第2話
カップラーメンで食事を済ませた健司はまた執筆に没頭した。思いのほか筆が乗り一息ついたのは午後十時過ぎのことだった。大浴場の営業時間まで一時間を切っていることに気づいた健司は急いで準備を整え一階に降りた。
夜も更けてきたため客は健司以外にはおらず、大きな湯舟に貸し切り状態で浸かることができた。これは思わぬ儲けものだった。熱い湯に浸かった後は次のお楽しみだ。そのために小銭は忘れず持ってきた。風呂場をでて真っすぐにアイスの自販機に向かった。持ってきた小銭を服のポケットから取り出し投入口に入れる。
「どれにしようか……」
候補に上がったのはバニラとマーブルチョコ、ミント味で迷った末に決まったのはマーブルチョコだった。他のは明日にでも食べればよい。重い音を立てて落ちてきたアイスを手に取り健司は歩き出した。この場で包みを剥がして食いつきたい衝動を抑え廊下を歩く。エレベーターに向かう途中であの「どこでもドア」の前を通りかかることになった。また、高杉の浮かれた声が脳裏に蘇ってくる。周囲を見回すが人影は見当たらない。そっと防火扉に近づいた健司はその把手を静かに回してみた。そして音をたてないように手前に引き寄せる。扉の向こう側を覗き込むとそこに見えたのはホテルの一階だ。
「当たり前だ」
苦笑して扉を音をたてないように閉め、健司はその場にした。
それから一時間ほどして眠りについた健司だったが、強い喉の渇きを覚え目を覚ました。あまり寝ていないという確信はある。スマホで時間を見るとまだ二時で朝まで時間はたっぷりとあった。だが、この喉の渇きでは眠れそうにない。酒と風呂のせいだろうか。
「どうでもいい、喉が乾いた」
部屋にある水や茶のペットボトルは全部からになっていた。持ってきたすべての飲み物は空になっていた。部屋の一角は資源ごみ置き場と化している。外に出るほかない。
「まったく……」
売店は朝にならないと開かないだろう。今はコーヒーや甘いジュースではなく冷えた水が欲しい。
「そうなると……」あそこの自販機だな。
廊下は昼間と変わらず明るい。風呂帰りに漏れ聞こえていた男たちが騒ぐ声は収まり、夜更け独特の静寂に包まれている。健司たちも部屋での宴会の最中はあのような騒ぎぶりだったに違いない。よく苦情が来なかったものだ。健司はまたも苦笑した。
エレベーターにより一階へ到着する。聞こえるのはスリッパが床に擦れる音だけで息が詰まりそうになる。あまり良い雰囲気とは言えない。
「さっさと済ませて部屋に戻ろう」健司は声に出さず囁いた。
どこでもドアの傍にある自販機は眠ることなく客を待っている。健司はその中で最も安い水を選んだ。ペットボトルに張られているラベルは地下鉄の切符ほどの大きさで水であることさえ主張していない。重い音を立てて現れたペットボトルを手に取った健司は目の前にある扉に再度引き寄せられた。あれはただの防火扉だ。それ以上でもそれ以下でもない。だが、あれはそれ以上の存在感を漂わせている。扉に近づいていくと扉を支えている枠に小さな扉があることに気がついた。その中央には「ベイシア様の御印」が刻み込まれていた。鍵はない、ということは簡単な操作で開けることが可能なのか。健司は試しに小さな扉の端を人差し指で奥へと押し込んでみた。軽い手ごたえがあり、指を離すと扉は僅かに前に開いた。爪をその隙間に差し込み扉を大きく開いた。中に収められていたのは一からゼロまでのボタンでゼロの両隣はEnterとDeleteボタンになっている。これで何をするのか。健司は試しにノートパソコンのPinの番号を押してみた。
「00……」
何が起こるかなど期待はしていない。
ガチっ近くで音がした。何かの作動音のようだが何も動いた様子はない。
「扉に鍵がかかった」のか?
それを確認するために健司は防火扉の取っ手を回した。取っ手は容易に回り扉は手前に引き寄せることができた。何も変化はない、と思われたが違った。扉の先には地下へと降りる階段が続いていた。
「これは……」どうなっているのか?
