二
執務室から追い出され部屋のベッドに倒れ込む。途端にドッと疲れが押し寄せてきた。
まるで取り憑く島もない。なんなんだあれは。父はあんなに人の話を聞かない人だっただろうか。いや、そもそも今までほとんど会話したことなかったな。私の教育だって母に任せっきりで口を出してきた事は一度も無い。
もしかして父は初めから娘になど興味が無いんじゃなかろうか。なのに母と私がそれこそ勝手に努力すれば跡継ぎになれるだなんて思い上がっていただけ……うん、やめよう。今更考えても虚しいだけだ。
「し、失礼します!」
いつもの聞き慣れたメイドの声がどこか遠くに聞こえてくる。三年程前から世話になっている専属メイドのミリアである。
彼女は父の友人の娘で、その友人が亡くなった際に引き取られてうちに来たそうだ。少し怖がりなところがある少女だが器用でなんでも卒なくこなす、子供の私から見ても優秀なメイドである。歳は今年で十六だったか。
「お嬢様。その、午後のご予定ですが……」
「待て。それはやめてくれ」
「それ、ですか?」
「お嬢様」
「あ……その……申し訳ありません、旦那様のご意向ですので……」
「……は、」
どうやらもう使用人にも伝わってしまっているらしい。
今まで母の意向で屋敷の使用人含めた全員が私を男扱いしてきたくせに。父の一言でコロリと変わりやがる。
思わず布団に顔を埋めて「ふざけんな」と一言呟いてから私は話を聞く体勢をとった。
どうせロクな話じゃないのだろうが。
「それでは午後のご予定ですが、今までのものは全て取りやめるようにとのご指示がありまして……」
「まぁ、そうなるよな……」
いつもなら剣や魔術の教師を招いて稽古をする時間である。
そんなもの、私を女として生かそうとしているあの父が許すとは到底思えない。
「これからは淑女としてのマナーを学ぶようにとのことで教師の方も既に手配済みだそうです。こちらは明日からとなりますので本日はお召し物を仕立てる為街に行きましょうと、その、レイラン様が……」
「どうしてそうなった……」
レイラン。金髪の美しい女だ。昨日から新しい母になった今回の元凶である。
人柄はまだよく知らないが、昨日初めて顔を合わせた時のやたら綺麗な笑顔はなんだかゾッとする美しさだったのを覚えている。
私は多分、あの女が苦手だ。
「はぁ、あの人と買い物ってことはあいつもいるのか……?」
「あ、いえ、リオ坊ちゃんは旦那様がみていると」
「……へぇ」
私の面倒を見てくれたことなんて一度もないあの父が、息子の面倒を見ているだと?なんの冗談だ。そんなことができる人だったなんて、十年間同じ屋敷に暮らしていたのに知らなかったぞ。
「き、きっと!レイラン様とお嬢様のご親睦を深める為のお心遣いですよ!」
「……うん、そうだな。そう思っておくよ」
ミリアは優しいメイドだ。彼女がそう言うのならそうだと思えてくるから不思議である。
さて、気は乗らないがすっぽかすわけにもいくまい。早く支度をしなければ。
なんだかんだと街に行くのは私もこれが初めてだったりする。
貴族の子供は大抵十二歳から王都の学院に通うのだが、特別な理由がない限りは屋敷の周辺でそれまでを過ごす。習い事の教師は屋敷に直接招き、書庫があるので勉強するにも街に出る必要がないからだ。
服も今までは母が仕立て屋を屋敷に招いてくれていた。
「どんな格好で行ったらいいと思う?あまり貴族っぽくない方がいい、か?」
目立ってトラブルを呼び寄せても困る。ここはシンプルに装飾の少ないものがベストだと思うがどうだろう?とミリアを見ると、彼女は何やら両手を合わせて瞳をキラキラと輝かせていた。
「お任せください!」
そうしてあれよあれよという間に着替えさせられ送り出された私は今、レイランと向かい合って馬車に揺られている。
何を血迷ったのかミリアが選んで着せてくれたのは彼女が昔着ていたというワンピースだった。
使用人のお下がりで申し訳ないとミリアは言ったがそこは問題ない。問題なのは私がこんな服を着るのは産まれて初めてというところだ。動きにくいしスースーするしなんて落ち着かない服だろう!
