第七話 白き霧
翌朝、まだ朝のしんと澄んだ空気に包まれながら、ナツキは家を出た。母は心配そうな表情で見送ったが、ナツキは無言のまま軽く会釈するだけだ。声を出せないという事実を改めて意識するたび、胸がぎゅっと締めつけられる。それでも立ち止まるわけにはいかなかった。あの山で何が起きたのか——祖父の言葉を思い返すうちに、その謎を突き止めるべきという思いが高まっている。
学校に着いたころには、朝のホームルームが始まる少し前の時間。クラスメイトたちはナツキの姿をちらりと確認しては、どう接していいかわからないのか、気まずそうに目を逸らす。その視線を受け止めるナツキの心には、落ち込みというより諦めが入り混じった感覚があった。声を失い、身体までもが女の姿へ変わってしまった自分は、彼らにとって理解しがたい存在なのだろう。
そんな中、隣のクラスに所属する逢村サキが、廊下の先からナツキを見つけて小走りで近寄ってきた。周囲の視線を気にしながらも、「おはよう」と小声で伝えようとしているのがわかる。ナツキは微かに目礼を返すが、声にならない挨拶しかできない。ムラサキは慣れた手つきで唇の動きを読み取ろうとするが、結局いつものように筆談ノートを取り出すことになった。
ノートには、ナツキが素早くこう書きつける。
——「昨日はメッセージ、ありがとう。何か話があるんだよね?」
その文字を見たムラサキは小さく笑い、二人で廊下の隅へ移動する。ホームルーム開始まで残り数分。どこか焦りを感じさせながらも、ムラサキの表情からは何か決意めいたものがにじんでいた。
「うん。あのさ……ナツキのクラスの子たち、実はどう思ってるか気になってるんじゃないかと思って……」
一度言葉を切ってから、ムラサキは軽く頭を振り、続ける。
「実は、私のクラスでも噂を耳にしてるんだ。みんなナツキのことを気にはしてる。でも、どう声をかけたらいいのかわからない人が多いみたい。だから孤立してるように思えるかもしれないけど、本当は無視してるわけじゃないんだと思う」
ナツキはノートに「そう言ってもらえて、少し安心した」と書き込みながら、ほんのわずかに胸をなで下ろす気持ちになる。それでも、不安や息苦しさは消えなかった。声を失う前よりも、ナツキはささいなことに敏感になっている。かつてなら「まぁ仕方ない」と受け流せたことも、いまは胸の奥に重く響く。その変化はもどかしく、同時に弱くなってしまった自分を責めたくなる瞬間もあった。
ナツキは「もう少し様子を見てみるよ」と書いた。そして、「ところで、いまは僕……やらなきゃいけないことがある」と続けて、わずかに唇を噛む。
ムラサキが続きを促すように首を傾げる。ナツキは山のことをどこまで話すか迷ったが、いま抱えている問題の核心に触れるには避けては通れないと悟った。そこでノートに「放課後、少し時間をもらえる?」と書くと、ムラサキは「わかった」と小さく返事をしてくれる。ちょうど予鈴が鳴り、二人はそれぞれの教室へ向かった。ナツキの頭には不安や決意が渦巻き、黒板を見る視界はどこか上の空だった。
放課後、部活動で賑わう校舎を抜けると、ナツキはムラサキと共に校庭の隅にある使われなくなった倉庫の前へと足を運んだ。薄暗い夕陽が二人の影を伸ばし、ムラサキはナツキの顔を覗き込むように見つめてくる。
「それで……どんな話?」
周囲に人の気配がないと確認すると、ナツキは唇をわずかに動かしてからノートへ書き始めた。
——「僕が声を失ったのは、ただの病気じゃない。実は山奥の禁足地に踏み込んで、蝶の鱗粉を吸い込んでしまった。信じられないかもしれないけど、それから身体が変わり始めている」
震える筆跡を示すノートをムラサキに差し出す。普通ならば荒唐無稽だと笑われてもおかしくない話だが、ムラサキは真剣な面持ちで文字を追い、「……そっか」と呟いた。
「....私もその山にまつわる噂を少しだけ聞いたことがあるの。古い神社があるとか、昔から立ち入り禁止だったとか……詳しくは知らないけど、不思議な話が絶えない場所みたい」
ナツキはノートに「きっと簡単に説明できない何かがあると思う」と書き足す。すると、ムラサキはほんの少し唇を噛み、ナツキをまっすぐ見つめた。
「ナツキは……もう一度、その山を調べたいんだよね?」
