動が終了したことを確認する。これがゲームであれば完治した状態であるのだが、肉体は依然として危機的状況と呼べる程に痩せ細ったままだ。

 そしてもう一つ、気掛かりとなっているのは病気の類いである。

 デュランが発動させた〈状異救済/コンディションリリーフ〉は全ての状態異常を回復させるが、それはあくまでも『アビス』ゲーム内で設定された状態異常の回復だ。


 現実世界では何処まで効果を及ぼすか不明である以上、もし毒が病気にも適応されなければ打つ手が無くなる。


「これで十分……なのか? まだできることは……ああ、思い浮かばない! 流石にまだマズい状態なのは一目で分かるし……手、他に手は……」


 今一度、脳に記憶されている全ての回復魔法の説明を流し読む。

 全ての魔法の説明を記入したのはデュランだ。現実世界に顕現したアバターには、設定されている内容が反映されているという特性がある。それはマジックアイテムにも反映されている可能性があることは、幻影の指輪で確認済み。ならば当然、魔法にも反映されている可能性は十分に有り得る。

 反映されるのなら『あらゆる病を癒やす』などの説明文を盛り込んだ魔法があれば、懸念している可能性の一つを消すことができるかもしれないと踏んでいた。

 全ての回復魔法の説明を流し読むのに数分を要し、一通り読み終わった後、はあと溜め息を吐き出した。


 ――該当する魔法が存在しない。


 先程発動させた〈状異救済/コンディションリリーフ〉の説明文には『女神の慈悲により、全ての状態異常を治療』としか記載されていなかったのだ。

 肉体の痩身を改善させる魔法も、似た効果では〈剛力支援/パワーアシスト〉があるが、これは一時的な筋力の上昇のみで、根本的な解決にならない。

 これ以上の魔法による救済は不可能。魔法以外の方法も模索するが思い浮かばない。


「もう、何も無いのか? アイテムとかないのかなあ」


 腰に装着しているマジックポーチを外し、胡座あぐらを掻いた脚の上に乗せて中身を漁る。

 拡張されたマジックポーチの内部を覗き込むように顔を近付け、隅々まで丹念に探索。

 武具と金銀の硬貨だけが視界に映り続ける中、液体を満たした一つの小瓶を発見する。


「これは……まさか!?」


 マジックポーチから取り出した小瓶。湖を連想させる水色アクアで彩られ、細かな彫刻で形作られた形状は口の部分が細長く、内包されている液体は一切の不純物が存在しない無色透明。


 神霊薬エリキシルと名付けられた戦死者すら復活させる、回復系の魔法・アイテムの中でも最高峰の効果を秘めている回復アイテムである。

 鑑定眼を発動させたデュランは、名称や効果と共に記載されている説明文を一度流し読みする。その記入された内容に息を呑んだ後、再確認の意味を込めてゆっくりと読み上げた。


「……『失われた体力と魔力を快復させ、肉体を蝕む全ての異常と病を癒やし、健全な状態へと再生させる。死者の魂すら肉体へと呼び戻す奇跡の液体は正に神の雫』……病を癒やす……これなら!」


