第十一話 日記というもの
霧深い山から戻った翌朝、部屋の鏡に映る自分の姿を見つめながら、ナツキはまるで自分の輪郭が透けていくような不安に苛まれていた。昨日、九尾の狐に投げかけられた「どう在りたいかはお前自身が決めろ」という言葉と、研究施設の男が示唆した「きみはもう元の君じゃないかもしれない」という脅し——相反する二つの声が脳裏でせめぎ合い、彼女の思考を掻き乱している。叫びたくても声も出ず、ナツキの慟哭を聞くことができる者は誰もいない。いったいどこまでが自分の「魂」なのか。考えれば考えるほど、胸が軋んだ。
それでもナツキは重い身体を動かし、制服に袖を通す。姿見に映るのは、どう見ても女子そのものの容姿——長く伸びた髪、細くしなやかな手足。ベッドの脇に転がったままのノートをそっと掴み、彼女は深いため息を吐く。声を失った今、文字こそが唯一の言葉だった。
家を出ると、外はどんよりとした曇り空で雨が降り出しそうな湿った空気が肌を包む。ナツキの胸は妙にざわついていた。
(どう在りたいのか、なんて簡単に決められるわけがない。でも、何もしないままでは気が狂ってしまいそう……)
頭の片隅で九尾の狐の声と研究施設の男の言葉が交互に響く。かき消すように歩調を速めるうちに、学校の門が見えてきた。
校舎に入ると、通りすがりの生徒たちの視線がちらちらとナツキに注がれているのを感じる。戸籍は男子でも見た目は女子、しかも声が出せない——一連の変化で浮いた存在になってしまった自分を、悪意はなかろうと皆が扱いかねているらしい。ナツキは視線を床に落とし、教室へ急ぐ。だが、机に座ってからも彼女の思考はまとまらず、朝のホームルームがどこか遠い世界の出来事に感じられた。
午前の授業が終わるころ、トントンと控えめに机を叩く音がして、ナツキははっと顔を上げる。ムラサキがいつもの穏やかな目で彼女を見つめていた。
「お昼……一緒にどう?」
そう小声で問いかけるムラサキの表情は、どこかナツキを気遣うように曇っている。ナツキは筆談ノートを開き、「お願いします」と書いて微笑もうとしたが、うまく笑みを作れなかった。
空き教室に移動し、向かい合わせに机を引き寄せる。ムラサキが手作りのおにぎりを手渡してくれたが、ナツキの食欲はまるで湧かない。そっとノートを開いてみても、自分が何を書きたいのか曖昧で、ペン先が震えたまま止まった。すると、ムラサキが先に切り出す。
「ナツキ……辛そうに見える。よかったら色々思ってること話してくれないかな」
話すといっても、ナツキは声が出せない。ノートを使うしか方法はないが、研究施設の男に「お前はもう別人だ」と告げられた恐怖や、九尾の狐が残した問いに対する混乱は、一度言葉にすれば崩れてしまいそうな脆さを孕んでいる。ノートにペンを走らせかけては止まり、うつむく彼女を見て、ムラサキは静かに目を伏せた。
「大丈夫。焦らなくていいよ。……そうだ!もしよかったら、日記を書いてみるのはどう?」
思わぬ提案に、ナツキはきょとんと目を見開く。ムラサキは続ける。
「昔、私も辛いことがあったとき、誰にも話せなくて……でも日記に全部吐き出していくうちに、ちょっとだけ整理できたんだ。ナツキは声が出せないぶん、なおさら思いが溜まりやすいと思うから」
ナツキはしばらく考え込んだ。これまでも筆談ノートに思いを綴ったことはあるが、それはあくまで「誰かとやりとりするため」のもの。誰にも見せない、自分だけのための日記を書く——正直、書いてしまったら、どうしようもない自分の醜い本音が溢れてくるかもしれない。それでも、今のまま心に溜め込んでいるほうがもっと苦しい気がした。ナツキはノートに「やってみる」と書き、ぎこちなく微笑む。するとムラサキはホッとしたように、「それならよかった」と小さく息をついて微笑み返した。
午後の授業をなんとかやり過ごし、放課後になるとクラスメイトたちはそれぞれ部活や帰宅の準備に動き出す。ナツキは人混みを避けるようにさっと教室を出て、昇降口でムラサキと合流した。駅まで一緒に歩く道すがら、さりげなく肩を寄せてくれるムラサキの存在が、ナツキには何よりの救いだった。
