表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/7

01. 完璧すぎた女は生まれ変わりたい


私の名前は、瀬良姫乃せらひめの、28歳。

大手商社の営業部で、「鉄の女」という、ちっともありがたくない異名で呼ばれている。


「瀬良さん、今、メールを送ったんだけど…。ちょっと急いでて、明日までにお願いできる?」


申し訳なさそうに声をかけてきた同僚に、私は、PCの画面から目を離すことなく無感動に答える。

「確認済みです。今日の14時に提出します」


簡単なデータ分析だ。作業時間はせいぜい数十分。私の即答に、彼は「そ、そう……さすが。ありがとう」と呟き、頭を掻きながら自席に戻っていった。


そのやりとりを耳にしていたのか、周囲の温度が冷えわたる。シンと静まり返ったオフィスにキーボードの音を響かせながら、私は確信した。「鉄の女」から「鋼の女」への格上げは、そう遠くないだろう。


ダークスーツにひっつめ髪。色気も華やかさも皆無。けれど、それで良かった。この会社で女性がのし上がるには、男以上に仕事ができて当たり前だ。ここは、数字という絶対的な結果が全ての戦場なのだから。


そして、定時よりも少し前、必要なすべてのタスクを終わらせた私は、翌日のスケジュールを確認すると席を立った。



仕事帰りに立ち寄る、いつもの書店。

ビジネス書のコーナーを素通りし、足早に向かうのは文芸書の、さらに奥まった一角だ。人目を忍んで一冊の本を手に取る。


『地味な私が、魔法で完璧な淑女を演じたら、氷の皇帝陛下に求婚されました』


――異世界恋愛小説。それは、今の私の唯一の癒しだった。


本をパラパラとめくって斜め読みする。地味なヒロインが、完璧な淑女へと変身して、自らの居場所と皇帝の心を手に入れる。なんとも王道のシンデレラストーリーだ。


(見た目を変えるだけで、こんなにも世界が変わるなんて……)


フィクションだからよ、と頭では分かっているのに、どうしても考えてしまう。

「……私にも、こんな魔法が使えたら。なんてね」

小さなため息と共に自嘲気味に笑い、私は購入した本を鞄にしまい、現実へと帰っていった。




「あ、姫乃! おつかれー!」


不意にかけられた明るい声に顔を向けると、人目を惹く華やかな容姿の女性が立っていた。

同期の椎名あかりだ。

ふわりと巻かれた髪に、華やかなパステルカラーのワンピース。彼女が笑うと、その場の空気がぱっと明るくなる。成績は私に遠く及ばないくせに、上司にも取引先にも可愛がられ、いつだって人の輪の中心にいる。


「あかり。お疲れ様」

「本を買ってたの?……わかった!また、難しいビジネス書でしょー?」

「ご名答。今度、貸してあげましょうか?」

「ええー。私にはムリだよー」


愛らしく笑って首を振る彼女。理解はできないが、責めるつもりもない。

私とは、根底から違う、別の世界の生き物。今までもこれからも、同じレールにも、土俵にも乗ることはないだろう。



この時の私は、単純に。


……そう、考えていた。




◇◇◇




「――というわけで、新設される営業一課の課長だが」


部長室に呼び出された私に、上司は切り出した。初の女性課長ポスト。その最有力候補として、私が推薦されているという。


(やったわ……!やっと、私の実力が認められた……!)


込み上げる達成感に、思わず拳を握りしめる。だが、部長は言いにくそうに続けた。


「まあ、候補は、君と……椎名の二人だがな」

「――え?」


なぜ?

実績なら、私が圧倒的に上のはず。なのに、なぜ彼女が?


私の完璧なポーカーフェイスが、わずかに揺らいだのを、部長は見透かすように見つめていた。



その日から、私の心はささくれ立っていた。

そして、決定的な出来事が起こる。給湯室でコーヒーを淹れていると、同僚たちの会話が聞こえてきたのだ。


「次の課長、瀬良さんか椎名さんらしいぜ」

「実績なら瀬良さんだけど、やっぱ課長にするなら『華』がある方がいいよなー」

「だよなー。椎名さんがいるだけで場が明るくなるし、取引先ウケもいいし。社長のお気に入りだしな!」


――華。


そのたった一文字が、ハンマーのように私の頭を殴りつけた。

私の努力は? 私が積み上げてきた実績は、「華」という、たった一言で覆されてしまう程度のものだったというの?


