表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
探索編
8/21

第八話 蝶伝承の行方

 濃い霧の山道をどれほど歩いただろうか。ナツキの視界は薄白く染まり、足元の小石や地面の傾斜さえ不安定に感じられる。どこを目指しているのかすら曖昧になるほど、霧に包まれた静寂は息苦しいまでに重くのしかかっていた。


 ナツキは薄い筆談ノートをお守り代わりに抱きしめたまま、黙々と歩き続ける。家族にも明かせないまま声を失い、研究施設での過酷な日々を経て、なおも自分の身体が別の存在に変わりつつあるという恐怖——その原因を突き止めるために、ナツキはどうしてもこの神域へ来なければならなかった。現代医学では説明がつかないなら、超常に近い場所でこそ答えが見つかるはずだ、と信じるしかなかったのだ。


 やがて、道は不意に途切れ、枯れ木が絡む先に切り立った崖のような斜面が立ちふさがった。霧は一層濃く、足元の状況を確かめるにはあまりに視界が悪い。ナツキは息をのみ、慎重に足を進めようとする。だが、ほんのわずかに踏み出した瞬間、苔に覆われた岩肌がするりと滑り、体が勢いよく前のめりに傾いた。


 「……っ!」


 声にならない悲鳴が喉を出ようとするもそれは叶わない。とっさに手を伸ばすが、掴むものは何もない。斜面を転がり落ち、辛うじて体勢を整えようとするものの、体中に衝撃が走り、息が詰まりそうになる。立ち上がろうとしても、ぐしゃぐしゃの泥と苔が絡みついて足元を取られ、視界は霧に遮られて行き先さえ判別できない。


 やがて、何か突き出た木に引っかかるような形で、ナツキの身体はようやく止まった。強く打ちつけられた衝撃に、頭の中がぐらつく。霞んだ視界の向こうには相変わらず白い霧が漂い、上を見上げてもどれほど滑り落ちてきたのかすらつかめない。上半身を起こそうと腕に力を入れても、苔や泥が邪魔をして何度もずるりと滑る。


 呼吸が乱れ、心細さと焦りが重くのしかかる。声を出そうにも、失った声帯は応えてくれず、ただ苦しい息づかいだけが喉の奥でむなしく響いている。このまま誰にも気づかれずにいたら、どうなってしまうのだろう。そんな不安が冷たい爪を立てるように胸を締めつける。


 「……っ……」


 呼びかけもままならない。恐怖と絶望感がじわじわと込み上げ、涙がこぼれそうになる。そのとき――


 上方で枯れ葉を踏むようなかすかな音がした。風にあおられた音ではない。誰かが近づいているような気配に、ナツキははっと視線を上げる。しかし、霧が濃すぎて人影の輪郭さえわからない。身動きすればまた滑り落ちるかもしれないという恐怖が勝り、ナツキは半ば茫然としたまま身をすくめてしまう。


 「ナツキ……! そっちにいるの!?」


 聞き覚えのある声が、霧の中からかすかに響いた。それはまぎれもなくムラサキの声だった。どうしてここにいるのか、問いかけたい思いが胸に渦巻くが、声が出せないもどかしさだけが募る。ナツキはせめて気づいてもらおうと、泥まみれの腕を必死に振ろうとするものの、また苔に足を取られてうまく動けない。焦りと恐怖で呼吸が乱れる中、声がさらに近くで聞こえてきた。


 「ナツキ……! いた……!」


 わずかに霧が揺れ、ムラサキの姿が上のほうからちらりと見えた。どうやら彼女は斜面のやや上側にいるらしく、慎重に足場を確かめながら少しずつこちらへ近づいてきているようだ。足元を崩さないように両腕でバランスを取りながら、ムラサキは必死で声を張り上げていた。


 「動かないで、そのまま! 今、そっちに行くから……!」


 ナツキは胸の奥にこみ上げる涙を堪え、何とか姿勢を保とうとする。先ほど手首を少し捻ったようだが、大きな怪我には至っていないようだ。ただ、滑り落ちそうな場所に身体を預けている恐怖は消えない。今はとにかく、ムラサキを待つしかない――。


