第十三話 京都の路地裏で揺れる境界
朝焼けがまだ薄闇に溶けきらないうちに学校へ集合し、大型バスへ乗り込むと、そこには修学旅行特有の浮ついた空気が満ちていた。クラスメイトたちがざわめくなか、ナツキは窓の外に目をやる。彼女の胸の奥では何かが押しつけられるような圧迫感を放ち、周囲と同じように純粋に浮かれることを妨げていた。
「おーい、ナツキさん。着いたら写真撮りましょ!」
隣の席から猫宮エリが元気よく声をかけてくる。その底抜けに明るい笑顔を見ていると、ナツキの曇った気持ちが少しだけ和らいだ。彼女は筆談ノートを開いて「うん」と書き込み、エリのほうへ向ける。するとエリは「やった!」と嬉しそうに返事をする。その横では犬山レンカがあくびをかみ殺しながら車窓へ視線を向けていた。ほかの班メンバーたちもスナック菓子をつまんだり、しおりをめくったりして、朝からにぎやかに過ごしている。
今のナツキの見た目は完全に女の子にしか見えず、戸籍上の男子という扱いからは遠いものだった。けれど、このバスの中には彼女を仲間として自然に受け入れようとする空気が確かに存在する。レンカもエリもそれを口には出さないまま、ナツキを自分たちの一員として振る舞ってくれていた。
バスが高速道路を降り、京都市内の景色が広がりはじめる。修学旅行生でにぎわう大通りを抜けると、最初に訪れるのは有名な神社だというアナウンスが聞こえた。瓦の屋根が連なる境内や、その奥に生い茂る緑を目にした瞬間、ナツキの胸にはどこか懐かしいような落ち着きが広がる。深呼吸するようにバスを降りると、レンカが「あんた、浮かない顔してるけど大丈夫?」と問いかけてきた。そのまっすぐな視線に、ナツキは一瞬だけ言葉を見失う。
──いま、こんなふうに楽しんでいていいのだろうか。
そんな疑問が喉元に引っかかった。だが、考えすぎれば苦しくなるばかりだ。ナツキはノートを取り出し、「大丈夫。ありがとう」と筆を走らせる。レンカはそれを見て「あんまり無理すんなよ」と肩を軽く叩き、先へ進むよう促した。
境内に入ると多くの観光客や他校の生徒が行き交い、大きな鳥居の下ではいくつものグループが記念撮影に興じていた。猫宮エリが「あ、ここで撮りましょー!」と嬉々として呼びかけ、班のメンバーが集まってスマホを構える。ナツキもぎこちなく笑顔を作ってみたが、どこか表情が強ばってしまう。シャッターが切られる瞬間、周囲を横切る別の観光客の弾む声と、風に乗った匂いが入り混じり、ナツキはなぜか遠い世界を見ているような感覚に襲われた。それでも同時に、かすかな安堵感も胸に訪れる。
ひと通り写真を撮った後、自由見学の時間を利用して境内を散策することに。エリや他の女子が「お守り買いたい!」とはしゃぎ、レンカは「あたしはぶらぶら見てまわれりゃいいや」とそっけなく言う。ナツキも流れに乗って拝殿前まで足を運んだ。列に並んで手水舎で手を清めると、ひんやりとした水が掌を濡らす感触に、彼女は少しだけ神聖な気分を覚える。神道特有の空気を感じながら、九尾の狐や霧の山を思い出して胸がざわついた。
「ナツキさん、どうしたんすか?」
ぼんやりと立ち尽くしていたせいか、エリが不思議そうに首をかしげてこちらを覗き込む。ナツキは小さく首を振って「なんでもないよ」とノートに書き、つくり笑いを見せた。エリは「そっか」と言いながら、他の女子とお守り売り場へ駆けていく。取り残されたナツキは賽銭箱に硬貨を落とし、静かに目を閉じる。何かを願おうとしても、自分が何を求めているのか分からず、結局は何も祈れないまま終わってしまった。
