第二十一話 蝶は、名を告げない 後半
谷へ向かう道は、足元が暗く危険なものだった。すぐに暮れていく空は厚い雲に覆われ、鳥の声も聞こえないほど静まり返っている。湿った土の匂いが鼻を満たし、時折ぬかるみで足を取られそうになりながら、ナツキは必死に道を探す。
脳裏に幾度となく浮かぶのは、修学旅行での思い出。お風呂で並んで湯に浸かったとき、ムラサキは笑みを浮かべて「どんな姿だろうと大事に思っている」とささやいてくれた。その瞬間のやさしさやぬくもりは、決して幻なんかじゃなかった。
もし、それすら幻だと否定されるのなら、自分はどうなってしまうのか。頭の中で不安が渦を巻き、瞳に涙がにじむのを感じる。声を失ってからというもの、どこか自分の感情が糸のほつれのように解けやすくなっている気がした。
しばらく進むうち、木々が開けてわずかな月明かりが射し込む場所へ出る。そこには地面がえぐれるような岩場があり、中央には涼やかな湧き水が小さく流れ出していた。ごうごうという風の音が谷間を駆け抜け、肌を刺すように冷たい。まるで長い眠りから目覚めた秘境のようだ。
ナツキはそっと息を吐き、辺りを見回す。虫の鳴き声さえ止んだ世界。薄暗い空気の中、岩陰に人影のようなものがうずくまっているのを見つけ、彼女はノートを抱いたまま慎重に近づいた。
――そこにいたのは、逢村サキだった。
薄紫色のワンピースに似た、落ち着いた装いの彼女が、冷えきった岩に背を預けるように座り込んでいる。長い髪は少し艶を失い、普段の生気ある表情はどこか霞んでいた。
だが、その姿を見つけたとき、ナツキの心は大きく揺さぶられる。それでも今、ここにいるムラサキは、確かにナツキの視界に存在していた。
彼女は小さく顔を上げる。暗がりの中で、その瞳が弱々しく光るように見える。ナツキが息を詰めたまま近寄ると、ムラサキはどこか悲しげに微笑んだ。
「来て……くれたんだね」
掠れた声だった。ナツキはすぐにノートを開き、「どうしてこんなところにいるの?」「なんで学校に来なくなったの?」「皆はムラサキを知らないと言うんだ」という疑問を立て続けに書こうとする。だが、手がうまく動かず、ぐちゃぐちゃに文字が乱れてしまう。
「ごめんね」
ムラサキはぽつりと、まるで聞こえないほどか細い声で謝罪を口にした。ナツキはその声があまりに切なげで、いろんな感情が胸の奥から込み上げてくる。ノートに何を書けばいいか分からなくなり、必死に呼吸を整えようとするものの、気持ちは混乱するばかりだった。
やがてムラサキは、少しだけ顔を上げてナツキの姿を見つめる。そこには、どことなく懐かしさと後悔が入り混じったような色が宿っていた。
「あなたを支えるために……わたしはここにいた。そう思っていた。でも、ほんとうは――」
その言葉が途切れ、冷たく湿った空気が二人の間を流れた。ナツキはもう、ノートでは言い尽くせないほどの思いを抱えている。それでも、どうにかして問いを発したい。声を失っている自分の代わりに、筆がどれほどの言葉を生み出してくれるのか――心許ない。
しかし、ムラサキは自分から語り始める。暗闇の岩場で、わずかな月光を頼りにその口元を動かしながら。
「わたしは、逢村サキじゃない。ううん、正確には私には名前がないの。私は、オオムラサキの蝶の化身。あなたが黒い蝶の鱗粉を吸い込んでしまった瞬間から、ずっと気になっていたの。だって、あの鱗粉は『わたしのもの』であったから……」
ぞくりとするような寒気がナツキの背筋を走る。言葉の意味がすぐには理解できない。あの黒い蝶とムラサキは同じものなのか、それとも――。戸惑うナツキをよそに、ムラサキは自嘲するように笑みを浮かべる。
「山の深い場所で鱗粉を撒き散らしていたのはわたし。あなたの身体に大きな変化が起きたのは、その鱗粉を吸い込んだから。……つまり、わたしがあなたを変容させてしまった。全部、わたしのせいだよ。自分の力を制御できなかったせいで、あなたはもう元に戻れない身体になった」
