第十八話 思いの丈
雨の予報が外れて、ナツキは教室の窓際の席で小さく伸びをしてから、引き出しの奥にしまってある日記帳へ手を伸ばした。すっかり習慣化している日記も、気になったことがあった時には隙を見つけては思いのたけを付け加えている。紙に文字を走らせることで心が解ける瞬間もあるから、彼女にとっては大切な習慣だった。
その日も朝のホームルーム前に数行だけ日記を綴り、「昨日のこと」「きょう感じたささいな不安」を書き留める。声が出せないぶん、日記は自分自身との会話でもあった。とりとめのない言葉が散らばるなか、思いがけず「猿谷」という新しくできた男友達の名を書き加えると、くすぐったいような気分になって筆先が止まる。
猿谷とは、いつのまにか自然とコミュニケーションをとるような仲になり、困った時など細やかな優しさで支えてくれる存在へと変わっていった。声が出せない自分と会話するにはノートを使うしかないが、彼はそれを苦にしないらしく、拙い文字で「ありがとう」と書き出すとすぐに穏やかに笑ってくれる。そうしたやりとりを重ねるうち、ナツキは彼との『友情』を少しずつ確かなものと感じ始めていた。
ちょうどホームルームが始まるチャイムが鳴り、ナツキは日記帳を引き出しにしまう。担任の烏丸先生が出欠をとる間、クラスメイトたちがバラバラと返事をする声が耳に届く。ナツキは相変わらず声を出せないので、指で文字を示す仕草が「返事」の代わりだ。しかし、その行為にもすでに慣れたらしく、特段の視線を集めることはなくなっていた。ほんの数か月前、学校に復帰してまもなくは誰もが彼女にどう接していいのか迷っているようだったが、今では当たり前の日常に解け込んでいる。その空気が、ナツキにはかえってありがたかった。
午前中の授業が終わって昼休みを告げるチャイムが鳴ると、いつものようにクラスメイトたちが各々の昼食へ散っていく。ナツキは席を立ちかけたところで、隣の男子たちが話題にしている「剣道の試合」という言葉にふと耳をとめた。そこには猿谷の姿がある。彼は剣道部に所属しているという話を以前に聞いた覚えがあった。
「猿谷、今度は県大会だろ?」「優勝目指せよ!」と冷やかすように言われ、猿谷は「まあ、がんばるよ」と少し戸惑いながら笑っている。ちょうど目が合った瞬間、彼は気まずそうに少し口を開きかけたが、タイミングを失ったのか言葉を飲み込み、また周囲との会話に戻ってしまった。ナツキはノートを抱えつつ「県大会なんて凄いなぁ」と内心気になりながらも、無理に入り込むのはためらわれ、そのまま教室を後にした。
放課後になると、天気が下り坂という予報どおり、灰色の雲が空を覆いはじめた。ナツキは美術部のアトリエに足を運び、蓮の指導のもと、絵を描く練習を少しだけ続ける。筆と色を重ねるにつれ、心の奥に潜んでいる不安や焦燥がほぐれていく気がした。傍らにはエリが新作イラストの下描きをしていて、「ナツキさん、ここの陰影どう思います?」と話しかけてくる。ナツキはノートで拙い返答をし、二人でくすくすと笑いあった。
部活が終わって外へ出ると、校庭には細かな雨が落ちていて、うっすらと地面を湿らせている。昇降口で靴を履き替え、やれやれと思いながら静かな校門へ向かって歩いていると、背後から足音が追いかけてきた。
「ナツキ!」
低めの声に振り向くと、息を切らせるようにして駆け寄ってきたのは、やはり猿谷だった。彼は急に立ち止まって呼吸を整え、「あ、あのさ……」とどこか恥ずかしそうに言葉を探している。ナツキはノートを取り出して「どうしたの?」と書き示すと、猿谷は唇をもぞもぞさせ、意を決したように続けた。
「今度の土曜日、部活の公式戦があるんだ。……もし、よかったら、見に来てくんないかな?」
