三十
深夜。
賑やかだったクランデアの街が静寂に包まれた頃、私はシロと一緒にモンティス伯爵邸の裏の林に来ていた。というのも、ドルガントの指定した場所と時間がここだったからだ。
シンディの芸が見られると言うが、こんな夜中の暗い林の中でいったい何をするというのだろう。
ちなみにルトはドルガントの家にそのまま泊めてもらっている。同じ芸術家同士クラリスと意気投合したようで、ドルガントもそっちのけで新作の服のデザインに取り掛かってしまったからである。
絵に描いた私にあれこれと未知の服を着せている二人にはどう足掻いても着いていけなかった。
そうしてやってきた林の中。私は低い木の影に身を潜めながら微かに差し込む月明かりを眺めていた。
今日の空は雲一つない。木々の向こうには三日月と輝く星々が広がっているだろうに、この場所からはよく見えない。それを残念に思っていると、肩の上でシロが顔を上げるのがわかった。
(あの女が来たな)
(本当に来たんだな。こんなところで何を……)
近くに来ればカサカサと草の間を通ってくる音が聞こえた。そっと覗き込んだ先にいたのはやはりあの女で、その足取りは覚束ない。
私と戦った時の怪我がまだ残っているのだろうか。そう思ったが、どうやら違う。微かな月明かりに照らされた女の肌には鞭で打たれたような痕があった。
(アレクにやられたのか……)
私のような子供に負けたから?
もしそうだとしたらあの男は本当に馬鹿だ。あの女の価値を何も分かっていない。
あの類まれなる戦闘能力も、構えの美しさも、人を護れる強さも、敵わないと悟って素直に降参した賢さも。全てが尊敬に値するものだと私は思う。
トサリ。何かが落ちるような軽い音が聞こえてハッとする。力尽きて倒れたか、と思ったが、木の影から覗き込んだそこにあった光景に私は思わず息を飲んだ。
僅かな月明かりの中で踊る一人の女がいる。
先程までの覚束ない足取りが嘘のように滑らかに。ひらひらと動く手のその指先まで美しく。忙しない動きにも関わらず派手な音は響いてこず、ただ静かに、闇に溶けて消えてしまいそうなくらい儚げに。
目が逸らせなかった。魅入ってしまった。
たった十秒ほどのその光景が、目に焼き付いて離れない。
気付けば女は力なく地に伏していた。
やはり怪我の影響で体力気力共に限界が来ているらしい。それが悔しいのかなんなのか、地面の草を鷲掴んで意味もなく投げている。聞こえてくるのはすすり泣く微かな声。
(なるほど。わかったよ、ドルガント)
お前が彼女を兵に引き入れた事を後悔していると語った理由が。
私は木の影から出て地に伏した女の前に立った。
自分以外の存在に気が付いて顔を上げた女の、ようやく見えた赤紫の瞳は大粒の涙を流している。
「あ……なた、は……昼間の……えっと…………」
「エルだ」
「エル……ダメ、です。こんなところに、いたら……見つかったら……」
「大丈夫。私の実力は知ってるだろ」
「ですが……」
「そんなことよりも」
片膝を着いて目線を低くしたのは、彼女に対する敬意の証だった。それほど今の私はその才能に惹かれている自覚がある。
こんなところで埋もれさせるにはもったいない。きっとドルガントもこんな気持ちなのだろう。
「それで、戦ってみないか。私がお前の背を押すよ」
そうして手を差し出した。
私が手を貸したところで舞台に立つのは彼女一人だ。ドルガントの言っていたイベントの本番はどうしたってたった一人の戦いになる。
けれど、そこまでの道を共に歩むことはできるから。
彼女の持つ本物の武器を磨く助けになるのなら。
私は、この依頼を引き受けてもいいと思ってしまった。
「手を取れ、シンディ」
涙を流し続ける目が私の差し出した手のひらを見た。
荒れた唇を震わせて何か葛藤しているような様子の彼女を私はただ黙って待ち続ける。
やがて辺りに柔らかい風が吹き、木の葉の間から差し込む月明かりが揺れる中。
――手が、重なる。
差し出した手のひらに彼女がそっと手を乗せてくれた。だから私は応えるようにその手をもう片方も加えて包み、魔法をかける。
足元に浮かび上がった魔法陣と現れた光の粒は、シロの魔法を使った証。
「あ……傷が…………」
「すごいだろ。私は魔法使いなんだ」
場を和ませようと軽い冗談のつもりでそう言ったのだが、シンディはなぜか瞳をキラキラさせて私を見上げてくる。どうやら涙は止まったらしい。
「魔法使い、さま」
「いや、悪い。エルで頼む」
「エル、さま」
「エルだけでいいから!」
困ったことにシンディはとにかく純粋な女だった。私を見る目が神を崇める信者のそれだ。
こんな純粋で大丈夫だろうか……と思ったが、大丈夫じゃなかったからアレクのような男に仕えているんだったなと思わず頭を抱えたくなる。
まぁ、それはいいとして。
「とにかく、お前には一月後のイベントに出てもらうことになる」
「はい!が、頑張ります……!」
「いろいろ用意もあるだろうしこのまま攫ってやってもいいが、どうする?」