「アリシエルさん、どうかされましたか?なんだか落ち着かないご様子ですけど」
「い、いえ、なんでもありません」
心配そうに少し首を傾けて尋ねてくるレイランの装いはどこからどう見ても貴族のご婦人といった感じである。今の私が横に並んでも仮にも親子だとは思われまい。
一応私の服を仕立てに行くという名目だったと思うのだが……私がこの人を母と思えないのと同じで、この人も私を娘とは思っていないんだろう。
「それより、レイラン様は街にお詳しいのですか?父上からは王都の生まれと聞いておりますが」
今から向かうのはシャンデンと言って王都とうちの屋敷を結ぶ直線上にある大きな街だ。
王都が近いとあって取り扱われている品の品質は高く貴族御用達の店も多いと聞く。レイランが贔屓にしている店があってもおかしくはない。
「いいえ、私は王都からほとんど出た事がないのであまり」
「そうですか……えっと、これから行くのはシャンデンでも一番と噂の仕立て屋なんですよ。店主と父上が親しくされていて、その伝手でいつもは屋敷まで来ていただいています。今回お店を訪問するのは初めてなので楽しみです」
「まぁ、アリシエルさんは旦那様の交友関係までお詳しいのですね」
「えっ……あ、まあ、それなりに……」
華麗に微笑んでいるように見えるが話が通じていないのか?
「えー……っと、そうだ、この街道。整備したのは父上のお祖父様。つまりはシファン家の初代当主様なのだそうです。当時この辺りは森が広がっていて魔物も多く生息していたそうで。そんな中自らが指揮を取って街道整備に当たられたとか。今では魔物の出現も滅多にありません。こうして安全に外出できるのも父上はもちろん先達の方々のおかげですね」
「アリシエルさんは旦那様をとても慕ってらっしゃるのね」
「そうですね……」
ダメだ会話が成立しない。
父はいったいこの人のどこに惹かれたんだろう?顔か?この華やかな見た目なのか?
一応貴族社会で育った女だ。そこそこ学もあるだろうし社交界のマナーも身につけているはずなのだが。嫁いで来た先の家のことにも関心を示さないのはどうなんだ。
何か裏があるのか、それとも私を嫌っているだけなのか……
「そういえば。今日のアリシエルさんは侍女のような装いなのね。髪が短いのが残念だわ。これではまるでわたくしが少年に女装をさせているみたい」
うん。きっと私が気に食わないだけだ。腹は立つが全くその通りだと自分でも思うので流しておこう。
「それは申し訳ありません」
「うふふ」
これで悪気がなかったら逆に怖い。
そんな終始ギスギスしていた旅路も一旦終わり、私たちはシャンデンの門を通過した。シファン家の家紋の入った馬車は当然のように素通りだ。
窓から見えた検問所、人の手で作られた街並み、活気あふれる人々の営み。本や資料を読んで知ってはいたけれど、こうして実際に見るとやはり違う。今回はあまり見て回れないだろうが興味を惹かれる店ばかりだ。近いうちに必ずまた来よう。
馬車はやがて広い道に出て停車した。
道を挟んで向こう側に見覚えのある仕立て屋のマークが見える。
いてもたってもいられずに先に馬車を降り、ザワザワとした街の空気にたまらず大きく深呼吸。屋敷の周辺は開けていていつも静かだからなんだか別の世界にでも来てしまったかのようだ。
「アリシエルさん、少しいいかしら」
うーん、一緒にいるのがこの女じゃなかったらなぁ!
「はい。どうかしましたか?」
「実は私、行ってみたいお店があったの。すぐに戻りますのでその間ここで待っていてくださらない?」
「えっ……それでしたら、こちらは一人でも問題ありませんのでその間に終わらせておきますが……?」
「いいえ!」
「ひぇ、」
ガシッと音がしそうなくらいの勢いで肩に手を置かれて思わず変な声が出てしまった。
この勢いはいったいなんなんだ?
何を企んでいる?
「私も是非ご一緒したいの。娘のドレス、この母に選ばせてくださいな」
周囲に花でも飛んでいそうな笑顔で言われても怖いだけだとこの女はわかっているんだろか?それともこんな見え見えの嘘に騙される子供だと思われているのか?
それより馬車の中とは全くの別人じゃないか!
