第二話 激痛の始まり
翌朝、ナツキが目を覚ますと、身体の重さとひどい倦怠感に襲われていた。喉はヒリヒリと痛み、頭が熱を持っているようにぼんやりしている。夜通しうなされていたようだが、その理由は明白だった。
(あの山で、あの黒い蝶の粉を吸い込んだから……)
そう思い返すだけで、胸の奥がざわつく。あの粉に何か変な成分でも含まれていたのか、それとも単なる風邪のようなものか――はっきりとはわからなかった。ただ、あの霧の中で粉を吸い込んだ直後から体調が急激に悪化したのは事実だ。
とはいえ、急に重篤な状態になるとも思えず、ナツキは無理を押して登校の準備を始める。シャワーを浴びようとしても、水滴が肌に触れるたび妙な刺激が走り、吐き気まで込み上げてきたため、早々に切り上げざるを得なかった。
両親は既に仕事へ出かけており、家には誰もいない。いつもなら気楽な一人暮らし感覚を味わえる時間帯だが、今日はその静けさがどうにも心細く感じられる。外へ出ると、朝の冷たい空気がわずかに頭を引き締めてくれたものの、頭痛は治まらない。息苦しさを抱えながら、なんとか学校までたどり着いた。
始業チャイムぎりぎりで教室に滑り込むと、隣の席の男子が「顔色悪いよ?」と心配そうに声をかけてくれる。普段なら「大丈夫」と笑って返せるはずが、この日は声がかすれてうまく出なかった。黒板を見つめるだけで目眩がし、クラスメイトの雑談が妙に耳障りに感じられる。ノートを取ろうとしても手が震えて文字が定まらず、不安は募るばかりだった。
2時間目、3時間目となんとか授業に耐え続けてみたものの、腹の奥をえぐるような痛みはどんどん強くなる。汗がにじみ、息をするたびに胸も苦しい。結局、3時間目が終わるころには立っているのがやっとで、机に突っ伏してしまった。
耐えきれず保健室へ向かおうと席を立った瞬間、胃袋を鋭く抉るような痛みが走り、思わず膝が折れる。廊下で転倒しかけたところをクラスメイトに支えられながら、ようやく保健室へ移動する羽目になった。
ベッドに横たわっても痛みは治まらず、呼吸すら苦しい。保健の先生が大慌てでどこかへ電話している声がかすかに聞こえ、「これはただごとじゃない」とナツキ自身もようやく事の重大さを自覚する。やがて廊下からサイレンの音が聞こえ、到着した救急隊員たちに抱えられるようにストレッチャーへ運ばれた。
救急車の車内で父親の姿を見つけ、ナツキは手を握られる感触に一瞬ほっとしたものの、すぐさま腹部と喉を圧迫するような苦痛が襲ってきて、思考がまとまらないまま病院へ到着。処置室でCTや血液検査、レントゲンなど一通りの検査を受けたが、担当する医師たちは困惑を隠せないようだった。
「炎症反応が出ていないし、内臓に異常も見つからない。腫瘍や盲腸の可能性も低そうだ。けれど、こんなに激痛を訴えている……」
医師同士がそう話しているのをかすかに耳にしながら、ナツキは痛みに耐える。結局、「痛み止めを使いながら様子を見ましょう」という、曖昧な結論に落ち着いてしまった。両親も駆けつけ、医師へ説明を求めるものの、「今のところ原因不明」という返事しか得られない。
ベッドに移されたナツキは、頭を抱え込んだ。昨日の裏山で吸い込んでしまった黒い蝶の粉――それが原因なのではないか、と何度も脳裏をよぎる。だが、いざ医師たちに話そうとしても、「そんな話をして信じてもらえるだろうか」と思うと尻込みしてしまう。数値として何も表れない以上、怪訝な顔をされるだけかもしれないのだ。
(本当に、あの粉のせいなんだろうか。でも何も検出されないなら、どうしようもない……)
夜が更け、両親が面会時間を過ぎていったん帰宅したあとは、病室にはナツキひとりが残された。冷たい蛍光灯の下、痛み止めでわずかに和らいだ腹部を抱えつつ、眠るとも眠らないともつかないまどろみを繰り返す。
そのたびに、あの霧に包まれた山道や朽ちた鳥居の光景がフラッシュバックし、黒い蝶の影が瞼の裏をよぎる。どうしてこんなことになったのか、答えは見つからないまま、ナツキはぼんやりと天井を仰いだ。そのとき、遠くであの鈴の音が聞こえたような気がした――。
こうしてナツキは「原因不明の高熱と腹痛」という曖昧な状態のまま入院し、次第に追い詰められていく。まさか、この先、さらに恐ろしい「変容」が待ち受けているとも知らずに。