第六話 大切な出会い
学校復帰から数日が経ったものの、ナツキの状況は一向に好転しなかった。昼休みや放課後になると、クラスメイトたちは部活動や友人との約束で楽しそうに廊下へ消えていく。以前の男子だったナツキに気軽に声をかけてくれる者はいまやほとんどおらず、新たに女子同士として輪に加わることもできていない。声を出せないナツキにとって、どうやって他者と打ち解ければいいのか、皆が戸惑っているのだろうと頭では理解できても、この孤独は思った以上に堪えるものだった。
それでも、ここでまた気落ちして休学してしまえば何も変わらない――そうした焦りにも似た思いがナツキの背中を押している。家に引きこもるよりはマシだと自分を奮い立たせ、下腹部の不快感を抱えたまま登下校を繰り返す。痛み止めと生理用品をカバンに入れ、声も出ないうえに身体の性まで変化した今、ナツキは自分がどこに立っているのかさえ見失いかけていた。
そんなある日の放課後。クラスメイトたちがそれぞれの予定に散っていく中、ナツキはノートと教科書を抱えながら一人で廊下を歩いていた。静かな場所に身を置きたい気分だったのかもしれない。人気のない渡り廊下を曲がると、見知らぬ女子生徒が立ち止まっている姿が目に入る。背中越しに見える長い髪と落ち着いた立ち姿。相手を煩わせないようにそっと気をつけて通り過ぎようとした瞬間、その生徒がくるりと振り向き、真っすぐにナツキを見つめてきた。
「……あの、楠ナツキさん……だよね?」
声を出せないナツキに対して、まっすぐ声をかけてくる生徒は珍しい。しかも同じクラスではないはずだ。首をかしげるナツキに、彼女は少し戸惑いながら微笑む。
「ごめん、急に呼び止めて。私、逢村サキっていうの。ムラサキって呼んでね。クラスは隣なんだけど、先生から声が出せなくて困っている生徒がいるって話を聞いて……何か手伝えることがあればいいなって、ずっと思ってたの」
焦げ茶色の瞳を伏せて、ムラサキは小さく息をつく。ナツキは声の代わりに胸元に抱えた筆談ノートを少し掲げてみせたが、いざ書こうとするとどう表現すればよいのか迷ってしまう。一言「ありがとう」と書くのもいきなりでは不自然に思われるのでは――そう考えていると、ムラサキが続けて口を開いた。
「いきなりこんなこと言われても困るよね。もしかして余計なお世話かもしれない。でも……声が出ないって、相当大変だと思う。周りもどう接していいか戸惑っているかもしれないけど、もし私でよければ、文字とかで話してくれたら嬉しい」
その声からは作り物ではない誠実さが感じられ、冷えきった廊下に小さな温もりが広がるようだった。ナツキは慌ててノートを開き、たどたどしい字で「とても助かります。ありがとう」と綴る。すると、ムラサキはほっとしたように目を細め、柔らかい笑みを浮かべる。
「よかった。もし困ってることがあったら遠慮なく言ってね。あ……でも、こんな廊下で立ち話も落ち着かないかな。よかったら、もう少し静かな場所に行かない?」
その提案に、ナツキは一瞬迷ったものの、うなずいた。こんなふうに別のクラスの生徒から声をかけられるのは初めてで、戸惑いはあるが、なぜか不思議な安心感を覚える。
二人は人のいない階段を上り、使われなくなった小さな資料室へ足を運んだ。狭い棚の隙間から夕暮れの光が差し込み、埃っぽい空気をぼんやり照らしている。ムラサキはドアを丁寧に閉めると、ナツキの顔を覗き込むように向き直った。
「……本当に、突然ごめんね。クラスは違うけど、廊下で見かけるたびに、すごく疲れてそうに見えたから気になってて」
そう言うと、ナツキが手にしているノートを示す。ノートを開いたナツキは「あまり寝られないし、身体も変で……」と素直に書き込んだ。声を出さずに文字へ思いを吐き出すと、意外なくらい次々と言葉が溢れる。ムラサキはそれを読み、気遣わしげな表情を浮かべる。
「そっか……大変だよね。先生から事情を少しだけ聞いたけど、それ以上は何も……。もし女子特有のことで困ってるなら、アドバイスできるかもしれないよ。あ……いきなりこんな話、ごめん」
女子特有という言葉に、ナツキの胸がぎゅっと締めつけられる。今や身体は完全に女性化していて、月経まで体験している事実が身にしみる。そう理解していても、「女子」という響きに戸惑いと悲しみがこみあげた。けれど、ムラサキの真っ直ぐで温かな気遣いに、ナツキは心を決めてノートにペンを走らせる。