そのまま皆の後を追い、境内の奥へ移動する。集合時間が近づくとエリやレンカが戻ってきて、全員で神社の外へ向かった。
「次は清水寺方面に行くらしいよ」
エリがしおりを見ながら言う。そのとき、ちょうど向こうから到着した別の大型バスから降りてくる男子生徒のグループと鉢合わせした。楽しげな声をあげながらナツキたちに近づいてくるのが分かり、レンカは少しだけ警戒したように眉をひそめる。
「ねえねえ、そっちも修学旅行?」
軽薄な口調で声をかけてくる背の高い男子。どうやら女子と知り合いになりたいらしく、にやにやしながら話を続けた。
「うちの班、女の子いないんだよね。もしよかったらLINE交換しない? 一緒に写真撮れたら楽しいし」
明らかに浮ついた様子に、エリは「ちょっと急すぎっすね」と困惑気味。ナツキは声が出せないせいもあって、とっさに断れず戸惑うばかりだ。すると、その男子はじろじろとナツキの顔を見つめ始めた。その視線に血の気が引くような嫌悪感を抱き、ナツキの胸が締めつけられる。
「ねえ、そっちの黒髪の子、名前は? めちゃくちゃ可愛いね。一緒に回んない?」
聞きたくもない台詞がナツキの耳を刺激し、頭がくらりとする。「元は男」の自分に対し、「完全な女子」としてのナンパ。この状況に激しい羞恥心と嫌悪感が押し寄せ、身体が硬直した。
「ちょっと、失礼じゃない?」
レンカが低い声で牽制するが、男子たちは「褒めてるんだし、別にいいだろ」と軽く笑い、まるで取り合おうとしない。エリも「ごめんなさい、班行動があるんで」と割って入ろうとしてくれるが、相手は意地でも引かないらしい。周囲の観光客たちの視線が痛く、息苦しさが増していくなかで、ナツキは後ずさろうとする。
その瞬間、エリがナツキの手を掴んだ。
「ナツキさん、先にバス戻りましょ!」
エリの声に促されるまま、ナツキは弾かれたように踵を返し、人混みを縫って駆け出した。後ろで男子たちが何か言っているが、もう聞き取る余裕はない。とにかく一刻も早くこの場を離れたい——頭の中はそれだけでいっぱいだった。
だが、あまりの人混みにどこかでエリの手が離れたらしく、ナツキは人波の向こうに彼女の姿を見失ってしまう。あたりを見回しても修学旅行生だらけで、知った顔は見当たらない。焦燥と羞恥、それに孤独が重なり合い、呼吸が乱れそうになる。声も出せないまま迷子のような気分に陥り、涙がこみ上げそうだった。
必死で周囲の人だかりから抜け出して歩いていると、いつのまにか細い路地へ入り込んでいた。土産物屋や人通りの喧騒が遠のき、石畳のすき間から緑の草が顔を出している。先ほどのざわめきが嘘のように消え、ナツキはようやく落ち着きを取り戻し始める。深呼吸をすると、古い木や湿った土の匂いが鼻をくすぐった。少しだけここで休みたい……そう思いながら奥へ進むと、苔むした小さな祠が視界に入ってきた。
背丈ほどの小さな鳥居の奥に、木造の社がひっそりと立っている。ほとんど人気がなく、雑草に埋もれかけた様子は、古くから人知れず祀られている雰囲気を醸していた。わずかに残る注連縄や古い札の痕跡が、ここが神聖な領域だと伝えてくる。ナツキは自然とその静けさに引き寄せられ、ふと祠の前へ足を止める。鼻腔を擽る森の湿り気のような香りに、九尾の狐がいた神域の山を思い出し、胸がざわめいた。
賽銭箱も見当たらない小さな社へ手を合わせかけたとき、不意に誰かの視線を感じ、ナツキは肩を震わせて振り向く。そこにいたのは着物姿の少女のような姿だが、背中から人にはあり得ない揺らめく影を伸ばしていた。まるで炎か尻尾のような不思議な形。九尾の狐に似ているようでいて、どこか違う雰囲気を持つその姿に、ナツキは息をのむ。