護衛の仕事、振るわれる暴力。アレクの側に居たままじゃイベントどころじゃないだろう。当日には万全の状態でいてほしいのに。
シンディは少し考えた後、しっかりとした動作で立ち上がった。
「アレク様の元にいます。護衛の仕事はちゃんとやりたいのです」
「そうか、わかった」
それから私たちは幾つかの取り決めを交わした。
まず、本番に向けて体調を整えること。これが何よりも重要だ。もしそれができそうに無いと判断すれば、その時は無理矢理にでも掻っ攫ってやる。
こっちも善意でやっているわけじゃない。あくまでドルガントとの取引だ。後で報酬は要求するとして、シンディには何があっても当日出場してもらわねば困る。
次に、練習を続けること。これは言わずもがな。
時間は今日みたいな夜中しか作れなくても、練習はするべきだ。いくら彼女に才能があっても、努力をしない天才は凡人にだって負けるのだ。
それから、シンディの当日の衣装は私が用意する。
流石にアレクの側に居たまま衣装を調達することはできない。そこは私がなんとかしよう。
そして当日。イベントが始まる前になるべく早くアレクから離れ私の元に来ること。護衛は兵士に任せればいい。
これにシンディは一瞬迷ったようだったが、最後には深く頷いた。
「数日おきになるだろうけど、また夜中にここに来るよ。練習頑張って」
「はい……あ、あの!ありがとう、ございます」
立ち去ろうとした私にシンディは深く頭を下げた。
「夢、だったのです。ずっと……」
知ってるよ。見ればわかる。
今まで彼女がどれだけ練習を積んできたのかも。仲間の暮らす村を飛び出してまで何を目指していたのかも。上手く動かない体がどれだけ悔しかったかも。
「昔出会った旅芸人の一座が、忘れられなくて……そこで出会った踊り子に憧れて……ディも、そうなりたくてっ……」
夢を持つことは誰にでもできることじゃない。だが、夢を持ったからといって必ず叶えられるわけでもない。
本人にいくら才能があっても結局一番必要なのは運なのだと私は思う。
その点、彼女のこれまでは不運続きだったのかもしれない。
戦闘能力の高い民族だからと兵士として雇われたことも。偶然とはいえ貴族の令嬢を傷物にしてしまったことも。
けれど、そんな中でも手を差し伸べる人間がいること。それが彼女にとっての一番の幸運だ。
ドルガントは諦めなかった。シンディの才能を知り、本人が首を横に振ろうとも決して諦めなかったんだ。
だからこそ、その思いに共感する人間が現れる。今の私のように。
「出来るだけのことはするよ。応援してる」
「はい……!」
こうして私は今度こそその場を後にした。
胸に溢れてくるこの感情はなんだろうか。自分じゃない誰かにこんなにも期待してしまうなんてこと初めてだからよくわからない。
ただ、言えることがあるとすれば。
私は今、一月後をとても楽しみにしているらしい。
日が昇る頃、私はドルガントの家に戻った。
なんだか興奮気味で落ち着かず、街の周囲を囲む塀を乗り越えて夜通し魔物と戦っていたことは秘密である。金も払わず出入りしたことがバレたら大変だ。
家の前で仕事に向かうドルガントと鉢合わせたので、私は依頼を受けること伝えておいた。
「正直、シンディが抵抗して戦いになるんじゃないかと思っていた」
「だから強さを見込んでなんて言っていたのか。けど、そうはならなかったよ」
大丈夫。彼女は夢を諦めてはいなかった。
必要だったのはきっと、あと一歩を踏み出すための誰かの後押しだったんだ。
「報酬はあんたに払ってもらうけどいいな?」
「ああ。そうだな……この街一番の鍛治師を紹介するというのはどうだ。何か作るなら金は私が出そう」
どうやらドルガントは私の剣が折れたことを気にしてくれていたらしい。今持っている鍋でも十分戦えそうだと思っていたところだが、やはり剣はあって困るものじゃない。
「それで構わない。頼んだぞ」
元々鍛治には興味があった。街に詳しい奴が良い鍛治師を紹介してくれるというならそれに乗らない手はないだろう。
そうしてドルガントと別れ、ノックをして家に入ると朝食の用意をしていたクラリスに会った。
一晩中新作を考えていたのか目の下に少し隈ができている。
「今帰ったの?ちゃんと休んだ?」
「私は大丈夫だ。それより、仕事を頼みたい」
ゴトン、と。私はテーブルにワイバーンの魔石を一つ置いた。
「服を作ってほしい。報酬はこれで。売ればそれなりの金額にはなるはずだ」
衣装を用意するとは言ったが私は服に詳しくない。ならば専門家を引き入れて頼むのが一番だ。現状で仕事が頼めそうなのはドルガントの妻である彼女だけ。
アレクの護衛であるシンディのことはクラリスも知っているらしい。軽く事情を話し本番用の衣装を頼みたい事を告げれば、彼女は寝不足気味の表情を一変させて頷いた。
「任せて。私があの子に似合う最高の衣装を作って見せるわ」
こうして、シンディを中心とした私たちの戦いは幕を開けたのである。




