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蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
学校編
17/21

第十七話 かすかな彩り

 学校の廊下を一歩踏み出すと、ナツキの胸にはほんの少しだけ期待がわいていた。昼休みになれば、美術部のアトリエへ顔を出す。蓮とのやり取りがきっかけとなり、最近のナツキは、週に数回ほど空き時間を使って美術室へ寄る習慣ができつつあった。


 以前は、声が出せず授業に出ることさえどこかぎこちなく感じていたナツキ。クラスメイト、蓮の言葉、そして何よりもムラサキの支えにより、今の自分を受け入れる土台が少しずつ整い始めたのか、表情にはかつての硬さが薄れ、日常生活にも小さな余裕が生まれている。


 朝のホームルームが終わり、休み時間になるとナツキは筆談ノートを抱えたまま、窓の外を見下ろした。昇降口を行き来する生徒たちの声が、どこか穏やかに聞こえる。最近はクラスの輪の中でも、自然な笑顔が出せるようになった。周囲から向けられる視線にはまだ戸惑うこともあるが、少なくとも以前のような孤立感に苛まれることは減っている。


 そんな想いを胸に、ナツキは静かに席を立った。次の授業は家庭科室での調理実習だ。スケジュール帳に目を落としながら、調理実習のテーマが「和食」ということを思い出す。包丁を握るのは得意ではないが、なんとかやり遂げなければ——そう自分に言い聞かせ、廊下へと足を進めた。


   


 家庭科室には、すでに班ごとに分かれた生徒たちが集まり、エプロン姿で賑わっている。窓際の調理台を囲むと、レンカとエリが「材料は揃った?」と声を掛け合い、ほかのメンバーも手際よく準備を進めていた。


 ナツキはエプロンの紐を気合を入れて結び、包丁を取り出すものの、不慣れな手つきはぎこちなく、計量スプーンやボウルといった用具も置き場に迷ってしまう。おまけに、皮を剥かないまま野菜をきったり、下ごしらえの段取りもままならい状況だ。


「……ナツキ、分からなかったら遠慮なく言ってな」

 レンカが気遣うように声をかけるが、ナツキは申し訳なさそうにぎこちなく笑顔を返すだけだ。エリは忙しなく鍋等器具の準備をしており、同じ班のメンバーもそれぞれ作業に没頭しているらしく、ナツキをフォローする余裕はなさそうだった。


 そのとき、隣の調理台から一人の男子生徒がひょいと近寄ってきた。少しだけ垂れ目気味の顔立ち——ナツキの記憶にあるのは、修学旅行の班決めのときに「男子同士だろ?」と話しかけてきた猿谷秀士さるや しゅうじだ。


「それ、大丈夫?」

 戸籍上の性別からか、猿谷は男子同士で対応しようとしていたらしいが、今はそのときほど強引な態度ではない。ナツキがノートを持ったまま困っているのを見て、彼は遠慮がちに口を開いた。

「包丁、苦手? もしよかったら切り方教えようか。うち、料理屋なんだ。だから慣れてるし……」


 ナツキは素直にうなずき、ノートへ「ありがとう」と書き込んで見せた。猿谷はそれだけでホッとしたように微笑み、「じゃあ最初は猫手に材料を押さえつつ包丁を動かす感じで……」と手本を示す。魚の下処理や野菜の切り方まで、手際よく教えてくれる姿は、さすが料理屋の息子といえる手慣れたものだ。


「うん、そうそう。ゆっくりでいいから、右手の角度をこうして……」

 そばで猿谷が根気強くフォローしてくれるうちに、ナツキは何とか包丁を動かし、野菜を均一な大きさに切ることに成功する。最初こそ緊張で息が詰まったが、まわりでレンカやエリが褒めてくれたり、猿谷が「お、いいじゃん!」と励ましてくれたりするおかげで、ナツキはいつしか自然と笑顔になっていた。


 ようやく下ごしらえを終え、鍋に具材を入れて出汁を注ぐ段になったとき、ナツキは彼に向けてノートを掲げて笑いかける。


「ありがとう。おかげで助かった」


 その短い言葉と表情を受け止めた猿谷は、一瞬、息を飲むように固まった。周囲が鍋の湯気や包丁のトントンとした音でにぎやかなのに、彼だけがぽつんと動きを止めている。その頬にかすかな赤みが差し、ナツキの「ありがとう」が胸をかすめたらしい。


「……い、いや、俺は大したことしてないよ!」

 猿谷は慌ててそう答えると、妙に意識してしまったのか、すぐさま自分の調理台へ戻っていった。その背中を見送りながら、ナツキは首をかしげる。多少挙動不審ではあるが、手を貸してくれたことには素直に感謝している。いつもは男子グループとつるんで騒がしくしているように見えた猿谷が、こんなに丁寧に教えてくれるとは思わなかった。


 ほどなくして調理実習は佳境へ入り、班ごとに味付けや盛り付けを仕上げ、みんなで試食タイムとなる。野菜の煮え具合や魚の火の通り方など至らないところも多いが、初めてにしては及第点といえそうだった。クラスメイトの笑い声や「おいしいね」という声が飛び交い、家庭科室は活気に包まれる。


