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蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
学校編
12/21

第十二話 居場所の輪郭

 朝のホームルームが始まる直前、ナツキは教室の空気が妙にざわついているのに気づいた。いつもと違う雰囲気に胸が少しだけ強張る。黒板の端には大きく「修学旅行 班決め」と書かれていて、まるでそこが自分とは遠い世界のように感じられた。ふと、握りしめていたノートの手のひらに汗が滲んでいるのを意識して、彼女は小さく息をつく。


 声が出なくなって以来、ナツキは教室の中で静かな影のような存在だった。クラスメイトと敵対しているわけではない。けれど、誰もが遠巻きに彼女を見ているように思えてしまう。


 いつものように席につき、ノートを机に置いたままホームルームの開始を待つ。やがて担任である烏丸先生が「じゃあ修学旅行の班分けをするぞ」と声を張り上げた。すると教室のあちこちで弾んだ声が飛び交い始め、グループを作るために席を離れる生徒たちの気配が一斉に広がる。ワクワクを共有するような熱気が満ちていくなか、ナツキだけはどこか遠い世界を眺めるような思いを抱いていた。


 先週まではあれほど神域や研究施設の脅威に追い詰められていたのに、クラスの雰囲気はそんなこととは無縁の平和さで満ちている。修学旅行という学校行事に参加してもいいのだろうか――そんな後ろめたさのような感覚が彼女の胸を締めつける。頭の片隅では、あの妖狐の「どう在りたいか?」という問いがちらつき、鼓動が早鐘を打っていた。


「おーい、ナツキ! 一緒に組もうぜ!」


 突然大きな声が飛び、隣の列に座っている男子がナツキのほうを振り返る。彼はクラス内でも口数が多いタイプで、悪気があるわけではなさそうだ。しかし、その無遠慮とも取れる視線に、ナツキの身体は思わずこわばった。男子はにやりと笑って「男子同士だもんな」と当然のように言い放つ。確かに戸籍上はそうだが、今のナツキの姿を見れば「女子」にしか見えないはずで、周囲の少しざわつく気配からも、みんながどう認識しているかは明らかだった。


 うまく返事ができず視線を伏せたナツキの耳に、さらに無邪気な声が続く。

「ってかさ、なんか悪いけど女子に混じるのも変な感じだろ? だからおまえ、オレらの班に――」


 その言葉が途中で途切れ、教室の空気がぴたりと静まったような気がする。彼本人に悪意はないのだろうが、その率直すぎる物言いは「ナツキをどう扱うべきか分からない」という周囲の不安を逆に強調してしまっていた。ノートを見つめたまま固まるナツキの耳に、何かが引っかくような沈黙が痛いほど突き刺さる。


 そこへ、パタパタと軽い足音が二人の間に割って入った。


「おーっす! ナツキさん、ちょっといいっすか?」


 耳に心地よい、明るい声。顔を上げると、猫宮エリが屈託ない笑みを浮かべて立っている。彼女はやや細身の体型で、柔らかな髪をラフにまとめた美術部の女子。隣には犬山レンカの姿もあった。長身で鋭い目つきながら仲間想いの姐御肌として知られている。エリの屈託ない明るさが場に入り込んだ瞬間、教室の張り詰めた空気が嘘のように和らいだ。


「班決めどうっすか? もし空いてたら一緒に回ろうと思ってるんすけど、どう?」


 エリはナツキの机に軽く体を寄せ、軽快な口調で続ける。一方、さっき話しかけてきた男子には特に強い否定もせず、ただ曖昧な笑顔を向けるだけ。しかしその笑顔からは「ここは私に任せておいて」という意思が滲んでいるように見えた。


「……あ、そう。じゃあおまえ、猫宮たちと組むのか?」

 男子は面食らったように瞬きをする。何か言いかけたが、レンカがぐいと前に出て、

「悪いけど、ナツキはウチらの班に入るから。あんたたち、もう人数揃ってるでしょ?」

と告げた。まるで正義感の強い先輩が路地裏で絡まれた後輩を助けるような凛々しさだった。男子はその勢いに気圧されたのか、「わかった、じゃあいいよ」と肩をすくめて戻っていく。


 そのやりとりに、ほっと息をついたクラスメイトたちが何人かいるようだった。あの男子も含め、誰もナツキに対して直接的な悪意はないのかもしれない。ただどう振る舞っていいのか分からず、一瞬気まずい空気が流れただけなのだろう。


「ごめんね、ちょっと強引だったかな」

 エリが苦笑いして言うと、ナツキは大きく首を横に振った。むしろ助かったという感謝のほうが大きい。もし男子グループに入り込んでいたら、周囲の視線に耐えきれなかったかもしれない。


 レンカは腕を組んで「決まり! ナツキはウチの班。問題ある?」とクラスをぐるりと見渡すように言い放つ。誰も反論せず、「いいんじゃない?」という穏やかな雰囲気が自然と広がっていった。何人かの女子がうなずき合う姿を見て、ナツキは胸を撫で下ろす。教卓のそばで烏丸先生も黙って見守っていたが、あえて口を挟まないのは、生徒同士で解決させようとする配慮なのだろう。


 まもなく班分けの最終確認が行われ、ナツキはあらためてエリやレンカ、ほか数名の女子と同じグループになったと知る。中にはあまり話したことのない女子もいるが、嫌悪感を示すわけでもなく、ただどう接すればいいのか戸惑っている様子が伝わってくるだけだった。そんな雰囲気を感じ取ってか、エリが「わー、このメンバーで旅行なんて楽しみっすね!」と一人で盛り上げ、ほかの女子もくすくす笑い始める。ナツキはノートをめくり、「ありがとう」と書いてエリに見せた。彼女はパッと目を輝かせ、