 液体を閉じ込める蓋を開け、僅かに開かれた唇の隙間に少しずつ垂らしていく。

 神の雫と例えられた神霊薬エリキシルの液体を全て身体の内に収めた女性の外見は、燐光を纏いながら見る見るうちに変化が起きる。


 その光景。その結果。正に神の奇跡に他ならない。


 痩せ細った枯れ枝の身体は、全細胞の隅々まで充足を得たかの如く活力を漲らせる。

 骨と皮しかないと思わされる皮膚の下に僅かに残った筋肉は、無数の細胞分裂を引き起こした結果、枯れ果てた肉体は健全な筋肉の総量を取り戻す。


 肌の質は瑞々しく、枝分かれしていた毛先は一つに纏まる。剥がれていた爪は再生し、ひび割れていた唇は張りのあるピンク色へと変わった。

 唯一変化が無いのは黒々とした肌の色だけだが、それ以外は外見だけしか判別できないが健全そのものである。

 神霊薬エリキシルを使用した当人であるデュランは、想像以上の結果に瞼を大きく広げ、言葉を失っていた。


 ――これは快復治癒ではなく、再生だ。


 創造たる複製の領域に達してはいなかったにせよ、回復の定義を逸脱した効果と結果に、得体の知れない恐怖が背筋に張り付く。

 説明文の有無と内容如何でこれほどの奇跡を引き起こす。ならば、デュランのアバターにはどれほどの奇跡が秘められているのか。

 存在自体が既に奇跡の塊である自身の手を、微かな怯えを混ぜてじっと見詰める。


 自分はいったい何者なのか。

 生物として定義していいのか。

 いったい何が、この身に秘められているのか。


 答える者のいない問いを繰り返し、必死で我が身に巣くう、未知の可能性という名の恐怖に抗う。

 把握していたものが把握できなくなる恐怖、と例えればいいのだろうか。それが己の肉体なら恐怖は想像の比ではない。

 仮想が現実を侵食しているのか、仮想を現実と誤認しているだけなのか。

 再びこの異世界について疑問が頭をもたげる。

 何か思い違いをしているのではないのか。そんな考えが脳裏を過ぎったその時。


「――う、ん……ん……?」


 女性が意識を取り戻した。目覚めた直後こそは眠たそうに瞼を薄く開け、幾度か瞬きを繰り返す。

 次第に朦朧としていた意識がハッキリとしてきたのか、瞼をしっかりと開け、周囲に視線を這わせ、そして一点を見詰めては息を呑んだ。


 強張った表情の先にあるのは、銀髪の人外であるデュランの顔であった。

 恐れを懐いた緊張した面持ちではあるが、すぐに観念した様を見せると瞼を閉じた。このまま殺されると思っているのかもしれない。


「えっと、その、大丈夫……ですか?」


 デュラン自身もどうすれば良いか分からず、腫れ物を扱うように丁寧な口調で声を掛ける。

 返答を待つために僅かの時間を沈黙で過ごすが返事は無く、目は瞑ったままである。


 無視されているのか、はたまた言葉が分からないのか。しかし彼女は言葉を理解できていた筈だ。現に奴隷市場でのデュランの最初の問いには答えてくれた。それともあれはニュアンスを理解した上で答えたのだろうか。

 可能性が幾つか考えられるが、どれもピンと来ない。どうしたものかと首を傾げつつ打開策を講じていると、目を瞑っていた女性は瞼を開き、デュランの顔を再び見詰める。

 それに気付かないデュランは下に視線を向けては、一人黙々と思索に耽っていた。


 その様子に害意が無いのを判断したのか、女性は自身の両手を持ち上げ、その変化に目を丸くする。

 先程まで枯れ枝のそれだった両手。意識を取り戻した現在、その両手は健全な筋肉の総量を蓄え、肌の質は弾力を備えた瑞々しい生気を漲らせていた。


 三度デュランの顔を見詰める。一度目を恐怖で。二度目に疑問を。三度目は驚愕に染めて、食い入るように視線を縫い付ける。

 上半身に力を込める。支えとして両腕にも力を込めて上体を起こした。

 その動きに気付いたデュランは、慌てながらも背中に手を回して支える。


「無理するなよ! さっきまで死にかけてたんだ。横になってゆっくり休んだ方がいい」


 声は届いていないのか、上体を起こした女性はそのままの姿勢で自身の胴体を見詰め、続いて腰から脚、足の爪先まで視線を這わせた後、デュランに顔を向ける。

 デュランもまた、女性の顔を見詰めた。いや、見惚れたと例えるべきだろう。


 色素の抜けた白い金髪は少しだけボサボサではあるが、腰にまで届く長い髪は艶やかであり、夕陽の光を通すように映える。

 雪華を彷彿とさせる顔の白い肌が、本来の全身の肌の色なのだろう。首より上にしか雪色の肌はないが、黒子やシミ一つない純白である。

 どれも見事ではあるが、デュランが見惚れたのは彼女の瞳だ。


 一切の濁りを含まない翠玉色エメラルドグリーンの瞳には、溢れ出んばかりの強い意志が宿り、視線を泳がすことなく一心にデュランの藍緑色アクアマリンの瞳を射抜いていた。

 初めての経験であった。もしかしたら、遠い記憶の彼方に置いてきてしまったのかもしれない。少なくとも、現在のデュランにとってこれは未知であり、家族以外の他人では初めて自分だけを一心に見詰めてくれる存在。