怒りと悔しさが、体の中を走り抜け、一瞬だけ、じわりと視界が揺らいだ。

しかし、それはすぐに、燃え盛るような黒い闘志に置き換わる。



「――わかったわ。そこまで言うなら……。私の『魔法』を、見せてあげようじゃない!!」


その週末、私の部屋はコスメの戦場と化した。

ドラッグストアで買い込んだ大量の化粧品を前に、私はYouTubeの「華やか女優風♡メイク動画」とにらめっこしていた。


現実に『魔法』は存在しない。頼れるのは、自分自身のスキルだけ。幸い、おひとり様の私には、自由と潤沢に使える資金がある。しかし、肝心のメイクのスキルは…。前途多難だった。


「『サッとひと塗り』…!?曖昧すぎるわ!定量的な指標はないの!?」


塗りたくったファンデーションは能面のように白くなり、ビューラーでまぶたを挟んでは悶絶する。ようやく描き上げた左右のアイラインは、絶望的なまでに歪んでいた。


だが、そのくらいの失敗は想定内だ。描いては消し、スマホで撮影しては動画のスクリーンショットと比較する。そうして、ひたすら反復練習を繰り返すうちに、私のスキルは格段に向上していった。



「……この動画を再現するには…アイラインの跳ね上げ角度は、左右対称ではないわ。右より左が0.5度鋭角…!このミリ単位の差が、全体の印象を決定づける……!」


それは、もはや他人には判別不能なレベルの差かもしれない。しかし、私にとっては致命的な欠陥だった。クレンジングオイルを染み込ませた綿棒を握りしめ、私は鏡の中の自分に宣告する。


「最初から、全部やり直しよ!」



その後も、土日は一歩も外へ出ず、平日も深夜までメイクの練習に精を出し…。

そして、一週間後。試行錯誤の末、鏡の中にようやく現れたのは、完璧なメイクを施した、見知らぬ美女だった。


「……すごい。まるで別人、詐欺レベルね……!『完璧』だわ……!!」



そして勝負の日。

私がオフィスに足を踏み入れた瞬間、空気が凍りついた。完璧な巻き髪、華やかなワンピース、そして計算され尽くした優雅な微笑み。


「おはようございます」


凛とクリアに通る声は、ボイストレーニング教室の賜物だ。

誰もが息を呑んで私を見ている。付け焼刃ではあるが、総額20万もかけた甲斐があったというものだ。


「え?あ、あの…あなたは……?」

「ふふ。何を言っているんです?私は、瀬良姫乃。あなたの同僚です」


計画通り。そう、全ては計画通りのはずだった。




◇◇◇




「すまない、瀬良……。今回の課長昇進は、椎名に決まった」


数日後、自信に満ちた表情で参上した私に、部長は言いづらそうに告げた。時が、止まった。


「なぜですか!?私のプレゼンは……完璧だったはずです!」


食い下がる私に、部長は申し訳なさそうに言った。


「ああ、完璧だった。いや、完璧すぎた」


「役員たちの評価は、満場一致で……『扱いにくい。威圧感がある』ということだった。君の強みであるはずの真面目さや堅実さが、その見た目の豪奢さで、完全に消えてしまっていたんだ……正直、私も、君をどう指導したらいいのか…。とにかく、今は下がってくれ」



頭が真っ白になった。


その夜、私は一人バーのカウンターでやけ酒を煽っていた。グラスに映る「完璧な美女」の顔が、今はひどく憎らしい。


私の努力って、何だったの?

完璧であることの何が悪いの?結局、女は可愛らしさが全てなの?

こんな自分、もう嫌だ。


「ああ、もう……」


グラスの中のウイスキーが、ぐらりと揺れる。


「生まれ変われるなら、愛嬌だけで世の中を渡っていける、あかりみたいな子に……」


祈るように、自嘲するように呟いた、その瞬間。


――パリンッ。


視界が、何も見えなくなるほどの白い光に、暴力的に塗りつぶされた。

意識が遠のく。最後に聞こえたのは、グラスが床に落ちて割れる音だけだった。




◇◇◇




どれくらい時間が経ったのだろう。


意識が浮上すると同時に、硬く冷たい石の感触と、誰かのひそやかな声が耳に届いた。


「……成功だ……聖女様が、本当にお越しくださった……」


ゆっくりと目を開ける。

最初に視界に飛び込んできたのは、床に描かれた巨大で複雑な紋様だった。それは淡い光を放っており、自分がその中心に立っていることを理解するのに、数秒かかった。


(なに、これ……魔法陣……? まるで、小説みたい……)


顔を上げると、周囲を取り囲んでいた人々が一斉に息を呑むのがわかった。


見れば、揃いも揃って、いつも読んでいる恋愛小説の挿絵から抜け出してきたような、とんでもないイケメンばかり。きらびやかな鎧をまとった騎士、知的な眼鏡をかけた宰相らしき男、ミステリアスな雰囲気の魔術師……。


彼らが、私に向かって一斉にひざまずく。


戸惑う私の前に、人垣の中から一人の青年が進み出た。

陽の光を溶かしたような金髪に、空を映したような青い瞳。まさしく「王子様」としか形容できない青年が、私の前で跪くと、恭しく手を取った。


その手に、驚くほど熱がこもっている。その熱と、手の大きさにドキリと胸が高鳴る。


王子は私の手の甲に、祈るようにそっと唇を寄せた。


(…手の甲に、キス…? まるで、私が毎晩読んでいる、恋愛小説のワンシーンみたい)


自分の身に起きている出来事なのに、どこか他人事のように、冷静に分析している自分がいる。

これは、夢? それとも、やけ酒が見せた、現実逃避の幻覚…?



「――ようこそお越しくださいました、麗しの聖女様」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