異界2
当時の文献を紐解けば、この場所は切り立った崖が入江を囲むように、陸地から海まで続く谷間となっていた。
特別な季節風が吹き通ることもない、穏やかな波を寄せる天然の港としての価値があり、すぐさま湾としての改築工事に着手する。
崖を切り崩し、浜辺を整備、石と木材で造り上げた住居と港湾の完成により、ただの入江だった場所は水産資源を獲得する漁港として生まれ変わったのだ。
漁村として栄えたこの場所は、島国との貿易の拠点となり、人口増加に伴う開拓と居住区増設の連続によって、村はいつしか町に形態を変えた。
町の名は、貿易都市ノワール。
四大国家の一つ、アタラティア皇国に三都市存在する国境貿易都市の一つであり、世界中の国境貿易の中で最古の歴史を刻み、現在でも現役として交易の中心を担う、言うなれば交易の軌跡そのものである。
皇国を支える国益の4割近くがノワールから納められ、人口密度も他の都市と比較して格段に多い。
世界中から様々の物品が集まる特性から、物欲が抑制できない特権階級が足繁く通い、中にはそのまま居を構えるなど、市場の金回りは常に潤沢である。
こうして物品が溢れる市場の中で特に人気で、数百年も変わらぬ老舗の商品がある。この商品は、ノワールを中心に皇国内で常に一定数の人口を占めていた。
用途自由。権利剥奪。犯罪者の収監が極めて少ない皇国において、烙印として与えられる罪人の総称――詰まり、奴隷である。
実態として、ノワールの総人口の半分以上が奴隷で、その内の6割が謀略や拉致で貶められた被害者で占められていた。
皇国に献上するために集められた金品の大半が、この奴隷売買の売上による利益。まさに、国家最大の奴隷市場を有する都市であり、国益の要の一つ。更に奴隷の購入は法によって制定され守られた、神聖不可侵たる『国民』の権利である。
それは同時に、『非国民』への差別でもあった。
ここでもう一つ。皇国は犯罪者ではない者の奴隷を、他国からの購入以外では認めてはいない。それでも、冤罪や拉致で奴隷にされる者が後を絶たないのは、権力などによって法の穴を突く者が多いということだ。
それこそが、皇国が抱える闇であり、根底に根差してしまった膿なのだろう。
4
交易の要所でもあるノワールの街並みは、主に5つの広場を中心に、街路が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
町の正門に当たるストランダー街門を潜って大通りを進むと、ノワールの一般的な商品や、この地方では盛んな海の工芸品に、冒険者用の武具を扱う店が店頭販売に勤しみ、そのまま真っ直ぐ道筋に従うと、ノワール最大の広場であるアリオン広場へと出る。
海から運ばれた交易商品を扱う市場として、アリオン広場は貿易商の公益所として解放され、常に人と活気で満ち溢れていた。
アリオン広場から更に奥へと進むと、物品を運搬する市場と港湾を結ぶもう一つの大通りへと出る。
もう一つの大通りを最後まで進むと、二十隻以上の貿易船が停泊する、ノワールの生命線とも言える港湾が姿を現す。
天然の谷間を切り崩して整備した入江は、穏やかな水面を日差しが照らし、入江から海へと出ると漁師が、航路の邪魔にならない場所で漁業に励んでいた。
アリオン広場から左右に進むと、一般の居住区へと繋がる小さい憩いの広場が設けられている。
右側の居住区は、平民として分類される人々が暮らし、平民の旅行客の宿も右側にある。
左側の居住区には、貴族として分類される富裕層が暮らし、富裕層向けの宿も左側にある。
富裕層区画とアリオン広場の道中には、5つ目の広場へと続く街路が左下へと向かって整備されていた。この広場こそ、もう一つの市場。奴隷を専門に扱うアークストン市場であった。
アークストン市場には、ストランダー街門とは別の門が設置されており、主に観光客が購入した奴隷の運搬と、陸路を使用した交易品の運び込みに利用していた。
アリオン広場とアークストン市場の両方を眼下に置き、その両方の行き来に不便の無い経路に居を構えることができるのは、富裕層の中でも一握りしかいない。
その一握りであるルードマン・イア・アークストン男爵は、富裕層の中でも上位に入る豪邸の、二階に設えた執務室のテラスから、自身の家名を付けることを許されたアークストン市場を、40代の恰幅の良い贅肉を首回りにも蓄えた顎を指で撫でながら、市場に異常が無いかを遠目で確認していた。
