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蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
学校編
14/21

第十四話 湯煙で重なる想い

 夕闇が降りはじめたころ、修学旅行の一行を乗せたバスは旅館へ到着した。純和風の大きな建物に入り込むと、廊下には畳の香りが柔らかく満ちている。クラスメイトたちは班ごとに部屋割りされ、女子は広めの大部屋、男子はまた別の部屋へと振り分けられる予定だった。しかし、戸籍上は男子でも外見が完全に女性のナツキには、事前の協議によって六畳ほどの個室が用意されることになっていた。本人も周囲も混乱を避けるため、これが最善だという判断のようだった。


 個室の襖を開けたナツキは、控えめな調度品と小さな庭が見えるその空間に、一人きりで足を踏み入れる。夕暮れの光が畳を斜めに照らし、静寂が濃く滲む。廊下から聞こえるクラスメイトたちの弾む笑い声や足音が、ここでは遠い世界の出来事のように感じられた。まるで、自分が「どこにも属せない存在」であることを暗示するかのような閉ざされた空気が胸を締めつける。


 お風呂まで少し時間があると聞くと、班のメンバーは荷物を置くや否や館内を探検すると張り切っていた。ナツキにも声はかかったが、「少し休憩する」と筆談ノートに書くと、エリもレンカも「わかった、無理しないでね」と気遣うように声をかけてくれる。部屋に一人きりになると心細さがこみ上げたが、ナツキは少し休みたかった。人混み、ナンパ騒動、さらに妖怪との遭遇――どれも彼女の心と身体を大きく消耗させていた。自分がまだ「人間」でいるのか、それとも違うのか。そんな疑問が渦巻くなか、静かな場所でひとときでも呼吸を整えたいと思ったのだ。


 軽いため息をついて畳の上に腰を下ろすと、障子越しに冷たい夜風がほんのわずかに吹き込んでくる。京都の路地裏で出会った妖怪の少女が告げた言葉が、どうしても頭から離れない。彼女はナツキを「同類」と呼んだ。すでに肉体が男性から変容してしまった事実を改めて突きつける言葉が、容赦なくナツキの心をえぐる。逃げようとしても、追いかけてくる恐怖と悲しさが重くのしかかった。


 そんな鬱屈を振りほどくように布団に倒れ込んだとき、襖の向こうからムラサキの声が聞こえた。

「ナツキ、ちょっと入るよ?」

 返事をする間もなく、襖がそっと開き、すでに浴衣姿に着替えたムラサキが入ってくる。淡い藍色の生地に包まれた彼女の白い肌が際立ち、ナツキは胸がちくりと疼くのを感じた。ムラサキは「心配で来ちゃった」というように、静かに微笑んでいる。


「ひとり部屋って、落ち着かないでしょ」

 そうつぶやいてナツキの隣に腰を下ろすムラサキ。ナツキはノートを開き、「大丈夫」と書きたいところで手が止まった。実際のところ大丈夫ではないのに、弱い自分を言葉にしたくない――そんな葛藤が胸を締めつける。


 ムラサキはナツキの迷いを察したのか、彼女の手からそっとノートを閉じさせ、代わりに軽くその手を包んだ。柔らかな感触と微妙な体温が伝わり、ナツキは声を失った自分の喉が詰まりそうになるのを自覚する。ムラサキはやさしい口調で続けた。


「無理に書かなくていいよ。顔を見れば何となく分かるから」


 それから少しの間ムラサキから今日あった出来事の話がされると、彼女はするりと立ち上がる。「ナツキは今がお風呂の時間だよね。長旅で疲れたでしょ?」と促しの言葉を添えて、ナツキを一人に残して部屋を出た。


 ナツキは部屋同様、入浴の時間も男女とは分けられている。改めて自分の荷物を開き、浴衣に着替える。鏡に映る姿は完全に「女性」のしなやかな曲線を描いており、胸や腰のラインに以前の自分とはまるで違う実感が突きつけられた。京都の路地裏で妖怪が告げた「同類」という一言がまた頭をよぎり、胸を切なく締めつける。戻りたいと願っても、本当に戻れるのか分からない。考えこんでも答えは出ないと自分に言い聞かせ、ナツキはそっと襖を開いて旅館の大浴場へと向かった。


 夜になりかけの廊下は少し冷たい空気を湛え、湯煙のかすかな温度が遠くから感じられる。大浴場に着き、誰もいないのを確認して急ぎ足で洗い場へ入ると、ナツキは手早く身体を洗い終え、端のほうの湯船に浸かった。優しい温度のお湯が全身を包みこむが、思考は暗い迷いから抜け出せない。人間としての自分が曖昧になっていくような、不安だけが募っていく。


 不意に入口で物音がした。誰かが入ってきた気配にナツキが顔を上げると、そこにはムラサキの姿があった。

「ナツキ、ちょっと失礼していいかな」

 彼女が洗い場のほうへ移動しながら声をかけると、ナツキの胸はどきりと跳ねる。ムラサキはタオルを巻いただけの姿で腰を下ろし、素早く髪をまとめはじめた。男女別の浴場という扱いではあるが、部屋と同じく戸籍上は男子で外見は完全に女子のナツキに配慮して、この時間帯だけはほぼ一人で入浴できるよう計らわれているはずだった。その場所へムラサキが現れたことに、ナツキは正直に言って戸惑いを隠せない。もともと一緒に入る素振りすらなかったはずだ。