ナツキの思考が一瞬、停止する。声を出せなくなったのも、身体が再構築されたのも、すべてムラサキが原因――。そんな現実を突きつけられ、彼女はノートを落としそうになるほど動揺した。手が震え、頭の奥が痛くなる。「信じられない」という言葉を文字にすることさえできない。
それでも、ムラサキの表情は本気だった。責めるように眉を吊り上げたりするのではなく、ただ淡々と、しかし自分を責める熱を帯びた声音。
「だから、あなたを支えるために学校へ来た。あなたが声を出せなくても助け合えるように、気持ちを伝えあえるように……。だけど、わたしが人の形で存在できるのは限界があるの。時間が経つほど人の眼には映りにくくなるし、あなたが苦しめば苦しむほど、どんどん歪みが生じて……」
周囲を取り巻く空気が、じわりと息苦しさを増している。ムラサキは苦しそうにうつむき、唇を噛んで嗚咽をこらえているように見えた。ナツキの瞳からは、気づかぬうちに涙がぽろぽろとこぼれはじめる。ムラサキは摂理を説いているのだろう。ナツキはその全てを理解できているとは思わない。
ただひとつ、間違いなく理解できたのは、「あなたはもう元に戻れない」という言葉。その言葉に打ちのめされながらも、同時に得体の知れない衝撃で心が揺さぶられる。「戻れない」という絶望と、「それでも生きていくしかない」という覚悟がない交ぜになっていた。
「……ごめんね。わたしはあなたに謝らなきゃいけないのに、ずっとそれを言えなくて、騙して――遅かれ早かれ、私はもう消えるつもりだった。あなたにはもう、支えてくれる人たちがたくさんいるから。家族も、エリやレンカ、クラスメイトだって……。わたしの役目は終わったんだよ」
役目。そんな言葉で片づけられるほど、ナツキとムラサキのつながりは軽いものだったのか――。そう思いかけ、ナツキはノートに「待って」と書きたくなる。しかし、その前にムラサキが身体をゆっくりと起こし、こちらに向かって小さく微笑む。
「本当にごめんね。あなたの人生を狂わせた罪は、言葉で許されるものじゃない。でも、きっとあなたは大丈夫。わたしなんかより、もっとちゃんとした人たちが、あなたをちゃんと受け止めてくれる。だから、もう....。最後に会えてよかった....」
その声がかすれた瞬間、ムラサキの全身が淡く光り始めた。蝶の羽のような透明感を帯び、輪郭が揺らめいているのが分かる。まるでこのまま、風に溶けて消え去ってしまうかのようだった。ナツキは恐怖を覚え、思わず手を伸ばして止めようとするが、声が出ない。いつものようにノートを掴むしか術がない。だが、ノートだけではこの瞬間を止められないという絶望が襲う。
――声が欲しい。喉の奥から叫びが湧き上がるのに、言葉にならないもどかしさ。
ナツキの視界が一気に滲み、涙が後から後からこぼれ落ちる。そのとき、心臓が大きく震え、頭の中で何かが崩れ落ちるような感覚を覚えた。声帯がどうこうというより、魂そのものが軋んで鳴るような、不思議な震動。
「……あ……あ……」
自分の耳が信じられなかった。確かに声が零れたのだ。かすれきった、か細い音だったが、紛れもなく自分の喉から出た声――声を失って以来、こんな形でも音を発したのは初めてかもしれない。ナツキ自身が最も驚き、目を見開いて息を呑む。
ムラサキもまた、その声に反応して動きを止めた。そして、ゆっくりと振り返る。その顔は絶望的なほど驚きに満ちていて、目尻に涙が浮かんでいた。
「い、ま、の……ナツキ……?」
返事がしたい。でも声がうまく出ない。ナツキは必死に口を開く。空気を吸い込んで喉を震わせるだけで、身体の内側からどうしようもない痛みと緊張が湧き起こってくる。しかし、それでもこの瞬間を逃したくなかった。
「……あ……あっ……あ……って……」
潰れかかった声が、何とかそう聞こえただけかもしれない。しかし、紛れもなく意志を持って発した音だ。ナツキの目には涙が溢れ、視界がぼやける。「待って」と言いたいのに、うまく発音が続かない。
