第十話 妖狐と研究施設
本日午前中にも一話公開してますのでご注意ください。
あの霧の山から戻ってきてからも、ナツキの胸にのしかかる重苦しさはまったく拭えなかった。石碑に刻まれていた「禊」「再生」という文字こそ確認できたものの、大きな手がかりは得られないまま探索を終えてしまったからだ。深い霧に行手を阻まれて引き返すことになり、むしろ「自分は本当に元の自分なのか」という疑問がいっそう増幅してしまったように思える。
そんな不安を抱えたまま迎えたある放課後、ナツキは校門を出たところでスーツ姿の男に呼び止められた。濃紺のネクタイに落ち着いた口調——だが、その口元が微かに笑んでいるのを見た瞬間、彼女の背筋が嫌な予感で寒くなる。
「ああ、楠ナツキくん……いや、楠ナツキさん、でいいのかな?」
男は小声でそう囁き、ナツキの顔を品定めするように見つめてきた。研究施設の人間に違いない、と彼女は直感する。声が出せないナツキは思わずノートをぎゅっと抱きしめながら、じりじりと後ずさった。
「久しぶりだね。最近の体調はどうかな?」
あくまで穏やかな調子で問いかけてくる男。しかし、その視線は冷たい光を宿している。ナツキは筆談で拒絶の意思を示そうとノートを開こうとしたが、男がするりと進路を塞ぐように立ちはだかった。
「今日は少し相談があって来たんだ。……もう一度、研究施設へ来る気はない? きみの身体についてはまだ解明できてないことが多いし、詳しい検査をすれば、元に戻る手がかりだって見つかるかもしれないよ」
誘いの言葉は一見優しげに聞こえるが、男の瞳には明確な支配欲が浮かんでいるように感じられる。ナツキはノートに大きく「イヤ!」と書き、力いっぱい首を横に振った。あの場所には絶対に戻りたくなかった。そこでは彼女は「人間」ではなく、ただの「サンプル」として扱われてきたのだから。
「断る……そうか。でも、本当にいいのかな」
男は肩をすくめると、鞄から書類を一枚取り出した。そこにはかつてナツキが施設に収容されていたときの細胞スキャンや分析データが克明に記されている。
「きみの細胞は、一度完全に液状化してから再構築されたもの——そう我々は結論付けている。つまり、きみの中身は元のものとまったく別物とも言える。これって、楠ナツキくんと言えるのかな? きみはもう元の君ではないんじゃないか……と言えもしないかい?」
男の低い声は、声を発せないナツキの耳に鋭く突き刺さる。ノートを握る手が小刻みに震え、文字を書く気力も失せそうだった。
「もし親御さんが、この事実を知ったらどうだろうね。きみは実質『別の存在』になったのかもしれない……。そういう真実を知ったら、ショックを受けるんじゃないかな。ああ、もちろん私からは言わないよ? でも、研究施設で一緒に解明すれば安心できるだろう。きみの身体が何なのか、はっきり分かれば……ね?」
脅しに等しい男の物言いに、ナツキは思わず唇を噛みしめた。声を出せず、逃げようにもわずかに立ちふさがる男の腕をかいくぐれない。仕方なくその場で睨みつけるようにするしかなかった。
「まあ、考えておいて。いつでも連絡してきていいんだ。……じゃあね、ナツキさん。いや、もうそう呼んでいいのか、わからないけどね」
最後にそう言い捨てて、男はさっさと踵を返す。校門を出ていく彼の背中をナツキは見送るしかなかった。全身にかつてないほどの絶望感が渦を巻いているのを自覚する。施設の人間は、彼女を再び連れ戻すためなら手段を選ばない。ノートを落としそうになるほど、ナツキの手の震えは止まらなかった。
翌朝。ナツキは自室のベッドで布団をかぶり、無表情のまま天井を見つめていた。昨日の男の言葉が頭を離れない。
「きみはもう元の君じゃないんじゃないか」
身体は完全に女の姿へ変わり、声すら出せない。思い返すたび、ナツキは自分がもはや元の自分ではないのではと胸を締めつけられる思いに駆られた。
(じゃあ、いったい自分は何者なんだろう……? いや、まって。そもそも、いつから『私』と呼ぶようになっていたの……)
