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蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
変容編
3/21

第三話 研究施設での変容

 夜明け前、浅い眠りの中にいたナツキの耳に、低い声でのやり取りが聞こえてきた。ベッドのすぐ横で担当医と思しき人物とスーツ姿の男性が書類を交わし、何かを話しているらしい。視線をそちらへ向けると、母が不安そうな面持ちでナツキを見つめ、傍らの父は険しい表情のまま何かにサインをしていた。

 やがて担当医が近づいてきて、申し訳なさそうな顔をしながら切り出す。

 「検査結果から判断して、どうにも通常の病院では原因を特定できません。それで国の研究機関に協力を仰ぎ、そちらで詳しい検査を受けていただくことになりました。いわば特殊疾患の疑いがありますので……」

 国の研究機関――つまり、一般的な医療では対処不能と見なされたということだろう。父は「ナツキ、すまない……」と目を伏せ、母は今にも泣きそうな顔でナツキの手を握りしめる。

 嫌な胸騒ぎがした。このまま症状が緩和されないのではないかという不安が頭をもたげる。けれど、痛みと熱に朦朧としているナツキには、何かを問い返す余力もなかった。そうして乗せられた車両は転院という名目の、事実上の移送だった。


 搬送先の「国立特殊疾患研究センター」は、山間部の隔絶された場所にあった。高い塀に囲まれ、無機質な外観の建物には厳重な警備が敷かれている。入口を通ると、廊下を行き交う白衣の人々が一斉にこちらへ視線を向けた。まるで珍しい実験動物でも運ばれてきたかのような興味深げな目つきが、ナツキには息苦しかった。

 案内された部屋は、どこか病室というよりガラス張りの観察ブースを思わせる造りをしている。壁の一面が観察室につながっていて、そこからモニター越しに常に監視されるらしい。そばにいた女性の研究員が淡々と告げた。

 「症状の観察が最優先です。痛み止めは必要最小限しか投与できませんが、原因解明のためにありのままの経過をとる必要があるのです」

 ナツキは思わず反論しようと口を開くが、腹部の痛みで声がうまく出ない。押し殺した呻き声になってしまう。気づけば両親の姿もない。外で書類の手続きをしているのか、あるいは面会そのものを施設側に止められたのか――いずれにしても、ナツキは一人きりでこの冷え切った研究空間へ放り込まれることとなった。


 そこから始まったのは、徹底的な検査と観察の連続だった。血液や心電図、MRI、レントゲンなどの検査はもちろん、ナツキが寝ている間もカメラが回り、サンプルが採取され、端末にデータが入力されていく。研究員たちは好奇心に満ちた視線を交わしながら「こんな症状は見たことがない」「細胞が異様な速度で変質しているのでは」と口々に囁き合い、容赦なく作業を進めていく。


 しかも夜になると、腹の奥から燃え上がるような熱が増し、皮膚からどろりとした透明な液がにじみ出すようになった。汗でも血でもない、正体不明の粘液だ。それが床やベッドを伝ってしだいに固まっていくという奇妙な現象を、研究員たちはただ「興味深いですね」とモニター越しに眺めるだけ。苦痛に唸るナツキへ「辛いですね」と声をかける者はほとんどいなかった。

 ただ一人、若い男性研究員が「もう少し痛み止めを……」と上司に進言する姿を見かけたが、上司らしき人物は「データに影響が出る」と冷ややかに却下する。その研究員は申し訳なさそうに目を伏せるしかなく、その態度を見てナツキはわずかな“人間らしさ”を感じ取ったものの、痛みそのものを消し去ることは叶わなかった。


 そしてある夜、痛みはこれまでにないほど強烈なものへと変化し、ナツキの全身ににじんでいた粘液が一気に硬化し始めた。最初は薄い膜が身体を覆っていく程度だったのが、見る間に膨れ上がり、ナツキをまるごと包み込む「繭」のような塊へと変わっていく。

 ベッドに押し付けられたまま微動だにできず、呼吸しようとするたび膜が肺を圧迫する感覚に襲われ、脳が酸素を求めて悲鳴を上げる。


(……こんなの、死んでしまう……!)