それでも、精一杯に口を動かし、むりやり震わせた唇から――
「む……あさき……ま、って……」
声音というには余りにも拙く、不完全なつぶやき。それでも確かに言葉を紡いだ。声を失った自分から、確かな声がこぼれ落ちた。ムラサキはその場で目を見開いたまま、息を飲んでいる。
「ナツキ、声が……」
驚きと戸惑いと、そして何よりも喜びがない交ぜになったような表情を浮かべ、ムラサキの頬には涙が流れた。まるで彼女自身がその現実を信じきれないかのように、唇が震えている。
ナツキは苦し紛れに胸を押さえ、肺の奥からかすかな息を絞り出す。その声がひどく掠れているのは自分でもわかるが、そんなことは構わない。今ここでムラサキを引き留めなければ、消えてしまう――胸が警鐘を鳴らしている。
「…………いかない、で……」
苦しい。こんなに声を出すのは辛いことだったのかと初めて実感する。だが、出せた。掠れていても、途切れ途切れでも、自分の思いを言葉に乗せることができる。ナツキは膝をついてむせるように肩を震わせながら、ムラサキを見つめた。
それを見たムラサキは、もう我慢の糸が切れたように嗚咽をこぼしながら泣き出した。人の形を保てなくなっていたはずなのに、今もその手足ははっきりと人間の姿を保ち、震えている。
「わたし……そんな顔で泣かないで、お願いだから……」
そう呟くムラサキの声も涙に溺れていた。ナツキは咳き込みながらも懸命に手を伸ばす。震える指先が、ムラサキの腕に触れ、そこに確かな温度を感じた瞬間、胸が苦しくなるほど嬉しかった。もう幻でも妄想でもない――目の前に、ここに、確かな存在としてムラサキがいる。
ナツキはごくりと唾を飲み込み、開きかけたノートを閉じる。今は声が出るかもしれない。ほんのわずかでも、伝えたいことがあった。――いや、どうしても伝えなければならない気持ちが、胸の内に強い火を灯している。
「す……き……」
呆れるほど短い言葉。だが、それがナツキにとっては、どれほど大きな一歩か。唇を震わせながら、そのたった一言を、まるで全身の力を振り絞るように発声する。何度も喉がきしむ音がしたが、それでもどうにか想いを形にできた。
ムラサキは目を見開いたまま涙を落とし、その場で座り込んでしまう。声を出せないはずだったナツキから、告白のような言葉を聞くことなど予想もしなかったのだろう。
「わたし、あなたのこと……」
ムラサキの唇が震えている。けれど、その表情はどこか切なさを湛えていた。自分がもはや人の世界に溶け込む存在ではないことを知っている――そう語る瞳。
ナツキは息を整えようにも咳が止まらず、胸が熱く苦しい。それでも必死に声を絞り出す。
「むらさき、が....すき……」
それは生まれたての声、か細い音。それでもムラサキにははっきりと伝わったらしい。彼女は耐えきれなくなったようにナツキへ抱きつき、その肩に顔をうずめて嗚咽を上げた。羽化しかけた蝶のように脆く震える身体を、ナツキはぎこちなく両腕で受け止め、互いに泣きじゃくる。
どれだけ時間が経ったのか分からない。しんしんと夜の帳が降り、谷間の風はさらに冷たくなる。岩場の湧き水がかすかな音を立て、ふたりのすすり泣きを隠すように流れ続けていた。
(でも……ムラサキは、人の世の存在じゃない……)
ナツキはその事実を思い出し、切なく胸が痛んだ。先ほどムラサキ自身が言った「もうあなたのそばには必要ない」という言葉、そして「私は人間じゃない」という現実。だが、このまま黙って「さよなら」なんて言えるはずがない。
ようやく落ち着きを取り戻したムラサキは、ナツキの腕の中で震えながら顔を上げる。輪郭がまだ揺らめいているようで、まるでいつか消えてしまう予兆のようだった。
「ごめんね。わたしはどうやっても、人の世界にずっと存在し続けることはできないの」
その口調は悲しみを湛えていたが、どこか諦めを含んでいた。ナツキは声を絞り出そうとするが、今度は喉がひどく痛み、声にならない息が漏れるだけだ。仕方なくノートを開き、「どうにかできないの?」と書き込む。
