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シンフォニエッタ  作者: 外鯨征市
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 スネアドラムの細かいロールでさらに胸が高まり、シンバルが弾けるとともにそれは絶頂を迎える。

 今年の吹奏楽コンクール自由曲。

 エルガー作曲、『エニグマ変奏曲』

 勇敢なメロディからの重低音。トライアングルが連打され、全員によるテュッティでその曲はエンディングを迎えた。

 タクトを下した指揮者が客席に振り返り一礼。

 会場が拍手に包まれるなか、場内アナウンスが流れる。

「続きまして、吹奏楽の為のシンフォニエッタをお送りいたします。日向市立赤岩中学校吹奏楽部は一九九八年に行われた第四十六回全日本吹奏楽コンクールに初出場し、金賞を獲得いたしました。この曲はそれを記念して日向市出身の作曲家、三浦健太郎に委託して作曲されました。定期演奏会では毎年必ず演奏しており、先輩から受け継がれてきた楽曲です。今年も先輩との繋がりに感謝するとともに、この伝統を後輩へと繋いでいきます」

 舞台上手からOBOGの演奏者が楽器を手にして入場してきた。服装は近所の高校の制服やスーツ。彼女たちはそれぞれの配置につくと両隣の現役部員に軽く会釈をして着席した。

『卒業した先輩たちとともに演奏します。三浦健太郎作曲、吹奏楽の為の――』

 ――小さな交響曲(シンフォニエッタ)

 指揮者の体がわずかに揺れた。

 それに合わせて演奏が始まった。深海を思わせる重々しい木管群の音色。その中でもひときわ力強いバリトンサックス。ハスキーなアルトサックスの悲しい声。やがて前奏は終わり、テナーサックスの非常に短い二拍だけのメロディに合わせ、予拍(アウフタクト)で金管群が入ってきた。

 金管楽器とは思えないピッツィカートのようなやさしい音色。ステージにはいないヴァイオリンやチェロの響きが聞こえてくる。

 楽器が加わったことでさらに豊かになった曲想。しかし哀愁漂う旋律に不穏な空気が差し込んできた。まるで晴天の空に突如として暗雲がたちこめてきたかのようだ。あっという間に空は闇に染まり、中低音楽器の咆哮とともにティンパニーの雷が轟く。

 一瞬のことだった。重い空気を払うかのように金管管群がぽんと跳ねた。それに弾かれたかのように木管楽器による主題が始まった。さっきまでの天気が嘘だったかのような明るい旋律。それが終わりに差し掛かるとトランペットが主題を引き継いだ。やがて休んでいた中低音楽器が入ってきた。息がそろった正確な伴奏。それはオーケストラの一糸乱れぬヴァイオリン群のボゥイングのようだ。

 演奏は進み、光を浴びる楽器が変わっていく。出番が近づいたチューバが獣のように唸る。

 そして五十七小節目、練習番号八番。

 獲物に飛び掛かるかのように主題の演奏が始まった。二分音符で(アー)B♭(ベー)(デー)(アー)と勇ましい跳躍。やがて切なく舞い上がり、雷神がハンマーを振り下ろす。