以前は確かに「僕」と言っていたはずなのに、気づくとずっと「私」という一人称を使っている。その些細な変化が、異様に恐ろしく感じられた。
研究施設の男の脅しを受けながらも、ナツキの胸には「自分がどうしてこんな姿になったのか」を突き止めたい思いがくすぶり続けている。何より、ムラサキの存在が彼女を支えてくれていた。声を失ったナツキに何も言わず寄り添い、肩に手を置いてくれるその優しさが、ぎりぎりのところで絶望から踏みとどまらせているのだ。
そして週末。ナツキはムラサキと合流し、バスで再びあの霧の山へと向かった。
「無理はしないでね」と不安げに問いかけるムラサキに、ナツキはノートへ「大丈夫」と書いて見せる。だが、それはせめてもの強がりだった。自分の言葉さえいまは心許ない——それがナツキの本音である。
山の入り口は先週よりもさらに暗く、昼間だというのに夕刻のような陰鬱さを漂わせていた。立ち並ぶ木々の枝葉には湿気がこびりつき、地面にはぬかるみができている。鳥居の近くでかすかに揺れる注連縄が鈴のような音を立てるたび、ナツキの胸には冷たい重石が落ちるような感覚が広がる。彼女は不安を振り払うようにムラサキの袖をきゅっと掴み、一歩ずつ足を進めた。
途中、かつて見つけた苔むした祠を横目で探してみるが、一帯は白く濃い霧に覆われ、視界が極端に悪い。道なき道を歩くなか、木の根がうねる地面や、雨のあとに崩れた土砂など障害物だらけで、ナツキもムラサキも何度も足を取られそうになる。
「大丈夫……転ばないように気をつけて」
ムラサキの声に励まされながら、ナツキは必死にノートを握りしめてうなずいた。
やがて山道が獣道に変わるにつれて、空気の重苦しさはますます濃くなっていく。普段なら聞こえるはずの鳥や虫の音が、まるで封じ込められたかのように消えていた。二度の探索で断念した場所が近いと、ナツキの頭にははっきりわかる。前は正体不明の寒気と圧迫感に耐えきれず、ムラサキを連れて逃げ帰ったのだ。それでも、今日は違った。自分の足取りもムラサキの意志も、先へ進むことをやめようとはしない。
「行けそう……?」
濃い霧のなかでムラサキが不安げに口を開くと、ナツキは再びノートに「行くしかない」と書いた。確かに恐ろしさはある。だが、ここでまた引き返せば何も変わらない。恐怖よりも大きく膨らむのは、真実を知りたいという切実な思いだった。
先日見つけた石碑の場所へ行こうと試みるものの、濡れた草木が絡み合い、道らしきものは見当たらない。自然に形成されたバリケードのように根や茂みが行手を阻んでいるため、やむなく迂回するしかなかった。気づけばこれまで歩いたことのない細い道へ踏み込み、行き先もわからぬまま、二人は視線を交わして少しだけ頷き合う。そしてさらに奥へと足を進めることを選んだ。
霧がいっそう濃くなってきた頃、ナツキの頭は締め付けられるような痛みに襲われる。まるで山全体が自分たちを拒んでいるかのようだ。ムラサキも肩で息をしながら「なんだか胸が苦しい……」と弱々しくつぶやく。ナツキも同じように息苦しさを覚えていたが、それでも足を止めるわけにはいかない、と奮い立たせる。
(ここまで来てしまった以上、もう引き返せない……)
両手で絡まった枝をつかみ、身体を少しずつ押し込むように前へ進むナツキ。そのとき、霧の色が金色を帯びるように変化しはじめた。さっきまでの真っ白な景色が、どこか淡くきらめく金の光を含むように揺れて見える。ナツキは思わず足を止め、ムラサキと視線を合わせた。先ほどまでは感じなかった風が、サラサラと木々を撫でる音を立てている。
「……なにか、いる?」
震える声を出したムラサキに、ナツキの胸にも妙なざわめきが広がる。次の瞬間、霧がすっとわずかに晴れ、その先に金色の輝きを纏った一人の女性が浮かび上がった。神々しいほどの威圧感を放ちながら、目がくらむような美貌をたたえ、ゆっくりとこちらを振り向く。
彼女の背後には九本の尾がたなびいていた。黄金色の毛先をゆらめかせるその姿は、人智を超えた存在であるとしか言いようがない。
九尾の狐——。