「本日も快晴、我がアークストン市場も異常無し。……ふむ、この天候なら崩れる心配は無さそうだな。客足が落ちることもあるまい」
前日と同じ天候でもある海側の空を、ノワールに住む者なら子供でもできる簡単な天気予報で、今日一日の天気を占う。そして、導き出した答えに一人頷き、背後に控える使用人に声を掛けた。
「君、市場へ出荷予定の商品は用意できたか?」
主に問われた、年季を感じさせる使用人は、間髪入れずに答える。
「はい、旦那様。既にお部屋の外で待機させております」
「入れろ」
「畏まりました」
一礼してから扉を開ける。最初に一礼してから入室したのは、関所で入場を管理している門番と同じ格好の兵士である。引率である兵士に連れられて次に入室したのは、麻の衣服を着用し、身嗜みを整えた男女10名だ。手足には逃げたり暴れたりしないように枷を嵌められ、皆は一様に沈鬱な表情を浮かべていた。
最後にもう一人の引率の兵士が入室し、扉を閉めてから二人の兵士は男女の後ろで休めの姿勢で待機する。
整列させた男女の前に移動したルードマンは、一人ずつ全身を舐めるように眺める。
髪の毛先の枝分かれの有無や、衣服の乱れ、余計な傷などが新たに付けられていないかなど、細部にまで視線を動かす。
それこそ、間近で全身を舐め回すように確認するものだから、調べられてる年頃の少女は、小さい悲鳴を上げて涙目になってしまった。
少女にこんな反応をされたら、普通ならショックを受けるか、気位が高いと眉根を寄せたり、まなじりを軽く釣り上げたりするが、ルードマンはどれでもなく完全に無反応である。
ルードマンにとって、整列させられている彼等は商品である。商品の状態を把握したり、見栄えを良くしようとするのは出品者として当然の行動であり、義務であると共に奴隷業を営む者の職務なのだ。
この商売を始めてから20年以上が経ち、何万人という数の奴隷を捌いてきた。当然、確認作業も一人残らず行い、全ての少女に同じ反応をされた。
当初こそは傷付いたものの、現在では年若い奴隷が取る行動の一環として、彼の中では耐性ができてしまっていた。
軽く鼻を動かして体臭を嗅ぐ。これも異臭が漂わないかの、大事な確認作業である。
事前に説明すればいいのだが、その昔に何度か説明を試みては理解されず、より不安を煽ってしまった記憶がある。
結局は無意味と断じて、その選択を捨て去ってしまったので、何も知らない少女は我が身に迫る穢らわしい結末を想像しては、床に視線を落としながらまなじりに涙を溜めて震えていた。
嗚咽を堪える少女に気付き、ルードマンは怯えきった横顔を一瞥してから鼻を軽く鳴らして、隣の男へと視線を移す。
◇
一人当たり2分程度の確認を10人全員に実施して、確認後は全員の姿が視界に入る位置に立ち、軽く見回してから確認の終了を告げた。
「……良し、問題無いな。すぐに馬車に積み込め。客人は待ってはくれないぞ。それと――」
「あ、あの……」
使用人はギョッとした後、瞬時に憤怒の表情になる。主人の口上を遮った一人の奴隷にだ。
「貴様、誰が喋っていいと言った! 奴隷風情がっ!」
「ごめんなさいごめんなさい……でも、でもっ……!」
激怒した使用人の剣幕に怯える女性の奴隷は、それでも必死にルードマンに何かを伝えようとしていた。
「良い良い。喋らせてやれ」
「しかし……」
「なに、納得させてやるのも奴隷業を営む者としての義務だ」
「……畏まりました。出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ありませんでした。旦那様」
「構わんよ……さあ、私に伝えたいことがあるのだろ? 言ってみろ」
使用人の激情を抑え、ルードマンは女性の奴隷に先を促す。
「あ、あの私……何もしてないんです。家に突然、兵士さんたちが押し掛けて、変な罪状を見せられて、いつの間にかこんなことに……ひっく……」
当時の状況を思い出したのか、涙を流して嗚咽を漏らす。
悲壮の感情は波となって、他の奴隷にも伝播する。先程の少女も、家族の名前を呟きながら涙ぐんでいた。
奴隷たちの呟きを聞き流しながら、ルードマンは彼女たちが奴隷にされた理由を察していた。
結局は、貴族たちの怒りを買ったのだ。