 けれど、ムラサキは平然とした口調で「やっぱり一緒に入ろうと思ってさ」と続け、泡立てた石鹸で身体を洗いはじめる。視線の置きどころに困り、ナツキは思わず湯船のほうへ顔を背けた。もともと男子だった自分が、こうして女子浴場にいる状況。しかも今や体の造形は女性と変わらない。どちらにも属せない感覚が、羞恥と戸惑いをさらに増幅させていく。


 やがてムラサキは洗い終え、湯船に足を浸してナツキの隣に滑り込んだ。湯面が小さく波立ち、二人の間にさざめきが広がる。彼女は少し申し訳なさそうに小声で尋ねる。

「ごめん、嫌だった……?」


 ナツキは慌てて首を縦とも横とも言えないように振り、戸惑っている気配を自分でも隠しきれない。ムラサキは湯の縁にもたれかかり、すうっと息を吐いた。


「……今日、ずっと曇った顔してたから、ほうっておけなかったの。ナツキが嫌がるかもって思ったけど、やっぱり気になって……」


 その声にははっきりと心配の色が混じっており、ナツキは湯を見つめたまま返事ができずにいる。すると、そっとムラサキの手がナツキの腕に触れた。湯煙にしっとりと濡れたその指先の微かな震えが伝わり、ナツキは息をのむ。


 ムラサキが何かを言いかける気配に、ナツキはそっと彼女の方へ顔を向ける。タオルの下に隠れた肌も、瞳も、ほんのりと上気しているように見えた。声が出せない自分を気遣い、どう言葉を紡ごうか悩んでいるのが、彼女の表情からうかがえる。やがてムラサキは決心したように口を開いた。


「男か女かとか、人間かそうじゃないかとか……そんなの関係なくて、あたしはナツキ自身を大切に思ってる」


 彼女の瞳がかすかに揺れる。ナツキは、どう返していいか分からないまま湯の中で身体をこわばらせた。研究施設、妖怪、そして今の自分の姿。どれもが重く肩にのしかかっているのに、それでもムラサキは「どんな姿でも受けとめる」と伝えてくれる。その真っ直ぐな言葉が胸に沁みると同時に、どうにもならない切なさも込み上げた。


「……どんな姿でも、あたしはナツキを大事に思ってるよ」


 繰り返すような声に鼓動が早まり、ナツキの頬から湯なのか涙なのか分からない雫が伝う。言葉にできなくても、ムラサキの思いは痛いほど伝わった。ナツキは震える指先で、彼女が差し出す手をそっと握り返す。かすかな水音のなか、水面下で二人の指が絡まりあい、今はそれだけで会話になるような気がした。


 どれほどそうしていただろうか。温泉が絶えず流れる音と湯面からかけ離れていく場所が二人の世界だった。やがてムラサキは少し照れくさそうに微笑み、


「……そろそろのぼせちゃいそう。上がろっか」


 そう提案すると、ナツキはこくりとうなずいてそっと手を離す。並んで湯船を出る瞬間、ナツキは胸の奥に不思議な安心感が芽生えているのを感じた。先ほどまでまとわりついていた孤独感や恐怖が、ほんの少しだけ薄れている。その原動力は、確かにムラサキの存在だった。


 脱衣所に戻るとムラサキが甲斐甲斐しくナツキの髪を拭き、浴衣の襟を整えてくれる。親しみを込めたその仕草にドキリとしながらも、ナツキはノートを取り出して「ありがとう」とだけ書いた。すると彼女ははにかむように微笑み返し、目元を柔らかくほころばせる。


 廊下には夕食会場へ向かう生徒たちの声が響きはじめていた。ムラサキと別れ、自分の部屋へ戻りながら荷物を置いていると、さっきの湯煙の記憶が夢のように思える。それでも、確かに「二人が手をつないでいた」事実は消えず、ナツキの心の一番深い部分をそっと照らす。自分が本当に人間なのかどうかさえ分からなくても、研究施設がなんと脅してきても、ムラサキは離れずにいてくれると思える。その思いが、ナツキの混迷する自己同一性に小さな光を灯してくれた。


 襖を開けた先の廊下には、ちょうどムラサキが待っていた。彼女が軽く手を振るのを見て、ナツキはノートを抱えながら歩み寄る。湯船で感じた温もりを思い出すと、気恥ずかしさが胸の内を騒がせる。それでも、その照れさえも含めて――生きていくのが少しだけ楽になる気がした。


 誰かと繋がっているという実感。ナツキが「ナツキ」のまま日常へ戻るためには、今の自分を拒まず受け止めてくれる存在が必要なのだと、彼女は静かに確信しはじめる。研究施設や妖怪との問題は依然として重くのしかかるが、そこに隙間から差し込む一条の光がある限り、歩みを止めるわけにはいかない――。そんな思いを胸に、ナツキはムラサキと並んで夕食会場へ足を運んだ。廊下の明かりが、先ほどまでより少しだけ明るく見える気がしていた。

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