その一言に、ナツキは目を瞬かせる。声が出せないぶん、ノートの上で文字を探すように目を走らせる。試合に来てほしい、つまり応援してほしいということだろうか。かつての男の自分であれば、おそらくもっと気軽に誘われる関係だったかもしれないが、見た目だけは女子の自分に頼むのは、多少なりともぎこちなくなるのだろうとナツキは思った。ナツキは軽い戸惑いを押し込めて「行けたら行くね」と書いた。
「もちろん無理はしないくていい。……でも、うちの部の試合なんて、あんまり見に来てくれる人いないし……君が来てくれたら嬉しいなって、思っただけ」
猿谷の瞳には緊張の色が浮かんでいる。声にならない自分でも応援に行っていいのだろうかと迷う気持ちをこらえつつ、ナツキはノートに「わかった。都合つけてみる」と返した。猿谷はそれを読み、微かに顔をほころばせると「ありがと」と小さく言った。その一瞬の笑顔に、こちらまで照れくさい気分が込み上げてくる。細やかな雨の音とともに心臓の鼓動がはっきり耳に届きそうな沈黙が過ぎたのち、彼は「じゃあ、また明日」とだけ付け足して校門を出ていった。
やがて雨音が少しずつ強まり始め、ナツキは上着をかざすようにして急ぎ足で家へ向かう。誰かに純粋な期待を向けられるのは、声を失った自分には久しくなかった感覚でもあり、どこかあたたかな喜びが湧いてくるのを感じた。
週末。天気は回復し、薄い雲間から朝日に近い光が射している。ナツキは学校から電車を乗り継ぎ、会場である市立体育館へ足を運んでいた。中へ入ると、すでに多くの高校生剣士たちが行き交い、道着や防具の音が響いている。緊張感と汗の匂いが混ざった独特の空気に、ナツキは少し息苦しさを感じながらも、なんとか観客席へ向かった。
どこに座ればいいのか迷いながらキョロキョロしていると、同じクラスの男子を含めて数人集まっているのが視界に入る。どうやら「猿谷の応援に来た」という仲間たちらしい。ナツキは少しだけ安堵し、隅のほうの席に腰を下ろすと、視線をコートへ向ける。剣道の試合を間近で見るのは初めての体験だ。防具を装着した選手たちが激しく打ち合い、面を取り合う声が体育館にこだまする。その迫力に、ナツキは思わず身をのけぞらせ、唾を飲み込んだ。
やがて猿谷が登場する試合の順番が回ってくる。彼は面を装着しながら視線を巡らせ、観客席のほうをちらりとうかがうそぶりを見せた。その一瞬、ナツキと目が合ったのかもしれない――防具越しで表情は見えないが、何かが通じたような気配がする。ナツキは声が出せないぶん、両手をぎゅっと重ねて彼を見守るしかなかった。
試合が始まると、体育館には鋭い掛け声と打突音が響き渡る。猿谷は思っていた以上に果敢な攻めで相手を翻弄していた。迷いのない踏み込み、素早い動き――普段見せる穏やかさとはまるで別人のような迫力だ。その姿に、ナツキの胸は高揚していく。息をするのも忘れるほど集中し、ノートを持つ手が汗ばんでくる。やがて「面!」という審判の声が上がり、猿谷の一本が決まった。クラスメイトたちが歓声を上げるが、ナツキは声を出せないまま拍手を送る。心臓の鼓動が自分でも驚くほど速くて、白熱した試合に興奮していた。
結果として、猿谷は順調に勝ち進み、準々決勝まで駒を進めたものの、惜しくも敗退した。それでも県ベスト4という堂々たる戦いぶりに観客席からは大きな拍手が沸きあがり、仲間たちも「すごかった」と口々に称える。ナツキは文字の代わりに懸命に手を叩き、精一杯の賞賛を送った。すると、面を取って汗を拭っている猿谷と視線がかち合い、彼がわずかに微笑んだように見える。
大会のあとは学校ごとに解散となり、多くの生徒が電車やバスで帰途についた。ナツキも会場の外で一息つき、これから帰ろうかと思ったそのとき、不意に背後から声をかけられる。
「ナツキ、ちょっといいかな……」
振り返ると、道着の上にジャージを羽織った猿谷が、気まずそうに視線をそらしながら立っている。試合後の汗がまだ残っているのか、髪の生え際が少し湿って光っていた。ナツキはノートを開きかけたが、彼は「話したいことがあるんだ」と言葉を継ぎ、周囲を見回すように目を走らせる。どうやら人目の少ない場所へ誘いたいらしいと察し、ナツキは首をかしげるようにして小さくうなずいた。