犯罪者ではない者が奴隷になることは、皇国の法によって禁じられている。もし冤罪を被せて奴隷にした場合、貴族とて処罰される。
それでも冤罪にして奴隷にするのは、余程の怒りを買ったか、横の繋がりが強い悪徳貴族に目を付けられたかのどちらかだ。
此処にいる奴隷たちは、奴隷法の穴を知らない。今までは奴隷とは犯罪者しかいないと常識で教えられ、ずっと信じて疑わずに育ち、人生を謳歌してきた。奴隷に堕とされた、その瞬間までは。
此処に連れて来られた堕ちたての奴隷は、今までは夢だと思い込んでいたのか、此処にきて無実を主張する者が後を絶えない。ルードマンとしてはいつもの展開なので、咽び泣く奴隷たちに諭すように語り掛ける。
「……成る程、言い分は分かった」
その一言に、次々と顔を上げる奴隷たち。瞳に期待の色が浮かぶ。
「だがね、本当に何もしてないのかね?」
続くルードマンの問い掛けは、期待の色を困惑へと変えた。
「何もしてないのに奴隷になるのは、確かにおかしい。逆に言えば、奴隷になるだけの罪を、知らずに重ねていたかもしれない。それぞれ、胸に手を当てて、過去を振り返ってみろ」
皆が同じ仕草で胸に手を当て、過去の行いを馳せる。
「自分がしてきたことが、誰にもバレなかったと思うか? 小さな罪も、積み重ねれば大罪となる。その結果が今なのだよ」
誰も言い返さない。心当たりがあるからだ。
「奴隷は確かに悲しい結果だが、結末ではない。贖えば、いつかは償える。奴隷とは、他者への無償の奉仕で罪を清める、償いの一環なのだ。他者の役に立つことで清められるとは、素晴らしいではないか!」
困惑の色が徐々に希望へと変わっていく。兵士たちも一様に感嘆の声を漏らす。
「一般的に、奴隷を犯罪者と罵る者が殆どだ。君たちも嘗てはそうだっただろう? だが、私は違う。私にとって奴隷とは、犯した罪に迷える仔羊だ。仔羊に救済の道を照らすのが私の仕事。生き甲斐その物なのだ!」
熱弁を饒舌に語るルードマンの姿に、奴隷たちは納得と尊敬の眼差しを送る。
「売買で得た金銭もそうだ。多くは皇都へと納め、残りは君たちと同じ奴隷に身を窶した者たちを引き受けに、衣服や健康診断、食事や蒸し風呂など多岐に亘って活用している。そのお蔭で、私の懐に入った金額も、この家と市場の維持費で素寒貧だ。はっはっはっ!」
快活に笑うルードマンに乗せられるように、奴隷たちも僅かに笑みを浮かべ始める。
この貴族は、自分たちのことを考えている、と。
「奴隷には労役期間があるのは知っているな。罪状によってそれぞれ違うが、その期間が過ぎれば晴れて元の生活に戻れる。謹厳に服務をこなせば、そこの主人の口添えで早く労役が終わることもあるから、前向きに奉仕してくれ。以上だ。……少し時間が経ったか。他に伝えたい者がいないなら、すぐに荷馬車に移動だ」
「あ、あの、旦那様……」
先程の女性の奴隷が、再び口を開いた。
眉根に皺が寄りそうになるのを堪えながら、先を促す。
「言ってみろ」
「は、はい。……あの、ありがとうございます。私たちのことを考えてくれて」
深々と誠意を込めたお辞儀を、ルードマンという人格者に対して行う。釣られて、他の奴隷たちも頭を垂れる。
「構わん。私が好きでしていることだ」
踵を返したルードマンは、そのままテラスに出て街並みを望む。
「さあ、行くぞ」
兵士たちに促され、奴隷たちは入室時とは打って変わって足取り軽く、自ら率先するように部屋から退出する。
最後に兵士が一礼してから扉を閉め、それを見届けた使用人はルードマンの傍へと寄る。
「素晴らしい演説でした。毎度のことながら、ついつい聴き惚れてしまいます」
「ならば、聖職者でも食って行けそうだな。奴等は弁論の才だけはあるからな」
「……以前からお聞きしとうございましたが、旦那様は素寒貧でございますか?」
「どう思う?」
「旦那様が素寒貧ならば、わたくしめも内職せねばなりませぬ故」
「はっはっはっ! 安心しろ。私は贅沢をせぬ。そんな暇は、伯爵にならねば難しいからな」
「流石は一代でアークストン市場を切り盛りされる御方。無用な心配でございました。それと、先程の奴隷が遮った続きは?」
確認の一言に、ルードマンはすっかり忘れていたことを思い出す