 そんな中、ナツキはちらりと猿谷のほうへ目をやり、「さっきのお礼をもう一度ちゃんと言いたいな……」と考えていた。けれど筆談ノートを出す間もなく、彼は仲間に呼ばれて盛り上がっている。結局この日は深く話をすることもなく、片づけの時間へ移り、調理実習は無事終了となった。


     


 それから1週間後。放課後の校庭では、運動部の掛け声やらボールを打つ音が響いている。一方、ナツキは美術室へ向かう前に、職員室へ書類を届ける用事を思い出し、階段を降りていた。書類が入ったファイルとノート、さらに自分の荷物を抱えると、意外と重量があり腕がプルプルする。途中で落としそうになり、思わず片手を壁についた。


「大丈夫? これ、持つよ」

 声をかけてきたのは猿谷だった。ナツキが振り向くと、彼は鞄を片手に下校途中のようで、階段からこちらを覗き込んでいる。あまりに自然な申し出だったため、ナツキは一瞬言葉を失いそうになったが、やがてノートを取り出した。あれからナツキはこの塩谷とちょくちょくやりとりをするようになっていた。


「助かります。ありがとう」


 そのひらがなだらけの短い文章と、かすかな微笑みを見せられた猿谷は、先日の調理実習のときと同じように、顔を赤らめながら荷物を受け取る。表情に戸惑いが浮かんでいるのがはっきり分かるが、実際、声が出ない自分に躊躇なく手を貸してくれるのはありがたい。級友とのコミュニケーションを感じられるのは久しぶりで、ナツキは胸に小さなあたたかさが広がるのを覚えた。


「どこまで運べばいい? 職員室?」

 猿谷は少し緊張しつつも、荷物を丁寧に抱え直す。ナツキは頷き、二人は並んで廊下を歩き出した。途中、何気ない会話こそないものの、猿谷はちらちらとナツキの方を伺いながら、時折にこっと笑いかけてくる。ナツキも猿谷の話に、微かな目礼を繰り返すだけに留めていた。


 職員室前で書類を無事提出すると、猿谷が「じゃあ俺、もう帰るから」と荷物を返してくれる。ナツキは深くお辞儀をして「ありがとう」の意思を示した。猿谷は「う、うん」と言い残して足早に廊下を去り、その後ろ姿にはまだどこか落ち着かない様子がにじんでいる。ナツキはその背中を見つめながら、ふと微笑んだ。以前の自分ならこんなふうに接すること自体が気まずく思えたかもしれないが、今はむしろ「男友だちができたかも」と喜びを感じている。


 それに何より——自分が何者でも、こうして自然に関わってくれる人はいるのだ。ナツキの世界は少しずつ広がりつつある。声は戻らず身体も変わったままだが、だからといって立ち止まる必要はないのだと、心のどこかで確信を深めていた。


     


 夕暮れどき、ナツキは美術室の扉を開ける。中には蓮がスケッチを眺め込んでいる姿と、エリが絵の具を整理している姿があった。ナツキが「お邪魔します」と言わんばかりにノートをちらつかせると、エリは手を振って応じ、蓮は振り向きざまにニヤリと笑う。


「来たね。今日は何か描きたい気分?」

 ナツキは曖昧にうなずきながら、部屋の隅にあるイーゼルを借り、紙をセットする。蓮やエリに簡単な挨拶をすませ、筆を握りこんでみると、胸が少しだけ高鳴るのを感じる。色彩を重ねることはまだ慣れないし、完成させるあてもない。けれど、何かを表現しようと筆を走らせる瞬間には、不思議な開放感が生まれる。

 

 あれほど閉ざされていた自分の中にも、わずかながら「こんな絵を描いてみたい」という欲求があるのだと知ったのは、つい最近のことだった。真っ白な紙に好きな色を選び、思うように塗ってみる。上手か下手かよりも、手を止めず動かしていくうちに、自分の思考や感情が少しずつほぐれていくような気がした。


「ふむふむ。ここはざっくりとシルエットで確認すると、バランスの整った絵になりやすいよ」

 蓮が隣で軽く助言をくれる。ナツキは筆を持ったまま、振り返りざまにノートを開いてささやかに「はい」とだけ書き込んだ。蓮は満足そうに目を細め、その場でスケッチを続ける。


 窓の外では夕陽が校庭を染め、部活終わりの生徒たちがあわただしく門を出ていく。美術部のアトリエには静謐と絵の具の匂いが漂い、ナツキの心もまた、ほんのりと満たされる。


 修学旅行や妖怪との遭遇、研究施設からの脅威——それらが依然として不安の種であることに変わりはない。けれど、日々の中には確かに光がある。手を差し伸べてくれる人がいて、絵を描く場所があって、そして男友達と呼べる存在さえ芽生えはじめている。ナツキはそれを素直に受け止めようと思った。悩みながらでも前に進むことができるかもしれない——そう信じるだけで、世界はほんの少し色づいていくのだから。

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