第十五話 揺れる想いと紫の守り
翌朝。薄暗い部屋の天井を見つめると同時に、昨夜の出来事がナツキの頭を一気に占拠した。湯船でムラサキと手をつないだあの瞬間——あたたかくて、どこか切なさを含んだ余韻が胸を満たし、息苦しさに似た感覚を覚える。距離が近すぎたせいなのか、恥ずかしさと嬉しさが混ざり合い、身体の芯がじんわり熱を帯びていた。寝起きのぼんやりした意識の隙間に、彼女の微笑や濡れた髪がまざまざとよみがえっては消えていく。
布団の上で寝返りを打つと、浴衣の裾がはだけ、完全に女性の姿に変わってしまった身体のラインが露わになる。現状を改めて思い知らされ、ナツキは複雑な苦味を噛みしめた。それでも昨夜ムラサキが投げかけてくれた真摯なまなざしが以前よりも、すっと不安を和らげてくれる。身体がどう変わろうと、拒まれない——そう思えるだけで救われる気がしたのだ。
しばし布団の中でぼんやりしていると、廊下からクラスメイトの慌ただしい足音が聞こえてくる。どうやら朝食の時間が迫っているようだ。ナツキは勢いよく起き上がり、洗面所へ向かった。鏡に映る頬は湯上がりの名残を留めているらしく、ほのかな赤みが差していて、どこか照れくさくなる。声を失った代わりに、胸の奥で「落ち着け、落ち着け」と繰り返し自分をなだめながら、襟元を直した。
廊下を歩いて食事会場へ向かう途中、ちょうどムラサキと目が合う。彼女も少し気まずそうな表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みで小さく手を振った。ナツキも控えめに手を挙げて応じる。互いだけが共有する秘密を思い起こすようで、恥ずかしさと心地よい緊張が混じり合う。
班のメンバーと合流し、一斉に朝食をとる。レンカが「今日は京都市内を回ったあと、午後はお守り作り体験だよ」としおりを確認すれば、エリが「自分だけのお守りとか超楽しみっすね!」と声を弾ませる。ナツキは箸を動かしながら、どこか胸がざわつくのを感じた。
——お守り。
神社や寺院で授かるものというイメージだが、自分で作るとなると特別な意味を持たせたりできるだろうか。声を出せないナツキにとって、誰かへの感謝や思いを伝えるにはぴったりかもしれない。そう思った瞬間、昨夜の湯煙の光景が頭に浮かぶ。胸が縋るように熱くなる感覚は、どこか疼きにも似ていた。
朝食後、観光バスに乗り込んだ一行は、京都市内の名所を順番に巡る。土産探しや写真撮影で慌ただしく動き回り、気づけば昼食の時間。食後に再びバスに揺られ、「次はいよいよお守り作りっすね!」とはしゃぐエリの声を聞いたとき、ナツキの胸も高鳴った。ノートを開いて「うん、楽しみ」と書くつもりだったが、唇が一瞬だけ動きかけて声は出ない。失語症の現実がじわりと切なさを突きつける。けれど、前を向かねばならないと思い直す。
やがてバスが停まった先は、こぢんまりとした古い神社だった。改装された町家風の社務所へ入ると、優しげな巫女が出迎えてくれる。机の上には色とりどりの布やカラフルな紐、鈴などの材料が所狭しと並んでいた。「好きな布と紐を選んで、思いを込めて作ってみてくださいね」という案内に、エリは「かわいい布いっぱい!」と目を輝かせ、レンカは「こういうのは苦手なんだけどな」と笑う。周囲もそれぞれに盛り上がり、手芸教室のような賑わいだ。
ナツキも席に着き、布の手触りを確かめる。柄も配色も多種多様のなか、ふと目に止まったのは落ち着いた紫色の布。昨夜の温泉上がりに見たムラサキの浴衣をどこか連想させる。自然と手が伸び、これにしよう、と心を決めた。
慣れない針仕事で悪戦苦闘しながら、一針ずつ布を綴じていく。裁縫に没頭していると、昨日の夜の記憶がよみがえり、頬が熱くなる。声を失った代わりに、こういう形でしか伝えられない思いを込めたい。まるで祈るように、ナツキは小さな袋の形を整えていく。
周囲がざわつき始めたころ、ようやくお守り袋ができあがった。紫の布と白い紐を合わせ、小さな鈴をひとつ付けてみる。かすかに鳴るその音色は儚く、ナツキの中で失われた声の代わりになる気がした。
「ナツキさんも出来上がったっすか?」