――痛み止めは飲んでる。生理用品にも慣れなくて……頭がおかしくなりそう。声も出せないし、自分が何なのかわからなくなる
書かれた文字を改めて眺めると、まるで誰か他人の悲鳴のようでナツキは胸が痛む。ムラサキはその文章を読み終えると、一瞬息をのんだものの、すぐに優しいまなざしを向けた。
「しんどいよね。もし立っていられないほど辛いときは保健室に行って先生に相談してみるのも手だよ」
そのアドバイスがありがたく、ナツキはノートの端に「ありがとう」と改めて書き加える。ムラサキは「ううん」と首を振り、かすかに微笑んだ。
「実はクラスが違うから、なかなか声をかけるきっかけがなくて……。でも、何も言わないままだとあなたも困るだろうし、先生に相談したら 『ムラサキさんなら上手くコミュニケーションを取れるかもね』って言ってもらえて。だから思い切って声をかけたんだ」
ムラサキの言葉を聞くうちに、ナツキの心の奥に張りついていた痛みが少しだけ和らぐ気がした。誰かが手を伸ばしてくれるというだけで、こんなにも救われることがあるのだと驚かされる。
「ナツキさんがこうしてノートに本音を書いてくれると、こっちまで肩の力が抜けるというか……ありがたいな」
照れたように視線を落とすムラサキの仕草は少し儚げで、それでも明るい空気が漂っている。ナツキはノートに「クラスが違うのに、ありがとう」と書いてページを見せた。そのとき、窓の外では夕日が差し込んで埃の粒が金色に舞い、時が止まったような静けさが資料室を包み込む。ムラサキは切なげに笑みをこぼし、
「ねえ、よかったらナツキって呼んでもいい? もしこれからも少しずつでも話せたら嬉しいんだけど……」
と、小さな声で問いかける。その瞳には寂しさをまとった優しさが宿っていた。ナツキは声の代わりに大きくうなずき、気持ちを必死に示す。ムラサキは安堵したように微笑むと、そっと立ち上がった。
「もう少し話したいけど、そろそろ帰らないと……。明日、また同じくらいの時間に会えるかな。私もできることを考えてみるし、分からないことは聞いてほしい。……でも、もし気が進まなかったら無理しなくて大丈夫だからね」
最後に慌ててそう付け足す姿に、ムラサキの人柄がにじみ出ていた。ナツキは文字にせず、首を横に振って微笑みに似た表情を作り、気持ちを示す。明日また会えるなら会いたい――その思いが胸の奥でかすかに波打った。
ムラサキがドアを開けて夕暮れの廊下に出て行くと、棚の影が伸びて資料室には静寂が戻る。さきほど交わした筆談が嘘のように、孤独がまた肌を包み込む。しかし、今日はごく短い時間とはいえ、温かなやり取りがあった。声が出せずとも通じ合える相手がいる――そんな希望を、ナツキは初めて感じ取った。
それからムラサキは時々ナツキに声をかけ、筆談ノートを通じたささやかな会話を続けてくれるようになる。声を失っていても、どこか昔のように友人といる感覚を思い出せる。ムラサキが自然体で接してくれるからこそ、ナツキも少しずつ自分を取り戻せるのかもしれない。
だが、心の奥底には相変わらず不安の影がうごめいていた。姿だけではなく、生理という女性特有の現象まで経験し、次第に女子の身体としての日常に慣れ始めている自分がいる――そのことが怖いのだ。鏡に映るしなやかな手足や胸のふくらみ、血色の良い唇は、かつての男だった自分を完全に塗り替えてしまっている。なのに、日々の雑事や学校生活に追われていると、ふと「もう仕方ないことなんだ」と受け流している自分に気づき、戦慄にも似た戸惑いを覚えるのだった。
そんなある日の夕食時、母が真剣な表情で切り出した。
「ナツキ……おじいちゃんがね、あなたのことを心配して連絡してきたの。しばらく会ってないけど、週末に会いに行ってみない?」
その問いに、ナツキの胸がきゅっと締まる。祖父は以前からあの裏山に決して近づくなと厳しく言っていた人だ。その忠告を破り、今のような変容を招いてしまった――そう思うと会うのが怖い。しかし同時に、「祖父なら何かを知っているのでは」という期待もあった。最終的にノートに「行く」とだけ書くと、母は安心したように「無理はしないでね」と微笑む。けれどナツキは、声が出せないまま唇を噛むしかない。女性化の戸惑いや心まで変わってしまうかもしれない恐れ……母に打ち明ける勇気は持てなかった。
