第四話 再生と失語
ぼんやりとした意識の中で、耳の奥に鈴の余韻が響く。懐かしいような、不気味なようなその音が次第に遠ざかると、瞼に光が差し、無機質な天井が見えた。国立特殊疾患研究センターの観察室――繭化した夜から、いったいどれだけ経ったのだろう。
身を起こそうとすると、体が妙に軽い。でも、関節の痛みと微かな違和感が残っている。あの激痛はやや治まったらしいが、肌にまとわりつく感覚が自分のものではないみたいに感じられ、落ち着かない。
ドアが開いて足音が近づく。例の若い男性研究員がタブレットを手にして現れ、「目が覚めましたか……」と、少し安堵したような声を出す。
僕は喉をならし、言葉を返そうとした。けれど――声が出ない。
唇を開いても、喉を震わせても、まるでそこだけ真空になったように音が生まれないのだ。愕然とする僕を見て、彼はすぐに気づいたようで、顔をこわばらせる。
「声……出せないんですね。もしかして、変容のショックによる失語症かもしれません」
彼の言葉に耳を疑う。喉が切り離されてしまったかのような感覚がして、息が詰まる。これだけ変質した身体が、とうとう声帯にまで影響を及ぼしたのか。それとも精神的なショックによるものなのか、判断もつかない。ただ一つ確かなのは「言葉を失った」という事実だけだった。頭が真っ白になり、酸欠のように胸が苦しくなる。
やがて看護師が来て、僕をそっと起こしてシャワー室へ連れて行く。鏡を見ることを強く勧められ、「身体の変化を知ってほしい」と淡々と言われた。正直、恐ろしかった。自分がどこまで「人間」でいられるかを思い知ることになりそうで……。
案の定、シャワー室で病衣を脱ぎ、鏡に映った姿を見た瞬間、息が止まる思いだった。肌は透き通るように白くなめらかに変化し、腕や脚は細くしなやかなラインを描いている。胸には明らかなふくらみがあり、腰回りも優美なくびれを帯びていた。視線を上げれば、鎖骨のあたりまで伸びた髪が細い流れを作り、頬や唇は血色よく、瞳までも以前より潤んだように艶やかだ。そこには現実離れした造形を宿した少女が立っている。かつての男の自分の面影など微塵もない。
(……嘘、でしょ……?)
声にこそならないが、心が叫びを上げている。いま目にしているのは紛れもなく僕の身体で、触れればそこに確かな体温や感覚がある。しかし、頭では到底受け止めきれない。恐怖と嫌悪が入り混じった感情が胃の奥から込み上げ、泣き出したいのに声が出せず、ただ唇が震えるだけだった。
シャワー後、観察ブースに戻されると、他の研究員たちがぞろぞろとやってきて「信じがたい現象だ」「遺伝子や骨格レベルで変化した可能性が高い」と口々に言い交わす。
「これほど急激な変体が起こるなんて、今までの説を覆すぞ……」
「細胞が再構築されたとしか思えませんね」
目を輝かせる者、首を傾げる者。いずれにせよ、彼らは僕の現状を興味深いサンプルとして見ているだけだった。自分の苦しみや混乱など二の次。思わず拳を握りしめても、声が出せないのがもどかしい。怒りと悲しみをぶつける術すら奪われたのだ。
そんな中、唯一、若い男性研究員だけは申し訳なさそうな表情を浮かべていた。しかし彼が何か言おうとすると、女性の上司が「余計な同情はやめなさい」と冷たく諫める。僕はそのやり取りを見ながら、ここがどれほど人間の感情を排除した場所かを突きつけられた気がした。
数日後、研究員たちは「健康状態に大きな問題はない」と判断し、僕を退所させると宣言した。病院のように治療を施すわけでもなく、「原因不明の特殊疾患」として研究対象にしたいだけだったのだろう。充分なデータを取ったから用済みなのかもしれない。
その報せと同時に、父と母がガラス越しの面会にやってきた。僕は内心、絶望しか感じられなかった。こんな姿を見せたら、両親はどう反応するだろう。失語症まで抱えた自分を拒絶されるのではないか――そう思うだけで息が詰まる。
ガラス窓の向こうで、母は僕の姿を見るなり「ナツキ……本当に……?」と泣き崩れそうになり、父は怒りと悲しみがない交ぜになった顔で拳を握りしめ、「こんなの、あり得るのか……」と震えた声を上げている。
僕は手を伸ばすが、ガラスに遮られる。何か言葉を届けたくても、喉が塞がって声が出ない。父と母は必死に研究員たちへ掛け合って「もう連れて帰る」「こんなの実験じゃないか」と抗議するが、施設側は「生命に別状はありません。退院手続きは行いますが、詳しい原因は調査中です」と取り合わない。
両親の姿に、胸が締めつけられた。せめて「大丈夫だよ」と伝えたいのに、まるで夢の中で口が動かないようなもどかしさだけが残る。二人が帰り際に見せた涙と怒りの入り混じった表情は、忘れられない光景として刻まれた。
ほどなくして、僕は施設を出ることに。父と母が車で迎えに来てくれ、職員からは「今後も定期的な検診をこちらで受けていただきたい」と言われたが、父は目を伏せたまま断った。
「もう十分だ。これ以上、実験みたいな扱いはされたくない……。今後の検診は普通の病院で受けさせてもらいます」
父の低い声に、担当医らしき人物は何か言いかけたが、諦めたように黙り込む。そのまま僕は両親に付き添われてロビーを抜け、ようやく外の空気を吸うことができた。
車に乗り込む前、あの若い男性研究員がこっそり頭を下げてくる。
「何もできなくて、すみません。僕は家族を救えなかった過去があって……それで研究を志したのに、結局あなたにこんな辛い思いを……」
彼の瞳にある悔しさが、唯一の救いかもしれない。声を出せない僕は、そっと目を伏せて浅く会釈する。それが今の僕にできる最大限の「ありがとう」の返事だった。
車の後部座席で、母が僕の手を強く握ってくる。何か言いたげだが、どう言葉を紡いでいいのかわからないらしい。父は前方を睨むように見つめながら、ぎこちなくハンドルを握っている。無言の車内には、それぞれの苦悩や戸惑いが重く充満していた。
窓の外の空は、やけに澄んだ青が広がっている。しかし僕にはその美しささえ空虚に見えた。鏡に映った自分は既に僕ではなく、美しい少女の姿。声も失い、家に戻ったところで以前の生活になど戻れない。そんな不安と絶望が、胸を鋭く刺してくる。
(蝶の鱗粉……あの神域……。絶対に、あれが原因なのに)
僕は叫びたくても叫べない。信じてもらえないなら、誰がこの苦しみを理解してくれるのか。
再び耳の奥で、かすかな鈴の音が響いた気がした。神域の霧の中で聞いた、あの不思議な音色。まるで「これからが本当の始まりだ」とでも言わんばかりに。
そう――身体の変容は終わりを告げたように見えて、その実、僕の精神や日常を根こそぎ変えてしまう嵐の前触れでしかなかったのだ。言葉を失い、美しい少女として生きることを余儀なくされた今、この先どう生きていけばいいのか……。答えは何も見えないまま、車は研究施設を後にする。
静かにハンドルを切る父の背中と、泣きそうな顔で手を握る母。その沈黙の中、僕はただ息をするのさえ苦しく感じながら、揺れる車窓の景色をぼんやりと見つめていた。