四十二
私は反射的にしまっていた石を取り出した。ダンジョンで使わなかった転移の術式が刻まれたルトの魔道具である。念の為密林に置いておいたものを回収してきてよかった。そう思いながら術式に魔力を流し込む。
会場全体を見渡せる場所にいたのでルトの居場所はわかっている。訓練場のすぐ近くにいたはずだ。
この術式は片方に魔力を流すともう片方がある場所の近くへ転移する物。座標が安定しないという点はこの緊急時に使うには不安も残るところだが――
シロの魔力を使えば、その不安は解消される。
視界に映る景色が一変した。
私は今、見下ろしていた筈の人混みの中に立っている。
誰よりも先に気付いたシンディの私を呼ぶ声が背後から聞こえたが、それに応える余裕はない。
手に持った鍋を最大限強化して迫ってくる黒い魔力の塊を迎え撃つ。
人が多いこの場所で叩き落とすわけにもいかないので、私は鍋を振り上げ夜の空へとそれを打ち上げた。
竜巻にも似た風の渦が周囲に広がっていく。私は腕が痺れるような衝撃を感じながら打ち上げた魔力の塊が上空で異様な音を立てて消えていく様を眺めていた。
突然の突風や音に驚いた人々があちこちで訳も分からず悲鳴を上げているようだが、死ぬよりはマシだと思ってほしい。
そんな中で近くにいたルトとシンディが駆け寄ってくるのがわかった。訓練場の中ではドルガント率いる兵士たちが集まり始めている。
「エル!今のは何!?」
「何か黒いものが見えましたが……!」
風が徐々に治まっていく。
私はその場に立ったまま、月を背にこちらを見下ろす子供から目が離せないでいた。
揺れる黒髪。光る銀の瞳。見た目はどう見ても子供なのに、その魔力はダンジョンで出会ったドラゴンよりも禍々しい。
ゼグがなぜ勇者伝説をあそこまで嫌悪するのかはわからない。さっきのあいつの言葉通り私は当時のことなど何も知らないから。だが、あの様子じゃ魔王だからという単純な理由でもなさそうなのは何となくわかる。
話を聞くか?
いや、聞いたところで何になる?
答えが返ってくるかもわからないし、例え返ってきたとして私に理解できることなのか。
そもそも今のゼグはどう見ても話し合えるような雰囲気ではないだろう。先程までとは明らかに違う。
思えば、これまでのあいつの行動は人を真似たものだった。
私を街の外に連れ出し余計な混乱を避けたのも、わざわざ金を払って祭りで何かをしようとしていたのも。意図的に人の真似事をしているように私には見えた。
何故そんなことをという疑問は残るが、ならば今の方がゼグの本性ということになる。
無慈悲で、単純で、それでいてわかりやすい。
何を考えているかわからない不気味な子供よりずっといい。
「いいよ。遊びの続きをしよう」
私がそう呟くと、月を背負った魔王はニッとその口元を吊り上げた。
「じゃあ、こういうのはどう?」
ゼグの魔力が膨れ上がる。
何が起きるのかさっぱりわからなかったので目を細めて成り行きを見守っていると、膨れ上がった魔力が分散し辺りに広がっていく。数は百、二百、もっとか。
そうして分散した魔力の一つ一つが形を変えたと思ったら、そこには翼のある黒い魔物――悪魔の大群が現れた。
「勇者ごっこ!」
――まずい!