 彼女がゆっくりと段差を下りてくる気配に合わせ、ナツキは息を飲んだ。やがて、ムラサキは岩の端をつかみながらなんとか斜面に降り立ち、ナツキのすぐそばへ身を寄せる。泥だらけのナツキを見下ろし、ほっと安堵の息を漏らした。


 「ナツキ……! 本当に大丈夫……? どこか強く打ってない?」


 ムラサキの声はわずかに震えていた。ナツキは心配をかけまいと、小さく首を横に振る。もちろん痛みはあるが、今は彼女がそばにいてくれるだけで心がほどけていくような気がした。言葉にできない想いをどうにか伝えようと、唇をかすかに動かす。


 (……ありがとう)


 その一言さえ声にできない代わりに、ナツキは俯きかけたまなざしでそうつぶやくように唇を震わせる。ムラサキはかすかな口の動きを見て取ったのか、目を潤ませながらナツキの背にそっと手を回した。


「ごめんね、一人で行くって言ってたけど、やっぱり心配で……。無事でよかった」


 その言葉を聞いた瞬間、ナツキの胸に染みわたるのは、言いようのない安堵と救われた思いだった。霧の中で感じていた孤独と恐怖は、まるで一筋の光が射すように掻き消されていく。ムラサキは互いの体を支えるようにして、自分が降りてきた経路を指し示した。


 「ここからゆっくり上に戻ろう。焦らず、足元を確かめながら行けば大丈夫……」


 軽装ながらも登山靴を履いたムラサキは、懐中電灯や水筒を携えていて、最初からナツキを追うつもりだったことがうかがえる。


 「ここからゆっくり上に戻ろう。焦らず、足元を確かめながら行けば大丈夫……」


 その声にうなずくと、ナツキは震える足に力を込め、泥と苔をしっかり踏みしめる。ムラサキが誘導する方向へと少しずつ進むうち、崖の傾斜がわずかに緩やかになる場所にたどり着いた。滑り落ちそうになるたび、ムラサキがとっさに腕を引き寄せて支えてくれる。何度も危なっかしい場面があったが、それでも二人は支え合いながら最後まで斜面を登りきった。


 だが、霧はますます濃く、もとの道を見失ってしまったのかもしれない。スマートフォンも圏外役に立たず、木々の影ばかりが揺れて道しるべを作らない。ナツキが「どうしよう」とノートに書こうとするが、震える手指がうまく動かない。するとムラサキが、ナツキの背をそっとさすりながら提案する。


「まずは開けた場所を探そう。このままだと遭難しそう。何か目印になるものが見つかれば……」


 二人は足元に注意しつつ、崩れた石段や朽ちかけた祠を探りながら、神域の奥へ踏み込んでいく。冷たく重い空気と、森が息をひそめるような静寂が、神経を極限まで研ぎ澄ませる。時おり落ちる枯れ葉の音さえ、不気味に大きく聞こえた。


 そんな最中、霧の向こうに大きな蝶が舞い降りる気配があった。ムラサキは「あれ……」と声を上げるが、その翅がかすかに光を帯びていたかと思うと、すぐに白い濃霧へ溶け込んでしまう。ナツキが追いかけようと足を踏み出しかけた瞬間、ムラサキは「危ない!」と彼の腕をつかんで制止した。


「これ以上は危険。……もしかすると、この山が私たちを惑わせてるのかもしれない」


 ムラサキの言葉に、ナツキも嫌というほど同意していた。何かが意図を持って二人を翻弄しているような、そんな不気味な手応えがある。結局、わずかな手がかりを得ることもできないまま、夕方に近い時間になってしまった。体力も限界に近く、けがをした腕の痛みがじわじわと広がり、ナツキも下山せざるを得ないと観念した。


 木々を伝い歩いてようやく霧が薄まった頃には、あたりはすっかり夕闇に包まれつつある。ムラサキが道標を見つけてくれたおかげで、ようやく下山ルートをたどり、どうにか人里へ戻ることができた。バス通りにたどり着いたとき、ナツキの足は震えて立つのもやっとだった。


 二人は自販機でスポーツドリンクを買い、荒れた呼吸を整える。ナツキは声こそ出せないが、泥まみれの状態でここまで来られたのはムラサキのおかげだと痛感していた。ほっとした様子のムラサキは、申し訳なさそうに目を伏せる。