「気が利くな。本日、ストランダー侯が皇都ラーグの皇帝会議に召喚された。会議期間は例年通りの4日間。航行と会議前後の宿泊期間を含めれば、10日間の出張となる。その間、不在となるストランダー侯の邸宅管理と、有識者たちとの打ち合わせを任されている」
「つまり、全て例年通りと?」
「そういうことだ」
「もう、皇帝会議が始まる季節となりましたか……承知致しました。それらに合わせて、こちらの予定を調整しましょう」
「うむ、頼んだぞ。私も今からストランダー侯の邸宅へと向かう。馬車を用意してくれ」
「畏まりました。では、すぐに厩舎の騎手に準備させましょう」
一礼してから踵を返した使用人は、音を立てない程度の早足で退出する。
テラスから左手に見える、整備された崖の中腹に建つ、ノワール一番の豪奢な建物にルードマンは視線を向ける。
あれこそが、この地方の管轄と守護を、何代か前の皇帝陛下に任された、7名の護爵の一人、シウス・ヴィ・ストランダーの邸宅であった。
護爵とは、皇族と皇爵の次に爵位の高い、一般の貴族が戴ける最高位の爵位であると同時に、貴族最大の誉れの一つでもある。
国政以外で国益に貢献する、下位貴族と分類される男爵であるルードマンでは、本来なら接点を持つことすら珍しい。
それを可能にしたのは、一重に二人が専門としている部分にある。
シウス・ヴィ・ストランダーは、短くストランダー侯と呼ばれるが、ノワールならば知る人ぞ知るもう一つの異名があった。
奴隷候。
ストランダー護爵家は、奴隷の概念を常識にまで押し上げ浸透させ、奴隷制度を率先して推奨した一族であり、奴隷業の先駆者でもある。
現当主のシウスは、その跡を若くして継ぎ、奴隷を物ではなく商品として扱うルードマンに、自身の名を刻む協力者としての可能性を見出した。
ルードマンも護爵の後ろ盾を利用して、シウスの口添えもあってか、遂には貴族の証たる爵位を、現皇帝ラグスヴァルド・ゼーゲン・イグルス=アタラティアより賜ったのだ。
それが二人の接点。今ではギブアンドテイクの関係を越えた、深い友人関係を築いている。その証明がアークストン市場である。
通常は護爵であるストランダーの名が付けられるが、シウスは友好の証として市場の命名権利をルードマンに譲ったのだ。
爵位を賜って以降、シウスの友好に報いるため、毎年この時期に開かれる皇帝会議に召喚されるシウスの代わりに、邸宅管理を始めとするストランダー護爵家の業務を一手に引き受けていた。
唯でさえアークストン市場の総支配人という、多忙極まる職務に従事しているルードマンだが、一度足りとも職務の兼任に愚痴を零したことは無い。
「……そろそろ行くとするか。今日は廃棄処分の予定もあるからな」
蹄と車輪の音が、眼下へと近付いて来る。
踵を返したルードマンは、脳内で本日の予定を復唱する。廃棄処分が重なった今日は、例年と比較して多忙になることに、軽い溜め息を吐きながら執務室を後にして、階下へと足を向けた。
5
ストランダー邸に到着したルードマンは、足代わりの馬車から降りるや、無い筈のものが有ることに気付く。
「む……あれは、ストランダー侯の馬車……まだ出立していなかったのか?」
時間帯として、既に港湾に向けて出立していなければならない。
軽く馬車の状態を見回しても、移動に異常を来す故障は見当たらない。
騎手の姿は見えないが、馬は馬車に繋がれていることから、出立の準備は整っているようだ。
疑問に思いながらも、来客を告げる真鍮製のノッカーを掴み、そのまま金属板に4回だけ叩く。
程なくして扉に設置された覗き戸の蓋が開く。
「はい……これは、アークストン様。少々お待ち下さい」
若い声の主は、覗き戸の蓋を閉じ、ガチャンと施錠が外れる音が外へと響く。
扉を開けて現れたのは、メイド服を着用した声の若さ通りの女性であった。
開門した扉の中央でお辞儀したメイドの使用人は、ルードマンが訪ねた理由を察しているので、テキパキと求める答えを述べた。
「アークストン様、予定されていた皇帝会議は延期となり、本日の出立は中止となりました」
「皇帝会議が延期!? どういうことだ!」
本来、皇帝会議は一年の節目として、去年の皇帝会議から今年の皇帝会議までに起きた結果と、新しい懸案の報告。来年以降の政策など、皇帝や他の皇族・皇爵と共に7名の護爵が、国の指針たる政策を話し合う場であり、同時に決定する場でもある。