会場の隣にある小さな公園――大会関係者が行き来するメイン道路からは外れた場所を、二人は並んで歩いた。時刻はまだ午後の早い時間だが、曇天のせいで街全体がやや暗く、人気のない公園には風に揺れる木々のざわめきだけが響いている。ベンチや砂場が見えるものの、休日だというのに子どもの姿さえ見当たらない。そんな沈んだ空気の中、猿谷は「こっち……」と奥のほうへ誘導し、錆びた遊具からほど遠い場所でようやく足を止めた。
しばしの沈黙。ナツキはノートを開いたまま、何かを書こうか迷ってペンを握りしめる。目の前の猿谷の表情は、どこか決心めいたものが伺えた。やがて彼は唇を一度噛み、掠れた声で言う。
「……試合を見に来てくれて、ありがとな。すっごく嬉しかった。勝てなかったけど、ナツキが応援してくれると思うと頑張れたし、いつも以上に力出せたんだ」
ナツキは「どういたしまして」とノートに書こうとするが、彼はそれを制するように手を挙げる。そして、深呼吸をするように肩を上下させたあと、一気に言葉を口にした。
「オレ……お前のことが、好きなんだ」
その声は緊張で震えていたが、はっきりと届く。脳裏で「あれ?」と思う間もなく、ナツキの思考は一瞬で真っ白になる。告白――その言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。声を出せない自分に対して、しかも女性化した身体を抱える自分に対して、まさかそんな言葉を聞く日が来るなんて想像もしていなかった。胸が強く波打ち、ノートを持つ手がこわばる。
「お前は戸籍上は男だって知ってる。でも……今の姿を見てると、どうしても 『可愛い』って思っちまうんだ。声が出せないことだって、全然気にしてない。むしろ、もっとちゃんと支えたいって思ってる」
雨上がりの空気をかき分けるように、猿谷の言葉が次々と胸を刺してくる。ナツキは驚きと混乱で、返事どころか顔も上げられない。頭の中では何かを必死に考えようとするが、言葉が渦を巻いてまとまらない。自分が誰かに「好き」と言われる未来など予想していなかったし、その対象がクラスメイトの男子であることに、戸惑いや困惑が拍車をかける。
ノートに何か書かなければ――そう思っても手指が震えてペンを動かせない。気づけば頬が熱くなり、視界が少し滲んでいる。「でも、そんなの無理だよ」「自分は女性なのか男性なのか分からないのに」「そもそも体も変わってしまっているのに」――あれこれ言い訳じみた思考が頭を巡るが、声にならない苦しさがさらに動揺を大きくする。
「ごめん、急だったよな……でも、黙っていられなかった。友達以上に思ってる自分がいて、試合でお前が来てくれたとき、改めて本気だって思ったんだ」
猿谷は自嘲気味に笑い、ナツキが何も書かないのを見て、表情を一段と曇らせる。
「迷惑だよな、こんなこと……」
その声音があまりにも悲痛で、ナツキは呼吸が詰まる思いになった。自分でさえ整理できていないアイデンティティの問題や、心の叫びをどう伝えればいいのか分からない。声を失った現実が、いまほど恨めしく感じたことはなかった。
(でも……返事はしなきゃいけない)
心のどこかでそう叫ぶ声がし、ノートへペンを動かそうとする。だが、何を書けばいい? 断るのか、迷うのか、それとも……。胸が痛くなるほど苦しくて、どれほど文字を並べようとしても言葉が出てこない。結局、かすれた字で「わたし……」と書きかけてペンが止まる。あまりの沈黙に耐えかねたのか、猿谷が声を漏らす。
「いいんだ、急に答えなんて出ないよな。……ごめん、引かせちゃったよな。でも、これだけは分かってほしい。お前が思うよりも、オレは本気で……」