「無理しないで書きたいことだけ書くのがいいと思う。何かあったらいつでも連絡して」
そう言って手を振るムラサキを見送り、ナツキは一人暮れかけた町を歩く。携帯のメッセージアプリを開いたまま、何も打てない。声すら出せない自分が、メッセージでも言葉を選びかねていると思うと、どこか不思議な空虚を覚えた。
自宅に戻ると、両親が「おかえり」と声をかけてくれる。ナツキは軽く会釈し、ノートに「後で…」とだけ走り書きしてから自室へ向かった。母の瞳には心配の色がにじんでいたが、彼女のいまの気持ちを詳細に伝えるには、あまりにも言葉が足りない。
机に座り、ムラサキからもらった新しい日記帳を開く。真っ白なページがやけに神聖に感じられ、息が詰まるような恐れも同時に湧く。
(やらなきゃ何も変わらない)
そう自分に言い聞かせ、ナツキはペンを握り、思いのまま走り書きを始める。
最初はぎこちなかった文字が、想いを吐き出すうちに次第に止まらなくなる。研究施設で受けた冷たい視線、激痛に苛まれようとも逃げ場のない苦しみ、両親の不器用な優しさ、そしてムラサキの励まし——感情が奔流のようにペン先からあふれ、日記帳のページを埋め尽くしていく。途中で幾度か、手が止まりかけるが、そのたびに「いや、まだ書いてないことがある」と奮い立たせる。
気づけば何ページも使っていた。書き終えたときには手がしびれ、背中も汗ばんでいる。それでも不思議と、息苦しさは少しだけ緩んでいた。ナツキはまぶたを閉じ、しばし机に伏せるようにして呼吸を整える。
(本音を書いたら、前よりも「自分」を感じられる気がする……)
ノックの音がして部屋のドアがわずかに開くと、母がそっと顔を覗かせた。
「ご飯、食べる?」
ナツキはノートに「うん」とだけ書く。母は心配そうに「大丈夫?」と尋ねてくるが、うまく筆が進まない。少し考えてから「なんでもない」と短く綴り、ぎこちなく微笑んだ。母も多くは聞かず、かすかに安心したような顔でドアを閉める。
リビングへ行くと、父と母がいつもより静かな雰囲気で待っていた。ナツキは席について、「いただきます」とノートに書いて見せる。両親は少し戸惑いながらも、「食べられるならよかった」と気遣う言葉をかけてくれた。ぎこちない空気は相変わらずだが、ナツキはそれが今の自分に必要な最低限の安心だと感じていた。
食事を終え、自室に戻ったナツキはもう一度日記帳を開いて小さく追記する。
「日記、書いてよかった。まだ答えは出ないけど、私は私だって少し思えた。いろんなものがいろんなことを言う……今は答えは何も出ないけど、もう少しだけ、この身体で生きてみよう」
ペンを置いて、ナツキは小さく息を吐く。鏡に映った自分の長い髪に、まだ強い違和感はある。けれど、そのぎこちなさはほんの少しだけ和らいだ気がした。日記帳という形で自分の気持ちを声なき声として外に出せたおかげかもしれない。
布団に潜り込むと、うつむいたまま金色の目で問いかけてきた九尾の狐の姿がまぶたの裏に浮かんだ。そして同時に、手を伸ばして「一緒にいるよ」と支えてくれたムラサキの光景も重なる。激しい戸惑いと、微かな安堵感。それらが入り混じって胸の奥を締めつけるが、今のナツキにはどう在りたいかという問いを避けるつもりはなかった。
(辛くても、少しずつ、考えていけばいい。ムラサキもいてくれるし、私には書く手段があるから)
夜の静寂に包まれながら、ナツキはそっと日記帳を抱きしめ、目を閉じる。もしかすると明日も研究施設の脅威や自分への疑問が襲いかかるだろう。それでも、日記を書くことで一歩ずつ前に進めるかもしれない——そう信じると、わずかながら心が軽くなるようだった。
声を失い、身体まで変わった自分。それでも自分でありたいと願う想い。それらを胸に抱えながら、ナツキはゆっくりとまどろみへ沈んでいく。昨日まで真っ暗だった未来が、ほんの少しだけ光を差し始めたような気配を感じながら。