 声を掛ける機会を失ったデュランは、只々見惚れるばかり。

 見詰め合う2人。時間だけが無窮に過ぎ去るのではないかと錯覚する程に長く、しかしそれはデュランだけの錯覚で、女性は見詰め合ってから僅かの時間が経過した後に、第一声を掛ける。


「貴方は……何者?」


 透き通った、芯のある声。

 その一言に我を取り戻したデュランは、返答を口にする。


「俺は……デュラン。さっきあなたを助けた本人だ。覚えてるか?」


 女性は其処で初めて視線をデュランから逸らす。

 記憶を辿っているのか、眼球は小刻みに忙しなく動き続ける。そして思い出したのか、再び視線の先をデュランの瞳に縫い付けた。


「確かに助けられたけれど、私を助けたのは私と同じ人間だ。貴方では無い」

「それは――」

「……でも、貴方と私を助けた彼は不思議と雰囲気が似ている。だからなのか……貴方があまり怖くない」


 不注意により人狼の姿を晒してしまった事実に慌てふためきそうになるが、恐怖や敵意は懐いていないと知り、頬は自然と微笑みを浮かべて綻んだ。


「……それは、俺とその人間が同一人物だからだよ」

「え……?」

「まあ、見てなよ」


 女性の眼前で左人差し指を突き出し、そこに幻影の指輪を嵌める。

 銀髪の人狼の外見は陽炎のように揺らめき、黒髪の青年の外見が現れては次第に重なり、人外から人間の姿へと固定される。


 その変化を目の当たりにした驚愕故か、女性は紡ぐ言葉を失う。

 女性の表情に気付いていないのか、デュランは言葉を続けた。


「色々訳あって2つの姿を使い分けているんだ。これで信じてもらえたかな?」


 問うが返事が無い。何か失敗したかと困惑した面持ちとなりながら、外していたマジックポーチを腰に再び装備する。そこへ女性は姿勢と向きを正して、デュランに頭を下げた。

 その姿にデュランは慌てた。何故、頭を下げたのか理解できないからだ。


「お、おい! 急にどうした!?」


 返答の意味を兼ねているのか、静かに誠意を込めて、女性は感謝の意を伝え始めた。


「デュラン様……私如きの叫びに応えて戴き、感謝の念が絶えません。貴方があの場に現れなかったら、私は既に廃棄処分として焼却されていた身です」

「焼却……」

「私に可能ならば、いずれ御恩を何かの形でお返ししたいと思っております」


 深々と下げていた頭を上げ、真っ直ぐデュランに向き直る。

 そして、名を告げた。


「私の名はセシリア。セシリア・ヴィル・フリーレイス。と言っても、最早この名に一片の価値もありませんが」


 自嘲気味に笑みを浮かべる表情は何処か痛々しく、哀しげであり、怒りすら見え隠れしていた。

 その姿に、先程の奴隷市場との関連性に因るものと判断したデュランは、真剣な面持ちで質問する。


「聞きたいことが幾つかあるんだけど。いいかな?」

「私に答えられる内容なら」

「なら聞く。廃棄処分って、実際はどういう意味なんだ? ルードマンと名乗った男は、治せない病だから感染を防ぐために燃やすと言っていたが、本当なのか?」


 質問を受け、セシリアは一度だけ瞼を閉じる。

 心の中を整理しているのか。自身が記憶している情報と真偽を照らし合わせているのか。その両方なのか。理由は定かではないが、瞼を開いた表情は先程と変わらず落ち着いた表情でゆっくりと喋り始めた。