一瞬だけ迷うように目を伏せるナツキ。あの山に近づけば、また危険な目に遭う可能性はある。だが、何も知らないままでは自分という存在が失われてしまうかもしれない。怖さよりも、原因もわからずただ変わり続けることへの不安のほうがはるかに大きかった。
——「うん。どうしても確かめたい。それに……」
そこまでペンを走らせたところで言葉が止まる。焦燥感が胸を突き上げ、ノートを持つ手がかすかに震えた。ムラサキは「……それに?」と小声で問いかける。ナツキは答えを探すように深く息をつき、ノートの端に走り書きする。
——「このままじゃ、僕じゃなくなりそうで怖い」
その文字を見たムラサキの瞳が、一瞬潤んだように見えた。夕暮れの赤い光が頬を染め、黙り込んだ唇から小さな吐息がこぼれる。
「……わかった。私で良ければ手伝うよ。危ないことになるかもしれないけど、放っておけない」
その言葉に、ナツキは胸が熱くなる。しかし同時に、これは自分自身で解決しなければならない問題だとも強く感じていた。声を失った自分が、万が一のときに彼女を守れるかどうかもわからない。だからこそ、ムラサキを巻き込みたくはなかった。
——「ありがとう。でも……これは一人でやりたい」
ノートにそう書くと、ムラサキは驚いたように眉を寄せるものの、ナツキの決意を受け取ったのか、しばらくして小さくうなずいた。
「……わかった。けど、ちゃんと連絡はしてね。危険だと思ったらすぐ言うのよ? 私が行くから」
ナツキは弱々しく微笑み、こくんと頷く。倉庫の裏から吹き抜ける風が二人の髪を揺らし、かすかな土の匂いが鼻をくすぐった。静かな夕陽の赤が、二人の影を地面に長く映し出している。
その夜、ナツキは自室で布団に潜り込んでも眠れなかった。思い返すのは、祖父の言葉だ。「あの山には人の理解を超えた力がある。全てを解き明かすのは難しい」——けれど、このまま近づかなければ、自分の存在を見失ってしまうかもしれない。
うつ伏せになって枕を抱きしめると、あの黒い蝶の姿が瞼の裏に鮮明によみがえる。神秘的な光を宿しているようにすら見えるその鱗粉。原因でありながら、どこか神々しさまでも帯びたあの蝶を突き止めなければ、ナツキは永遠に苦悩し続けることになるだろう。
(もし、またあの山で何かが起きたら……?)
尽きることのない不安。しかし、何もしなければ何も変わらない。布団を握る手のひらに汗がにじむのを感じながら、ナツキは決意を固めた。
翌日、週末になると、ナツキは母に「一人で出かける」とだけノートで告げ、大きめのバッグを抱えて家を出た。母は「気をつけてね」と声をかけたが、その表情には何か言いたげなものが宿っていた。ナツキにも後ろめたさがあったが、これ以上何も言わないまま玄関を出る。
バスを乗り継いで、人影のほとんどない山間の停留所に降り立つ。そこから先は、見知らぬ山々が連なるだけで、車の音や人の話し声すら遠い。空には薄く白い雲が広がり、柔らかい日差しだけが地面を照らしていた。
(この先に、あの禁足地がある……)
アスファルトを外れ、獣道のような細い道を探すと、わずかに感じる既視感がナツキの背を震わせる。まだ男性の姿だった頃、冒険気分でこの辺りを歩いた記憶。行き止まりに立つ古い鳥居と、あの蝶——。
ひやりとした空気が肌を撫で、まるでこの自然そのものがナツキの侵入を拒むかのように感じられる。背筋に冷たい汗が流れそうになるが、ここで引き返せば何もわからないまま終わってしまう。
鬱蒼とした木々のあいだを慎重に進み、湿った土の匂いと鳥の鳴き声がいっそう鮮明に耳へ届く。深く息を吸い込むと、甘くかすかな香りが鼻を刺激した。思わず咳き込みそうになり、ナツキは不安げに足を止める。
声が出せないかわりに、小さな吐息だけが唇から漏れた。頭の中では警報のように「危ない」と鳴り響いている。あの時と同じ鱗粉を再び吸い込めば、さらに自分が変化してしまうのではないか——しかし、そんな恐れと同じくらい、何もしないままではいられない焦燥感が強くナツキを駆り立てる。
やがて、朽ちかけた鳥居が視界に入った。注連縄が張られ、人間の領域と神の領域を隔てるように白い霧が漂っている。胸の奥がぎゅうっと重くなり、「これ以上は人が入ってはならない」と警告されているような感覚を覚える。
