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蝶は、名を告げない  作者: VIVIDO
変容編
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第一話 日常と神域

くすのきナツキは、特に誰かに嫌われているわけでもないが、同時に誰かから強く求められることもなかった。そうした透明な立ち位置で、ずっと高校生活を送っている。周囲に話しかけてくれるクラスメイトはいるし、授業で当てられれば答える。けれど放課後になると、「一緒に帰ろう」と誘われることはなく、いつの間にか教室の片隅に同化してしまうのだ。なぜそうなるのか、ナツキ自身にもはっきりとはわからない。「余計なことを言うと浮いてしまうかもしれない」という小さな遠慮が積み重なって、気づけば空気のように存在が薄れている――その事実に、いつしか自分でも嫌気が差し始めていた。


そんなある日の放課後、ナツキは普段とは違う帰り道を選んでみる気になった。両親は共働きで夜遅くまで家にいないし、帰宅したところで一人の時間が長くなるだけ。ならば少しくらい遠回りしてもいい――そう思ったのは、どこかで「何か変化が起こるかもしれない」という淡い期待を抱いていたからかもしれない。


住宅街を外れた先には、鬱蒼と木々が生い茂る裏山が見える。地元の人たちが「神域」と呼び、めったに近づかない場所だという。ナツキの祖父も昔から口を酸っぱくして「山の上は禁足地だから行くな」と忠告していたが、理由については曖昧にしか語らなかった。ただ「あそこは神様が祀られていて、人が踏み込むべき場所じゃない」と言うばかりである。


しかしこの日、ナツキはまるで何かに惹かれるように、その山道へと足を向けた。夕暮れが迫る中、冷たい風が肌をかすめると、不思議な寒気に似た期待感が背筋を刺激する。裏山の登り口に着くと、すぐに空気が変わったのがわかった。道路脇のざわめきとは打って変わって、人の声は聞こえない。代わりに木々のざわめきが耳を満たし、葉の隙間から見える空は灰色がかっていて、どこか異様な気配が漂っている。


祖父の忠告が脳裏をよぎり、「やめておけ」と理性がブレーキをかける。けれどナツキは、退屈な日常に埋もれる自分を思い出すと、どうしてもここで引き返す気になれなかった。誰からも強く求められず、ただ存在しているだけの自分。そんな虚しさを抱えたまま今日を終わらせたくないという衝動が、脚を奥へ進めさせる。


獣道を歩くほどに道は荒れ、足元には根が張り出し、苔むした岩が転がっていた。さらに、いつの間にか立ちこめ始めた霧が、みるみるうちに視界を塞ぐ。木立のシルエットがぼんやり浮かぶ程度で、方角すらおぼつかなくなる。

(まずい。本当に戻れなくなるかもしれない)

ナツキの背筋に冷たい汗が伝った。さすがに引き返そうと踵を返したそのとき、霧の奥にかすかな影が見えた。それはひしゃげた石段と苔むした鳥居、そして切れた注連縄しめなわの端が散らばる、小さな祠のような建物だった。


どきりと胸が跳ねる。そこだけ時間が止まったかのように、静かで不気味なほど神聖な雰囲気が漂っていた。何かに呼ばれるように足を進め、気づけば鳥居の前に立っている。

(これが、じいちゃんの言う場所……?)

古びた木材と脆い注連縄が朽ちたままの鳥居は、今にも崩れそうだ。ここをくぐれば「禁足地」に踏み込むことになる。理性はなおも警告していたが、胸の奥に渦巻く焦燥に似た好奇心がそれをかき消す。


ナツキは浅く息を飲み、鳥居の手前で小さく一礼をした。祖父が神社を訪れるときにいつも行っていた作法を、自然と真似たのだろう。どこかで「神聖な場所に無礼があってはならない」という意識が働いたのかもしれない。そして、一歩、鳥居をくぐる。すると、霧がいっそう濃くなり、体が妙に冷えてきた。さっきまでの湿った風よりもさらに肌にまとわりつく冷気を感じ、振り返ろうとしても背後は白一色で何も見えない。まるで現実から切り離されたかのような錯覚に襲われた。