「へへ、どういたしましてっす!」

と返す。その屈託のない笑顔を見ていると、小さな救いが芽生えるような気がした。


 ホームルームが終わり、班分けもほぼ決まったころ、レンカが声をかけてくる。

「ナツキ、ちょっとだけ話せる?」

 ナツキが静かにうなずくと、レンカは続けた。

「あたしさ、前から言おうと思ってたんだけど、別におまえを無理に男子扱いする気はないから。学校の手続きとかは仕方ないかもしんないけど、あたしはナツキとして見るよ。あんまり気を張らないで」


 その言葉を聞いた瞬間、ナツキの胸がじんと熱くなる。戸籍や身体の変化など、いろいろな問題はあるだろうに、彼女は「一人の仲間」として受け入れる意思を示してくれている。それがどれほど大きな支えになるか、本人も気づいていないのかもしれない。ナツキは深くうなずいて、ノートの端に「ありがとう」と小さく書いて見せた。レンカは照れくさそうに笑い、「うん」とだけ答える。


 昼休み。廊下を歩いていると、ムラサキの姿が目に留まった。別のクラスゆえに顔を合わせる機会は少ないが、彼女はナツキを見つけるなり足早に近づいてくる。ほっとしたような表情を見る限り、ずっと気にかけていたのだろう。


「班、もう決まったんだよね? うまくいった?」


 ムラサキの問いに、ナツキはノートを取り出し、「レンカたちと一緒」と書いて見せる。するとムラサキは安堵したように笑みを浮かべ、鼻からふっと息を吐いた。

「そっか、よかった。クラス違うし、もし誰も受け入れてくれなかったら私がどうにかしようと思ってたけど……でも犬山さんや猫宮さんなら頼れるし、楽しそうでいいね」


 その穏やかな声に、ナツキは申し訳ないような気持ちを抱く。せっかくの修学旅行なのに、自分がいることでムラサキに余計な心配をかけているかもしれない。ノートに「心配かけてごめん」と書こうとした矢先、ムラサキが首を横に振った。


「ううん、気にしなくていいよ。私こそ、同じ班に入れたらよかったんだけど……クラスが違うからね。まぁ、自由行動の時間とかあるだろうし、そのときは一緒に回ろう?」


 そう言いながら向けられるまっすぐな視線に、ナツキは強い優しさを感じた。そのまま短い沈黙が降り、彼女の頭には狐の言葉が蘇る。「どう在りたいかは自分で決めろ」と――。いまのナツキは、こうして修学旅行の班に入れてもらい、ムラサキと再会して安心を得ている。そしてそれは以前の自分のままではなく、今の姿のまま生きる自分を受け入れる方向へ進んでいるのではないかと、小さな疑念が胸をかすめた。


 それでも、ペンを走らせ「自由時間、楽しみにしてる」と伝えると、ムラサキははじけるような笑顔で「うん!」と返してくれる。その笑顔を見た途端、ナツキの肩から力が少しだけ抜けた。自分のアイデンティティはまだ大きく揺れている。でも、一緒に笑い合える人がいることが確かな救いになっているのは事実だった。


 午後の授業では修学旅行のしおりの読み合わせや注意事項の説明が続き、教室はお祭りのような活気に包まれる。行き先や食べ物、宿泊先の話など、あちこちで弾む声が聞こえた。ナツキはその輪にどこまで入っていけるのか分からず緊張を覚えるが、エリが時折「ナツキさん、これ楽しみっすよね?」と話を振ってくれるおかげで、筆談ノートで少しずつ応じることができた。そんなふうに誰かが扉を開いてくれるだけで、クラスの中にささやかな居場所が見えてくる。まだ不安は拭いきれないが、確かな一歩を感じられた。


 放課後、教室の後方で班のメンバーと軽く打ち合わせし、「明日からも困ったら何でも言ってね」とレンカが力強く宣言する。エリも「班は助け合いっすよ!」と笑顔を見せる。ナツキはノートに「よろしく」と書いて見せ、皆から「こちらこそ」と微笑みを返された。その小さなやり取りが、かすかな安心を与えてくれる。


 一人で下駄箱へ向かう途中、またムラサキが待っていて、今日の出来事をこっそり尋ねた。「大丈夫だった?」という問いかけに、ナツキは小さくうなずき、「みんな優しかった」とノートに書く。するとムラサキは肩の力を抜いたように微笑み、「そっか、よかった」と安堵の息を漏らした。


「レンカさんもエリさんも、ちゃんと受け止めてくれる人だもんね。修学旅行、きっと大丈夫だよ」


 その言葉を聞くと、ナツキの胸にほのかな温かさが広がると同時に、自分自身への疑問がまた顔を出す。本当にこれでいいのだろうか。もしかしたら男に戻れる可能性はないのか、それともすでに幻想なのか。研究施設の男が言ったように別人として生きていくしかないのか——そんな思考が渦を巻きかけるが、今はムラサキのまなざしに支えられるように心を落ち着かせる。


 たとえ自分のアイデンティティの迷いが消えなくても、レンカやエリ達がいる学校ではナツキはひとりぼっちではない。そう自分に言い聞かせるように下を向き、「ありがとう」とノートに記す。ムラサキは深く頷き、「うん」と短く返事をするだけで、ナツキを安心させてくれた。妖狐に問われた「どう在りたいか」はすぐに答えが見つからなくても、日々誰かと繋がりながら生きていけば、少しずつ見えてくるのではないか——そんな希望がかすかに胸を照らす。

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