突然、聞き覚えのある曲が聞こえてきた。それはスマホの目覚ましのアラーム音だった。
健司は反射的に布団から飛び起きスマホのストップボタンを指先で触れた。ここが自宅ではないことはすぐにわかった。ホテルの一室で空は白み始めまもなく夜が明ける。スマホのアラームを切っておくのを忘れていたようだ。
さっきまでの光景は夢だったようだ。真に迫った光景だったが、夢の中にいるときはそこで何が起ころうと受け入れている。そして、目覚めて夢だったことに気がつくのだ。防火扉の先に階段が続いているなんてありえないことだが、夢の中ではそれが容易に受け入れられる。
「まぁ、いいか……」
健司は立ち上がり朝の準備を始めることにした。普段は休日であっても起床時間は変わらない。食事の後は仕事のための身支度をせず執筆に入るそれだけが違いだ。昨日のうちに買っておいたパンを鞄から、サラダを冷蔵庫から取りだす。それを窓際のテーブルまで持っていき、その際にノートパソコンの電源を入れた。次はコーヒーを入れるとしよう。水はと鞄の傍に目をやると水のペットボトルが転がっていた。小さなラベルだけが張られたペットボトルだ。これは価格が安いため地元のスーパーマーケットで目にすれば買い求めることにしている。封を解き半分ほどを電気ポットに入れ、残りは冷蔵庫にしまっておいた。
旅先ホテルでもいつもと同じような食事とパソコンからはいつものFM局からいつものJDの声が聞こえている。何もかもがいつもと変わらない様子で昼前の時間となった。他にすることがないゆえに執筆に没頭することになり、その進度はいつにないはかどり方を見せた。
いつもは一泊旅行だったためこの時間は既に帰途についている時間だった。昼食はどこかの食堂に案内されそこで出された料理で食事を済ませるのが定例となっており、健司もそれにしては失念していた。今回は誰も食事の面倒は見てくれない。
「また、下で買ってくるか……」
それには内なる声が不満を漏らした。健司もそれに同意を示した。珍しく意見の同意を見たが、それならどうするのかという問題が出てくる。ホテル内ではかなり高くつくことになるだろう。
「外に出るか」出た結論はこれだ。散歩もいいだろう。
ホテルを囲む森を抜ければ他のホテルや商店がいろいろとあったはずだ。そこで店を探して買い物をしてもいい。体を動かしているうちに何かいい展開を思いつくかも知れない。
買出しに備えデイバックを担いで部屋を出た。一階のロビーで周辺の地図が書かれたチラシを手に取り、眺めてみた。地図によると前回は閉館間際での到着だったため行くことができなかった酒の博物館はまだ健在なようだ。とりあえずの目的地はここに設定することにしよう。ここでいい手土産が手に入るかもしれない。
ホテルの前に出てチラシを広げ、方角を照合した。ここを右に行き少し歩けば森を抜け。博物館があるホテル街にでられるようだ。森を抜ける道はガードレールなどに仕切られた歩道はなく、車道の両端に引かれた白線だけだ。少し心許ないが行き交う車もなく、人家も見当たらないためこれでよいとされているのだろう。
先の下草が揺れ鹿が姿を現した。鹿は近づいていく健司を一瞥するが、気には止めてはいない。車道の安全を確かめるように立ち止まった後に悠々とした足取りで反対側へ渡った後に森へと入っていった。それから少し歩くと木立の中から物音が聞こえた。そちらに目をやると木立の陰から顔を出した鹿と目が合った。その次は狐が目の前を横切り道路を渡っていった。これなら動物たちにとってはガードレールなど邪魔でしかないだろう。「ここは動物の国か……」
これが健司が森を抜けるまでに抱いた印象だ。狐の後は車道沿いの開けた場所で佇むうさぎも目にした。他にも下草を揺らす音も耳にした。あそこにも何らかの獣が潜んでいたのだろう。人を脅威と思わず過ごしているということか。