エリが覗き込み、ナツキはノートに「まだ下手だけど……」と書いてお守りを見せる。エリは「わー、いい色! もしかしてあげる相手がいるの?」と茶化すように尋ね、ナツキは思わずドキリとしてノートを閉じ、視線をそらした。猫のように好奇心旺盛なエリの言葉に、レンカもニヤリとした表情を浮かべる。恥ずかしさに耐えきれないナツキの耳に、タイミングよく巫女さんの「そろそろお時間ですよ」という声が届いた。作業終了の合図に、場の雰囲気が大きく動き出す。
名前札を貰い、祈願文を書いた小さな紙片をお守り袋に挟む。
「あなたが幸せでありますように」
誰に向けたものなのか、自分でも混乱するほど胸が熱くなる。ムラサキへの感謝の気持ちと、自分自身への願いとが混ざり合う。
工房を出るとしばらく自由時間ということで、エリやレンカは「甘味処へ行こう!」と盛り上がっている。ナツキはムラサキを探そうと辺りを見回すが、彼女の姿は見えない。ノートに「先に行ってて」と書き、エリたちを送り出してから一人で社務所の裏手へ回った。そこには苔むした石灯籠や小さな庭があり、観光客の喧噪がやや遠のいている。
しばらくして、玄関のほうから見慣れた人影がやってきた。ムラサキだ。視線が合うと彼女はほっとした顔で駆け寄り、「ナツキ、もう終わったの?」と声をかける。ナツキはうなずき、かばんから先ほど作ったお守りを取り出す。俯きたくなるのをこらえながらノートを広げ、緊張でままならないペン先を進めた。
「これ、作った。あなたにあげたい」
ムラサキは「私に?」と驚きに目を見張り、ナツキが差し出す紫の袋を両手で受け取った。小さな鈴が揺れて、チリンと小さな音を立てる。そのかすかな音に、ナツキの心臓はさらに強く鼓動する。声にならない想いが少しでも伝わればいい——ノートには「いつも支えてくれてありがとう。あなたがいてくれて本当によかった」と続けて書いた。
読み終えたムラサキの瞳がわずかに潤んだように見え、静かにお守りを胸元へ抱きしめる。彼女は掠れた声で「ありがとう……すごく嬉しい」と震えながら言葉を漏らし、ナツキの手をそっと握ってくる。周囲を行き交う観光客の声が遠のき、二人の間だけがかすかに時を止められたようだった。ぬくもりと、何とも言えない浮遊感が、ナツキの胸を満たす。
「大事にするね」
赤らんだ頬で微笑むムラサキに、ナツキもぎこちなく微笑み返すが、うまく顔を上げられない。わずかな時間でも距離が一気に近づいた気がして、恥ずかしさと嬉しさが入り混じる。やがて遠くからレンカの呼ぶ声が聞こえ、二人とも我に返った。ムラサキはさっと目元をぬぐい、小さく笑う。
「行こっか。みんな待ってるし」
ナツキは無言で頷き、並んで歩き出す。たった今、お守りに想いを託したばかりなのに、胸の鼓動はますます強くなる。自分が何者なのか相変わらず分からず、研究施設の脅威も妖怪の言葉も頭を離れない。けれど、声が出せなくても、こうやって想いを形にして伝える方法はある。そう思えたことが小さな光となって心を照らした。
夕方、再び旅館に戻ると、ナツキは昨日と同じく一人部屋に通され、ムラサキは自分の部屋へ。襖を閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せる一方、心の底には小さな灯火がともっているのを感じる。布団に転がり込み、何度も脳裏をよぎるのは、お守りを抱きしめたムラサキの瞳だ。思い出すたび、胸の高鳴りが止まらない。
——自分はどうしたいのか。
九尾の狐の「どう在りたいかは自分で決めろ」という声が頭をかすめ、研究施設や妖怪の影も相変わらず背後にちらつく。けれど今は、ムラサキの存在に救われている。もしも彼女が離れていったら、ナツキは完全に宙ぶらりんになるかもしれない。それでも依存ばかりではいけないと自覚してもいる。考えが堂々巡りするなか、疲れと混乱が交じりあい、ナツキは布団に沈んでいく。
まどろみに溺れながら、紫色のお守りと、涙をこらえるように微笑んでいたムラサキの姿が瞼の裏を揺らめく。声がなくても通じ合えるものがある——そう信じたい一方で、胸が苦しくなるのはなぜだろう。もしかすると、これは単なる感謝以上の感情なのかもしれない。声を失ったまま、ナツキは静かに眠りへと落ちていった。