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赤を唇にのせる方法

作者: 高内優都

 絵具をそのまま絞り出したような、真っ赤な口紅が好きだった。鮮やかな発色が自分の唇に乗ったらどれほど気持ちいいだろう。いつか大人になったら紅を唇にのせて、思いっ切り高いヒールを履いて、かっこよくコツコツと音を鳴らして歩こう。そんな夢を見ながら十五歳の誕生日に買ってもらったシャネルのルージュを、私は未だに封を開けることすらできていない。


***


「お疲れ様でーす」

 木製の分厚いドアを開けると軽やかにドアベルの音が響いた。重そうに見えるドアは意外と何の抵抗もなくすんなり開く。ここ『写真館アサクラ』は、私のアルバイト先だ。

「お疲れ様、日野。休日なのに呼び出して悪かった」

「構いませんよ。別に無給ってわけじゃないんですから。大学の授業も午前で終わりでしたし」

 上司兼カメラマンである朝倉さんは申し訳なさそうな顔をしているが別に朝倉さんが気にする必要は何もない。元よりここでの仕事は嫌いではないので負担にもならないのだ。むしろ知識も技術もないままで写真館のアルバイトをしているのでこっちが申し訳なるほどである。荷物を従業員用ロッカーにしまいながら作業服を取り出す。

「じゃ、着替えてきます」

「あ、ちょっと待て日野」

 朝倉さんは部屋の奥から段ボールを取り出した。

「……これは?」

「『写真館アサクラ』の宣伝Tシャツだ」

「種類たくさんありますね」

「せっかくだから七色用意した! 好きな色を選んでいいぞ!」

「じゃあ黒で」

「なんだって!?」

 朝倉さんは悲痛な顔で私を見た。

「何で黒なんだ。ピンクとか黄色とかいろいろあるだろう」

「派手すぎますよ。っていうかどうしたんですか急に宣伝用Tシャツだなんて」

「今日は屋外での撮影もあるんだ。だから急遽用意した」

「屋外の撮影、ですか」

「最初に室内での撮影を済ませた後に屋外での撮影を行う。屋外で撮影を行ったら店での対応はできないから休館日に来てもらったというわけだ。本当にすまないな」

「それはいいですけど、珍しいですね、屋外での撮影って」

「仕事で使う写真だそうだ。多くのバリエーションが欲しいとの依頼でな」

「仕事?」

「あぁ」

 朝倉さんは私にTシャツをほいっと投げた。

「モデル用のポートレートだそうだ」

「ポートレート?」

「自分で写真を撮って、事務所に売り込みプレゼンをするらしい。モデルって仕事も大変なんだな」

「そういうことですか。わかりました。では着替えてくるので、ピンクではなく黒色のTシャツを渡していただけますか?」

「ばれたか」

 朝倉さんはあははと笑いながら改めて黒いTシャツを私に投げたのだった。


***


「こんにちは」

 約束の時間丁度にやってきたのは黒髪がきれいな背の高い女の人だった。

「予約してました青木美智です」

「青木様、お待ちしておりました。早速ですが、まずは更衣室に案内いたします」

 こちらへ、と更衣室へ続く廊下を歩く。今回は多くの服を着替えての撮影だと聞いている。彼女が持ってきた大きなカバンの中身もほとんどが服なのだろう。とりあえず着替えなくては撮影は始まらない。

 更衣室の使い方を簡単に説明し、ロッカーの鍵を渡す。

「では、着替え終わったらスタジオまでお越しください」

「あ、あの」

「どうしましたか?」

「一枚目はこの服で撮りたいんですけど」

「……この服で、ですか?」

 彼女が着てきたのはダボっとしたオーバーオール。モデルとしての撮影用の服にはどうしても見えなかった。

「カジュアルなものも撮りたいので」

「大変失礼しました。それではそのままスタジオへ向かいましょうか」

 内心の動揺を顔に出さないように私は彼女をスタジオまで案内した。


「いらっしゃいませ」

 スタジオでは既に朝倉さんが撮影の準備を始めており、セットも整っていた。

「ようこそ『写真館アサクラ』へ。早速一着目、撮影していきますか?」

「はい、よろしくお願いします」

 スタジオに組まれているのは子供部屋のセット。ぬいぐるみやクレヨンが転がっている。そのセットに彼女は足を踏み出した。

 と、その瞬間スタジオの空気が一変した。

(あの服、あんなにかわいかったっけ……)