物語や伝承のなかでしか知らないはずの存在が、そこに現実離れした風貌で立っているのだ。ナツキもムラサキも言葉を失い、その場に立ち尽くす。ノートを持つナツキの手は震え、危うく取り落としそうになったが、なんとかこらえた。
女性はゆっくりと首をかしげ、琥珀の瞳でナツキたちを射抜く。その瞬間、ナツキは背筋に電流が走るような感覚と、身体の芯に火を灯されたような熱さを同時に味わった。声を出せない彼女の喉が、空しく震える。
「……お前は、自分が何者であるか知りたいのか。あるいは、何者でないかを知りたいのか?」
透き通った声が、まるで鈴の音のように直接ナツキの耳へ届く。ナツキは思わずノートを落としかけ、ムラサキも言葉を見つけられず固まっている。
九尾の女性はゆるやかに微笑み、さらに問いかける。
「返事をしないのか。それとも、できないのか……」
その威圧感は人間の常識を逸脱していた。炎のそばに立っているような熱まで感じ、息苦しさが増す。ナツキが懸命にノートに文字を落とし「あなたは……何者なんですか……?」と尋ねると、彼女は小さく首を振る。
「何者でもない。ただここに在る。それだけだ。善も悪もなく、火があれば燃えるように、ここには私がいる——それだけ」
ナツキは震える手でノートを開き、「私は…誰?」と殴り書きした。いつのまにか「一人称」として自然に使ってしまっている「私」という言葉が、研究施設の男が吐き捨てた「もう元の君じゃないかもしれない」というフレーズを思い出させる。思考が混乱し、頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。
ムラサキは必死にナツキの身体を支え、「大丈夫、絶対大丈夫だから」と涙交じりの声で励ます。そんな二人を見下ろしながら、九尾の女性はどこか憐れむように微笑んだ。
「形が変わっただけで自分の価値を見失うとは……人は儚いものよ。それでも、お前自身がどう在りたいか——それこそが要だ。身体の形がどれほど変わろうと、魂まで変わるわけではない。もっとも、一度再生を経て、すでにこちら側へ足を踏み入れているが……お前がなお人間であるかどうかは、お前自身が決めることだ」
その言葉は、ナツキの心に喪失感とほのかな希望を同時にもたらした。「人間ではいられないかもしれない」という恐怖と、「魂までは変わらない」という安堵。しかし相反する思いが頭を激しく揺さぶり、ナツキは膝を折りそうになる。
ムラサキは震える身体でナツキを支え、「ナツキ……どうなったって、一緒にいるから」と潤んだ瞳で告げる。声を出せないナツキはノートに「ありがとう」とだけ書いて、その場に崩れかける気持ちを必死にこらえた。
九尾の女性はそんな二人を見下ろしたまま、薄く笑みを浮かべる。
「過去も未来もない。今この一瞬をどう在るか……。深入りは勧めないが、それもお前たちが決めることだ」
それだけ告げると、彼女の姿は霧の奥へと溶けるように消えていった。息をするたびに重く感じられた空気が少しだけ緩み、かすかな風が頬をかすめていく。
狐が消えてなお、ナツキは呆然と立ち尽くしていた。ムラサキがそっとナツキの手を握り、「もう行こう」と促す。ナツキはノートに「帰ろう」と書き、かすかに頷いた。これ以上、霧の奥にとどまってはいけない——そう直感したのだ。足元の震えは続いているが、ムラサキに支えられながら、二人はゆっくりと山を下り始める。
「魂までは変わらない」
「お前はもう元の自分じゃないかもしれない」
九尾の狐と研究施設の男。まるで対極を示すようでいて、どちらもナツキに「何者なのか」を突きつける存在だった。その言葉がせめぎ合うなか、胸の奥は激しく締めつけられる。答えはまだ見えないが、ムラサキが手を離さずいてくれる限り、ナツキは自分を見失わずにいられるだろう。そう感じながら、彼女は一歩ずつ、霧の山からの帰り道を踏みしめていった。
第10話まで読んでいただきありがとうございました。
もしこの物語があなたの中に何かを残せていたなら、評価、ブックマークをいただけると、とても励みになります。




