体育館倉庫の鏡
僕が通う学校にも当然のように七不思議というものがあり、その中でもひときわ実しやかに噂されるものがあった。
その学校の体育館倉庫には、マットや跳び箱や平均台といった体育用具に紛れてポツンと姿見が置かれている。深夜、“とある条件”を満たした状況で姿見の前に一人立つと鏡の世界の住人と入れ替わってしまうというのだ。
よくある怪談話ではあるのだが、噂好きやオカルトマニアの範囲を超えて広く学校中で語り継がれてきたらしい。実際、薄暗く人気のない場所に姿見があるというシチュエーションは恐怖心を煽る。そういった要素がいかにも本当らしいと噂に真実味を持たせているのかもしれない。
“とある条件”。
今夜はそれを満たすタイミングだった。僕は家族に気づかれないよう家を抜け出すと、人気のない学校へと忍び込んだ。
体育館倉庫には一つ小さな窓がある。帰り際に開けておいた鍵は、誰にも気づかれることなくそのままであった。カラカラと軽い音を立てながら窓は開いた。窓枠を飛び越えて倉庫の中へと侵入する。一応、外履きは脱いで片手にぶら下げた。コンクリートの冷たい感触が靴下越しに伝わってくる。
窓以外の明り取りはないため倉庫の中は真っ暗だ。僕はポケットからスマホを取り出しライトを付けた。軽く光を振り回すと目的のものはすぐに見つかった。反射する光に目を細めながらそれに近づく。
スマホから時間を確認すると間もなく条件を満たすタイミングであった。
僕は不安と期待が入り混じった気持ちを抱きながら、その時を待った。かなり底冷えする夜であるが緊張からか手の甲にはじっとりと汗が滲み出てくる。
――時間だ。
僕はスマホのライトを消すとポケットに戻し、姿見の前へと一歩足を踏み出した。そして鏡の表面へ、手のひらでなぞるように文字を描く。
い。
汗と皮脂が薄っすらと鏡の表面を白く汚した。
れ。
心臓が大きく脈動するのを感じる。簡単な動作であるにも関わらず僕の手は少し震えていた。
て。
最後の文字を描き終わると、唐突なめまいに襲われた。
ぐわんと視界が歪んでいく。たまらず僕は座り込むとそのまま床へ吸い込まれるように意識が闇へと沈んでいった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
僕ははっと気付くと、目の前に“僕”がいた。
“僕”は最初驚いたような表情をしていたが、次第に泣きそうになるのを堪えるように顔を歪めていくとペチリと力なく鏡の表面を叩いた。そのままのろのろと体育館倉庫を出ていく。その姿に奇妙な感情を抱きながら僕は見届けた。
噂は本当だったのだ。
鏡の世界というものは、恐ろしく何もなく緩慢とした空間だった。
身体の感覚はなくなっていた。そこは視覚と思考だけの世界だった。目という器官も存在せず鏡の表面へ映る光景をただただ感覚として受け取る。それだけの世界だった。
きっと普通の人間であればこんな空間に閉じ込められることは耐えられない。僕のように何かから逃げ出したわけでもなければ簡単に狂ってしまうのだろう。
僕はといえば、そんな何もない環境に心穏やかだった。向こう側での境遇を考えれば、ここはなんて安らかな場所なんだろう。こんな時間が永遠に続くのであれば、ここは正しく僕にとっての楽園だった。
生徒や教師、その営みの断片を鏡を通して眺め続けた。永遠とそれが続くのであっても構わないと思っていた。
人気のないという場所柄、そこでは見たくもない光景が広がることも多々あった。
学校の裏手にあり、扉を締めてしまえば大声で叫ばない限りは教師も気付くことはない。人目をはばかることをするには絶好の場所だった。
時に、その男子生徒は硬いバスケットボールを何度も何度もぶつけられていた。時に、その男子生徒はからかいと称してネットで身体中を縛り上げられていた。時に、その女子生徒は体操着をたくし上げられて下着を露わにした姿をスマホで撮影されていた。時に、“僕”はマットの間へと押し込まれ上から複数人に押し潰されていた。時に、その女子生徒は……。
目を覆いたくなるような光景であったが、覆うべき器官はすでに失われていた。
**
あれから何年経っただろうか。
深夜、月の光も届かない真っ暗闇の中をカラカラと音が響いた。空いた窓から月の光が差し込み、人影が舞い降りる。スマホのディスプレイから放たれる光で周囲を照らしながら彼女は近づいてきた。知っている顔だった。何度もその顔が歪むのを鏡の中から見続けていた。
ああ、そうか。
彼女は、僕と同じように逃げ出しに来たのだ。
覚えのある動作をする彼女を眺めながら、僕の脳裏にある思考が横切った。嫌な予感がする。
(やめて!)叫ぼうとするも叫ぶための身体を持たない僕は、ただただ目前に映し出される光景を見つめることしかできなかった。
**
視線を上げると、鏡に“彼女”が映っていた。心臓が縮こまりひどく痛むのを感じる。
戻ってきてしまった。
次に条件を満たすためには四年を待たなければいけない。その時私はここに戻ってくることはできないだろう。
私は怒りとも悲しみとも絶望とも呼べる混沌とした感情を込めると、ペチリと鏡の表面を叩いたのだった。