 さっきまでただダボっとしているだけだと思っていたオーバーオールが、ゆるかわいい部屋着に化けた。元々が子供部屋のセットで甘めの空間に仕上がっているのもあり、それと相まっていい感じだ。

「すみません、もう少し顎を引いて」

 朝倉さんはレンズを覗きながら彼女に指示を飛ばす。何故そんなことを言うのだろう、もう現時点で芸術なほどに彼女はかわいいじゃないか。しかし彼女が朝倉さんの指示に従うとさらにかわいさが極まるのだ。

そうだ、朝倉さんもプロのカメラマンだった。


***


「モデルは自分を魅せるプロだからな」

 室内での撮影が終わり、彼女が次の服に着替えている間、私が先ほどの衝撃を朝倉さんに伝えると彼はそんなことを言った。

「要するに、服に着られちゃ駄目なんだ。あくまで宣伝しなければいけないのは服なんだから。いかに自分に似合うように服を魅せるかだよ。似合っていたら、それを雑誌で見た読者もその服を欲しくなるだろう」

「確かに、そうですね」

「なんでも『プロだから』で片付けるのは違うと思うけど、ああいったものを見せられるとやっぱりプロの仕事だなと思うよ」

 さて、外でも頑張らないと。朝倉さんはそう言いながら大きく伸びをした。


***


 外での撮影場所は近所の教会だった。

「撮影許可は取っています」

 彼女はそう言いながら、艶のある木製のドアを開けた。近所にあるとはいえ、教会に来るのは初めてのことだった。中は案外狭く、しかし光が差し込み鮮やかな色を放つステンドグラスには威厳を感じずにはいられない。

「これは、映える場所ですね」

「そうでしょう。昔からよく来ていたんです。別にキリシタンというわけではないのですが、なんとなく落ち着くというか……」

「確かに落ち着く場所ですね」

 教会だからというのもあるのだろうか。空気もなんとなく神聖な気がする。

「ここなら、一番私の魅力を引き出せそうな気がするんです」

「引き出しますよ、必ず」

 朝倉さんは力強く答えた。

「では撮影に入りましょうか」

 カメラを構える朝倉さんの延長上に彼女は立った。ステンドグラスの光に照らされる彼女は、まるで天使のようだと思った。トップスは黒のペプラム、パンツも黒の細身のデザインでコーディネート的にはどちらかというと悪魔に近い。それでもなお有り余る美しさは、神が天使に与えたもうたのではないのか。そして何よりも目を引くのが、

「赤い……」

唇に咲く紅。服も髪も黒い中で唯一色を放つ赤が、強烈な存在感を放っていた。その赤に目を奪われ、私は、

「日野! ライト!」

ハッと朝倉さんを見ると既に撮影の準備は完了していた。あとは私のライト待ちというわけだ。

「すみません! 大丈夫です!」

 ライトを掲げ、撮影を始める。彼女の姿を記録に残せる朝倉さんを、今日ほど羨ましいと感じたことはなかった。


***


 教会での撮影が終わり、植物園、海辺での撮影も終了するころにはすっかり日も暮れていた。

「今日はありがとうございました」

 全ての撮影が終了し、彼女は頭を下げた。

「お陰様でいい写真が撮れました」

「こちらこそ、『写真館アサクラ』をご利用いただきありがとうございました」

「今日の写真は、事務所に見せて売り込んでもらう材料にします。あと、来週の火曜日発売の『モノクロ』っていう雑誌に、私モデルとして掲載されるんです。まだ記事は小さいんですけど。もしよかったら読んでください」

