06. 聖女の伝承と彼女の論理
夜明け前の、まだ青白い光が差し込む頃。
私は既に鏡に向かい、戦闘準備を始めていた。いつまでも引きずったままではいられない。勝負は、いつだって準備の段階で決まるのだから。
コンコン、と豪奢な自室の扉が、控えめにノックされる。
私が立ち上がるのと、ほぼ同時に扉が開かれ、彼───従者のルカが姿を現した。
彼は、寸分の狂いもない武装──完璧な「聖女のメイク」を施し、仁王立ちで迎え入れた私を見て、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの食えない笑みを浮かべた。
「おはようございます、ヒメ。お手伝いは必要なかったようですね。……よく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまでね」
ルカの呆れたような苦笑には構わず、私は本題を切り出す。
「それで、ルカ。今日の私のスケジュールは?」
「はい。本日も、このお部屋でごゆっくりと……」
「却下よ」
私は彼の言葉を、ぴしゃり、と遮った。その声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭い。
「理由もなしに従えないわ。あなたたちは、いったい何を隠しているの?『聖女の力』…そして『瘴気』について、あなたが知っていることを全て話しなさい」
私の真剣な眼差しに、ルカは少しだけ困ったように肩をすくめた。
「……残念ですが、我々にも詳しいことはわからないのです。古い伝承に、『聖女の願いが世界を救う』とあるだけでして。その伝承を記した文献が、王城の図書室最奥の『禁書庫』に…」
「文献!?禁書庫ですって!?なぜ、それを早く言わないの!」
「一般公開は、禁じられておりますので」
「一般!?私は聖女よ、関係者どころか、当事者だわ!すぐに持ってきて…いいえ、直接行くわ、案内しなさい!!」
◇◇◇
半ば強引にルカを伴い、私は薄暗い禁書庫へと足を踏み入れた。
埃と、乾いた羊皮紙の匂いが鼻をつく。
ルカがいかにも古そうな文献を慎重に読書台へ置くと、私は、緊張した面持ちでそのページをめくった。
古びた羊皮紙に記された、かすれた文字を読み解きながら、私の眉間に深い皺が刻まれていく。そこに書かれていたのは、あまりにも詩的で、曖昧な言葉の羅列だった。
『聖女の願いは、万民の心を照らす光なり。
その光は、人々の内に眠る、本来の輝きを引き出し、あるべき道へと導くだろう。
聖女よ、願いたまえ。ただ、ひたすらに、人々の幸福を。
神の奇跡の、その真髄は───他力本願と心得よ。』
「なによ、コレは…!!他力本願ですって…!? 私の辞書にはない言葉だわ!!!」
思わず、私は、叩きつけるように本を閉じた。
◇◇◇
部屋に戻った私は、敷き詰められた分厚い絨毯の上を、意味もなく行ったり来たりしていた。
(『聖女の願い』が民衆を導く…?馬鹿げているわ。まるで、集団催眠…カルト宗教のようじゃない…)
ここが、日本なら、そんな非科学的な考えは断固としてお断りだけど……。
だが、郷に入っては郷に従えだ。
聖女の祈りが、支援効果をもたらすというのは、物語やゲームではありがちな設定でもある。試す価値は、あるのかもしれない。
そこまで考えて、ふと、最悪の可能性が脳裏をよぎり、私の足がぴたりと止まった。
部屋の隅で静かにお茶の準備をしていたルカを、振り返る。
「…ねぇ、ルカ。もし……もしもよ。どんなに祈っても、何も起こらなかったら……どうなるのかしら」
私の声は、自分でも驚くほど弱々しく震えていた。
(何も起こらない可能性は高い。でも、それは…。私が『本物の聖女ではない』ことの証明ではないかしら。)
(化粧でそれらしく見せてるだけで、本当は、何の力もないってことがわかれば……私は、どうなるの…?)
