35. SIDE:L / 奇跡の覚醒と恋の終わり
朝の柔らかな光が、寝室を薄く照らし始めている。
ルカは、音を立てないように、ゆっくりと窓辺に近づくと、厚手のカーテンをわずかに引いた。
一筋の光が、ベッドの上で眠る姫乃の頬に射し込む。その眩しさに、彼女が小さく身じろぎ、寝返りをうった。
その、無防備な姿に、ルカは思わず足を止め、しばらくの間、彼女の寝顔を見つめた。
流石に今朝は、一人では起きられなかったようだ。
だが、無理もない。連日連夜のように、国の重鎮たちと遅くまで熱心に議論を交わしているのだから。
その寝顔は、彼が初めて会った頃の、ただの気の強い女性のものとは、まるで違って見えた。
一人で全てを背負い込もうとしていた彼女が、いつしか人を頼り、人の力を信じ、そして、人を導くことを覚えた。
ゲイルも、ゼノンも、アルマンドでさえ、今や、誰もが彼女の言葉を指針とし、その示す未来へと突き進んでいる。
彼女は、神に与えられた奇跡の力ではなく、彼女自身の「スキル」と「戦略」で、この国を救ったのだ。
(……もう、僕が教えることは何もない)
誇らしさと、ほんの少しの寂しさが、彼の胸をよぎる。
潮時か、と彼は小さく息を吐くと、ベッドサイドへと歩み寄った。
「ヒメ。朝ですよ」
声をかけ、ベッドに近づく。
揺り起こそうと、彼女の肩に触れようとした瞬間──。
その指先を、寸前で止めた。
彼女を包む空気に、微かな違和感を覚えたからだ。
柔らかな、しかしどこまでも純粋で、神聖なマナの気配。
それは、これまで彼女からは一度も感じたことのない……彼女の言葉をかりるなら『華』ともいうべき、オーラだった。
「ん……ルカ?…………いま、何時…?」
寝ぼけ眼で身を起こした彼女を見て、ルカの直感は確信に変わった。
心臓が強く脈打っている。かつて、聖女に仕えたというアッシュフィールドの血が、その発現を歓迎しているかのように。
間違いない。これは──聖女の力の、発現だ。
(なぜ、今になって……? いや、違う。今だからこそ、か……!)
「……ルカ?……どうしたの、そんな真剣な顔して」
「ヒメ。お祈りを」
その声は、自分でも驚くほど、切羽詰まった響きを帯びていた。いつもの余裕など、どこにもない。
姫乃の眉が、怪訝そうにひそめられる。
「なによ、朝から…。祈りってなに?」
「『聖女の祈り』ですよ。試してください。どうか」
「……はあ?意味がわからないのだけれど。大体、何を祈ればいいのよ?」
「何でもいいんです!天気でも何でも!」
彼の必死の形相に、彼女は怪訝な顔をしながらもやれやれと肩をすくめた。
「そうねぇ…」と、少し考えるように視線を彷徨させ、すぐに何やら悪戯っぽい顔つきになった。
「ルカの心配性が軽減されますように!」
言いながら、その両手を合わせた、その瞬間──。
彼女の体が、淡い光に包まれた。
春の陽光のように、どこまでも優しく温かい光が、じわりと広がって、部屋中を隅々まで満たしていく。
その光に包まれながら、先ほど感じていた強い焦燥感が、瞬く間に落ち着いていくのを、ルカは肌で感じていた。
「……え…?な、なによ、これ…」
呆然と、自らの光る手を見つめる姫乃。
その姿を前に、ルカは、全てのピースが嵌ってしまったことを、絶望的な確信と共に悟った。
「『聖女の力』です」
彼の声は、ひどく、落ち着いていた。
反対に、姫乃の顔が、驚きと、そして困惑の色に染まっていく。
「聖女の力……?……今ごろ?なんで?」
「あの文献の記載を覚えていますか?聖女の力の神髄は、『他力本願』にあると。───それは、誰かに寄りかかるための力ではありません。心の底から他者の力を信じ、頼り、それを束ねることができる者にのみ宿る『奇跡』の力」
ルカの言葉に、姫乃の眉が、ますます困惑に歪む。その疑問に答えるように、ルカは続けた。
「安易な奇跡に頼らず、自らの力で乗り越えたからこそ、貴女は奇跡の力を得た───ということなのでしょう」
「……そ、そう…。それは……なんというか、随分と、哲学的なのね。『卵が先か鶏が先か』じゃないの」
そんな、どこか場違いなほどに、暢気な彼女の声が部屋に響く。
──確定だ。彼女は、王子と結ばれ、この国を導く国母となる。
それが、この国の伝承であり、アッシュフィールドの宿願であり。……そして、王子と、彼女自身の望みでもある。
『聖女』であることが誰の目にも明らかである以上、無駄に引き延ばすことはできず─── 僕の入る隙も、ない。
ルカは、一度、きつく目を閉じた。
そして、再び目を開いた時、彼の顔からは、親しみの色が完全に消え失せていた。
「まあ、別になんでもいいわよ。それより、お腹がすいたわ。ルカ、今日の朝食は…」
ゆっくりと、彼女から一歩下がる。
そして、アッシュフィールド家の嫡男として教え込まれた、完璧な貴族作法で、優雅に、恭しく、膝をついた。
「ヒメ。……いいえ、セーラ様。『聖女の力』の御発現、心よりお慶び申し上げます」
その他人行儀な言葉に、姫乃が目を見開く。
「ルカ…?なによ、その言い方……」
「………貴女に、私の本当の名前を告げたことは、ありませんでしたね」
彼の、あまりに冷たい声に、姫乃がびくりと肩を震わせる。
「私の名は、ルカ・アッシュフィールドと申します。ヴォルテール家と双璧をなす、アッシュフィールド家の嫡子、それが私にございます」
姫乃の瞳が、驚きに見開かれる。彼は、構わずに言葉を続けた。
「聖女様を正しく導き、王家と結びつけること。それが、我が一族に課せられた、古来からの使命。───これで、私の一族の役目は、全て終わりました」
「ルカ?何を、言って…」
「……私の後任には、優秀な侍女を選んでおきますので、ご安心を」
「ちょっと、待ちなさいよ!勝手に話を…」
姫乃の声を、彼は、無情な言葉で遮った。
「その御力は、まさしく、王子殿下の救いとなりましょう。あなたは、伝承通りの……いいえ、それ以上の、聖女です。短い間でしたか、貴女にお仕えできたことを、心より誇りに思います」
「ルカ!いい加減に……!」
姫乃が掴みかかろうと手を伸ばす。
それを、彼は、まるで舞踏でも踊るかのように、優雅な所作でそっとかわした。
彼女の手が、虚しく宙を切る。
「これ以上は、野暮というものです。……聖女様」
そのまま背を向けて、ルカは部屋を後にした。
彼女が名前を呼ぶ声が聞こえたが、もう、彼が振り返ることはなかった。




