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蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
学校編
19/21

第十九話 揺れる静寂と姿なき足音

 猿谷からの突然の告白を受けて、帰り道でムラサキに出会った日の夜――ナツキはまるで両足のつま先から力が抜けていくような感覚を抱えながら布団に沈み込んでいた。声を失った今の身体と心では、あの一言をどう受け止めればいいのか答えが見つからない。ノートにも言葉がまったく浮かばないまま、時間だけが白い虚無の中を流れていく。


 しかし、そんなナツキをムラサキは何も問わずにそばにいてくれた。心を乱していたナツキの腕をそっと支え、ただ歩幅を合わせて静かに寄り添ってくれただけだった。「無理して話そうとしなくていいから」と静かな声が耳に残っている。それだけで、薄く霧がかったような不安をほんの少し和らげてくれたと思えた。


 しかし翌朝、重たい頭のまま登校すると、教室の席で見かけた猿谷とどう接していいか分からなくなり、ナツキは思わず目を逸らしてしまった。猿谷もまた言葉少なげに鞄を抱え、ちらりとナツキの方を見たきり、何も話しかけてこない。ノートに「おはよう」と書いて手を振ることもできたはずなのに、今はもう筆が動かない。自然とそのまま時は過ぎていく。


 放課後、美術部へ足を運ぼうとしたナツキは、廊下で猿谷の姿を見かけたが、やはり声をかけられずにすれ違うしかなかった。先日までは一緒に並んで会話(筆談)していたのに、今は何かがくっきり遮られているかのようだ。ナツキは胸の内で小さく息を吐き、どうにもやり場のない寂しさを抱えたまま、美術部の扉を開けた。


 部室では蓮が奇妙な構図のスケッチをしており、エリが「ナツキさん、こっち見て! この色使いと思わないっすか?」と、明るく声をかけてくれる。ナツキはノートに「すごい いい色」と書いて笑みを向ける。こうして部員たちと何気なく過ごす時間は、まだ自分を救ってくれている気がした。筆を握れば、声が出せない不安から一瞬だけ開放されるようでもあった。


 数日が経つと、また猿谷とまともに会話できないまま、ぎこちない空気だけが伸びていく。ナツキは日記に「猿谷とは少し気まずい」と短く書いて、ページをめくる。声を持たぬ自分を受け入れてくれる男友達が戻ったようで嬉しかったのに、告白をきっかけに、まるで壁ができてしまった。ノートにそれ以上の言葉は浮かばず、綴りかけた文字を消しゴムで消しては、ため息をついて閉じるばかり。修学旅行以来、心に馴染んできた新たな日常に、無言の亀裂が生じているようだった。


 そんなある日の夕方、ナツキが下校しようとすると、家の前に車が止まっているのに気づく。見覚えのない黒い車体と、ナツキの両親が硬い表情で立ち話している姿が目に入り、胸がざわつく。足早に近寄ると、ドアを開けて出てきたのは、特殊疾患研究センターで見かけた男に似たスーツの人物たちだった。両親の顔は明らかに険しく、何か言い合っているようだが、ナツキが声をかけようとしても声は出ない。ノートを出そうにも、彼らは「では、また改めて連絡しますので」と低い調子で言い、そそくさと車を走らせて去っていった。


「……ナツキ、おかえり」


 母が振り返るも、その瞳には不安な光が宿っていた。いつもなら父が仕事で忙しく家にいない時間帯なのに、今日は揃って早めに帰宅していたらしい。ナツキがノートで何があったか尋ねると、両親は苦しそうに視線を交わしてから言葉を選ぶように答えた。


「実は、あの研究施設の人がね……またナツキの経過を見たいって言ってきてるの。お母さんもお父さんも断ったんだけど、どうも映像やデータを持っていて、ナツキがおかしくなっている可能性があるって言うのよ」


 母の声は震えていた。「おかしくなっている」とはどういうことなのか。ナツキはノートに「そんなわけない」と書く。父が大きく息をついて補足する。


「あいつらは、ナツキを尾行してたらしいんだ。プライバシーも何もあったもんじゃないが、勝手に映像を撮っている。そこには、おまえが何度も……誰かと会話しているような場面が映っているのに、映像上はずっと一人でいるんだと。つまり、独り言か妄想状態じゃないかって、彼らは主張している。最近だと一昨日の歩道橋からの映像を見せられた」


 ナツキの胸がざわつく。誰かと会話? 声が出ないのに、どういうことだろう――だがすぐに頭に浮かぶのは、ムラサキの顔だ。ナツキはノートに荒い字で「ムラサキが一緒だった」と書こうとしたが、ペン先が震えてうまく書けない。


