09. あざとい聖女の作り方
自室に戻るなり、私は自室の重い扉を叩きつけるように閉めた。
ゴッ、と鈍い衝撃音が廊下に響き渡る。
「………なんなのよ、あれはッ!!」
とうとう、堪えきれずに、叫び声が漏れた。
そして、分厚い絨毯の上を、まるで檻の中の獣のように行ったり来たりしながら、私は怒りに任せて言葉をまくし立てる。
「『兵の士気が乱れる』ですって!?『貴女にご心配いただくことではない』!?その士気が、もう何年も前から看過できないほど落ち込んでるから、こうしてわざわざ改善案を持っていってあげたのでしょう!?」
脳裏に、あの石頭の騎士団長の顔がこびりついて離れない。
私を無力な子供のように見下す、あの憐れみの眼差し。慮るふりをして、厄介払いしようとする、上辺だけの言葉。
「それに、あの騎士たちの反応も…!あの筋肉自慢は、いったいなんなの!?私の話と、まるで関係ないじゃない!聞く価値もないとでも言いたいの!?」
そして、挙句の果てには、出入り禁止ときた。
「何が『男の戦場』よ…!前時代的にも程があるわ!組織として完全に終わってるじゃないの!!」
「まあまあ、ヒメ。まずは落ち着いてください」
場違いなほどに涼しい声に振り返れば、私の怒りなどどこ吹く風。いつもと変わらぬ様子で、ルカがお茶の準備を始めていた。その悠然とした態度が、燃え盛る私の怒りに、さらに油を注ぐ。
「何を言っているの!?落ち着いてなんか、いられるものですか!」
ルカが優雅な手つきでカップにお茶を注ぐのを見て、私の苛立ちは最高潮になる。落ち着きなく歩き回っていた足を止め、完璧な仕事を続ける従者を睨みつけた。
「ルカ!あなたこそ、少しは怒ったらどうなのよ!?私の…いえ、私たちの分析と戦略、そしてプレゼンテーション。すべてが、『完璧』だったじゃない!この扱いがどんなに不当か、あなただって、わかっているでしょう!?」
それなのに、結果は門前払いだなんて。こんな屈辱、初めてだ。
そう思った瞬間、ふいに元の世界での記憶が頭を過った。
女だからと侮るような視線。どれだけ成果を上げても、どこか値踏みされるような感覚。
次の瞬間には、怒りの熱がすうっと引き、代わりに氷のような絶望が胸に広がっていた。
「……ねぇ、ルカ。何がいけなかったというの?……まさか……私が、女だから……?」
か細く震えた最後の言葉は、ほとんど独り言のように、静かな部屋に落ちた。
───カチャリ。
それまで優雅にお茶を注いでいた彼の手が、唐突に止まった。
カップを置く音と、不意に訪れた静寂。私は息を呑んで顔を上げた。
そこにいたのは、私の知らないルカだった。
いつも浮かべている食えない笑みを消し去り、その瞳に真摯な、どこか痛ましげな光を宿して、俯く私を真っすぐに射抜いている。
「……ええ。そうでしょうね」
彼は、静かに、しかしはっきりと告げた。
「ヒメの仰る通りです。彼らが貴女を遠ざけた理由。それは、貴女が女性だからでしょう」
「……っ!」
私は、その言葉に小さく息を飲んだ。
きっと否定してくれるだろう。どこかで、そう期待していた。甘えていたのだ。
途端に、自分がひどく情けなく思えてきて、強く唇を噛み締める。ルカは、少し困ったように瞳を揺らして、私の隣に膝をついた。
「すみません。僕の言い方が悪かったですね。どうか、彼らを……貴女自身を、責めないであげてください。決して、悪い意味ではないのですから」
彼の指が、そっと伸ばされ、少し血の滲んだ私の唇を、労わるように優しくなぞる。その予期せぬ仕草に、優しく細められた瞳に、心臓が小さく跳ねた。
「彼らにとって、聖女様は守るべき至宝。美しく、可憐で、いたいけで……そんな貴女を、自分たちの戦場──野蛮で危険な領域に関わらせたくない。無意識に、そう判断してしまったのでしょう。一種の、古風で厄介な騎士道精神というやつですね」
「…でも。あんなに、完璧に準備して……」
「ええ。それも、一因ですね。貴女は、完璧でした。それはもう……度が過ぎる程に」
「……どういうこと?」
「貴女は、『完璧』な聖女の仮面を被り、非の打ち所がない『完璧』なプレゼンをやり切りました。完璧な見た目と、完璧な論理を披露して、結果、彼らが心を奪われたのは、前者───貴女の『外見』だったのでしょう」
「完璧な見た目と、完璧な論理……?」
私が少し落ち着いたのを確認すると、ルカは、音もなく立ち上がって、淹れたての紅茶を私の前に差し出した。おずおずと受け取り、一口含む。彼は、茶目っ気のある笑顔を浮かべて、器用に片眼を瞑ってみせた。