昨夜の絶望が、再び鎌首をもたげる。俯いて、唇を噛みしめる私に、ルカは、カップに紅茶を注ぎながら、穏やかな声で答えた。
「うーん、そうですねぇ。きっと、大変なことになりますね」
彼は、少しも悪びれる様子なく、あっさりと頷く。私の絶望を煽るような返答に、思わず言葉を失った。
「……そう、よね」
「まず、ヒメは怒るでしょうね。それはもう、カンカンに。考えただけで、大変です」
私の前に、淹れたての紅茶が差し出される。戸惑う私の目を優しく見つめながら、彼は続ける。
「そして、こう言うのでは?『奇跡の定義が曖昧過ぎるわ!目標を言語化して、明確な指標を共有すべきよ!たとえば……』?」
「………たとえば…?……アンケートを取ったらどうかしら。定期的なエンゲージメントサーベイは、定性評価の基本だわ」
ルカの視線に促されるように言葉を続けると、彼はどこか嬉しそうに微笑んだ。その嫌味のない笑顔につられて、不本意ながらも、私の口元も綻んでしまう。
「……そうね。少し癪だけど。ルカ、あなたの言う通りだわ」
私は、一度、きつく目を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。もう、そこには、先ほどまでの弱々しい自分の姿はない。
「まずは、やってみましょう。その『お祈り』とやらを。失敗したら、その時はその時。次の手段を考えればいいことよ」
私はそう宣言すると、部屋の中央に座った。
もう一切の迷いはない。私の顔には、かつて「鉄の女」と呼ばれた頃の、冷徹で、だが、自身の成功を信じて疑わない愚直なまでの自信と情熱が漲っている。
私は、胸の前で両手を組むと、目を閉じて瞑想を始めた。
──そして、一時間後。
「……ダメだわ……全く効果がない……。……というか。『祈り』の定義って……。一体なんなのよ!?」
私は、カッと目を見開いて叫んだ。
「そもそも何に対して祈ればいいのよ!?明日天気になりますように!?王族の丸投げ癖が治りますように!?不毛すぎるわ!目的を明確化してちょうだい!」
私の剣幕に、ルカが肩をすくめて苦笑する。「ほら、やっぱり」とその目が言っている。
「理解したわ。聖女の力『他力本願』は、『発動しない』。この国の伝承は、アテにならない。少なくとも、私にとってはね。これが、結論よ」
「そのようですね。それで、ヒメは、どうなさるおつもりですか?」
ルカが穏やかに私に問いかける。私の顔からは、先ほどまでの焦燥は、嘘のように消え失せていた。代わりに浮かぶのは、不敵な笑みだ。
それは、聖女の慈愛に満ちた微笑みではない。困難なプロジェクトを前にして武者震いする、かつての「鉄の女」の顔だった。
「簡単よ」
私の口からこぼれたのは、凛とした、確信に満ちた声だった。
「『祈り』も『奇跡』も必要ない。大事なのは、プロセスじゃない。結果だわ」
それは、この『祈り』という非生産的な一時間が、皮肉にも私にもたらした、もう一つの結論だった。
「結果、と申しますと?」
「文献には、こうあったわ。『人々の内に眠る、本来の輝きを引き出し、あるべき道へと導く』と」
私の言葉の意味を測りかねて、ルカが不思議そうに首を傾げる。私は、彼の顔を挑むように見つめて続けた。
「これのどこが『祈り』なの? これは、目標設定と動機付けによる、パフォーマンスの最大化と同じ。要するに、やる気のない人々の能力を引き出して、仕事をさせればいいということよ!」
私は、自身たっぷりに言い切った。
ルカは、きょとん、と目を丸くした後、やがて、こらえきれないといったように、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「……『祈り』の代わりに『人材育成』、ですか。それは、また…。斬新ですね」
その面白がるような口調には構わず、私はきっぱりと言う。
「悪いけど、お祈りなんて趣味じゃないもの。人材育成なら、経験も実績も、なんならインストラクターの資格だって持ってる。専門分野よ。私は、私のやり方でやらせてもらうわ」
私の、いたって真剣な宣言に、ルカはとうとう声を上げて笑い出した。
彼は、存外、笑いの沸点が低いのかもしれない。私は、呆れ混じりの口調で言った。
「いつまで笑っているつもり?わかったのなら、手伝いなさい。やることが山積みよ」
私は、くるりと彼に背を向けると、この国に関する資料をピックアップするべく書棚を物色し始めた。
「まずは、この国の問題と目的を明確にする必要がある。ルカ、あなたは、現状の組織課題と、主要人物をリストアップしてちょうだい。その中から対象を絞って、ヒアリングを行うわ」
そんな私の背中に、さきほどとは打って変わって、真剣な声がかけられた。
「かしこまりました」
振り返ると、そこには、いつもの食えない笑みを浮かべた、そつのない従者の顔があった。
「───僕にお任せを、ヒメ。 全て、貴女の望むままに」
芝居がかった、わざとらしい宣言。
だが、その瞳には揶揄うような色など一切なく、代わりに、心からの賞賛と、最高に面白いものを見つけた子供のような輝きが宿っていた。




