第五話 孤独な再出発
研究施設を後にしてから、ちょうど二週間が経とうとしている。ナツキは、あれほど切望していた「当たり前の日常」に戻れたはずなのに、家の中がどこか広すぎるように感じられ、落ち着かない空気に包まれていた。リビングのソファやベッドの位置、両親の会話の調子――それらはかつてと何ひとつ変わらない。それなのに、自分だけがまったく別の存在として押し込められたような疎外感が胸を締めつける。
退院した日、母は慌ただしく動き回ってナツキ用の生活用品や下着を買い直し、部屋の掃除を手伝ってくれた。父も仕事を調整し、できる限り家に居ようとしている。しかし、ナツキは声を発することができないまま。両親の優しさにどう応えればいいのか見当もつかず、うまく気持ちを伝える方法さえわからなかった。
それから一週間ほど過ぎた頃、学校から「もう復帰が可能なのでは」と連絡が入る。健康面に大きな問題がない以上、いつまでも休学扱いにはできないというのが理由らしい。両親は「まだ心の準備ができていないなら無理をしなくてもいい」と声をかけたが、ナツキはわずかに首を横に振った。失語症のままであっても、いつまでも世界から逃げ続けるわけにはいかない――そんな思いが、胸の奥でくすぶっていたのだ。結果、翌週から登校することが決まり、母は急いで今のナツキに合う制服を用意する。ナツキはスカートへの違和感からスラックスを履くことにした。
だが、その頃からナツキの体調には奇妙な変化が生じ始めた。夜になると腹部に重い痛みが湧き、朝起きると理由もなく気分が落ち込む。喉の渇きは治まらず、わけのわからないイライラが胸の奥にくすぶっていた。最初は風邪か、研究施設でのストレスかと思っていたが、どこか嫌な予感が消えない。
そんなある朝、洗面所で顔を洗おうとしたナツキの背後に、母がそっと立って小声で尋ねる。
「ナツキ……もしかして、下腹が痛んでるの?」
ぎくりと身が強張ったナツキが振り返ると、母は何かを決心したような表情で、棚から小さなパッケージを取り出してナツキの手にそっと渡した。
「使い方、わからないよね……これはね、生理用品。パッドを貼っておくの。困ったら遠慮なく言って」
ナツキの頭は真っ白になった。まさか自分に生理が起こりうるなど、想像したこともなかったからだ。じわりと続く鈍痛や嫌な違和感を、母はそう説明してみせる。血の気が引くような感覚とともに、呼吸さえままならなくなる。
母はナツキが声を出せないことをわかっているので、できるだけ穏やかな調子を崩さず続けた。
「全部を急に受け入れなくてもいいから。制服が汚れたりしたら大変だし、とにかく困ったら言ってね」
ナツキは耐えきれずに視線をそらす。母はそれ以上何も言わず、背中をそっと撫でて洗面所を出ていった。
残されたナツキは、パッケージを手のひらで握りしめながら鏡を見る。そこに映るのは、かつての自分とは似ても似つかない、どこか儚げな少女の姿だった。男として生きてきたはずの自分が、今や他人の身体にいるような感覚。しかも、生理という現象まで始まり――心が追いつく前に肉体が「男性ではない」という事実を強く叩きつけてくるようだった。そんな実感が胸に重くのしかかり、歯を食いしばってうつむくことしかできない。
やがて迎えた登校初日。ナツキの身体は鉛のように重く、頭もぼんやりしている。母が念のため用意してくれたポーチをカバンに押し込んでも、心のどこかが落ち着かない。声を出せないうえに、生理現象らしき痛みがじわじわ続いているのだ。
父に車で送り届けられ、校門へ立ったナツキは思わず足がすくみそうになる。校舎へ続く廊下に足を踏み入れると、久々に顔を合わせるクラスメイトたちの視線が刺さるように集まり、遠巻きのざわめきが聞こえた。
「……女子? あれ、ナツキ……?」「声出ないって本当なの?」「ちょ、綺麗すぎ……」
そんな言葉を背に受けながら、担任の烏丸先生に付き添われて教室へ向かう。朝のホームルームが始まると、烏丸先生は簡潔に状況を説明した。