「全く、ヒメには感服しましたよ。見た目と論理、どちらも完璧でした。……ですが、その二つの方向性が、少しだけ、巧く噛み合っていなかったようですね。見た目に弾かれ、論理が入っていかなかったのですよ」
「見た目と、論理の方向性の、乖離……」
その、ルカの言葉が、まるでデジャヴのように私の記憶を呼び覚ました。
課長昇進を見送られた、あの日のこと。
部長にかけられた、あの言葉。
『ああ、完璧だった。いや、完璧すぎた』
『君の強みであるはずの真面目さや堅実さが、その見た目の豪奢さで、完全に消えてしまっていたんだ』
───同じだ。
頭を殴られたような衝撃に、一瞬、ぐらりと視界が揺れた。
私の論理が、聖女の仮面によって、掻き消される。
あれほど望んだ、最強の武器。誰もが傅き、跪く、美しく可愛らしい聖女の仮面。
それが、この世界で、私の足を引っ張る『足枷』になるなんて……。
呆然と立ち尽くす私に、ルカが静かに問いかける。
「どうしますか、ヒメ。改革を望むなら……。その美しい『聖女の仮面』を捨てて、本来の貴女として、もう一度、彼らと話し合ってみますか?」
「本来の、私として…?」
かつての私は、男社会で戦うために、「女」であることを切り捨てた。
ダークスーツにひっつめ髪は、私の鎧。
色気も愛嬌も「女」を想起する、その全てが、あの頃の私にとっては邪魔だった。
ここでまた『聖女の仮面』を捨てて、同じことを繰り返す…? 嫌よ。それなら、何のために、私は生まれ変わったの?
でも、いったいどうすればいい? このままじゃ、堂々巡りだわ。
美しく可愛らしく、誰の目をも惹きつける圧倒的な「華」。
この、最強の武器を、正しく使いこなすには、どうしたら……?
ふいに、頭を過ったのは、私とは真逆の───同期のあかりの姿。
そして、私の唯一の癒し。浴びるほどに読み漁った、数々の恋愛小説のヒロインたち。
彼女たちは、いとも簡単に、そして鮮やかに。排他的な同僚をあしらい、凍てついたヒーローの心さえも溶かしてみせた──。
その瞬間、私の脳内に、稲妻のような閃きが走った。
「……いいえ」
俯いていた顔を上げ、私はきっぱりと宣言する。
「この『仮面』は捨てない。すでに私は『聖女』として、この国に広く認知されている。それを今更捨てるのは、最大の武器を自ら手放すことと同じよ。とんでもない愚行だわ」
その言葉に、ルカは、興味深そうに瞳を細めた。私の決断を肯定するかのように、小さな微笑みを浮かべる。
「なるほど。ならば、どうするのですか?」
「外見と論理の乖離が問題だというのなら……『論理』の方を『外見』に寄せればいい。そうでしょう?だから、私は…この仮面を使いこなして、完璧な『聖女』として交渉するわ。誰よりも、可憐に、美しく、そして可愛らしくね!!」
私の力強い宣言に、ルカはさすがに少し目を丸くした。
「ヒメの意気込みは判りました。ですが……。それは、ヒメの信条とは真逆でしょう? 本当に、大丈夫ですか?」
「問題ないわ」
私は自信たっぷりに胸を張った。
「なぜなら、状況を打開する方法を、私は知っているからよ。今のシチュエーションは、私が、暗記するほど読み込んだ恋愛小説、『朴念仁な氷の騎士団長は、健気な下級侍女にだけ心を溶かす』と、全く同じだもの!」
「……『朴念仁な氷の騎士団長は、健気な下級侍女にだけ心を溶かす』……?」
唖然とした表情で、だが正確に、小説のタイトルをルカが復唱する。
いつもの人を食ったような笑みが消え去り、明らかに面食らった表情をみせた彼に、私は少しだけ愉快な気持ちになった。その勢いに任せて、更なる熱弁をふるう。
「そうよ!あの小説でも、ヒロインは軍の非効率な兵站システムに気づいて、改善を提案しようとしたの!でも、石頭の団長に『立場を弁えろ』と一蹴されて追い返された!でも、彼女は諦めなかったわ。お菓子を差し入れして、訓練で怪我をした団員の手当てを手伝い、団長と語り合って……そうやって、彼の警戒心を少しずつ解き、懐に入り込んでいったのよ!」
語りながら、私は自分の確信を強めた。そうだ、それと同じだ。実に理にかなっている。私の頭に、成功のマイルストーンが明確に描かれ始める。
「まずは物理的に、そして心理的に、彼のパーソナルスペースに入り込む!懐に飛び込んでしまえば、こちらのもの。この勝負、勝ったも同然よ!」
得意げに言い切る私に、ルカは戸惑ったような、少し困ったような顔を向ける。そして、珍しく歯切れ悪く、小さな声で呟いた。
