第十六話 抱えていた最後のピース
修学旅行が終わり、学校にいつもの日常が戻ってきた。朝のホームルームでは先生が「京都の思い出を各自まとめておくように」と言い、クラスメイトたちはお土産話に花を咲かせている。そんなざわめきの中、ナツキは教室の窓際の席で筆談ノートを机に置いたまま、ふと小さく息を吐いた。
旅館の大浴場でムラサキと手を取り合い、お守り作り体験では自分の想いを手渡すことができた。あのときの安堵と温もりが胸に残っているのは確かだ。けれど、今までナツキに降りかかった様々な現象は、そう簡単に消えてはくれない。楽しかった修学旅行の余韻に包まれながらも、ふいに心に影がさすのを自覚し、ナツキは視線をノートに落とした。
そんな気持ちを拭えないまま、ホームルームが終わると隣の席からエリがひょいと顔を出す。
「ナツキさん、お昼休み空いてますか? ちょっと美術部に来てほしいんすよ」
いつも屈託なく笑うエリの誘いに、ナツキは首をかしげる。ノートへ「美術部?」と書いて見せると、エリはまぶたをぱちぱちさせながら、小声で付け足した。
「うちの部長が、ナツキさんのこと前から興味あるって言ってて。……あ、変な意味じゃないっすよ、うちの部長はちょっと変わり者だけど悪い人じゃないんで」
それは修学旅行前から何となく聞いていた話。美術部部長である白蛇 蓮は、天才肌の絵描きとして有名だが、とにかく言動が突拍子もなく変人の噂が絶えないという。でも、エリはその部長を尊敬しつつも面倒を見ているようで、「とにかく一度会ってあげてほしい」と何度か勧められていたのだ。ナツキは軽くうなずき、ノートに「分かった」と書く。それを見てエリは嬉しそうに笑った。
昼休みになり、エリに連れられて美術部部室へ向かう。校舎の端にある古い部室棟を抜けると、扉の向こうから絵の具や油彩独特の匂いが漂ってきた。エリが「失礼しまーす」と声をかけ、中へ入ると、そこにはさほど広くもない空間にキャンバスやスケッチブックがあふれ、ところどころに描きかけの作品が立てかけられている。
その真ん中、床の上に胡坐をかいて座っている長身の少年がこちらを振り向いた。肩まで伸びる髪をヘアゴムで無造作にまとめ、淡々とした目つき。けれど、その瞳にはどこか独特な光が宿っている。
「部長、連れてきましたよー。こちら、楠ナツキさんっす」
エリが紹介すると、白蛇蓮はナツキをまっすぐ見つめ、ゆるりと口角を上げた。
「なるほど……。ふーん」
一見すると失礼に見えるほどの品定めだが、ナツキにはなぜか不快感がわかない。むしろ蓮の視線は厳しさより、興味と好奇心が混ざり合ったような曖昧な温度を帯びている気がする。エリが少し気まずそうに「部長、あんまり変なこと言わないでくださいよ」と釘を刺すと、蓮は肩をすくめた。
「悪い悪い。でも 『これは興味深いな』って思っただけだよ。――いらっしゃい、楠さん。俺は白蛇蓮。好きに呼んでくれて構わない」
淡々とした声。その口調はどこか飄々としているが、つい笑ってしまうような人懐っこさも漂わせていた。ナツキはノートに「蓮先輩、はじめまして。よろしくおねがいします」と書いて見せる。蓮は少し目を丸くしたが、すぐ納得したようにうなずく。
「ああ、声が出せないって話は聞いてる。でもノートがあれば十分通じるから問題ないだろ。にしても、噂どおり、君の雰囲気は面白いね」
「面白い」という言葉に、ナツキは少しだけ警戒心を抱く。研究施設の連中も「興味深いサンプル」などと、まるで人間扱いしない物言いをしていたからだ。しかし、蓮の場合は、嫌悪や研究対象としての目とは違うように感じられる。不躾ではあるが、そこに嘲りのような悪意はなかった。
「実はさ、エリからナツキという子がちょっと特別な存在感があるって聞いて、ずっと会ってみたかったんだ。……自慢じゃないけど俺、選り好みが激しい性質でね」