この皇帝会議では、必ずしも皇帝が参加する必要はない。代理人として皇族の次期皇位継承者が出席すれば、皇帝会議は始められるのだ。
その皇帝会議が延期となる可能性は主に二つ。一つは開催地である、皇都ラーグに重大な異変が起きた可能性。もう一つは、皇帝本人が出席できない状況で、且つ次期皇位継承者がいない場合である。
ノワールは陸路から見れば辺境の端に位置する。貿易船も他国からが殆どだ。そのため、活気が溢れるこの町では意外だが、中央にある皇都ラーグの情報は、観光客頼りになることが多いのだ。
「仔細については、私共の主である旦那様にお目通り願います……」
僅かに伏せたメイドの顔には、手当てを受けた痕があった。
奴隷を物として扱うシウスは、例え相手が女性でも平気で手を上げる。しかし、奴隷以外の女性にはフェミニストを気取る。シウスという人物は、一族が定めた価値観を遵守する、典型的な貴族体質の人間であった。
一度、商品として売り飛ばした奴隷の扱いに、口出しをしないこと決めているルードマンは、何も見なかったかのように頷く。
「分かった。それで、ストランダー侯は今どちらに?」
「主は寝室で休んでおられます」
「では、ルードマンが来たと伝えてくれ」
「承知致しま――」
「その必要は無いよ」
ホールの奥の中央階段から投げ掛けられた一言に、メイドは肩をビクッと震わせる。
カツカツと靴底を鳴らし近付く、20代前半の青年。その気配が強まるにつれて、メイドの表情は次第に青ざめていく。
すぐに脇へと退き、邪魔に――それこそ意識の片隅にも残らないように端へ端へと下がり、ひたすら顔を伏せ続けた。
「良く来てくれた、我が友よ」
メイドに一瞥もくれずに、両手を大仰に広げてルードマンを出迎えた青年こそ、ストランダー護爵家の現当主、シウス・ヴィ・ストランダーである。
表現としては、金髪碧眼の肌白い、線の細い優男の外見である。外見通りの笑顔を浮かべるシウスは、親子ほどに歳の離れたルードマンに親愛の情を持って接した。
出迎えられたルードマンも笑顔を浮かべて、握手と共に挨拶を交わす。
「おお、ストランダー侯。2日振りでございますな。その節は助かりました」
「何を言うアークストン卿。貴兄には良く助けられている。知己の危急に手を差し伸べられず、何が友か」
少々、芝居かかった言い回しだが、偽りのない本心からの言葉なので、シウスが言わんとすることが、ストンと胸に落ちる。
「ところで、ストランダー侯。そのメイドから聞きましたが、皇帝会議が延期となったとか」
ビクッと全身を震わせるメイド。自身の存在が口上に出たことで、主人の目が自身に向けられる可能性に怯えた反応であった。
軽く視線をメイドに動かしたシウスは、先程とは打って変わった冷淡な表情が、目つきを中心に広がっていく。しかし、すぐに視線をルードマンに戻し、柔和な表情へと変えた。
「……ああ、それについては、いつもの部屋で話そう。それでいいかな?」
「私は一向に構いません」
「では、移動しよう。……そうそう、先日のアリオン広場で珍しい菓子が、少量だけ出回っていてな。宝石のように外観が美しいのだ。試しに購入してみたのだが、一粒どうだ?」
「宝石のような美しさですか……それは楽しみですな!」
甘い菓子類は少し苦手なルードマンだが、このような好意の受け合いが、貴族社会での上下の関係維持に必要な要素でもあることを、十分に理解していた。
◇
他言無用の場としてシウスが招き入れた部屋は、普段は護爵以上の来客用の貴賓室だが、重要な案件を口頭などで扱う際にも利用する。
この貴賓室は、先祖代々から重用してきた部屋で、その理由が外部へと漏れる音の遮断である。
天井や床、壁一面に仕込まれた鉄板で物理的な音を遮断。そこに重ねるように加工された、ある鉱石がある。
魔法が存在するこの世界には物質に宿る魔法の一つとして、反魔鉱と呼ばれる〈音響遮断/サウンドアウト〉の魔法効果を永続的に発生させる希少鉱石が存在する。その希少鉱石を部屋全体に潤沢に使用したことで、盗聴などに使用する〈音響追跡/サウンドストーカー〉などの情報収集系の魔法を完全に遮断することができる。
秘密主義者にはピッタリの完璧な防音設備だが、難点としては反魔鉱の費用である。
部屋一つを反魔鉱で覆う場合、掛かる費用は500万フィロル――フィロルとは、この世界の通貨である――に上り、日本円で約5億円である。