「ええと……。それは、『恋愛小説』……で、間違いありませんか?……つまり…小説のヒロインの、目的というか、最終的なゴールは…?」
「なによ!?恋愛小説を馬鹿にするの?言っておくけど、人間の感情の機微、非言語コミュニケーションによる人心掌握、そして実践的な交渉術の基礎は、全てここから学べるのよ!人を動かすための、最高のケーススタディ集だわ!」
「……………なるほど」
ルカは少し迷うように眉を寄せていたが、やがて、一つ頷くと、芝居がかった仕草で恭しく一礼した。
「理解しました。さすがはヒメです。貴方の知識の源泉に、心から敬意を表します。及ばずながら、僕も全力でサポートしましょう」
そう言って顔を上げると、ルカは、コホンと小さく咳払いした。そして、深刻な顔つきで私の顔を見つめ、重々しく口を開いた。
「……それで、早速ですが。ヒメ。その作戦には、一つ、重大な欠陥があります」
「重大な欠陥…?……な、なによ。それは?」
「成功に必要不可欠なものが何か、お分かりですか? それは、ヒロイン役のスキル──いわゆる、『あざとさ』です。それも、極めて高い水準が求められる。騎士団長のような朴念仁に、下手なアプローチは逆効果。より心を固く閉ざされかねません」
彼は、すっ、と立ち上がると、私の目の前に立った。その瞳は、これから始まるゲームを心底楽しんでいるかのように、挑戦的な光に満ち満ちている。
「───実践の前に、検証を。……そうですね。試しに、僕をドキリとさせてみてください」
「はあ……?」
「さあ、どうぞ。僕を、その可憐さで籠絡してみせてください。今のヒメに、それが可能かどうか。僕が、直々に見極めて差し上げましょう」
ルカの真剣な眼差しが、私を射抜く。
カァッと、一気に顔に血が上るのを感じた。
(な、なんですって…!?……ルカったら、いつになく真剣な顔をしているけれど、目の奥が笑っているわ!完全に、面白がっているだけじゃないの…!)
だが、ここで引き下がるのは負けを認めるようなものだ。そんなことは、プライドが許さない。
私は覚悟を決めると、一旦ルカから視線を外し、作戦を練り始めた。彼の突き刺さるような視線を頭上に感じながら、脳内のデータベースから小説のヒロインの仕草を必死に検索する。
(ええと、まずは、潤んだ瞳で上目遣い…!ちょっと困ったように眉を下げて、庇護欲をそそる…!完璧だわ!)
一度、深呼吸する。意を決して、私はゆっくりと顔を上げ、ルカを見上げた。脳内で完璧なヒロイン像を描き、潤んだ瞳をイメージして──、キッと視線を合わせる。
数秒の沈黙。
やがて、ルカは表情一つ変えずに、淡々と告げた。
「………………ヒメ。僕は、ドキリとさせてみてください、と言ったのですが………」
彼は、心底不思議そうに首を傾げ、次の瞬間、ポンと手を打った。
「ああ、なるほど!威圧と敵意によって相手を怯ませ、期外収縮を誘発しようというアプローチでしたか。これは、驚きました。危うく心臓が止まるところでしたよ」
「う、うるさいわねッ!」
やっぱり、私には無理かもしれない。私は早々に戦意を喪失し、その場にヨロヨロと崩れ落ちそうになった。
そんな私を余所に、ルカは顎に手を当てて、いかにも深刻そうに告げる。
「現状のスキルレベルは、十分に把握しました。残念ながら、厳しいと言わざるを得ないでしょう。……ですが、ご安心を。貴女には、不可能を可能にする、計り知れない情熱とポテンシャルがある」
彼は私の前に跪くと、そっと私の手を取り、その甲に恭しくキスを落とした。面食らう私に、小さく微笑む。その紳士的な仕草とは裏腹に、私を見上げる瞳は、興奮を抑えきれないとでもいうように、爛々と輝いている。
「僕が、貴女を導きましょう。彼の──世の男性の攻略法を、手取り足取り、教えて差し上げます。この国の誰よりも、可憐で、美しく、可愛らしい……史上最高の、『聖女』様に育て上げてみせますよ」
彼は立ち上がり、私の耳元で囁いた。
「───だから、すべて僕の言う通りに。いいですね、ヒメ?」
真摯な瞳が、真っすぐに私を見つめ、返事を待っている。しかし、その奥には隠しきれない愉悦の色が宿っているのを、私は見逃さなかった。
思わず舌打ちしそうになるのを堪えながら、私は、大きく顔を歪めて言った。
「…………全くもって、不本意だけど………よろしくお願いするわ!!」
こうして、私の望まぬ形で、腹黒い従者による、前代未聞の恋愛シミュレーションレッスンが、高らかに幕を開けることになったのだった。