「……事実です。ですが、それは一部であり、真実そのものではありません」

「なら、真実そのものとは?」

「そのためには、アタラティア皇国の歴史の一部を語る必要がありますが」

「構わない」

「分かりました……私たちが暮らすこの世界『アルムス・ヘイダル』は龍族やエルフ族などの異種族が支配する世界でした。人など劣等種であり、この『ヴォール・ゼーゲン大陸』に居場所など僅かしかありません。そこに革命をもたらしたのがアタラティア皇国初代皇帝である、アゼルト・ゼーゲン・イグルス=アタラティアです。彼の治世の下、ヴォール・ゼーゲンは人の住まう大陸となり、人の時代が到来しました。時の積み重ねと共に異種族との戦は減り、代わりに同族とのいさかいが増えました。其処で制定されたのが、捕らえた犯罪者を労働力とする奴隷法です。……デュラン様は先程の御姿を拝見した限りでは異種族のようですが、この辺りの歴史は少しばかり既知かと思われますが……このまま続けますか? それとも飛ばして――」

「いや……続けてほしい。じゃないと困る」

「はあ……? では続けます。奴隷法によって捕らえられた犯罪者は、規定された労役期間が過ぎるまで奴隷として奉仕活動が義務付けられます。そして労役期間が過ぎれば晴れて自由の身となるのです。それがアタラティア皇国が知識として伝える内容であり、『本来の』奴隷法の用途なのです」

「今は変わってしまったと?」

「はい、残念ながら。奴隷法は犯罪者の有効利用と、奉仕活動を通して犯した罪を意識させ、償いをさせる法律でした。しかし現在は、その意味を大きく歪曲させ、利益を絡ませた悪法と成り下がってしまっています。現在の奴隷市場がその証明です。そしてアゼルト陛下の子孫たちは、献上された多額の金品を目先の富と知りつつ国庫に納め、悪法を暗黙で了承し続けたのです。その結果、貴族たちの結託により、気に入られたもしくは逆の意味で無辜むこの民は奴隷へと貶められていきました」


 其処で唇を強く引き締め、握り締める指先には力が込められる。憤怒の激情を瞳に灯し、眉間には皺が寄る。

 己の凄惨な過去を思い出してしまったのだろうか、僅かの間だが身体を震わせる。そして深く息を吐き出し、荒ぶる胸中を鎮めては再び口を開いた。

 その間、デュランは一言も漏らさない。セシリアを見詰め、見守りながら傾聴の姿勢を崩さない。


「……奴隷となった者は死ぬまで奴隷。これは貴族の中でも奴隷を率先して買う者がよく口にする言葉です。理由は単純明快ですね。解放したら、払った硬貨が無駄になる。無駄にしないためにわざと冤罪を作って労役期間を延ばす。要らなくなったら売却。後はその繰り返し。売れ残りの女性の奴隷の多くは娼館に送られ、最悪の場合は特殊な趣味の貴族が買い上げたり、そういう貴族専用の館に送られることもあります。……服の下の私の身体は見ましたか?」


 其処でデュランは気付く。おびただしい数の引き剥がされた皮膚の痕を。その意味を。

 セシリアは我が身を抱き締めるように、強く腕を抱く。今にもかつての苦痛が幻として蘇るのを堪えるように、力の限り腕を抱き締めていた。


「……すまない」


 ただ謝ることしかできない。麻布の服に隠し切れない部分にも引き剥がされた痕があり、皮膚の色も変色していたが、服の下はその比ではなかった。しかもそれだけではなく、所々に肉体が欠けた部分があったのだ。

 デュランでは最早、想像力だけでセシリアの凄惨な奴隷人生を想像することはできなかった。


「構いません。五年前のあの日、私の人間としての人生は終わり、子供が産めなくなった二年前に女性としての人生も終わりました。そして今日、命そのものが潰える筈だった。デュラン様のお陰で長らえた命。むしろ、この身体を見られて不快に感じていないかの方が気掛かりです」