しかし、ムラサキは首を横に振るだけ。かすかに目尻を潤ませ、少しだけ微笑んだ。
「あなたには、もう大切な人たちがたくさんいる。家族や友だち、みんなあなたが大好きで支えようとしてくれる。それなのに、わたしが余計にあなたを縛ってしまうのは……」
言葉にならない感情がナツキを突き動かし、ノートに大きく文字を走らせる。
「どうありたいかは、自分で決める」
それはかつて妖狐が語りかけた言葉。ナツキはその言葉を何度も噛みしめ、いつしか自分の意志として刻み込もうとしていた。「人間かどうか」「身体が変わってしまったかどうか」――それらは自分の存在を定義する大事なことかもしれない。でも、それ以上に「自分がどう在りたいか」を選ぶことが何より大切なのだと、今ならわかる。
ムラサキはノートに書かれた文字を見て、涙を新たに落としながらも、ナツキの手をそっと取り、その温度を確かめるように握りしめた。指先同士のかすかな触れ合いが、ざわついた心を少しずつ鎮めていく。彼女は震えたまま問いかけるように目を伏せ、
「わたし……あなたのその想いを、裏切りたくない。でも、いつかきっと、人の姿を保てなくなる。あなたの前から姿を消すかもしれない。それでも……本当に、いいの……?」
問いかけの声はかすれていたが、ナツキを思う気持ちが切々と伝わる。その響きに、ナツキは迷わず首を振った。かろうじて蘇りかけた声をさらに奮い立たせ、小さく唇を開く。
「……消えは…させない…ぜったい…」
刹那、風が吹き抜け、谷間に鈴を振るような音がかすかに響いた。ナツキは瞬きをして息をのむ。ムラサキの胸元にある小さな袋――以前、修学旅行先でナツキが作って贈った『紫色のお守り』が、ほんのりと淡い光を放ちはじめたのだ。
光は紫色の布を透かすようにじわじわと広がり、最初は蝶の羽ばたきのような揺らめきを見せる。だが、よく見ると布そのものが糸になって解け始めているではないか。布の端からきらきらと細い繊が生まれ、まるで花びらが散るかのように舞い上がった。
次の瞬間、糸状の光は幾筋にも分かれ、薄い霧に溶けてはまた結び合いながら、ふわりふわりと二人の周囲を取り巻く。そして最後には、まっすぐ伸びていくように二人の小指へと寄り添っていった。
(これは……?)
ナツキが固唾をのんで見つめていると、それらの紫の糸は見えない力に導かれるように小指同士をゆっくり結びつけていく。まるで蝶の群れが姿を溶かし、一条のやわらかな光となって絆を編むかのようだった。その輝きは穏やかで、それでも確かな温かさを帯びており、ナツキとムラサキの心に深く染み渡る。
紫の布が完全にほどけ終わるころ、もはや巾着の形は残されていなかった。代わりに、指先をそっと結ぶ虹のような糸だけが、ほんのりと微光を放っている。まるで「あなたを想う祈り」が形を変え、はっきりと二人を繋ぎとめているかのようだった。
「……どうして、こんな……」
ムラサキはかすかに震える声で呟き、自分の指へ絡む光の糸を見下ろす。その瞳は戸惑いと、救われたような安心感とが入り混じった色をしていた。か細くなっていた彼女の輪郭が、ほんの少しだけ力強さを取り戻していくように見える。
ナツキもまた、その不思議な光に惹かれながら、自分の指先をそっと見やる。幻想的な奇跡に驚きつつも、決して不安ではなく、むしろ心の奥にじんわりとあたたかいものが生まれていた。以前、「あなたが幸せでありますように」そう書いてお守りに込めた気持ちが、今まさにここで力になっている――その事実が胸を震わせる。
呼吸を整え、ナツキは掠れそうな声を必死に奮い立たせるように喉を震わせた。
「……ムラサキ、もう……消えない、で……」
どこか儚げだった彼女は、ナツキの言葉に応えるようにきゅっと指を握り返す。小指に絡んだ光の糸が、ふたりの心の距離までも繋いでいるかのようだった。月明かりの下、その奇跡はやがてゆっくりと霧散していったが、ふたりの指先は離れることなく寄り添っていた。