 再び楽器が跳ねた。曲想が変わり木管楽器が主題を引き継ぐ。チューバの出番がやってくるまで時間はかからなかった。

 九十小節目、練習番号十二番。

 再びチューバによる主題。(デー)E♭(エス)(ゲー)(デー)と再び跳躍する。

 そして主題の掛け合いは終わり、トランペットのファンファーレが響き渡る。がらりと曲調が変わった。楽曲の終焉に向けた強く勇敢な旋律。

 咆哮する金管楽器。

 躍動する木管楽器。

 打楽器は飛び跳ね、指揮者は腕を振り回す。

 体力を必要とする楽曲でありながらまったく疲れを感じさせない。

 ティンパニーが激しく打ち鳴らされた。

 再びトランペットがファンファーレを奏でる。それが終わると指揮者の激しい動きに合わせて全楽器のテュッティ。激しい響きでシンフォニエッタは終わりを遂げた。

 ずんとした重厚な残響がホールに残る。それがおさまると同時に拍手が巻き起こった。

 指揮者が腕を振り、それに合わせて演奏者全員が立ち上がる。

『以上をもちまして。定期演奏会の第一部を終了いたします』

 アナウンスが終わり、緞帳(どんちょう)が下がっていく。

 それでも観客の拍手はまだ続いている。

ステージの彼らの顔に消耗の色は見られない。自分たちはやり切った。そう満足した表情だ。彼女たちの吹奏楽人生で一番の表情だっただろう。

 俺がいなくても大丈夫じゃないか。

 あの時からもう既に十五年が経った。

 最後に音楽室でチューバを吹いたときから十五年。

 何度か演奏会出演の打診はあった。

 しかし俺はそれをすべて断った。

 チューバを吹きたかったがそれでも断った。

 そしていつの間にか打診は来なくなった。きっと顧問だった藤岡が転勤になったのだろう。

 後輩たちとの繋がりが絶たれたれた気がした。

 違う。俺は自分の意思で退部したんだ。

 吹奏楽部を去った俺に、彼女たちにしてやれることは何もなかった。

 それでも考えてしまう。

 もう一度ともに演奏できるとしたら……。

 再びあのステージに立つことができたら……。

 叶うことがない想いが胸を熱くする。

 いや、俺は自分の意思で部活を辞めたんだ。

 いまさらあの部活に遊びに行けるわけがない。

 それでも以前と同じようにステージに立つことができたなら……。

 あの場所でチューバをもう一度吹きたい。

 ひんやりとした管体。

 空気を揺らす巨大なベル。

 そして図太い音。

 手元のパンフレットをパラパラとめくる。中身は各パートの写真と紹介文。ユーフォが二台にコントラバスが二台。そしてチューバが三台。あのとき前線を退いていたピストンチューバが写っている。

「立派になったなぁ」

 写真に写る彼女たちは輝いていた。

 県大会で銅賞しか獲れなかった暗黒時代を脱出し、今となっては再び九州大会常連校となった。そして今年は約半世紀ぶりに全国大会に出場、銅賞を獲得。一九九八年の黄金時代、全国大会ゴールド金賞の名誉にはまだ遠いかもしれないが、それでも全国大会に出場したという事実は変わらない。

 楽器を大切に扱ったからといって演奏はうまくならない。しかし楽器を大切にしない人間に演奏技術の上達は見込めない。それは人間関係でも同じことが言える。人間関係が良好だからといって合奏はうまくならないが、人間関係の悪い楽団は上位の大会に出場できない。

 あの時代とは違うんだ。

 彼女たちは彼女たちの手で新しい意志を持った。その新しい糸を次世代に紡いでいった。

 そこに俺が入り込む余地はない。

 老兵はただ消え去るのみ。

 俺がいた吹奏楽部とは違うんだ。

 それでも暗黒時代を知っている俺にできることがあるだろうか。

 こんな世界なんてと嘆いていた俺は先輩や後輩に支えられていた。彼女たちの存在こそがあの世界を生きる理由だった。

 菱川先輩、俺は元気にしています。

 蓮見さん、今も音楽を続けているかな?

 藤岡先生、先日とうとうチューバを買いました。

 稲葉先輩、(ツェー)管チューバって素晴らしいですね。

 宗太郎さん、マジンガーって略しているの宗太郎さんだけでしたよ。

 かつての英雄たちを思い出し、目頭が熱くなる。

 俺も誰かの英雄になれたのだろうか。

 冊子に挟まれた広告チラシが目にはいった。

 日向市の社会人吹奏楽団の勧誘広告だ。

 ――ブランク不問! もう一度楽器を始めませんか?――

 そっと冊子を閉じると座席に体を預け、ホールの天井を見上げる。

 あの時ステージから見るはずだった天井を、いまこうして客席から見上げている。

 日向市文化交流センター大ホール。

 反響板の隙間に並べられた照明が目に刺さる。

 あの時見られなかった天井。

 あの時立てなかったステージ。

 もしも今の吹奏楽部のなかに俺のように「こんな世界なんて」と嘆いている後輩がいるとしたら、俺はそんな顔も知らない後輩の英雄となれるだろうか。

 俺はそっと目を閉じて余韻に浸る。

 ホールにはあの旋律が響いている。

 何度も演奏したんだ。忘れられるわけがない。

 ロータリーレバーの感触。

 観客の視線。

 照明の眩しさ。

 すべて覚えている。

「もう一度吹きたかったな」


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