 心の中で必死に叫んでも、声帯はまるで動いてくれない。遠くから研究員たちの慌ただしい声がかすかに聞こえる。

「記録班は急いで!」「検体保護用のシールドを持ってこい!」

 誰一人ナツキを助けるために動いてはいない。ただ観察のための準備を進めているだけだと、硬化する膜越しに聞こえる指示が嫌でも理解させる。


 やがて視界は完全に閉ざされ、真っ暗な空間へ閉じ込められた。かろうじて意識はあるものの、自分の身体がどこまで自分のものなのかわからない。どのくらい時間が経過したのかさえ見当がつかず、思考は断片的に途切れ始める。

 「助けて」と訴えたいのに声帯が応じず、酸欠のような焦燥が脳を焼く。やがて眠るのとも気絶するのとも判別不能な深い無意識へと沈んでいった。


 おぼろな意識が何度か浮上しかけるたび、頭の奥では甲高い鈴の音が響いては遠ざかる。あの神域で聞いた、不気味な音色だ。膜の内側は暑いのか寒いのかさえ定かではなく、骨が軋むような痛みや筋肉が再形成されるような幻覚が絶えず襲う。血肉がえぐり取られる生々しいイメージこそ湧かないが、自分の身体がじわじわと「別の何か」へ変わっていく手応えだけは鋭く突き刺さる。


(やっぱり...あの黒い蝶……あれが原因なんだろうか……)


 そう疑念がよぎっても、ここは研究所だ。きっと「細胞の異常再構築」といった無機質な言葉でしか扱われないのだろう。

 いったい何時間、あるいは何日が経ったのか。意識が遠のいては戻るのを繰り返すうち、繭の外から新たな光が差し込んでくるのを感じた。ぼんやりした頭で「破れかけているのかもしれない」と思った直後、ぴしりと亀裂が走る音がする。


 そこから微かな冷気が流れ込み、割れ目から照明の白い光が射し込んだ。酸素が脳へ行き渡ったのか、ナツキの意識は少しだけ鮮明になる。

 研究員たちのざわめきが耳を打った。

「亀裂が広がっています!」

「記録を怠るな!」

 その声には、単なる好奇心だけでなく、未知の現象に対する畏怖のようなものが混じっているように思われる。息をのむ気配を感じ取りながら、ナツキは繭を破ろうと手足を動かした。しかし粘液が引きずるように絡まりつき、どうにかベッドの縁へ倒れ込むようにして外気を吸い込むだけで精一杯だった。


 顔を上げると、研究員の一人が唇を震わせながらこちらを見ている。その瞳に、ほんのわずかだが畏れの色が垣間見えた。けれど次の瞬間、

「装置をセッティングしろ!」「早く数値をとるんだ!」

 周囲は一気に計測や採取作業へ入る。人間として扱うというより新種の標本として手順を踏んでいるかのようだ。ナツキの腕に機器が取り付けられ、頬や胸から血液や組織を採取される痛みがじわりと広がる。


 かすれた息を繰り返しながら腕を見下ろすと、先ほどまでより細く、骨格もどこかしなやかに見える。まるで繭の中で溶かされ、別の形に再構築されたかのような、ぞっとする想像が脳裏をかすめた。


(戻れるのか……? このまま、人間の形を失うんじゃ……)


 堪えきれない痛みと恐怖に意識がまた遠のきかける。誰も手を差し伸べてはくれない。そもそも救おうなどという意志が最初から存在しないのではないか――そんな絶望が胸を締めつける。そのとき、あの研究員の青年が思わず息を詰め、ナツキへ手を伸ばしかけた気配を感じた。


 しかし、すぐ横で上司らしき人物の指示が飛ぶと、青年の腕は止まり、何事もなかったかのように作業へ戻ってしまう。結局、ナツキを支える者などどこにもいなかった。

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