それきり言葉が途切れ、二人のあいだに重たい空気が落ちた。湿った風が通り過ぎて、木々の葉をさやさや揺らす音が耳に染みる。ナツキは唇を噛み、どうしようもない戸惑いを抱えたまま、ノートを閉じた。
代わりに頭の中に浮かぶのは、ムラサキの笑顔だ。声が出せない自分をいち早く受け止めてくれ、修学旅行で一緒に湯船に浸かり、お守りを贈った相手。あの夜に感じたぬくもりは、ただの友情なのか、それとも――。胸が苦しくなるのを覚え、ナツキは何も言い返せないままその場に立ち尽くす。返事をしないまま時間だけが過ぎていき、猿谷も「……ごめん。今日はこれでいいや。ありがとう」とだけ言い残し、背を向けて歩き出した。
やがて足音が遠ざかり、公園にはナツキ一人が残された。告白――それは通常ならば心を浮き立たせたり、あるいは迷惑に思ったりするものかもしれない。だが、自分の場合は身体や声の問題が複雑にからんで、簡単に「ありがとう」や「ごめん」を伝えることすらできない。どこへ行けばいいか分からない思考の迷路の中、ナツキの視界はぐらぐらと揺れる。
(ムラサキ……)
その名を思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。猿谷を拒絶したいわけではない。けれど、誰かを「好きになる」想いを真っ向から受け止める準備は、まだできていない。反対に、自分はムラサキのことをどう思っているのか、それさえもはっきり言い表せずにいる。答えのない問いが連なり、呼吸をするのも苦しくなる。
結局、気持ちが乱れたまま公園を出て、まっすぐ帰路につける気がしなかった。適当にバスを乗り継ぎ、遠回りするように駅へ向かっているうちに夕暮れを迎える。空は薄紫色の雲に染まり、街の灯りがぼんやりと点りはじめていた。人気の少ない歩道橋を上り、夕闇に沈む街並みをぼんやりと眺めていると、不意に背後から足音が聞こえてきた。
「ナツキ……?」
振り返ると、そこにムラサキが立っていた。私服の上に薄手のジャケットを羽織り、少し息を切らしているようだ。どうしてこんな場所にいるのだろう――と不思議に思ったのも束の間、彼女はナツキの顔を見るなり、はっと眉を寄せた。
「大丈夫……? 何かあったの?」
その声に、ナツキの喉がきゅっと締まる。声を出せない自分を誰よりも自然に受け止めてきた彼女だからこそ、顔を見ただけで異変に気づいたのかもしれない。ペンを持つ手が、猿谷の告白を思い出して震える。けれど、そんな感情の嵐をどう言葉にすればいいのか分からない。
ムラサキはそっとナツキの手を取り、歩道橋の端へ寄るようにうながす。その仕草はいつものように優しく、それでいてどこか切なげな雰囲気をまとっていた。淡い街灯の光のもと、彼女の瞳が濡れたように揺れているのが見える。
「……話せないなら、話さなくてもいいよ。ただ、苦しいなら無理しないで」
その言葉に、ナツキは思わず瞼を閉じる。途端に、まるで溢れるように感情が胸をせり上がってきそうになった。呆然としたまま、手を合わせてノートを抱きしめる。声が出せない痛みと、それでも誰かに「好きだ」と告げられた衝撃――そして、ムラサキがすぐ目の前にいてくれる、この不思議な運命。どれだけ悩んでも、いまは彼女の存在を頼るしかなかった。
街の向こうから夜の帳が降り始める。歩道橋の下を車のライトが流れていき、人々の雑踏が遠くに感じられる。その高架の上で、ムラサキはただナツキの手を離さずにそっと寄り添ってくれる。声を出せない苦しみのすべてを抱きしめるような沈黙のなか、二人の影が深く結びつくように重なった。
ナツキの視界には、紫色の夕闇と、ムラサキの瞳が映っている。言葉はいらない――そう感じるほどに、心が激しく脈動していた。猿谷の告白に揺れながらも、今はただ、ムラサキがここにいる現実に救われたくなっている。自分がどう在りたいのか、その答えは見えないままだが、少なくともこの一瞬、誰にも奪われない暖かさが胸の奥で確かに息づいていた。