「そんなことはない!」


 柄にもなく感情的に声を張り上げてしまったことに気付き、姿勢を正しては静かな声で落ち着いて答えた。


「確かに酷いものだった。だけど不快に思うよりも先ず、こんなことを平気でやる奴等に怒りが先に立ったよ」


 何処までも真剣に、偽りない本心で、デュランの本音を受け止めたセシリアは、最初こそは驚きに満ちていたが、次第に微笑みへと変わる。


「――ありがとう、ございます」


 その微笑に鼓動が一際強く高鳴る。

 初めて見せるセシリアの微笑み。まるで女神が慈愛として魅せる微笑のように、神聖を感じさせる微笑みであった。

 顔を僅かだが下に向ける。理由は分からない。何故か今のセシリアを直視できなかった。


「どうかなさいましたか?」

「い、いや、何でもない!」

「そう、ですか?」


 疑問に感じたセシリアの問いに、慌てて返答する。その様はぎこちなく、問題無いとジェスチャーする左右に振った手の動きも大仰だ。

 落ち着きを取り戻す動悸に高鳴った理由を問いたい気持ちとなるが、無駄な行為であることも同時に理解しているため、努めて無視して続きを催促する。


「大丈夫だから、先を頼む」

「……分かりました。解放されることなく売買されていく奴隷は、次第に身体障害を引き起こしたり病を患ったりしていきます。中には現実に耐えられなくなり人格を崩壊させる者もいました。こうなってしまっては終わりです。奴隷とは消費するものであり、間違ってもお金を掛けることはありません。娼館でも性病を患う者が後を絶たず、治療代を払っても清算できると判断された者しか治療が受けられません。結果、特殊な趣向の貴族に買い上げられてはそのまま息絶え、運良く生き残れたとしても、廃棄処分として焼却されます。その身に蓄えられた病と共に……以上が、廃棄処分の意味です。そして、私が檻に閉じ込められていたノワールの町こそ、廃棄処分の奴隷が集められる処分場なのです」


 貴族に消費され尽くされた者たちの結末。その意味が、記憶に鮮明に残る奴隷たちの姿と重なる。あの檻に閉じ込められている奴隷たちは皆、絶望的な未来しか残されていない。

 その結末を知りながらも、奴隷を買う貴族や金のある商人たちは同族を平然と虐げる。

 種の存続を根底から否定する破滅願望に、デュランは心底からの反吐が出そうになる。

 この矛盾は、人の歴史において決して避けては通れない道筋なのかもしれない。だとしても、いや『だからこそ』既に無き母星と共に綴られた人類の歴史は、イジメや越権行為等の虐待虐殺から逸脱できないのだろう。


「業腹って言葉は、こういう時に使うんだろうな……」


 アタラティア皇国の人類の現状に対して、嫌でも己の過去を重ねてしまう。セシリアたちが受けた残虐の日々に比べれば子供の遊戯にも等しいが、デュランにとっては忌まわしき虐待の過去である。

 故に、怒りが沸々と噴き上がるのを内に感じていた。最早、我慢できる上限を遥かに振り切った現実に、国すら許容した虐待者たちが横行する世界に、怒りは既に殺意へと塗り替えられていた。


「……デュラン様。少し宜しいですか?」


 本来なら最も怒りをその身に宿しているセシリアの表情は、夜明け前の静けさを連想させる程に落ち着いている。

 その様子に僅かに毒気が抜けたデュランは胸中を鎮めることに成功し、返事をする。


「どうしたんだ?」

「そろそろ此処から移動しようと思います。このまま残れば、私を追って出立したノワールの駐留部隊と鉢合わせする可能性がありますから」

「駐留部隊か……」

「はい」

「そいつらは、廃棄処分の真相を知っているのか?」

「はい。ルードマンに協力して廃棄処分の奴隷たちの運び込みを手伝っています。それ以前に、ノワールに住む貴族と兵士は全員把握している筈です。……客として相手をさせられたこともありますから」

「そっか……」

「ノワールは私にとって『復讐』の対象の一つです。だいたいの事情は把握してますよ」

「復讐? もしかしてそれが――いや、それよりも先ずはあれだな」

「あれ?」


 デュランは立ち上がり、視線の先を顎で示す。振り返ったセシリアの視界に映った光景は、夕陽に照らされる広大な大地と、ノワールが収められた切り立った崖。その出入り口であるストランダー街門から捲き立つ砂埃。その砂影に映るのは十数人で構成された騎兵部隊であった。


「あれは……粛清騎兵隊パージキャリヴァ!」

「それは?」

「歩兵ばかりの駐留部隊の中でも、騎馬と高額の武具を与えられた脱走犯専用の粛清部隊です。あれに狙われたら最後、肉塊になるまで嬲り殺されると聞く殺人ジャンキーの集団です! まさかあの狂犬共を放つとは……デュラン様、早く逃げてください! 貴方がどれほどの力を秘めているのか存じませんが、異種族に皇国の法は適用されません。正体が晒されれば殺されます!」