蓮はスケッチブックを脇へずらし、身を乗り出すようにして続ける。
「だからといって変な意味じゃないよ。ただ、興味が赴くままに何か描きたい衝動に駆られるっていうか……俺の勝手な都合だけど。ちょっとでいいからモデルになってもらえないかな?」
確かに奇妙な頼みだ。だが、ナツキは断る理由も見当たらなかった。蓮が言う「描きたい」という衝動には、嘘偽りのない好奇心しか感じられない。ノートを開き、「少しだけなら」と書いて同意すると、エリは「わ、ありがとう!」と手を叩いて喜ぶ。
「いやー、助かるっす! 先輩、こんななんともないように言ってますけど、子供みたいにずっと 『描きたい、描きたい!』言ってて、でもナツキさんにどう説明すればいいか悩んでたんですよ」
そう言ってエリが気を遣うように立ち回るうち、蓮は床に置いたスケッチブックを取り上げ、「そこらの椅子に座ってくれない?」とナツキに促す。隅にあったパイプ椅子を引き寄せ、ナツキは腰かけた。一方、蓮はスケッチブックを膝に乗せ、手を動かす態勢を整える。予備の鉛筆を一本加えてから、ナツキの姿を鋭い瞳でとらえた。
「……そんなに緊張しなくていい。普段どおりの姿でいてくれればいいよ」
蓮の声とともに、カリカリという鉛筆の音が始まる。部室の窓から差し込む光が、蓮の髪や白いシャツをわずかに照らし、スケッチブックに向かう横顔を映し出す。美術部らしい静謐な空気が流れる中、ナツキはどこを見ればいいのか戸惑いながら、視線をうつむかせた。
数分もすると、蓮が口を開く。
「随分思い悩んでるなぁ。見た目はどこか異界を揺蕩うように浮世離れしてるのに、実に人間らしくていいね」
あまりにも自然に言われたので、ナツキはハッとして目を上げる。蓮はスケッチに集中したまま、悪びれずに続ける。
「ま、俺は君が何を抱えていようと構わないんだけど、ちょっと外から見ると 『苦しそうだけど同時に魅力的』って印象を受けるんだ。言ってること分かる?」
ナツキは答えられず、ノートにも書けない。自分が苦しんでいるのは事実だし、外見が普通の男子と違うことにも毎日悩んでいる。しかし、こうしてさらりと「魅力的」と言われると、その真意がつかめなくて戸惑いを覚えた。
「俺としては、そういう 『人間らしく悩んでる姿』が好きなんだよ。……ああ、もちろん変な意味じゃない。作品としてワクワクするってだけ。それに浮世離れしてるってのは、別に侮蔑でもなんでもないから安心してくれ」
しばらくしてから蓮は軽く息をついて鉛筆を置いた。ちらりとスケッチに目をやるナツキだが、描きかけの絵は正面から見えない。蓮は立ち上がっておもむろに伸びをすると、エリが「どうですか? もう大丈夫っすか?」と声をかける。蓮は「うん、今日はこのへんで十分」と笑みを浮かべて言った。
「ありがと、ナツキ。君にこのまま長時間ポーズさせるわけにもいかないしな。俺は気が向いたら追加で描くかもしれないけど、そのときはまた協力してよ」
ナツキはノートに「わたしでいいなら」と書き、やや困惑したままの表情で返す。蓮は「もちろん」と頷き、言葉を続けた。
「……悩んでても、ちゃんと学校には来てるし、誰かと話そうとしてる。そういうの、いいと思うよ。俺は 『苦しむなら苦しむで止まるな』と言いたいだけ。止まってると腐っちまう。せっかくの魅力がもったいないだろ?」
軽々しいようでいて、言葉の中に何かが刺さるような感覚を覚える。これまでナツキは、人と深く関わるほど戸惑いを晒すことになると恐れていた部分がある。けれど蓮は、ナツキが抱える迷いや痛みごと、まるごと「それでいい」と受け止める。――いや、受け止めているというより、そのあり方を面白がっているようにも見える。