週末、母の運転する車で向かった祖父の古民家は、昔ながらの佇まいをそのまま保っていた。玄関を開けると線香の香りが漂い、囲炉裏のある居間で祖父が静かに腰を下ろしている。ナツキの姿を認めると、祖父は微かな嘆息をもらした。
「……本当に姿が変わってしまったんだな」
祖父のまなざしには複雑な感情が浮かんでいる。母が「声が出せなくなって、筆談でやり取りしてるの」と説明すると、祖父はひとつ息を吐き、落ち着いた声でつぶやいた。
――ごめん。あの裏山に入っちゃった。
ナツキはノートにそう書く。祖父はそれを読んで目を細め、深い嘆息のように胸を上下させる。
「やはりな……昔から言ってたとおり、あそこは気軽に踏み入れていい場所じゃない。今さら叱っても仕方ないが……」
怒りよりも、もっと深い憂いがにじみ出ているようだった。母が台所へ向かい、祖父と二人きりになると、彼はゆっくり姿勢を正して語り始める。
「わしも若い頃に、あの山で妙な目に遭ったことがある。神様の仕業なのか山の精なのかわからんが、常識じゃ測れない力が存在するのは確かだ。踏み入れようものなら、それなりの代償を払わされることもあるんだろうよ」
昔のことを多く語ろうとはしないようで、「記憶が曖昧だ」と言葉を濁す祖父の横顔には、厳しい警戒心のようなものが浮かんでいる。ナツキはノートに「心まで変わりそうで怖い」と書いた。祖父は読み終えると、どこか憂いを含んだ瞳で首をかしげ、唇を噛む。
「体が変われば、心も揺れるだろうさ。けど少なくとも、あそこでわしが感じたのは 『自分を失わない』という意志さえ捨てなきゃ、そう簡単に取り返しがつかなくなることはない……ってことだ。実践は容易じゃないがな」
言葉の端々から伝わるのは、祖父自身が若い頃に何かを経験し、それを糧にしてきたのだろうという事実だった。
それから暫く話をしていると夕方になった。母が戻ってくると祖父は玄関先で小さく耳打ちするように口を動かす。
「ナツキ……神様の領域を人間が測ろうとしても、わからんままだ。自然が気まぐれなのと同じこと。……つらくなったら、またここへ来い。わしはお前を拒まんよ」
教訓めいた言葉というより、祖父自身の体験に裏打ちされた確かな重みがあった。ナツキは黙ったまま深く頭を下げ、「ありがとう」と声なき声で伝える。祖父はわずかにうなずき、静かに目を伏せた。
母の運転する車が再び道を走り始め、「どうだった?」と訊かれても、ナツキはノートを開く気になれなかった。結局、曖昧な話ばかりだったが、不思議な安堵感が心を満たしているからだ。
(何か大きな力が山にあるのは確か。それでも、すべてがわかるわけじゃない……。そして、自分はどうなるんだろう?)
身体が女になり、声を失い、さらに心までも変わってしまうかもしれない――そんな恐怖がぐるぐると巡って息苦しさを覚える一方、祖父の「自分を失わない意志が大事だ」という言葉がかすかな希望の糸となっていた。
それでも、不安が完全に消えるわけではない。いつかナツキという存在そのものが、跡形もなく消えてしまうのではないかと怯える。鏡に映る姿や、ちょっとしたことで涙が出そうになる自分を思うと、恐怖で胸がいっぱいになった。
(けど……確かめないと何も進まない。あの山へ戻れば、何か手がかりが見つかるかもしれない……)
そう思った刹那、スマホが振動した。ムラサキからのメッセージで「明日、休み時間に少し話せる?」と書かれている。声を失った今でも、筆談ノートがあれば返事は可能だ。その事実を思い出すと、ほんの少しだけ心があたたかくなる。
やがて車は自宅の門をくぐり、夕闇が迫る空に小さな蝶がふわりと横切った。あの山で見た蝶と同じなのか――ナツキは思わず唇を噛み、耳の奥で微かな鈴の音がこだまするような錯覚を覚える。
(変わらずにいられるのか、それとも変わってしまうのか……。どちらにせよ、自分でどうするか決めなきゃいけないんだろうな……)
母が「明日も無理しないでね」と声をかけるのを背中で聞きながら、ナツキは小さく会釈するように頷き、静かに家の玄関を開けた。あの山の力の正体にはまだ触れられないまま、不安とわずかな決意を抱え、夜の闇へ足を踏み入れていく。