「わかりました。本日はお疲れさまでした」

 完成した写真は後日受け取り。しかし受け取る場面に私がいる予定はない。

「素敵な方でしたね」

 去って行った彼女の方向を見て私は朝倉さんに声をかけた。

「本当に、綺麗な人だったなぁ。でも日野、撮影中に見とれるのはよくないぞぉ」

「うっ……。その節はすみません……」

「ははは、冗談だ。別に迷惑をかけられたわけじゃないんだからあれくらい気にしないさ。それに珍しいこともあるもんだって面白かったしな」

「面白いってなんですか……」

 確かに写真館でアルバイトを始めてから短くはない日々が過ぎているが、被写体に見とれたのは初めてのことだった。本当に、いつまでも見ていたいほど素敵な人だった。

(雑誌の発売、確か来週の火曜日って言っていたな……)

 少しわくわくしている。こんな感情は久しぶりだ。夜空に瞬く星を眺めながら、私は発売日に本屋へ行こうと心に決めた。


***


 慌ただしく日々が過ぎてゆく中、あっという間に火曜日は訪れた。

「雑誌『モノクロ』って言ってたよね……」

 ファッション誌コーナーを暫くうろついていると、もれなく目当ての雑誌を発見した。早々にレジへ持っていき会計を済ます。家に帰ってからゆっくり眺めるのもいいが、どちらかというと早く雑誌を見てみたい気持ちの方が勝った。

(そこの公園のベンチで少し読んでから帰ろう)

 そう思い目の前の公園に足を踏み入れた。太陽がぽかぽかと照り付け、子どもたちがはしゃぐ元気な声が聞こえる。ランニングをしている大人たちも何人かいるし不審がられることもなさそうだ。

 早速雑誌のページを開き彼女の姿を確認する。あまり大きな記事ではなかったので探すのに少し時間がかかってしまった。見つけた彼女はグレーのワンピースを着てこちらを向き、穏やかに微笑んでいた。その姿は間違いなく彼女だ。直接会ったのだから間違うはずがない。

「でも、これって……」

「買ってくださったんですね」

「ひゃあ!?」

 突然声をかけられたのと、不意に本人が目の前に現れたのとで心拍数が急上昇した。

「青木様、どうしてここにっ……」

「様付けじゃなくていいですよ。ここ、私の普段のランニングコースなんです」

「そうだったんですか……」

 確かに彼女はランニングウェアを着ていた。長い髪も一つにまとめスポーティーな印象だ。白く輝く首筋のうなじから私はそっと目を逸らした。

「それよりも、雑誌、買ってくださったんですね」

「え、あぁ……、はい」

「どうもありがとうございます。あの、もしよろしければなんですけど、この後空いていれば一緒にご飯でも行きませんか?」

「え?」

「その写真、プロの方にも見てもらって感想を伺いたいんです」

「いや! 私プロとかではなくて! ただのアルバイトなんです……。なので意見を言っても参考にはならないかと……」

「大丈夫です! 一般の方の感想ももちろんありがたいですし。あ、先約とかあったりしますか?」

「いえ、それは特にないですけど……」

「では、私家がそこなので、一旦着替えて戻ってきます。さすがにランニングジャージで外食は行けないので……」

「あ、じゃあ私ここで待ってますね」

「いいですか? ありがとうございます! 三十分程度で戻ります」

 そう言い彼女は走り去っていった。


***


「いらっしゃいませ」

扉を開けると、白シャツのバーテンダーが優雅なお辞儀で私たちを出迎えた。

「すみません、二人で」

「二名様ですね? お好きなお席へどうぞ」

「日野さん、デーブル席空いてますよ。ラッキーですね」

「っいやいやいや! 青木さん! こんなとこ来ても私お金払えませんよ! もう少し安いところに行きましょう!?」

「え、普通の値段ですよ、ここは。それに今日の支払いは私がしますよ。私が誘ったんですから」

「えぇー……」

 お酒、大丈夫ですか? と事前に聞かれてはいたが、居酒屋にでも行くのだろうと思い込んでおり、まさかバーに来るとは思わなかった。というか馴染みがなさ過ぎて思いつきもしなかった。しかしここはメニュー表があるだけ良心的なバーなのかもしれない。店によってはメニュー表が無いところも多いと聞くのだから。

