36. 恋の始まりと最終決戦
ルカが去っていった扉が、無情に閉じられる。
王城の、豪奢な聖女の私室に訪れた静寂が、やけに耳に痛かった。
私は、ただ呆然とその扉を見つめていた。伸ばしかけた手が、行き場をなくして宙を彷徨う。 頭が、働かない。
(……ルカ……嘘、でしょう………?)
これまで、どんな困難なプロジェクトでも、思考が停止することなどなかった。しかし、今、私の頭の中は真っ白だ。胸の奥に、これまで感じたことのない、冷たくて重い空洞が広がっていく。
プロジェクトが頓挫した時の焦燥感とは違う。理不尽な顧客に罵倒された時の屈辱とも違う。もっと、心臓を直接握りつぶされるような、鈍い痛み。
(──彼がいなくなったら……仕事は、どうなるかしら…)
私の無茶なスケジュール管理は?
深夜まで続く議論に、文句ひとつ言わずに付き合ってくれる相手は?
たった一度の目配せで、私の意図を完璧に汲み取ってくれるパートナーは?
後任の侍女に、それができるはずもない。絶望的な想いにかられる。
でも、それよりも。
『───聖女様』
最後に、彼がそう呼んだ声が。温度のない冷たい響きが、耳を付いて離れなかった。
どんなに頭から追い出そうとしても、繰り返し、繰り返し再生される。
じわり、と目の奥が熱くなった。
(……胸が、苦しくて、痛い……。……これは……切ない、というのかしら……)
その感情に名前をつけた瞬間。
私は、自分がルカに対して抱いていた気持ちの正体に、気づいてしまった。
(──── これは、『恋』だわ )
私は、ルカに、恋をしている。
いつからかなのは、わからない。
だって、いつも当然のように、彼は傍にいてくれたから。
いなくなるなどとは、欠片も思ってはいなかったから。
あまりにも遅い自覚だった。そして、自覚した瞬間に、それは終わってしまった。
「ああ、もう……。どうしたらいいのよ…」
か細い声が、誰に言うでもなく漏れる。
──とにかく、落ち着きこう。今日のタスクをこなさなくては。
私は、まとまらない頭を抱えたまま、執務机に向かった。
◇
(ダメだわ……!!)
机の上に広げられた、山のような改革案の書類。
いつもなら、数時間で完璧に捌ききってみせるはずのタスクだ。
しかし、文字が、全く頭に入ってこない。
彼の声が、彼の瞳が、彼の不在が、私の思考を支配する。
集中できない。
これでは、仕事にならない。
私は、ペンを叩きつけるように置いて、天井を仰いだ。
(……優先度の、見直しが必要だわ)
問題は、仕事が手につかないことでも、ルカがいないことでもない。
この気持ちが、消化不良のまま放置されていることだ。
この問題をクローズしない限り、仕事も国も、そして私自身も、前には進めないだろう。
───恋愛。
それは、言うまでもなく、私の人生において最も縁遠く、最も不得意な分野だ。
現実で親密な関係になった男性など、いるはずもない。あるのは恋愛小説の中の知識ばかりだ。
混乱する頭で、私は必死に頭のデータベースを検索する。
これまで浴びるほど読み漁ってきた、数多の恋愛小説の知識を。
だが、何も思い浮かばなかった。
─── 彼は、どういう人間なのだろう?
それを教えてくれる有能な助手は、もういない。
─── 彼を魅了する言葉は?行動は?どうやって振る舞えばいい?
親身に、そして少し意地悪くレクチャーしてくれる指導役も、もういなかった。
つまり、攻略法が見つからない。
見つかったとしても、実行に移すのは不可能だった。
「───ああ、もう!面倒だわ!」
私は、開き直ったように、力強く呟いた。
この異世界にきて以来ずっと、うすうす、感じていたことだ。
可愛らしいヒロインを演じるなんて、柄じゃない。
小手先の駆け引きなんて、性に合わない。
分からないなら、本人に直接問えばいい。
言ってもダメなら、論破してでもねじ伏せればいい。
それこそが、「鉄の女」と呼ばれた、私の──瀬良姫乃のやり方だ。
私は、固い決意をその瞳に宿し、ルカを探すため、部屋を飛び出した。
◇
王城の、大理石でできた長い廊下を、私は、ヒールの音も荒々しく突き進む。
計画なんてない。ただ、感情のままにだ。
あちらこちらを駆け回って、ルカの居場所を聞いてまわる。
そして、ちょうど部屋から出てきたルカに全速力で駆け寄り、その腕を、力任せに掴んだ。
「捕まえたわよ、ルカ!」
「セーラ様……」
「あなたは私の専属侍従でしょう!?今さらやめるなんて、私が許さないわ!」
子供じみた感情論だと、自分でも分かっている。それでも、今の私には、この憤りをそのまま彼にをぶつけることしかできなかった。
だが、そんな私の訴えを、ルカは、表情一つ変えずに見下ろしている。
そして、私の手を丁寧な所作で、しかし有無を言わさぬ力で引きはがすと、完璧な貴族の所作で、一歩だけ距離を取った。
まるで、二人の間に決して越えられない、透明な壁を築くかのように。
「聖女様。私はもう、貴女の従者ではございません。アッシュフィールド家の次期当主です」
その声は、私が知るルカのものとは似ても似つかない、冷徹で他人行儀な響きを持っていた。
「公私混同は、おやめください」
ぐうの音も出ない、とはこのことだ。今の私は、完全に私情だけで動いている。
彼の正論の前に、私の感情論は、あまりにも無力だった。
──でも、それにしたって。
(…『公私混同』?私と、ルカの、これまでの関係も……『ビジネス』だったって言いたいの!? )
思わず、俯き、唇をきつく噛み締める。
怒りと悔しさ、そして強い悲しみが、体の中を走り抜け、じわりと視界が揺らいだ。
しかし、涙はこぼれなかった。
次の瞬間には、胸の奥から燃え盛る、黒い闘志の炎に焼き尽くされたからだ。
「………そう。わかったわ」
私は、俯いたまま、固く、冷たい声で呟いた。
そして一度、深く息を吸って、ゆっくりと顔を上げる。
「なら、ここから先は……」
顔には、意図的に作った、優美で繊細な『聖女』の微笑みを浮かべる。
しかし、この瞳には──。
抑えようもない、『鉄の女』としての、好戦的な光が輝いている。
「『国家利益』のお話をいたしましょうか。───ルカ・アッシュフィールド様」
私の言葉に、ルカの眉が、初めてぴくりと動いた。