「ま、俺は好き勝手言ってるだけだから、あんまり真に受けなくていい。でも……君は君で、悪くないよ」
そう付け足すと、蓮はにやりと笑い、スケッチブックを閉じた。猫宮エリが「先輩、いきなり失礼じゃなかったですか?」と心配そうにきょろきょろするが、ナツキはノートに「大丈夫だった」と書き、それをエリに見せた。
「変人だけど憎めないでしょ? それが部長なんすよー」
エリが少し照れくさそうに笑う。蓮は「俺のどこが変人なんだ?」と小声でぼやくが、特に怒るでもなくスケッチブックを片づけ始める。ナツキは部屋の扉に向かいながら、一度振り返った。蓮は視線を感じたのか、こちらを見て小さく手を振る。ナツキは思わず戸惑いながらも、軽く会釈して部室を出た。
その日の放課後、ナツキは昇降口でムラサキに会い、ノートを使って昼休みの出来事をかいつまんで伝えた。ムラサキは白蛇蓮という人物を知らなかったらしく、「美術部の部長さん……そんな人がいるんだ」と目を丸くする。
「で、ナツキはどう思ったの? 急に描かれて、びっくりしたでしょう?」
ムラサキが笑いを含んだ声で尋ねると、ナツキはノートに言葉を探すようにペンを走らせる。
——「変わってるけど、不思議と嫌な感じじゃなかった。悩んでいる姿も 面白い’って言われたのは正直戸惑ったけど……少しだけホッとした自分もいる」
読み終えたムラサキは「そっか……」とふわりと微笑む。その瞳に揺れる優しさが、湯煙のなかで手を重ねた夜を思い出させた。けれどムラサキはあえて深く追及せず、「ナツキがそう思うなら、きっとその部長さんは悪い人じゃないんだろうね。何より前に進めるならいいと思う」と言葉を添えて、ノートにそっと触れる。
ナツキは、蓮のあの一言を思い返す。
「随分思い悩んでるなぁ。見た目はどこか異界を揺蕩うように浮世離れしてるのに実に人間らしくていいね」
あの何気ない台詞が、自分の心にすっと入り込み、「苦しんでもいいし、そこに自分らしさがある」と肯定してくれたように感じていた。研究施設に「元の人間じゃないかもしれない」と言われ、妖怪から「中途半端」だと突きつけられた今、どちらかに決めきれずに揺れているナツキにとって、それは小さくとも確かな救いに思えた。
——悩むのは悪くない。でも、止まりっぱなしじゃもったいない。
ムラサキとの会話を終えたあと、一人で昇降口を抜けるとき、ナツキは心のなかでそっとつぶやく。声は出せないけれど、ほんの少しだけ自分の足元が軽くなる感覚がした。自分を追い詰めるように悩むのではなく、「前に進むために悩む」――それなら、今のこの状態も無駄じゃないと思える。
校門を出て、夕暮れに染まる空を見上げた。その先にあるのは、相変わらず不透明な未来。身体の変化や声の問題は一朝一夕で解決できそうにないし、研究施設からの脅威や、神域との因縁もくすぶり続けている。それでも、白蛇蓮の言葉をはじめ、ムラサキの存在やクラスメイトたちの気遣いによって、ナツキの中に眠っていた小さな意志が目を覚まし始めていた。
(もしかすると、わたしが悩んでいること自体が 人間っぽさの証なのかもしれない……)
そう思った瞬間、心がわずかに軽くなる。人波のなかに溶け込んで歩きながら、ナツキは胸の奥に生まれた細い光を見失わないよう、ぎゅっとノートを抱きしめた。
夕焼けの風が通り過ぎる帰り道。声を失っても、性の境目に立たされても、まだ歩き続けることはできる。自分が浮世離れしているのか、人間っぽいのか。その答えはこれから探せばいい。もう少しだけ、自分の足で前に進んでみよう。
ナツキはそう自分に言い聞かせ、静かに瞼を閉じた。どんな姿であっても、悩みを抱えたままでも生きていける――白蛇蓮という変人の、ほんの一言が、ナツキの背中に最後の一押しをしてくれたのだから。