「……おや、ここは人が来れる場所やないと思ったら、同類...か?」
幼さの残る声がそう囁く。口元はほとんど動いていないのに、はっきりとナツキの耳に届いた。その言葉は、ナツキの変異を見透かしているかのようだ。やはり、九尾と同じ「何か」——妖怪、なのか。京都には伝承や怪異の話が多く残ると聞くが、それはあくまで昔話の範疇だと思っていたのに……。ナツキは怖気づいたまま、声を失ったように少女を見つめる。
「ここは昔から、わたしらが棲んどりますのや。
神さんの力が強いとこは、人の目に触れんようになるもんどす。せやけど、おまえさんには見えはるんやなあ……」」
少女の瞳が興味深げに細まり、まるで「同じ側の存在」を見つけたように鋭い視線を送ってくる。ナツキは後ずさろうとしたが、足がこわばって動かない。その少女の周囲に漂う不思議な空気が、どこか懐かしささえ感じさせていた。
「でも、おまえは中途半端や。身体はこちらでも、心は迷うてはる。こっち側でもあっち側でもおへん……気の毒どすな」
研究施設の男も、「もう元の人間じゃない」と言っていた。九尾の狐は「どう在りたいかは自分で決めろ」と迫った。いま目の前にいる妖怪も、ナツキを半端な存在だと断じている。胸の奥に重い痛みが走り、息が詰まりそうになった。
「…………戻りはるんやろか? せやなかったら、このまんま行きはるん?」
まるで根本的な葛藤を見抜いたかのような問いに、ナツキは何も返せない。声を失っていることもあるが、自分の意志がはっきり定まっていないのだ。元に戻りたいと思う一方、そんなことが可能なのかも分からず、苛立ちがこみ上げる。少女はナツキの動揺を気に留める様子もなく、くるりと背を向けて祠の奥へとすべるように消えていく。その姿は木陰に溶けるようにして完全に見えなくなった。
神域から離れた京都の街中でも、こんな存在に出会ってしまうのか——。まるで「おまえはやはりこっち側だ」と突きつけられているようで、ナツキの心は恐怖と悲しみに支配された。気づけばあたりは静まり返り、草が擦れるかすかな音だけが響いている。ナツキははっと石段を駆け上り、人が多い通りへ戻った。先ほどは雑踏から逃げ込むように路地へ入ったのに、今度は逆にその静寂から逃れようとする自分がいて、胸の鼓動がやかましい。
通りに出ると、少し先にエリとレンカの姿が見えた。エリがナツキを見つけて駆け寄り、「よかった、探したっすよ! もうバスに戻ったかと思った」と安堵の声を上げる。レンカも「大丈夫だった?」と心配そうに尋ねてきた。ナツキは弱々しくうなずき、微かな笑みを浮かべる。声の出ない自分を真っ直ぐに気遣ってくれる彼女たちの優しさが身に染みる。その一方で、先ほどの妖怪の言葉が頭を離れない。
── こっち側でもあっち側でもおへん。
そう突きつけられた一言が、ナツキの身体の奥深くに棘のように刺さって抜けない。だが、いま手を差し伸べているのは元々自分がいた学校の仲間たち。その温もりを握りしめながらも、自分がどこに属しているのか分からず、心は宙ぶらりんのままだ。
その後、班メンバーと合流したナツキはバスに戻り、清水寺や商店街へ移動して夕方には旅館へ向かうという日程をこなしていく。にぎやかな仲間たちの笑顔やおしゃべりを横目で見つめながら、彼女の胸には小さな祠での出来事がずっと重く渦巻いていた。結局、自分はどの世界の住人なのだろうか。その問いは答えを得られないまま、ナツキはバスの窓ガラスに映る夕焼けの色に目を落とし、静かに唇を噛んでいた。