 ぺらりとメニュー表をめくり、その値段にヒィッとおののく。バーに行くのなら良心的な値段なのかもしれないが……、

(ドリンクが普段行ってる居酒屋の三倍以上の値段がする……! 鳥〇族なら余裕で三皿は注文できる値段だ……)

 安めのカクテルでこれなのだから、もっと値段の高いワインやシャンパンなんて……。考えたくもない。

「飲み物、決まりました?」

「あ、えーっと……、じゃあカシスソーダで」

「食事はどうしましょうか? ここは基本何でも美味しいですよ」

「あ、えっと……、じゃあアボカドとエビのパスタにします」

「他なにか、つまめる物も頼みましょうか」

「そうですね、そこらへんはお任せします」

「わかりました。……すみません、カシスソーダとピンクレディ一つ、あとサーモンのカルパッチョとクリームリゾット、あと……」

 バーテンダーに注文を告げている彼女をそっと盗み見る。今日も目を引かれるのはやっぱり真っ赤な唇で、その深紅は彼女の白い肌に映えてとても似合っていた。

「こういう店、よくいらっしゃるんですか?」

 注文を終えた彼女に問いかける。

「えぇ。お酒が、特にカクテルが好きで。家で自分で作ったりもしますがやっぱりプロには敵いませんし。日野さんはあまり外でお酒は飲まれないのですか?」

「飲むのは飲むんですが、こういうお洒落な場所は初めて来ました……。いつもは大体チェーン店の居酒屋が多いですね。大学の近くに〇貴族があるので、尚更です」

「なるほど」

 お待たせしました、と穏やかに近づいてきたバーテンダーが私たちのテーブルの上にグラスを滑らせる。そして料理が乗った皿を並べた。

「おいしそうですね!」

「美味しいですよ。ではいただきましょうか」

 彼女はグラスを掲げ、クスッと笑った。私も、内心はドギマギしつつグラスを掲げる。乾杯、と小さな呟きにグラス同士がぶつかる涼やかな音が重なった。その流れでグラスの中の液体を口に含む。……なるほど、確かにおいしい。この値段が妥当なのかというのはそもそも経験値が無いのでよくわからないが、普段行く居酒屋と味が違うのは納得した。普段飲むスーパーの缶チューハイより確実に度数は高いはずなのに不思議とあまり酔いを感じない。

「良いお酒というのはあまり酔わないものですよ」

「そういうものなんですか」

 グラスを傾けつつ料理にも手を伸ばす。さっき彼女はここの料理は何でも美味しいと言っていたが、確かにと頷く。私はパスタの麺は少し硬めが好きだ。ここはそんな私の好みに合っていた。クリームも濃厚で美味しい。付属のレモンを絞ればさっぱりして、また別の味を楽しめた。これはいいお店だ。普段使いには少々厳しいお値段だが少し贅沢をしたい時にはちょうどいいお店だろう。

 私もたまに来ようかなとうっすら考える。でも一人で来る度胸は無いかもしれない。こんな素敵なお店に一緒にくるならやっぱり素敵な人と来たいものだ。素敵な人といったら……。