「はは、いいじゃねぇですか。この人も早くお嬢様に認めてもらいたくて張り切ってるだけなんですよ」
しまったこっちだったか。
まんまと騙された御者には頭を抱えたくなりながら結局私は道端でしばらく一人佇んていることになったのだ。
いや、子供一人を初めて来た街の中に放り出しておくのはどうなんだろう。馬車もわざわざ迎えの時間を指定したレイランのせいで数時間は戻ってこないときた。なんだか出鼻をくじかれたようでガックリだ。
目的の店は目と鼻の先なんだぞ。せめて店の中で待たせてくれと言えばよかった。はぁ……
「これからどうなるんだろうな……」
レイランとのこのギスギスした関係とか。
急に現れ跡継ぎという役目を掻っ攫っていった弟のこととか。
話を聞いてくれない父とか。
女として生きていく自分のこととか。
考えることは山程あるのにどうにも考えたくない自分がいる。
母が死んで数ヶ月。まだ数ヶ月だ。これにだってまだ心の整理がついていない。
悲しいのかと言われればそうでもないというか、悲しむ時間すら無いというか。涙ひとつ流さない私を父はどう思っているのだろうな。
このまま流れに身を任せるだけでいいのか?
そんな疑問が溢れて消えないんだ。
だからただ、なんとなく。空を眺めながらふと思う。
何もかもを捨ててしまえたらいいのに。
そんな時。
「お嬢ちゃん、一人かい?」
ぼんやりとしていたところにぬっと現れたのは見知らぬ男だった。平均よりも背の低い私の倍以上はありそうな大男である。
その見るからに怪しい風体に瞬時に私は理解した。
あ、これ、やばいやつ。
「いえ、人を待っているところなんです。あ!来たみたいなので私はこれで!」
「逃げることはねぇだろぉ」
「ぐっ、」
走り出そうとしたところで襟首を掴まれた。咄嗟に脚を蹴り上げるが着慣れないワンピースのせいで威力が弱い。
「このっ……」
ならばと頭の中で術式を組み立て素早く手足に強化を施す。握力も腕力も脚力も普段より数倍増すので体の小さい私にはうってつけの魔術である。
まずは拘束から逃れること。次に距離を取って全力で逃げる。
しかし男の腕を掴み全力で力をかけてみても痛がるような声が聞こえるだけで解放される様子は微塵もなかった。
「くっそ……!」
「おいおい、これがほんとに貴族のお嬢様かぁ?」
「間違いねぇぜ。聞いてた目印のまんまだ」
男の後ろから更に新しい男の声。それもどうやら私が誰だかわかっているような口振りじゃないか。
これはまずい。本当にまずい。
あれ、そういえば。
ここはシャンデン。王都に近い大きな街。こんな街の大通りに人がいないわけがない。
ハッとして顔を上げるとそこには確かに人がいた。いたのだが……
(ダメだ……)
騒動に気付いている人たちがぽつりぽつりと立ち止まってこちらを見ている。だが、見ているだけだ。巻き込まれたくないのだろう。当然だ。誰もが自分や家族、近しい人間に危害が及ぶことが一番怖い。
(自分でなんとかしないと……)
どうやら強化魔術を使っても私はこの男に力では敵わない。ならば多少の自損覚悟でやれることはなんでもやるべきだ。
術式を組み立てろ。落ち着け。大丈夫。私には魔術がある。ずっと勉強してきたんだ。
お互い怪我はするだろうが何も殺すわけじゃない。
「おい、そろそろ」
「ああ。さて、お嬢ちゃん少し眠ってて――」
――今!
「うわぁぁぁ!!」
ドカンと大きな爆発音。直後に煙が立ち込め男の悲鳴が響き渡る。
吹き飛ばされた私はといえば、首に燃えるような痛みはあるが幸い意識もはっきりしている。
今頃私の襟首を掴んでいた男の腕は皮膚が爆発し燃え上がっているだろうが当然の報いだと思って欲しい。
あとはもう一度脚に強化の魔術をかけて逃げ切ればなんとか助かるはず。
と、思っていたのだけど。どうやら私は男たちを甘く見てしまっていたらしい。
いや、自分の力を過信していたと言うべきか。
「ッこのクソガキが!」
私が魔術を発動させるよりも早く繰り出された大人の男の容赦ない蹴りは、子供の体にはキツすぎた。
簡単に吹っ飛んだ体は建物にぶつかり、そこで私の意識は呆気なく途絶えたのだ。