一斉に襲いかかってくる悪魔の大群に、その場にいた人間が悲鳴をあげながら一斉に逃げ出した。
私はまた咄嗟に強化の術式を展開させ、そこに魔力を流し込み強力な結界を作り出す。悪魔は結界にぶつかり弾かれたので、これで少しは時間稼ぎができるだろう。だが、それもいつまで保つかはわからない。
「ルト。兵士たちと協力して街の人間を避難させろ。邪魔になる」
「わかった。でも、いくらエルでも魔王と悪魔の大群を一気に相手にするのは無茶だよ」
ルトの言う通りだ。ゼグ一人でもドラゴンと同じかそれ以上の脅威である。そこにAランク相当の魔物があれだけいるとなると、今の私が一人で相手にするのは不可能に近い。自分の実力は自分が一番わかっている。
「それならディにも手伝わせてくださいっ!」
その声にシンディを見れば、彼女は両の拳を強く握って自分も戦えると言い出した。クラリスたちが用意した美しい衣装を身に纏ったまま。
確かにこの街の兵士より強いという彼女なら悪魔の相手ができるかもしれない。今は迷っている場合じゃない、か。
「なら、悪魔はシンディに任せる」
「はいっ!」
そうして一枚の布に戻っていたベールをまた二つに分けたかと思ったら、再び扇状に変形させている。驚いたのは強化されたそれがどう見ても刃物のように硬く鋭くなっていること。
「ルト、これ本当に大丈夫なやつ……?」
私は思わずまたその言葉を口にしていた。
踊りの小道具感覚だったはずが、明らかに武器になっている。それを当然と受け入れているシンディもシンディなのだが……
「いろいろ使えて便利だよね」
こっちの天才も相変わらず物の価値がわかっていないものだから、私はもう何も言わなかった。
そんなやり取りをしているうちに頭上で結界が破れる音がした。
見上げれば悪魔ではなく、ゼグ本人が素手で殴って破壊している。強化の術式込みの結果だぞ。反則だろ。
「じゃあ、二人とも気を付けて!」
接近戦では役に立たないルトが逃げる人々の後を追っていったのを見送って、私とシンディも駆け出した。
私は迫る悪魔を避けつつ足場にしながら空に浮かぶゼグの元へ。翼を作れば飛べるのだが、それ以外に何もできなくなってしまうので足場があるのは逆にありがたい。
背後から襲いかかってくる悪魔はシンディがベールの武器で真っ二つに斬ってくれた。それどころか氷の結晶を撃ち出したり、風の刃で遠くの悪魔を斬ったりとしているので本当に何でもありだなと感心すらしてしまう。
Aランク相当という悪魔相手だが、この分なら任せて大丈夫そうである。
だが、問題は数だ。
この訓練場の周囲に留まっている悪魔はほんの一部。気付けば悪魔の大半は街中に散らばっている。これを全てシンディ一人でどうにかするのは流石に不可能だ。
(ルトが間に合えばいいが……)
人間を避難させるのには意味がある。悪魔は人間を狙って来ているから、ある程度こちらが固まれば向こうも集まってくる筈なのだ。
今街にいる人間の数は通常時よりもはるかに多い。その全てを避難させるのはかなり時間がかかりそうだが、そこはこの街の兵士たちに頑張ってもらうしかないだろう。
集めさえすれば、ルトの持つあの魔法が機能し始める。
私たちはあくまで時間稼ぎに過ぎない。
「エル、こいつら全部倒せたら今回はお前たちの勝ちでいいぜ。勇者のお供が優秀だったってことだもんな!」
「いや、私は勇者じゃないんだけど」
「オイラが勝ったらエルを貰う!」
「聞けよ。魔力も渡さないって言っただろうが」
強化した針を放っても鍋で殴りかかっても、簡単に避けるし平気で受け止められてしまう。戦っているというよりは本当に遊んでいるように動き回るせいでこちらとしてもやり難い。
ひっきりなしに撃たれる黒い魔力の塊。運悪く当たった悪魔の体が削り取られるように抉れたので、そういう性質を持っているらしいとすぐに知れた。触れただけで肉体が消し飛ぶなんてとんでもない兵器である。
幸い避けられないような速さではないのだが、そんなに簡単に次から次へと兵器を生み出さないでほしい。
私たちはそんな調子でお互いに魔力をガンガン使いながら訓練場から街の上空にまで移動した。
広くなった分やることも派手になってきて、白と黒の魔力がぶつかる度に派手な爆発が起きるようになってくる。
「あはは!やっぱり祭りは派手じゃないとなぁ!」
上空では絶え間ない爆発。下からは人間の悲鳴。そんな中でただ一人楽しそうに笑い声を上げる魔王。
私は結界の壁に降り立って、そんな子供を睨みつけた。