ムラサキは自分の両手をまじまじと確かめ、唇を震わせる。そして、もはや掠れそうな声でナツキに言う。
「きっと……このお守りに込められた想いが、わたしを助けてくれてるんだと思う。あなたに出会えて、ほんとによかった……」
ナツキの胸にこみ上げるものがあった。声が失われていても、自分の祈りや願いがこうして届くのだと知ると、喉の奥が熱くなる。彼女はもう一度、遠慮がちにムラサキの手を握る。すると、先ほどまで途切れかけていたムラサキの温度が、はっきりと血潮を感じさせるほど伝わってきた。
谷間を吹き抜ける風が凪ぎ、しんと静まり返った空間に二人の呼吸だけが溶け合う。寄り添うように肩を合わせると、かすかに聞こえるのは湧き水のせせらぎと、互いの心臓の鼓動。湧きあがる感情に身を委ねるように、ムラサキはふっとナツキの肩に顔を近づける。
互いの息が触れるほど近づいた瞬間、まるで最後の一押しを誘うかのように、先ほどまで揺らいでいた紫の光が一瞬だけまた薄く瞬いた。ナツキはその合図を感じ取るかのように、声の代わりに残されたすべての想いをそっと唇に乗せる。ほんの一拍の躊躇ののち、ふたりはかすかに触れ合うように唇を重ね合った。
それは静かで、けれど確かに胸を締めつけるほど熱い口づけだった。声は失われても、その代わりに伝えられる感情があるのだと、ナツキは痛いほど思い知る。ムラサキの瞳に涙が滲むのがわかるほど、距離は限りなく近く、指先も強く絡み合ったまま離れない。
やがて唇をほどき、互いにかすかな呼吸を確かめ合う。視線をそらすより先に、深い安心感が二人を包んでいた。ナツキはもう一度、そっとムラサキの手を握り直し、小さく息を整える。
性別が変わり、声はいまだうまく出ない、研究施設の脅威もなお背後にある。それでも、どう在りたいかは自分たちで決めたい。ムラサキとこうして心を通わせる喜びを、いつまでも守りたい――ナツキはそう強く誓う。
深い闇が一層濃くなったころ、岩場を照らす月の光がさっと開け、ふわりと二人の姿を浮かび上がらせる。ムラサキは先ほどまでの不確実さは薄れ、瞳には確かな光が宿り始めていた。ナツキもゆっくり呼吸を整え、そっと微笑を返そうとする。その笑みはぎこちないかもしれないが、確かな思いを込めたものだった。
「……行こうか、ナツキ」
ムラサキが微かに触れるように袖を引く。二人の手は離れないまま、お守りから生まれた小さな蝶の奇跡も夜の闇へ溶けていく。しかし、その記憶は間違いなく二人の胸に宿り、強く結びつけていた。ナツキの胸にはもう一度、「あなたが幸せでありますように」という祈りが熱く灯る。
――そう、これから先にどんな困難が待ち受けていようと、もうくじけない。自分の存在が人か妖か分からなくとも、声が出にくくても、こんなふうに誰かと心を重ね合うことはできる。ナツキはゆっくりと頷き、まだ湿った足場に注意しながらムラサキと並んで歩き始めた。
闇の底へ沈む谷間には、やわらかな月が薄霧を透かしながら顔をのぞかせる。遠くから、九尾の狐が嘲笑とも励ましともつかぬ声を響かせたような気がして振り返ってみても、そこには何も見えない。ただ、白くたなびく霧が、行き先を祝福するように静かに広がっていった。
――お守りが導いてくれた光の蝶。それは、ナツキの願いと、ムラサキの消えかけた希望をもう一度しっかりと結び直してくれた。
夜はさらに深く、先の道のりも決して平坦ではないだろう。けれど、二人の指先は確かに繋がっている。声なきナツキの胸に宿った小さな勇気と、妖の身を抱えながらも寄り添いたいというムラサキの思い。ふたつの意志が一筋の光となり、これからの一歩を優しく照らしていた。
ここで一旦一区切りとしたいと思います。
ここまでお読み頂きましてありがとうございます。これからの展開は少し時間をかけて練っていきたいと思いますので、お待ち頂けたら幸いです。
もしこれまでお読み頂いて面白いと思って頂けましたら、評価を頂けますと幸いです。