反魔鉱の価格は、採掘量の減少と反比例して年々上昇して、現在では3倍の価格にまでその価値は高騰していた。
巨額のフィロルを湯水の如く費やした貴賓室は一面、白と赤の縞模様に塗装され、調度品の数々が壁際を飾り付ける。
中央には大理石を研磨したテーブルと、動物の皮を鞣して、黒の染料を混ぜ込んだ黒革のソファが、テーブルを挟んで二つ設置されていた。
貴族にとって最高のステータスである反魔鉱の貴賓室に、最初に入室したシウスはまるで、自身が誇りとする名君が眠る霊廟に訪れたかのように、胸に手を当てた厳粛な姿勢のまま、引き締めた表情で眼前の壁に掛けられた、天井から床まで届きそうな人物画を注視していた。
金髪碧眼で、少し痩せ気味の色白の男性の絵で、歳はルードマンと同じ40代である。
アリオン・ヴィ・ストランダー。
ストランダーの家に、護爵の爵位を賜る功績を築き上げた、シウスの曾祖父である。
元々は漁業と貿易船の停泊所しかなかったノワールを、貿易都市にまで発展させた功労者で、ノワールの住民はその偉業を讃えた銅像を広場の中心に建設した。後にその広場は、アリオン広場と呼ばれるようになった。
奴隷業の先駆者の一人でもアリオンの功績は、当然ながら同業のルードマンも熟知していた。
シウスに倣って同じように厳粛な面持ちで、偉大なる先駆者に敬意を払う。
二人が人物画を映して先にいる偉人に敬意を示してから、十数秒程度だろうか。先に腕を降ろしたシウスは、ルードマンに着席を促す。
「先ずは座ってくれ。いま用意する」
促されるままに、ソファへ座るルードマン。調度品に混じって備え付けられた戸棚から、二人分のグラスと果実酒を取り出し、テーブルの上に一旦置く。
次に戸棚から取り出したのは、蒼の色彩の小鉢と包装された小瓶である。
「さあ、小瓶の中身をこの小鉢に移してみてくれ」
手渡された小瓶の包装紙を、蓋に当たる部分だけ解き、置かれた小鉢の上に傾ける。すると、小瓶から転がり落ちてきたのは、凹凸の突起がある色取り取りの鮮やかな宝石菓子であった。
「それは此処から北西にあるセダルシナ諸島の伝統的な菓子の一つで、コンペイトと言う名だそうだ」
オレンジ特有の酸味の効いた、爽やかな香気を放つ果実酒を、二人分のグラスに手慣れた様子で注ぎながら、シウスは続ける。
「コンペイトを販売していた商人は、セダルシナ諸島のユイグンから来たと語っていてな、偶にそういう珍しい菓子を入荷しては、ノワールで高く売り捌いているらしい」
「商魂逞しいですな。一粒、戴いても?」
「勿論だとも」
「では、お一つ……」
「……しかし、珍しいな。菓子類は私が勧めるまで、口に運ぼうとはしなかったのに」
「人は鴉と同じで、光り物には勝てぬということです。そこに未知が付くなら尚の事」
指先で摘み、一粒だけ口に含む。舌の上で転がす度に、程良い甘味が口内を満たす。
「ほほっ、これはなかなか甘美! ユイグンからノワールへ向かうには、船でセダルシナ諸島を半周するか、直接ソシエムへ陸路で移動する必要がありますな。このコンペイトなる宝石菓子は、色が褪せておりませぬ。保存食として重宝できそうですな」
「成る程……実に良い意見だ。貴兄に試食してもらって正解だった」
「いえいえ、コンペイトを見つけたストランダー侯の、観察力と好奇心の賜物です。……して、先程の続きですが……」
シウスから受け取ったグラスを軽く仰いだルードマンの意識は、既に皇帝会議の延期理由で染まっていた。
神妙な面持ちとなったシウスの変化に、ルードマンは姿勢を正して静かに傾聴する。
「ああ……早朝に皇都から伝書鳩が戻って来てな、括り付けられた書簡に書かれていたのだが、実は……陛下の体調が優れないのだ」
「陛下の!? ……観光客も、陛下の御身を今年は一度も拝顔していらっしゃらないようでした。やはり、御歳なのでしょうか?」
「確かに陛下は、既に玉座を譲る御歳。臣下としては、憂いを払う御力添えをしたいが……」
続けようとした言葉が詰まるシウスの表情は暗く、身命を案じる忠臣の姿がそこにあった。
ここでルードマンは、一つの疑問に気付く。
「皇帝会議は次期皇位継承者が出席することで、陛下の名代となる筈ですが……」
確かに、皇帝会議は皇帝もしくは次期皇位継承者が出席することで、滞りなく始められる。皇帝陛下が体調不良でも、名代がいれば万事問題ない筈である。
