02. 不快で理想の異世界ライフ
「私の名はセイリオス。この国の王子です。聖女様、貴女のお名前をお伺いしても?」
王子に優しく問われ、私は反射的に答えようとした。
しかし、言葉が喉でつかえる。
(――私の、名前……。瀬良、姫乃……?)
ふと、視界に入った自分の手。
そこにあるのは、仕事でペンだこができ、節くれだった私の手ではなかった。雪のように白く、触れれば折れてしまいそうなほど華奢な指。腕を覆うのも、プレゼン用に新調したダークスーツではない。柔らかく優美な純白のドレスの袖が、細い手首を飾っている。
まさか。
まさか、本当に――?
反射的に、水鏡のように磨かれた床に視線を落とす。
そこに映っていたのは、見慣れた地味な自分でも、一週間かけて作り上げた「完璧美女」でもなかった。
色素の薄い、ふわふわした亜麻色の髪。
頼りなげに潤んだ、大きな瞳。
守ってあげたいと思わせる、儚げな雰囲気。
それは、私が心のどこかで「こうなれたら」と願っていた、愛嬌だけで世の中を渡っていける、『清純派美少女』そのものの姿だった。
バーで自嘲気味に呟いた、あの願い。
『生まれ変われるなら、あかりみたいな子に……』
(……本当に、生まれ変わったんだわ、私!)
異世界に来てしまったという衝撃よりも、手に入れた新しい自分の姿への驚きと、そして歓喜が上回った。
これよ! この顔! この圧倒的なまでの『華』!
これこそが、私が喉から手が出るほど欲しかった、最強の武器…!
「聖女様?」
私の反応がないことを不思議に思ったのか、王子が心配そうに顔を覗き込む。その声で、私は思考の海から引き戻された。
そうだ、今は感傷に浸っている場合じゃない。状況を把握し、最適解を導き出さなくては。
私はゆっくりと顔を上げ、想像しうる限りの、最も可憐な微笑みを作って見せた。
「……セーラ、と申します」
咄嗟に、自分の苗字「瀬良」を、この世界の雰囲気に合わせて言い換える。うん、可憐な響きね。完璧な判断だわ!
「セーラ様……あなたにふさわしい、美しいお名前だ」
王子はうっとりとそう言うと、私の手を取り、優雅に立ち上がらせた。視点が思ったよりも低い。けれど、そんな些細なことは、もはや問題ではなかった。
内心で、私は勝利のガッツポーズを決める。
現実世界では失敗したけれど、この顔があれば、この世界ではうまくやれる。ううん、うまくやるどころじゃない。この最強の武器を使いこなし、私の価値を、今度こそ世界に認めさせてやるわ!
私の心には、かつてないほどの自信と野望が燃え上がっていた。私の決意に満ちた沈黙を、戸惑いと受け取ったのか、王子は私に労わるように声を掛けた。
「長旅でお疲れでしょう。込み入った話は後程にして、まずは休息を」
そう言うと、王子は控えていた一人の青年に鋭い視線を向けた。
「ルカ。お前を聖女様の専属従者とする。常に傍を離れず、身の回り一切の世話をせよ。…まずは、彼女をお部屋へ案内して差し上げろ」
「御意に」
ルカと呼ばれた青年は、感情の読めない声で短くそう答えると、私に向き直った。
彼は、他の者たちのように熱狂的な目を向けるのではなく、一歩引いた場所から、冷静に私を観察するような視線を送っていた。その瞳に、私は値踏みされているような居心地の悪さを覚えた。
◇◇◇
ルカに案内され、私のために誂えられたという自室へと続く長い廊下を歩いていく。
(広い…。おとぎ話のように壮麗なお城……。けれど、なぜわざわざ異世界から人間を呼び出すなんて、大掛かりなことを……?)
城の内装や、そこに行き交う人々を観察しながら、私は思考を巡らせる。
私が現実世界で読み漁っていた数々の物語では、『聖女召喚』は国が存亡の危機に瀕した時の、最後の切り札として描かれるのが定石だ。
(魔王の復活、蔓延する原因不明の疫病、枯れていく大地……。きっと、この国も何か重大な問題を抱えているはず)
彼らは私に、この世界の『何か』を解決させるために召喚した。ならば、私の役割は明確。提示された課題を完璧にこなし、成果を出すこと。それが、この世界で私が自分の価値を証明する、最初の仕事になるはずだ。
そう結論づけたところで、ちょうど白亜の大きな扉の前にたどり着いた。ここが、私の私室らしい。
部屋に通され、二人きりになったタイミングを見計らい、私は早速、目の前の青年に向き直った。腕を組んで、真っすぐに彼の瞳を見据える。
「ルカ、と言ったわね。早速だけど、聖女業務について聞かせてちょうだい。その目的と目標は何?この世界の現状の課題と、それに対する私の役割は?私は、いつまでに何を達成すればいいのかしら?」
私の言葉に、ルカは一瞬きょとんとした後、面白そうに口の端を上げた。
「何を仰います。聖女様の役割は、ただ一つ。このお部屋で、健やかにお過ごしいただくことです」
「……はあ?」
予想外の答えに、私の思考は完全に停止した。
私の反応を、どう受け取ったのだろうか。ルカは人を食ったような笑みを浮かべたまま、芝居がかった仕草で、恭しく手を差し出した。
「さあさあ、そんな難しい顔をなさらずに、セーラ様。可愛らしいお顔が台無しですよ」
――カチン。
頭の中で、何かが切れる音がした。
それは、理屈ではなかった。優しい声音。気遣うような言葉。だが、その一つ一つが、なぜだか私の神経をやすりで削るように逆撫でしたのだ。
ルカは私の苛立ちに気づかないのか、あるいは気づかぬふりをしているのか、優雅な手つきでお茶の準備を始める。
「お茶をご用意しましょう。お好みはございますか?」
「……なんでもいいわ」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
差し出されたティーカップを、無言で受け取る。白く華奢な指先に伝わる、上質な陶器の温かさ。薫り高いお茶を一口含む。けれど、その優雅な味わいとは裏腹に、私の中で渦巻く苛立ちは、ますますその勢いを増していくようだった。
(おかしい。何かが、おかしいわ!)
望み通りの可憐な容姿。うっとりと自分を見つめる王子様。丁寧に世話を焼いてくれる従者。
全て、私が物語の中に夢見た、理想の世界のはず。
(何かしら、この不快感…!これは、私の求めた理想の異世界ライフのはずよ。それが何故!?初手から破綻してるじゃないの…!)
この時の私は、自分のことで精一杯だった。
目の前の従者が、最高に面白い見世物でも見るような目で、私を生温かく見守っていたことなど、知る由もなかった。