第九話 進まない神域の探索
本日は午前と午後で合計2回投稿します。
週末の朝、灰色の空から淡い光が落ちてくる中、ナツキは再び山へ向かうバスに乗っていた。隣の座席にはムラサキの姿がある。彼女はわずかに眠そうなまなざしを浮かべながらも、決然とした意志を宿していた。ナツキが「一人で行く」と主張しても、ムラサキは頑なに首を横に振り、「一緒に行く」と譲らなかったのだ。
「あんな危険な目に遭って何言ってるの」
そう背筋を伸ばして言うムラサキの姿を見て、ナツキのほうこそ彼女が心配になる。それでも、彼女の意志を振り切ることはできなかった。
バスを降りれば、そこから先は山道を歩くしかない。ナツキのリュックには水や非常食、地図、懐中電灯などが詰め込まれ、ムラサキも同様の装備をしていた。人気のない山深いエリアへ入るにつれ、霧がうっすら漂い始め、ひんやりとした空気が肌を刺すように冷たい。
(ここで引き返せば、また何も変わらない……)
ナツキはそう自分に言い聞かせる。神域で何があるのかを「確かめる」ことこそが目的。たとえそこにどんな運命が待ち受けようとも、逃げるわけにはいかない。自分を守り、真実を知るために——。
霧の中をどれくらい進んだだろう。やがて、朽ちかけた鳥居が視界に現れた。注連縄は崩れかけ、かつての神聖な境界線を保つ力はすでに失われている。それでも鳥居をくぐる瞬間、ナツキは胸が詰まるような息苦しさを覚えた。
ふと後ろを歩いていたムラサキが、小さな声でつぶやく。
「……息がしづらい。空気が重く感じる……」
ナツキも同じように感じていた。あの独特の圧迫感、まるで山全体が呼吸をひそめて二人を見つめているかのようだ。
鳥居をくぐってさらに奥へ進むと、崩れた石段や苔むした祠の跡が見えてきた。以前ナツキが訪れた場所とよく似ているが、もしかすると別の区画なのかもしれない。周囲を探すと、古い石碑がひっそりと立っていた。ムラサキがしゃがんで苔をはらい落とすと、「禊」「蝶」「再生」という刻印がうっすら判読できる。
(図書館で見た伝承と同じだ……。蝶、再生、そして禊……)
ナツキの胸がざわつき、背中を冷や汗が伝う。自分の身体はすでに「生まれ変わり」を強いられたといってもいい。それがもし禊という形で説明されるなら、元の自分はもう取り戻せないのだろうか。さらに心までも変わってしまうとしたら——考えが頭を駆けめぐり、息が詰まりそうになる。声を失った喉では何も発せられないまま、ノートに書き留めようとペンを握るが、指先が震えて思うように動いてくれない。
すると、ムラサキがそっとナツキの肩に手を置いた。
「落ち着いて。大丈夫、私がいるよ」
彼女の柔らかな声に、ナツキはほんの少しだけ救われる思いがした。
石碑の裏側には祠の基礎らしき石段があるが、ほとんど崩れ落ちて進めそうにない。二人があちこちを手探りしているうちに、霧はいっそう濃くなっていく。白い膜が木々や地面を覆い、どちらへ向かっているのかわからなくなりそうだ。
ナツキは、心の奥底がざわめくのを自覚する。石碑に刻まれた「禊」「再生」の文字は、まるで自分の今の姿を示唆するようで、否応なく不安を掻き立てられた。ペンを動かそうとしてもうまく書けず、震える手先からは乱れた字がこぼれ落ちるだけだ。ムラサキが「二人で来たんだから、一人で抱え込まないで」と声をかけても、ナツキはうなずくことしかできなかった。
やがて、ムラサキが山の奥から吹いた冷たい風を感じ取り、ナツキへ話しかける。
「ねえ、やっぱりあまりに霧が濃すぎるし、このままじゃ危ないよ」
ナツキは迷うように目を伏せるが、遭難してしまえば元も子もない。しぶしぶ同意し、石碑と崩れた祠を後にする。振り返ると、何かに見られているような不穏な気配がするが、そこに人影はない。霧と静寂だけが、二人の背中を押すように広がっていた。
濃い霧をかきわけるたび、足元の感覚すら頼りなくなる。ナツキの呼吸は荒く、鼓動が耳まで響く。ムラサキが不安そうにナツキの手を握り、歩調を合わせながら慎重に下山を続けると、ようやく霧が薄くなる境界に出た。開けた視界の先には夕刻を思わせる淡いオレンジ色の空が見え、ナツキはほっと息をつく。
しかし、その安堵と同時に、胸の奥に暗い影が広がった。何もわからないまま、ただ「禊」「再生」という不吉な言葉だけが真実味を帯びて迫ってくる。ノートに「ごめん」と書くナツキを見て、ムラサキはすぐ「謝らないで」と答え、やさしく彼の肩に手を添えた。
「何も悪いことなんてしてないよ。……一緒に帰ろう。暗くなる前にね」
ムラサキの声は静かだが、ナツキにはその優しさが痛いほど伝わる。あの石碑を見たときのナツキの悲壮な表情を、彼女も忘れられないのだろう。ナツキは唇をきゅっと結び、弱々しく微笑もうとした。
夕闇が迫る頃、二人は山道を下り、ようやくバス停へたどり着いた。ナツキは体中が疲れ切っていて、ムラサキが声をかけるたびに申し訳なさがこみ上げる。山に行ったわりには何の収穫も得られず、胸には重く暗いものが沈んでいた。
バスに乗り、町へ戻ってからムラサキと別れて家に着くと、二階へ駆け上がるようにして自室へ入った。
ベッドに倒れ込むと、石碑の「禊」「再生」という文字が鮮明に脳裏をよぎり、身体が冷えるような恐怖に襲われる。自分の変容は本当に「禊」なのか。もしそうだとしたら、ナツキの魂や心まで浄化されてしまい、元の自分を取り戻せないばかりか、思い出や大切な人を失ってしまうのではないか——そんな悪夢のような想像が止まらない。
ノートを開き、思いつくままに不安や絶望を書き殴っては、消しゴムでこすってグシャグシャにする。その繰り返しに疲れ果て、声にならない思いが込み上げる。やがてドアの向こうで母がノックをする音がしたが、ナツキには応じる気力が残っていなかった。母が遠ざかっていくと、部屋には悲痛な静寂だけが残る。
(もし本当に、全部本に書かれてい通りだとしたら……僕はどうなるんだろう……)
家族やムラサキへの想いさえも霧の中に溶けてしまうのかもしれない。そんな最悪の未来を想像するたびに、ナツキは背筋を凍らせながら布団に顔を埋め、声の出せないまま涙をこぼしかける。
暗い夜の中、窓を揺らす風の音が静かに聞こえ、わずかな月明かりがカーテン越しに差し込んでいた。どこかで鈴の音がかすかに鳴る錯覚さえ感じる。まるで「次なる試練が待っている」と告げる合図のように——。
それでもナツキは、ほんの少しの望みにすがりつくように瞳を閉じる。いつかこの苦しみの正体を知り、自分自身で在り続けるための手掛かりを必ず見つけると信じて——長く苦しい夜を越えていこうと、息を潜めた。