ルードマンの疑問の問い掛けに、沈鬱の表情を見せるシウス。その姿に皇族にまつわる、ある噂を思い出してしまった。
「……嫡子であらせられるベルフォルン皇殿下は、政策に興味が無いという。興味事があるのは、色情に耽ることらしい」
頭痛の種だと言わんばかりに、シウスは頭を振る。
ある噂とは、ベルフォルン皇殿下は夜な夜な貴族の娘を寝室に招いては、側室の真似事をしているらしい。あくまでも貴族の娘たちの間で噂話として広まっていた、信憑性の疑わしい風評であった。
事実ならば、知己であるルードマンにも知らせてはならぬスキャンダルではあるが、流石に今回ばかりはシウスにも据えかねる物があるらしい。
「妹君のアスカレイア皇女殿下が名代となる話が出た……というより、皇女殿下御自ら名乗りを挙げられたらしい。しかし、政治を皇殿下以上に知らぬし、奴隷業の良さを今一つ理解しておらぬのか、今回の皇帝会議で改定案を出すと仰せだ」
温室の箱庭育ちであるアスカレイアは、世間を理解していない。政策をその時々の感情で提案することが多く、何年か前の皇帝会議に父ラグスヴァルドと出席して、護爵を継いだばかりのシウスを含む数名が窘めた過去がある。
政治を知らぬ少女ではあるが、その清廉な性格だけは兄のベルフォルンと違い、高評価を受けていた。
「……いや、改定案のことはいい。アスカレイア様が出席なさるのは、皇帝会議を開く上で助かるが、進行役や提案の纏めができぬ。何より、ベルフォルン様がアスカレイア様の名代を許さぬ。自らは出席せぬくせに……何故、アスカレイア様に為政の才が受け継がれなかったのか。せめて、ヒュンベルト皇が外交先のセダルシナ諸島からの帰還が間に合っていれば、こんなことにはならなかったのだが……」
ルードマンも、その意見には賛成であった。
ヒュンベルト・ディア・イグルス=クラティス皇爵は、ラグスヴァルドの弟であり、ベルフォルンとアスカレイアの叔父である。
普段は諸外国との外交が主な役割だが、ラグスヴァルドが公務を全うすることが難しい場合に、名代として舵取りを担う役を兼任していた。
「とにかく、ヒュンベルト皇がラーグに帰還するまでは、皇帝会議は無期限の延期らしい」
「でしょうな。陛下に無理をさせるわけには行きますまい」
「帰還の報が入るまでは、ノワールで待機だ。といっても、2、3日中には帰還するらしいがな」
「では、この2、3日中は職務を忘れて寛ぐことをお勧めします」
「そういう訳にも行くまいさ。寧ろ、私が貴兄の仕事を手伝うから、其方の所用を後にずらせ」
「いえ、護爵の職務はまた、別の刺激がありますので。これは毎年の、私の楽しみなのです」
満面の笑みを魅せるルードマンに、半ば呆れたようにソファに身体を埋め、参ったとジェスチャーするように手をひらひらと振る。
「護爵の職務も貴兄にとっては、息抜きか遊戯と同義か……分かった! ならば、存分に楽しめ!」
「それでは謹んで、ストランダー侯の名代を務めさせて頂きます」
立ち上がり、深々と御辞儀をするルードマンに、シウスは少しばかりの苦笑いを浮かべた。
◇
「夜は空いているか? 久方振りに食事を共にしないか?」
玄関先へと並んで歩く中、シウスから夕食の誘いを受け、ルードマンは本日の予定を思い返す。
これから昼食の時間ではあるが、その時間は得意先との会食が控えている。その後はアークストン市場を周り、様々な雑務を終えた後、護爵の名代として有識者と面通しをしておかなければならない。
例年ならば、以上で本日の職務は終了だが、今日はもう一つ予定が入っていた。
「夕方には廃棄処分の予定があります。その後でしたら」
「……ああ、今日に重なったか。いいだろう、待とう」
「場所は此方で宜しいので?」
「ああ、此処に来てくれ」
「では、また夜に」
ルードマンは軽く頭を下げ、玄関先に到着する。
其処でシウスは、伽藍としたホールに眉根を寄せた。
「誰かっ! 誰かいないか!」
剣幕を帯びた怒声に、先程ルードマンを出迎えたメイドが、パタパタと走りながら現れた。
「客人を見送り無しで送り出せと、誰が教えた!!」
「も、申し訳ございません旦那様!」
頭を深々と下げ、必死の謝罪をする。青ざめたその横顔に、勢いの付いた拳が叩き付けられた。