(でも……もう戻れない)
唇を噛みしめ、鳥居をくぐり抜ける。注連縄を脇に見て進むと、前に訪れたときと同じような息苦しい静寂があたりを支配していた。風の音すら遠のき、鼓膜を圧迫する不気味な空気が耳をふさぐ。足元の落ち葉が湿り気を含んで、まるで絡みつくようにナツキの靴を引き留めようとする。
不意に、視界の隅を黒い大きな影が横切った。——蝶。
ナツキは驚きに全身を強張らせる。先日のものと同じかどうかはわからないが、普通の蝶よりはるかに大きく、どこか神秘的な光を宿しているように見えた。その翅から舞う鱗粉を目にするたび、ナツキの胸は嫌でも高鳴る。
後ずさろうとしかけた瞬間、その蝶は誘うようにふわりと木立の奥へ消える。逃げるでも、警戒するでもなく、ただ先へと舞い進んでいく。
(追いかけるしか……ない、のかな)
クラッとする頭を押さえながら、ナツキはそれが唯一の手がかりだと考えた。もし見失えば、変化の理由は闇の中だ。何も得られないまま、このままの状況に飲まれてしまうかもしれない。
迷いを振り払うように奥へと足を踏み出す。霧が徐々に濃くなり、視界がぼんやりと白む中、蝶のわずかな輝きを目印に進んでいく。やがて苔むした石段と崩れかけた祠が姿を現した。どうやら、かつては人が祀っていたらしい廃墟のような場所だ。
さらに冷たく感じる空気に、ナツキは背筋をぞくりと震わせる。蝶は祠の裏手に回りこんだらしい。追おうと足を踏み出そうとした瞬間、どこからともなく鈴のような澄んだ音が響いてきた。実際に音がしたのか、それとも幻聴なのか判別できないが、その音によって一瞬、心が引き留められる。
誰かがこちらを見ている——そんな気配がした。視線を探ろうと辺りを見回すが、人影はない。ただ、確かに何かの存在を感じる。遠くで枯れ葉が一枚、地面に落ちる音だけが大きく耳を打つ。
ナツキは意を決して祠の裏手をのぞき込む。だが、そこに蝶の姿はない。苔に覆われた岩肌と草の揺れがあるだけで、人や生き物の気配は感じられない。
(どういうこと……?)
胸の奥がひどくざわつく。まるで、この空間全体が生き物のようにナツキを試し、翻弄しているかのように思えた。さっきまで確かに蝶が導くように姿を見せていたのに、いまやその影すら消えている。しかも、霧が濃くなって太陽の位置すらわからず、昼間とは思えないほど薄暗い気配が漂い始めていた。
(ここには何もないのか……?)
焦りと不安が同時に押し寄せたとき、遠くでかすかに人の声のような音が聞こえた気がして、ナツキは息をのむ。だが、それが本当に声なのか風音なのか、判別できない。ノートを抱きしめ、今にも走り出したい衝動を必死にこらえる。
神域は、生半可な気持ちで踏み込んだ者をふるいにかけようと試すのだろうか。視界を失わせるほどの霧が、境界を揺さぶるようにナツキの周囲を取り巻いている。しかし、ここまで来て退くことはできない。自分の存在を取り戻すため——そう自分に言い聞かせながら、ナツキは震える足をもう一度前へ進めようとする。
すると、霧の先でふわりと蝶の翅がひらめいた。今度は間違いない。ごく短い一瞬だったが、黒の中に光が揺れて見えた。
(……まだ、終わりじゃない)
ナツキはその蝶を見失わないよう、霧の中を手探りで進む。足場に確信はなく、喉を冷たい空気が絡む痛みをこらえながら、それでも逃げ場のない現実を投げ出すわけにはいかない。祖父の「自分であることを捨てるな」という言葉を思い出し、何とか踏みとどまるように一歩ずつ前へ足を動かす。
遠くから鈴の澄んだ音が再び響いたかのように感じられた。幻聴なのか、実際に聞こえているのかさえわからない。それでも、その音がナツキの足を導くようで、不思議と恐怖だけに支配されることはなかった。ほんの小さな希望が胸に芽生えはじめているのを感じる。
(自分を守るために、変化の理由を……必ず探し出すんだ)
ナツキはその決意だけを頼りに、白く濃い霧の奥へ踏み込んでいく。何が待つのかはわからない。けれど、ここで立ち尽くしていれば何もわからないまま取り返しがつかなくなる。それを悟り、迷いを振り捨てるように足を進めるナツキ。鈴の音が遠くでこだまする幻の中を行くその背には、不安と、そしてわずかな希望とがせめぎ合っていた。