森を抜け、人の領域であるホテル街に到着するとさすがに森に住まう動物たちの姿は消え失せた。辺りを行き交うのは人と人が操る車ばかりだ。目標となる博物館は広い通りに面した場所に建てられていたはずだ。チラシをポケットから取り出し、地図で位置を確かめてみる。目印となる建物はすぐに見つかった。この通りを真っすぐに進めば博物館に到着する。
「今度こそ中に入って……」その意気込みは数分後に粉砕された。
博物館の入り口扉は閉ざされていた。「改修工事のため臨時休業となっております」と書かれた紙も張られている。チラシを見てみるとこちらの地図にも小さな文字ではあるが、改修のため臨時休業中の言葉が添えられていた。これに気がつかずここまでやってきてしまった。どうにもこの博物館とは縁がないようだ。
前回は閉館まで後二十分だったため諦めてしまったが無理にでも入っておけばよかったのだ。それが悔やまれる。
「後悔後を絶たずというからな……」先に立たずだとツッコミが入ってきた。
どちらでもいい。
前回はどうしたか、入ろうという高杉と慌ただしいのは嫌だという前田に主張がぶつかりあい口論になりかけたところで、すぐ隣にある酒屋に高杉が目を止めたのだ。そちらなら地元の酒も手に入るかもしれない。これには前田も同意し休戦となりそちらを訪ねることとなった。
高杉は小走りで小さな横断歩道を渡り、健司たちも後に続いた。コンビニほどの酒屋の店頭に立ってみると店内は暗く人気は見られなかった。
「まさか、閉まってるのか?」前田は顔をしかめ、高杉に目をやった。
またも波乱の気配である。無駄な時間の消費となれば休戦は解除されかねない。
「そんな……」
高杉は慌てて入り口の引き戸に掛けた。引き戸は容易に動き、店内の様子が見て取れた。店内が暗く見えていたのは単に照明を落としていたに過ぎないようだ。高杉が先頭になって店に入り、その店に足を踏み入れることになった。
今回も結局この店の世話になることになるようだ。店頭の様子はあの時と変わらずひっそりとして暗く人気が感じられない。今度は本当に閉まっていたらどうなるのか。そんな思いがよぎりはしたが、今日は平日で陽も高く上がっている。それは在り得ない。
健司は引き戸に手を掛けた。引き戸は僅かな力で左に動いた。自動化されていないには以前と変わらない。照明が控えめなのも同様だ。店舗奥のレジに店主を務めるおばあさんが天井からのスポットライトを受けつつ座っている。照明らしきものはこれだけで、他の光源は外から入り込む自然光と壁際に設置された冷蔵庫が放つ光のみとなっている。これも変わらない。
健司は備え付けの赤い買い物籠を手に取り冷蔵庫へと向かった。中の品ぞろえはよくあるコンビニなどと変わらない。何種類かの酎ハイと水に麦茶を買った後に土産になりそうな地酒の物色を始めた。試飲などはできないためラベルで判断する他なさそうだが、どれも厳めしい字体で代り映えはない。その中で唯一ピンクの桜の文様が描かれたラベルの酒瓶が目についた。
「ここでもベイシア様か……」健司は小声で呟いた。
酒の銘は「天下統一」となっている。大きく出たものだ。健司はその酒瓶を手に取り買い物かごに入れた。店で手に入れた酒などでバックパックはいっぱいとなった。すべて液体であるため肩に食い込む重さを感じ、店内で詰め込み担ぎ上げた際にまた声が出てしまった。
これでホテルまで帰ることになるのか。この思いは前回も感じた。三人で各自の鞄やバックパックを満載にしてホテルへと引き上げていった。買い過ぎかと思いはしたが、それは思い過ごしだった。買いだした酒は飲み会の半ば過ぎで尽きてしまい一階に買い足し出る羽目となった。
「今度こそ買い過ぎたかもしれない」夕食も必要なのにバックパック内にその余地はない。面倒なことになった。