「どうかしましたか?」

 ぼーっと彼女を見ているとその視線に気付いた彼女に不思議そうな顔を向けられた。

「え!? いやいや何でもないです!」

 あははと笑いながら思考をかき消す。いったい何を考えているんだ私は。やはり少し酔ってしまったのかもしれない。慌てて別の話題と探そうと口を開く。

「そういえば、『モノクロ』の写真、とてもきれいでしたね」

「あぁ、これですか」

 彼女は鞄から雑誌を取り出した。

「小さな記事でしょう。まだあまり売れていないからこんなものでしょうけど……。だから買っていただけて嬉しかったです」

「たまたま記憶に残ってて。それに自分の知っている人がこういう雑誌に出ているっていうのは面白いですし」

「でも、今回の写真、個人的にはあまり納得がいっていないんです」

 彼女は不満そうにふすんと唇を尖らせ、口にひょいひょいとナッツを放り込んだ。そんな表情もするのかと少し新鮮な気持ちになる。

「カメラマンの指示に応えるのが私の仕事ではあるのですが、今回は……、少し私が目指している路線とずれてしまっていたというか……。まあプロとしてお金を貰っているのですから、そんな言い訳はみっともないのですが」

 確かに。

 私は公園で雑誌を開いたときに覚えた違和感を思い出した。

「確かに、この間教会で撮った写真の方がよかったかも……」

「そうでしょう!?」

 彼女は大きく身を乗り出した。

「シチュエーションを自分で選べるのですから自分の魅力を最大限引き出せるようにするのは当たり前です。問題はそれを普段の撮影でどのように出すか、ということなんです。本当はこの間の教会での撮影のクオリティを全ての仕事で出すことができるのが望ましいのですが、なかなか上手くはいきませんね」

 彼女は苦笑した。私はこの間の撮影を思い出し、そして目の前に座っている彼女を見る。

「私は、どんな青木さんでも綺麗だと思いますよ」

「あらやだ」

 クスッと笑いながら彼女は身を乗り出した。顔の距離がぐっと近づく。

「それは口説いてるんですか?」

 顔がカァと熱くなる。不意打ちでそれは卑怯だ。

「違います! そ、そうじゃなくて!」

「じゃあ綺麗と言っていただけたのも違うと?」

「それは違うくないですけど!」

 青木さんは耐えられないという風にクスクス笑う。そんな時ですら上品に見えるのだからすごいものだ。

「違うんです、青木さん、真っ赤な口紅が似合っているから、本当に素敵だなと思って……」

「口紅、お好きなんですか?」

「はい、私、昔から真っ赤な口紅に憧れてて……」

 言いかけて思わず口を紡ぐ。こんな話、興味ないかもしれない。言いかけたけどやっぱり……。

 何でもないです。そう言おうと口を開く。

 それよりも一瞬早く、青木さんが口を開いた。

「聞かせてください」

 小さく首を傾げ、話の続きを促す。

「でも……」

「私、あなたのお話が聞きたいです」

 そっと微笑む彼女に思わず甘えてみたくなった。

 あまり自分の話は他人にしない主義だ。でも今日ぐらいは。

「……昔から真っ赤な口紅に憧れていたんです。ピンクとかオレンジじゃなくて、あの絵具をそのまま絞り出して固めたみたいな単調な赤が、好きだったんです。だから大人になったら絶対真っ赤な口紅を付けようって、そう思ってて」

「でも今は付けてらっしゃらないんですね」

「はい。……この歳になってわかったんです。人にはそれぞれ似合う色と似合わない色があるんだって。私には鮮やかな真っ赤な口紅は似合わない。どうしたって赤が浮いてしまう。だから諦めたんです」