鼻血を僅かに噴き出し、どぅっと床に倒れ込む。急いで立ち上がろうとするが、蹴りが腹部を襲い、靴底で頭部を踏み付ける。
「私に恥を掻かせるつもりか! 卑しい奴隷風情がっ!!」
「も……申し訳……ございません……どうか、お許しを……」
床と靴底に挟まれた頭部は、シウスの体重に圧迫され、ギリギリと軋み上げた。
「物の分際で許しを乞うか! 物の価値を示せぬ貴様は、廃棄処分が望みのようだな!」
シウスの最後の一言が、メイドが懐く恐怖を最大限まで膨張させた。
「それだけは何卒……何卒お許しを……!」
「物が許しを乞うなど――」
「あー……ストランダー侯。一つ訂正があります」
シウスの激情に水を差すように、ルードマンは振り向いたシウスに語り掛ける。
「私にとって、侯が自ら見送りをしてくれることが、贅沢な栄誉なのです。考えて頂けると分かりますが、護爵が一介の男爵の出迎えと見送りをして頂けるのは、世界中を見渡しても私たちだけです。私にはそれが誇らしい。何事も、余分な装飾は美を貶めます。最高の素材一つで華やかになることがあるのです!」
両腕の動きで空想を描く後押しをしながら、ルードマンお得意の熱弁が冷水となり、シウスの激情を鎮静化させる。
踏み付けたメイドから離れ、少しの照れを魅せながら、ルードマンに向き直った。
「そ、そうか? 貴兄は相変わらず言葉巧みだな。……今回ばかりは、卿の意を汲んだと判断して、不問とする。卿に救われたな」
侮蔑の視線を、未だに床に身体を横たえるメイドに突き刺した。
よろよろと身体を起こし、満身創痍の状態でルードマンに感謝の意志を伝える。
「……アークストン様、ありがとうございました……」
「構わんよ。私は本心を語ったまでだ」
二人は並んで玄関を抜ける。
振り向いてはいないが、先の虐待を目の当たりにすれば、あのメイドはシウスと同じくらいルードマンを憎んでいるのが容易に想像が付く。その憎悪を孕んだ視線が、呪いのようにルードマンの背中に突き刺さっていたのだ。
ルードマンを恨む理由。それは既に明々白々だ。少し前にも行われたルードマンの執務室で、彼が語った熱弁に嘘の希望を植え付けられ、シウスの要請で差し出されたからだ。
そう、ルードマンが語った内容は大嘘である。
実際には間違ってはいないのだが、その内容が現実となるのは奇跡以外には有り得ないのだ。
現実として、金銭を出して購入した奴隷を解放するなど、購入者から見たら損するだけであった。
適当な理由をこじつけて、最期まで物として飼い殺す。
その事実を知った過去の奴隷の何人かは逃げ出して、奴隷の脱走による法の極刑により、脱走者の殆どは捕まり、処刑されたのだ。
脱走は例外無く死罪。奴隷として生きても、最後は使い物にならなくなり廃棄品として処分されるのが、奴隷の現実であり、結末なのだ。
馬車に乗り込んだルードマンは、シウスに見送られながら独り言を呟く。
「……あの女は、もう駄目だな」
ストランダー侯の邸宅は、距離を稼ぐ度に小さくなり、代わりに富裕層の街並みが広がっていく。
馬車は順調に坂道を下る。次の目的地である、会食の場へと向けて。
人物紹介その2
デュラン(人狼)
デュランに設定されているフリーメモ。
『その脚力は千里を一夜も掛けずに踏破し、跳躍力は100メートルを有に飛び越える。稲妻の如き速度は真空を生み出し、強硬な爪は全てを穿つ』
ほぼ全てのパラメータが最大まで振られている。修得しているスキルや魔法、アーツは豊富で、特に属性ダメージの軽減や、状態異常完全無効に投擲無効とパラメータ上昇の雷鎧装が強力である。
創った魔法は全て修得しているが、スキルが物理攻撃やパラメータ上昇が多く、魔法はあくまで応用を広げる役割として割り切っている。
アーツは種族特性を生かした内容となっており、特に雷属性のアーツが豊富である。全てのアーツの中で群を抜く火力を誇るのが、刺突アーツである屠神突である。
装備も最強装備となっており、レベル差が半分以下の攻撃は、受けても殆ど効かなくなったなど、管理者権限によるチート化が凄まじい。
パラメータとしては、レベルは最大値の100。体力と魔力も最大値の99999。STRなどの各パラメータは、最大値は255だが、最大まで振られているのは、STRとAGIで、一番低いのはINTである。
理由としては、得手不得手がある方が楽しいからである。