通りに戻ってきた道を引き返しつつ、夕飯について考えを巡らせる。食事についてはホテルのコンビニで買ってよいのだが、このまま寄るかそれとも一度部屋に戻るかが問題となっていた。重い荷物を担いだまま買い物をするのは気が進まない。財布をバックパックの奥から取り出すのも面倒だ。かといって一度戻っては出る気が失せかねない。
考え事をしながら漫然と歩いていたためだろう。前から紺色のスーツ姿の若い女性が近づいてきていることに健司は気がついていなかった。彼女の足取りが怪しいことに気がついたのは目前に来てからのことだった。虚ろな目つきをして寄りかかるように近づいてくる彼女に対して、健司はぶつかる寸前で身をかわし衝突をまぬがれた。それに安堵するのもつかの間のこと、健司は背後で重い衝突音を聞きつけそちらに目を向けた。
そこでは今すれ違ったばかりの女性がうつ伏せで倒れていた。
「おい!あんた!」その場で立ったまま呼びかけるが反応はない。
周囲を見回すが人影は見られない。車も通りかかることもない。いるのは鳩にカラスぐらいなもので健司は一人きりとなっていた。
「あぁっ!くそ!」
健司は担いでいたバックパックを歩道に下ろし、女性の傍にひざまづいた。黒く長い髪の女性だが表情に苦しんでいる様子はない。まるで眠っているように見える。だが、こんな街路で突然眠り込むことなどありえない。何か体に障りがあることは確かだろう。
健司は何度か女性の耳元で呼びかけてみたが反応はない。下手に動かすことは躊躇われるためやれることは限られる。健司はバックパックのポケットの中からスマホを取りだした。救急車を呼んでおいたほうがよいだろう。
「そこのあなた何をしてるの?」
画面をタップし通報のために番号を打ち込もうとした時、健司の前方から声がかかった。画面から顔を上げると女性と同じスーツを着た若い男女が健司のすぐ近くにいた。いつの間にどこからやってきたのか。近くの建物の中で彼女の異変を目にして飛び出してきたのか。
「彼女がすぐ傍で倒れたら様子を見ていただけさ」
「そう、それはありがとう」と駆けつけてきた女性。「ここはわたしたちに任せて」
女性は連れの若い男に頷き、男はそれに応じて首を縦に振った。彼女の傍にいた健司を無言で押しのけ、倒れている女性の傍に片膝をつき座り込んだ。彼女の介抱は二人に任せ、健司は救急車の要請に専念することにした。
「あなた何をしているの?」
「救急車は必要だろう?」怪訝な表情の女性に向かい健司は答えた。
「それには及ばないわ」
「どうして?彼女は倒れているんだぞ」
「わたしたちが力を分け与えれば彼女はすぐに起き上がれるわ」
「人の手助けなんて必要ないわ」
「えっ?」何を言っている。
それについて彼女から説明はなく、連れの男と共に真剣な面持ちで倒れた女性に手を当てた。そんなまじない紛いのことをするより適切な治療が必要だろう。これで彼女の身に何かがあればと健司は気が気ではない。このようなやり取りで面倒ごとに巻き込まれるのは願い下げだ。この場を離れて救急車を呼べば邪魔は入らないだろう。そう考えた矢先に倒れた女性が僅かに身体を震わせた。そして、目を開けゆっくりと身体を起こした。
「あぁ……」倒れていた女性が吐息交じりの声を漏らす。
「持ち直したようね」女性の声は少し疲れを帯びているように思えた。
「えっ?」その光景に驚き、健司は思わず声を出してしまった。
二人が傍から少し離れると、倒れていた女性はその場からこともなげに立ち上がった。二、三歩足を進めるがその足取りに支障はない。一体何が起こっているのか。
「まだ、慣れないことをしちゃだめよ」女性は笑みを浮かべて倒れていた女性をたしなめた。
「はい、気を付けます」
これらのやり取りの後、三人は何もなかったように軽い言葉を交わしながらこの場を去っていった。それを見送った健司も重いバックパックを担ぎなおしホテルへの帰途へ着いた。ホテルまでの道すがら考えを巡らせたのは当然のようにこの騒ぎのことだった。