「セシリアはどうするんだ?」

「私は……何処かに隠れてやり過ごします。ですから気にせずに」


 真剣な眼差し。相手の瞳に縫い付ける一心の視線。強靭な意志を漲らせる翠玉色エメラルドグリーンの双眸。

 本気か偽りか。一切の判別を許さない意志の塊であるまなこに見詰められ、それでもいいと思えた。彼女の真意がデュランを囮とする方便だとしても。

 セシリアが生に執着したのは、己が身を貶め、辱めた全てへの復讐だろう。

 直接真意を問うた訳でも語った訳でもない。

 ただ単純に、セシリアが口にした『復讐』の一言がとても重く感じただけだ。

 だから彼女は死を受け入れない。何を犠牲にしてでも。恩人を謀ることになっても。


 故に、それでもいいと思えた。

 見惚れたあの双眸を支える意志の根幹が復讐ならば、その復讐心ごと見惚れたのだ。


 死を受け入れた自殺志願者には決して放てぬ、未来へと抗う生と死の狭間の叫び。それをデュランは評価し、憧れた。

 ならば、彼女の真意をデュランは己が想いで打ち砕きたくなった。


「セシリア……さんだっけ。俺には俺の目的がある。それを優先させるよ」

「はい、是非そうしてください。さ、今すぐに」

「ああ、今すぐに……な!」


 左人差し指に嵌められた幻影の指輪を勢い良く外す。抑えられていた蒼の雷気が閃光となって弾ける。

 幻影の指輪をマジックポーチに仕舞い込んだデュランは、次にウイングブーツを脱ぎ、セシリアに押し付ける。


「素足のままじゃ不便だろ? これを使え」

「え、でも……」

「使え」


 有無を言わせぬ迫力。つい今し方までは弱々しい雰囲気を漂わせていたが、この人狼からは完全に消失していた。それこそ別人のように。


「感謝……致します」


 懐疑的な視線を向けながらもウイングブーツを受け取るセシリアに、デュランは腰に装着しているマジックポーチを外して放り投げる。


「あと、これも預かっていてくれ」

「預かる? この場を離れるのでしょう? 何故、私が預かるのですか?」


 投げ渡されたマジックポーチをキャッチしては、意図が理解できないとばかりに首を振る。その様子にデュランは笑みを浮かべて答える。


「言っただろう、俺の目的を優先するって」

「では、その目的とはなんですか?」


 疑心に満ちた問いに対して、大地を駆ける砂埃との距離を測りながらハッキリと告げた。


「決まってる。あいつらに代価を支払わせる。虐殺に明け暮れた代価をな」

「まさか……!?」


 続きは互いに紡がない。ただ行動を持って続きを記した。

 奇しくもセシリアの瞬きと同時に、電光石火の速度で駆け抜けたデュランの姿を見失ったセシリアは、驚愕の表情と共に周囲に視線を這わせ、まさかの想いで此方に方角を向けている粛清騎兵隊パージキャリヴァに視界の中心を合わせる。

 其処では既に、稲妻の化身が暴威を振り撒いていた。


 ――デュランの想い。それは、全ての虐待者への烈火の如き暴怒である。


 人物紹介その5

 シウス・ヴィ・ストランダー。


 性別男性。年齢21歳。爵位護爵。独身(婚約者有り)

 元々は伯爵家であったが、アリオン・ヴィ・ストランダーの功績により護爵を賜る。

 シウスが18歳の時、両親を流行り病で亡くす。以後、若くして護爵を継いだシウスはノワールの市場繁栄のため、類い稀な商才と奇抜なアイディアを取り入れるルードマンと友好を結ぶ。


 貴族体質に良くある家の価値観の重視を、人一倍強く引き継いでいる。

 女性には優しいフェミニストを気取っているが、奴隷に対しては苛烈な姿勢を取る。理由は、奴隷業を営んでいた家の価値観に引きずられてのことだが、両親を亡くした流行り病を持ってきたのが買い取った奴隷であるため、八つ当たりとして奴隷を虐げている。

 

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