「ごめんね、何もわからずじまいになっちゃったよね……。もっと何か見つけられればよかったのに」


 ナツキはすかさずノートを取り出し、首を振りながら文字を書き込む。


 ——「危ないところ、助けてくれてありがとう。ひとりだったら、今ごろどうなっていたか……」


 その言葉に安堵したように微笑みつつも、ムラサキは小さく息を吐いた。


「でも、これで終わりにはできないよね。山のこと、あの蝶のこと……謎は残ったままだもの」


 ナツキも深くうなずく。鱗粉やあの奇妙な霧、そして神域と呼ばれる場所の伝承——調べるべきことはまだ山ほどあるのだ。


「ねえ、今度は資料を探そう。神道とか民俗学の本なら、図書館や学校の図書室にきっとあるはず。昔の言い伝えや伝承を手掛かりにできるかも」


 ムラサキの提案に、ナツキは「賛成」とノートへ書き、翌日の放課後に図書室へ行く約束を交わす。その後、バスや電車を乗り継いでどうにか帰宅したナツキは、リビングで母に泥だらけの服を見られて声なき言い訳をし、階段を上がって自室のベッドへ倒れ込んだ。疲労と痛みで意識が遠のきそうになる中、霧の中でムラサキが必死に叫んでくれた姿だけが鮮明によみがえり、胸が温かくなる。




 翌日の放課後。約束どおりにムラサキと合流したナツキは、校内の図書室へ足を運んだ。歴史や民俗学の棚を見渡してみても、思うような地域伝承の記録はほとんど見当たらない。数冊の郷土史をめくっただけでは深い手がかりにはつながらず、ムラサキはすぐに次の手段を提案した。


「町の大きな図書館に行ってみようよ。そっちならもっと詳しい本が揃ってるかもしれないから」


 ナツキは迷わず頷く。そして週末、二人は町の中心部にある大きな図書館へ足を運んだ。郷土史や民俗学のコーナーを片っ端から探すうち、ようやく興味深い記述を見つけ出す。


「蝶は神の使いであり、その鱗粉を浴びた者は『禊』により新たな生を得る——」


 ムラサキがそう読み上げた瞬間、ナツキの胸にざわつくものが走る。まさにナツキが体験した液状化からの再構築を思わせる伝承が、昔からこの地に語り継がれているのだ。「羽化の儀式」「生まれ変わり」などの言葉が並び、蝶の存在を中心とした神秘的な民話がページを埋めていた。


「身体だけじゃなく、魂まで新たに……って書いてある。つまり、人間じゃなくなるとも読み取れそうだよね」


 文献を覗き込むムラサキが声を落とす。ナツキもその文面に目を走らせながら寒気を覚えた。再構築の痛みとともに、喪失や非人間への変異を暗示するような記述——それはナツキにとって、何よりも恐ろしい想像をかきたてる。


 詳しい情報は得られなかったものの、「蝶の鱗粉を浴びた者が生まれ変わる」という言い伝えが存在することを確認できたのは、大きな前進だった。図書館を出る頃には、すっかり夕焼けが街のビルの合間に沈みかけており、ナツキとムラサキは歩道を並んで歩く。


「正直、怖い……ナツキがどこか遠くにいっちゃうみたいで。でも、もっと怖いのは、ナツキが一人で抱え込んじゃうこと。だから……私も一緒に山へ行くよ」


 ムラサキがそう言って、そっとナツキの腕に触れる。ざわめく街の音が遠のいていくように感じられるなか、ナツキはノートを開き、「ありがとう。今度こそ、この謎を解き明かしたい」と書き記す。

 彼女は深く頷きながら、その瞳にわずかな不安と決意の光を宿していた。ナツキも怖さを必死に飲み込み、まっすぐにムラサキを見つめる。


 次の一歩を踏み出すとき、傍らには彼女がいる。それだけで、濃霧に閉ざされた神域への恐怖がほんの少しだけ和らぐ気がした。通り抜ける風とともに、どこか鈴のような音が耳の奥をかすめる。まるで「次なる試練が待っている」と告げるかのように。ナツキは唇をきゅっと引き結び、ムラサキの温もりを感じながら前を向く。あの霧の奥に潜む神秘——蝶と再生の伝承——必ず真相を確かめるために。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