「みんなにも事前に話していたけれど、楠は身体的な事情で休んでいました。戸惑いがあれば、お互い遠慮せず声をかけてほしい。何かあれば私に相談してね」
しかし、それ以上踏み込んだ説明はしない。ナツキ自身が声を出せない以上、詳しい話をすることも難しいのだろう。クラスメイトたちもどう接すればいいかわからないのか、ちらちらとナツキの様子をうかがうだけで声をかけてこない。ナツキは机の上に筆談ノートを置いたまま、何を書けばいいのかさえわからずに俯くしかなかった。
午前中の授業が終わっても、誰一人としてナツキに話しかけようとはしない。もともと馴染みのあった男子グループの面々も、困惑したような視線を投げるだけで、近寄ってこない。ナツキも筆談で会話を試みようという気力が湧かず、昼食すらほとんど喉を通らなかった。
放課後が近づく頃には、腹部の鈍痛がさらに増しているように感じられた。きっと本当に生理なのだ――理性ではわかっていても、どこか他人事でありたい気持ちが捨てきれない。だが、休み時間にトイレへ駆け込んだとき、下着ににじむ赤い染みを見つけてしまう。もう間違いなかった。声を上げたくても出ない。感情を物理的に抑え付けられているような恐怖と嫌悪に苛まれながら、ナツキは震える指先で生理用品をあてがい、鏡の前で唇を噛みしめる。自分は確かに男だったはずなのに
――なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。
頭が混乱し、心臓が鈍く脈打つ。
結局、その日の授業内容など何一つ頭に入らないまま放課後を迎え、ナツキはようやく帰宅する。玄関を開けると、母が台所から飛び出してきて「大丈夫?」と優しく声をかけた。ナツキはまともに目を合わせられず、わずかに頷くだけで応える。下腹の鈍痛は収まりそうにないし、身体も熱っぽくだるかった。
夕食の時間も、食欲はほとんど湧かない。父も母も心配そうにナツキを見守り、母は「慣れないことばかりだもんね」と声をかけるが、ナツキは一言も返せない。
夜になり、トイレで一人きりパッドを交換するたび、鏡に映る“少女の自分”が現実で、男の自分が夢のなかの妄想の自分だったかのように思えてくる。声を取り戻すどころか、性の変化がより鮮明になる一方――そんな絶望感が押し寄せてきた。
布団に横になっても眠れず、じわじわと痛む下腹をさすりながら天井を見つめる。ふと、あの山で見た霧や黒い蝶の姿が脳裏をかすめた。あのとき、もし足を踏み入れなければ、こんな苦しみに苛まれることもなかったのだろうか。あるいは、これはまだ通過点にすぎず、先にはさらに大きな何かが待っているのかもしれない――そう思うと、身体の芯が凍りつくように冷たくなった。
それでも、ナツキは失った声と女性化した身体を抱えたまま、生きていかねばならない。叫びたいのに声は出ず、涙を流したところで元の男の姿には戻れない。その絶望と虚無がのしかかる中、ふと耳の奥で小さな鈴の音が響いた気がした。あの神域で聞こえた、不気味でありながらどこか優しい音色。まるで「まだ全てが終わったわけではない」と告げているように思えて、ナツキの胸はざわめいた。
翌朝、重いまぶたを無理やりこじ開け、弱々しい体を何とか起こす。登校しなければならない。鈍痛は相変わらずだが、母が用意してくれた痛み止めを飲み、制服に着替える。爪先や手先の感触までも妙に敏感に思えるのは、身体そのものが変化してしまった証なのだろう。洗面所で乱れた髪をブラシで整えていると、そこに映るのは薄い唇とどこか儚げな雰囲気を帯びた女性の姿。ナツキは息苦しさを抑えるように、ブラシをきつく握りしめた。
(こんな身体になっても、果たして自分は自分のままなのだろうか……)
答えは見つからないまま、朝の光がやけに眩しく感じられる。心と身体のちぐはぐさを抱え、二度目の登校へ向かうナツキ。周囲の誰にも、そして何より自分自身にも、今はまだ手探りのままで歩みを進めるしかなかった。