「諦めたって……、どうして」

「憧れは、美しく憧れのままで終わらせるのが一番いいからですよ」

 そうだ、私は知っている。憧れという存在の美しさを。それに焦がれる輝きを。だからこそ、その輝きを壊さないように、憧れは一生憧れのままで。

「それが一番美しい解決方法です」

 私は胸を張って答えることができる。だって私は憧れを汚してはいないのだから。

「なるほど。確かに一理ありますね」

 青木さんは小さく頷きながら唸った。

「一理しかないですよ」

「でも、それでは悲しくありませんか? 憧れに手が届かないというのは」

「悲しいですよ。でも仕方ないじゃないですか。似合わないんですから」

「では、もし似合ったら、その憧れは悲しくなくなりますか?」

「なくなるとは思いますけど、そんなの不可能です」

「そんなことはないですよ」

 青木さんは自分の鞄をごそごそと漁る。

「少し、目をつむって頂けませんか?」

「え、何でですか?」

「いいからいいから」

 促されおずおずと目を閉じる。次の瞬間、顔をムズムズとした違和感が襲った。

「ちょっ! 何してるんですか!?」

「すぐ終わりますから、動かないで下さいね」

 そう言われて必死で顔の違和感に耐える。瞼の上を柔らかいものがさわさわと撫でていく。

「ほら、出来ましたよ」

 目を開き、差し出されたコンパクトで私は自分の顔を覗き込んだ。

「アイシャドウ?」

「はい、赤リップは色味が強いので目も強く塗らなきゃいけないと思いがちかもしれませんが、実は赤リップを塗るときはアイラインは引かずにアイシャドウだけを塗るのがいいんですよ」

「なるほど……?」

「誰にだって似合わないメイクなんてありませんよ。要するにやり方です。技術をうまく使えば、どんな服だって口紅だって輝きます」

 今度は青木さんが胸を張る。

「人は誰だって、かわいくなれるんです」

 信念を持っていることがすぐにわかるその力強い声は、私の心をぐらつかせた。

「でも、でも、何度メイクの仕方を変えても真っ赤な口紅が似合うことはなかった! 今更そんな」

「今更じゃないです」

 彼女は一口、手元のグラスに入っているピンク色の液体を口に含む。そして、私に口付けた。

「!? っ~~~!」

 突然のことに思考が停止し、頭が真っ白になる。今、何が起こった?

 目の前にあった彼女の顔が離れていく。

「ん、綺麗」

 再度コンパクトを渡され覗き込むと、唇に紅いラインが引かれていた。適度な、しかし鮮やかなその赤はよく映え、そして私に似合っていた。

「これ……」

「とてもよく似合ってますよ」

「あ、ありがとう、ございます……。あの、何で、口……、その……」

「すみません、思わず、かわいかったものですから」

「なっ……」

 返す言葉が見当たらない。かわいいなんて言われただけで不意打ちのキスを許すことなんて出来ない。私もそこまで単純じゃない。だから、

「……責任、取ってくれるんですよね?」

 澄ました顔をしている彼女を睨みながら訊ねる。

「もちろんですよ。これから、よろしくお願いしますね」

 相変わらず澄ました顔で、しかし上機嫌なことだけはわかる彼女は、またクスクスと笑った。どうやら彼女とは、この先長いお付き合いになりそうだ。

「さて、ご飯残り食べちゃいましょう。それで、今日よかったら私の家泊まりませんか?」

「!? 泊まりません!」

「どうしてですか。何もしませんよ」

「不意打ちでキスかましてきた人の言うことなんか信用できません!」

「もうしませんから」

「信用できませんってば!」

 月はもう高く上り、にぎやかな夜が更けていく。

 私は今日、運命的な出会いをした。でもそれを思い知るのはずっとずっと先の話で、これから先の人生、私は今日の日を何度も思い返すことになる。


***


 いつもの口紅をキュッと唇にのせる。輝く赤は今日も私を元気にして、今日も似合ってると気分があがる。口紅をポーチにしまい込み出かける準備は整った。お気に入りのヒールを靴箱から取り出し、足を差し込んだ。このヒールは歩くたびに素敵な音を奏でてくれるからお気に入りなのだ。ドアを開けると太陽のまぶしい光が目を刺す。今日もいい天気だ。

自然と上がる口角に気付かないふりをしながらもうすぐ会うあの人のことを考える。さぁ、大好きなメイクをして、お気に入りの服と靴で、今日も私の好きな人に会いに行こう。

「いってきます!」



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