 研究施設は「ナツキの精神面に重大な錯乱の恐れがある。然るべき処置が必要だ」と両親に迫っているらしい。父も母も断固として拒否したというが、あの施設が諦めるはずもない。尾行されているとなれば、今後も何をされるかわからない。胸がざわつくまま、ナツキは家に入ってリビングへ向かった。そこでも両親からさらなる話を聞かされる。


「……あの日の試合の帰り道も、他の日の帰り道も、映像にはナツキしか映っていないって。ナツキが誰かに向かって筆談しているように見える場面も、ずっと一人きりだったって。……お母さんも信じられないけど、施設は『錯覚を起こしてる』って言うのよ」


 まるで血の気が引くような感覚を覚えた。ムラサキが確かにそばにいてくれたのに、映像には映っていない? 錯覚? そんな馬鹿なことがあるだろうか。ナツキは首を横に振り、ノートに「一緒にいたはずだよ」と書きつける。両親は首をすくめ、「お父さんもそう信じてる」とぽつりと言うが、その表情は曇ったままだ。


 翌日、ナツキは学校でも落ち着かない。研究施設に尾行されていたかもしれないという恐怖と、『誰かと会話しているようだが相手がいない』という話が頭を混乱させる。ムラサキと歩いた時間……あれは紛れもなく現実なのに、なぜ映像には映っていないのか。一体何がどうなっているのか。声が出せないままのもどかしさが、ますます胸を締めつける。


 昼休み、ナツキは教室でエリとレンカに筆談ノートを見せ、「ムラサキについて聞きたいんだけど?」と書いてみた。すると二人は顔を見合わせ、「ムラサキ? そんな名前の生徒、うちのクラスにいたっけ?」と首をかしげる。ムラサキは別のクラスだとナツキは認識していたが、少なくともエリやレンカが全く知らないはずはないと感じていた。しかしエリは「ごめん、分かんないかも。ほかのクラスメイトに聞いてみたら?」と答え、レンカも困惑したように首を振るだけだ。


 ならばと休み時間に他の生徒にも尋ねてみるが、「ムラサキ? そんな人いたかな……」とみな曖昧な反応。思い切って烏丸先生に尋ねてみるが「そんな名前の生徒はいない」と返されてしまった。


 茫然としたまま時間が過ぎ、放課後。ナツキは下駄箱の前で途方に暮れていた。ムラサキは、確かに修学旅行で一緒に回ったし、大浴場でも隣にいた。お守り作りも、一緒に体験したはずなのに――エリやレンカ、ほかのクラスメイトもその事実を忘れている。それどころか「そんな名前の子はうちの学年にはいない」とさえ言われている。


(あれ、エリやレンカ達がいる時にムラサキも一緒にいたことがない.....? いや、そんなはずはない。きっと、覚えてないだけだ)


 心臓がじんわり痛む。もしかすると、研究施設が指摘するように、自分が本当に狂ってしまっているのだろうか。ムラサキの存在そのものが錯覚だった? いや、あの温かい笑みや、筆談ノートを通じて交わした言葉は、まぎれもない現実だった――そう信じたいのに、誰もが「知らない」と口を揃える事実。日記にも何度も『ムラサキがこう言ってくれた』と書いているが、それすら妄想なのか?


 昇降口を出ると、風がひんやりと頰を撫で、曇り空の下で光がますます薄れている。まるで世界が遠のいていくような感覚に襲われながら、ナツキは耐えきれないほどの不安を背負って歩き出した。つい数日前まで、ムラサキは確かに近くにいてくれた。それは猿谷の存在とはまったく別の形で、ナツキの心を支える大きな存在だったという確信がある。それなのに、そんな彼女を誰も知らないと言う――この状況をどう解釈すればいいのか、まったく見えない。


 研究施設の映像、両親への圧力、「学校にそんな名の生徒はいない」という皆の言葉……それらが重なり合い、声にならない叫びが喉にせり上がる。ナツキはまるで薄暗い霧の中を歩いているような気分だった。自分の身に何が起きているのか確かめようにも、声が出せず、問いかけのノートを突きつけても、周囲の反応は塩対応か困惑しか返ってこない。


(ムラサキは……本当にどこにいるんだろう……?)


 一歩、また一歩と校門を出る。茜色にさしかかるはずの夕空は、どこまでも灰色を帯びて低く垂れこめ、風が冷たさを増してきた。まるで、『ここから先は今までの世界じゃない』と告げられているような不穏な空気を感じる。ナツキはゆっくりと唇を引き結び、声を出せないまま心の中で問いかけるしかない。

ムラサキの姿がなぜ映像にも記録にも存在しないのか。そして彼女は、いったいどこへ消えてしまったのか――。

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