その静寂を破ったのは、どこからともなく聞こえるかすかな鈴の音。高くも低くもない、不思議な音色が耳をかすめる。そして、ナツキの目の前を漆黒の蝶がふわりと横切った。普通の蝶よりひと回り大きなその黒い翅には、虹色の輝きがにじんでいる。どうにも現実離れした存在感に、思わず息をのんだ。その蝶は一度こちらを振り返るように舞い、霧の奥へ飛び去っていく。

(追いかけちゃだめだ……でも……)

足が勝手に動いていた。「ここで引き返せば、また変わらない日常に戻るだけ」。そんな苛立ちにも似た感情が、ナツキを先へと誘う。何度か転びそうになりながら、蝶を見失わないように奥へと分け入っていった。


やがて霧がひときわ深くなり、ほとんど視界がきかなくなった頃、目の前に小さな祠が姿を現した。石造りの祠は腰ほどの高さで苔に覆われ、中には何かの像があるように見える。破れかけの扉の隙間からは、鱗粉りんぷんらしき粒子が淡く光りながら霧の中へ漂い出ていた。

先ほどの漆黒の蝶は、祠の前で翅をゆっくり開閉させている。まるで「ここに来い」と示すようだ。ナツキは喉を鳴らしながら祠へ近づいていったが、その瞬間、甘さと金属臭が混ざったような匂いが鼻を突き、胸がむかつくような刺激を覚えた。

(まずい、これは普通じゃない……)

そう直感したときには、もう手遅れだった。蝶がはばたいた拍子に、祠の内部に積もっていた粉が舞い上がり、一瞬にしてナツキを覆いつくす。とっさに息を止めようとしたが、動揺で吸い込んでしまい、甘苦い感覚が鼻腔から肺へと一気に広がった。

「……っ、がはっ……」

むせながら後ずさるものの、霧のせいで方向もわからない。冷や汗が噴き出し、喉が焼けるように痛んでくる。頭がくらくらして足元もおぼつかないが、なんとかして朽ちかけの石畳を探り、元の道へ戻ろうとする。けれど霧はますます濃くなるばかりで、意識が遠のいていく中、あの鈴の音だけがかすかに響いた。冷たい嘲笑なのか、それとも警告なのか――ナツキには判断がつかなかった。ただ不気味な寒気を伴う孤独が全身を締めつけ、助けを求める声すら出ない。


どうにか鳥居を抜け、転がるようにして獣道へ戻ったときには、息も絶え絶えだった。霧が嘘のように薄れていくのが見え、間一髪で抜け出せたらしい。肩で大きく呼吸を繰り返し、ぐったりと地面に膝をつく。あれほど不可思議だった光景は、いまや幻のように遠のいていたが、ナツキの身体にははっきりと異変の兆しが残っていた。鼻腔と喉の奥に蝶の鱗粉がこびりついているような嫌な感触があり、頭痛とめまいも治まらない。


何度も足をもつれさせながら山道を下り、バス通りに出たころには、すでに日が暮れかけていた。コンビニで買った水を一気に飲んでも、喉の違和感は拭えず、吐き気やだるさが増すばかり。祖父の言いつけを破った報いかもしれない、という罪悪感がうっすらと胸をかすめるものの、今さら後悔しても症状はよくならない。最終的には足を引きずるようにして自宅にたどり着き、鍵を開けるころには全身が震えていた。


両親はまだ帰らない静かな家の玄関で、ナツキは小さく息を吐く。

「ただいま……」

いつもなら無意味に響くこの言葉が、ひどく心細く感じられた。寒気と倦怠感、そして鼻に焼きつく蝶の鱗粉の甘い匂い。嫌な予感はするものの、どうすればいいのかもわからない。毛布にくるまって横になっても、頭痛と吐き気が一向に治まらず、体の震えは止まらない。

(まさか、呪い……なんて馬鹿な……)

そう思っても、あの霧や鳥居、蝶が現実にあったことは確かなのだ。何を信じればいいのか、混乱ばかりが募る。やがて痛みとだるさに耐えきれず、意識は途切れ途切れになっていく。視界の端には黒い翅がゆらめく残像がちらつき、まるであの蝶がナツキの中に入り込み、身体を作り替えようとしているかのような悪夢が頭をよぎった。


「……誰か……助けて……」

かすれた声は虚空に溶け、耳鳴りのような鈴の余韻だけが闇の中に漂う。祖父の警告を破った罰なのか、それとも単なる病なのか――結局わからないまま、ナツキは深い闇の底へと沈んでいった。

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