3話
3話
芳ばしい肉の香り。今まで生きてきて嗅いだことのないような、美味しそうな匂い。
きゅぅーっと、わたしのお腹のなる音が聞こえた。
そういえば今日は朝から何も食べてないなぁと思いつつ、わたしは目を覚ました。
「……ここは?」
身体を起こすと、まず目に入ってきたのはいかにも高級そうな毛布。
どうやらわたしは、これに包められて寝かされていたみたいだ。
ポンポンと毛布を叩いてみる。ふわふわとした弾力があり、まるで動物を触っているかのような感触だ。
「よいしょ」
手をついて立ち上がり、この部屋の出入り口であるドアへと向かう。
ちょうどわたしの頭くらいの位置にあるドアノブを手を伸ばして回し、ドアを開けて部屋を出る。
するとぽすんと音を立てて、わたしは何かとぶつかり尻もちをついてしまった。
顔を上げて、わたしがぶつかってしまったものを確認する。
「やぁ、目が覚めたんだね」
そこにいたのは、左手に麺にお肉みたいなものが載った料理を持った、エプロン姿のおにいさんだった。
その料理の美味しそうな匂いに、思わず視線がそれに釘付けになってしまう。
そんなわたしに気づいたのか、おにいさんは笑みを浮かべてわたしにその料理を渡してきた。
「ふふ、これはミートソーススパゲッティだよ。お腹が空いているようだったからね、作っておいたよ」
早速と言わんばかりにわたしは床にそれを置き、文字通りその美味しそうな料理に手を伸ばし––––おにいさんに手を掴まれた。
「…………?」
「いや、スパゲッティは手で食べるものじゃないよ?フォークを使って……って、なんでそんなに泣きそうな顔を……」
「ふぉーくってなに……?」
食べようとする手を止められたから、食べるなってことかと思ったけど、どうやら違うみたい。
ふぉーくって名前の……この状況から察するに食器を使って、この料理は食べないといけないみたいだ。
「……フォークを知らないのかい?」
わたしは首を横に振る。もしかしたら見たことはあるかもしれないけど、その名前を聞いたことはない。
「……虐待されていたとはいえ、君……アザミちゃんはどんな風に生活していたんだい?……ってこれを聞くのは無粋か」
「……?まいにちなぐられて、けられてた。ごはんはがっこうではたべられなかったけど、いえではよるになったときだけもらえた」
いっつもお腹は空いていたけど、痛みに比べたらましだったから我慢はできた。
夜になるともらえるご飯––––お味噌汁と、白ごはんに少しの野菜は、わたしの唯一の楽しみだった。
おかあさんの機嫌がいい時は、たまにお肉をくれる時もあった。
けどそれらは、目の前に鎮座しているこのミートソーススパゲッティとやらには遠く及ばない。
お腹の虫がぐうぐうと早くたべさせろ!と言わんばかりに訴えてきている。
「……そっか。––––とにかく、いまはご飯にしようか。……ああ、ご飯はここでは食べないよ。ちゃんとリビングに置いてある食卓の上に置いて食べるんだ」
「……うん。わかった」
口の端から垂れそうになるヨダレをなんとか堪え、わたしは鼻歌を歌いながらリビングに向かっていくおにいさんについて行った。
椅子に座り、食卓の上に置かれたミートソーススパゲッティをフォークを使って貪り食らう。
食べれば食べるほど、噛めば噛むほど肉の旨味とトマトの酸味がしみ出てきて、とてつもなく美味しい。
思わず涙が溢れてしまうほど、美味しかった。
そのときのおにいさんの慌てっぷりといったら、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
とっても美味しかったけど、少し食べただけでお腹がいっぱいになってしまった。
「……けふ」
「ふぅ、ごちそうさまでした」
……?いただきますもそうだけど、ごちそうさまってなんだろう。
言葉から意味は推測できるけど、なんで言うのかがわからない。
そんな不思議そうにおにいさんを見つめるわたしの視線に気がついたのか、おにいさんはああ、と言ってそれについて説明してくれた。
「これは食事の際の挨拶です。いただきます、はいただく命と生産者に感謝の意を込めて。ごちそうさまは……うーん、食事の後の挨拶……?まあ、どちらともこの国独自の挨拶です」
「……?なんでわざわざかんしゃするひつようがあるの?」
「なんでって……」
「だって、しぜんかいはじゃくにくきょうしょくなんでしょ?それならかんしゃするひつようはないとおもう」
「……それは」
「あと、せいさんしゃはしごととしてそれをやってるんでしょ?おかねをえるために。それならやさいをうりかいしたじてんで、かんしゃするひつようはないとおもうけど」
わたしの質問におにいさんは困惑したような表情をして、うーんと悩み込んだ。
「……うーん。この国の大半の人は礼儀を重んじてる人が多いから、かな?ほら、君だってなにか美味しいものを食べさせてもらったとき、無性に嬉しくならない?それをこの国の人たちは言葉にしているんだ」
「……なるほど」
いまいち要領を得ない答えだけど、まあなんとなく理解はできた。
この国の人たちは、何かあれば他の人に気軽に感謝するってことだよね。
良い言い方をすれば他人に感謝することを忘れない人だけど、悪い言い方をすれば感謝を安売りしてるってことかな。
うーん、それってする意味あるのかな?
「……まあとにかく、そういうものだって思っておけば良いとおもうよ。––––さて、ご飯を食べたことだしお風呂にしようか。もう夜だし」
え、もう夜?と思い、椅子から飛び降りてリビングにある窓に駆け寄り、カーテンを開ける。
「…………」
おにいさんの言う通りもう外は真っ暗で、空には月が顔を出していた。
……わたしどれだけ寝てたんだろ。少なくともおとうさんとおかあさんを殺したのは朝だったはず。
つまりわたしは合わせて半日以上は寝てたのかな。
「アザミちゃん、一人でお風呂は入れるよね?」
「……(こくり)」
昔からお風呂は一人で入ってたから、心配されなくてもそれくらいはできる。
なら良かったとおにいさんはホッとしたような表情をして、わたしの食器とおにいさん自身の食器を持って立ち上がった。
「じゃあ僕はこれを片付けておくから、君は先にお風呂に入っていてくれ。君の着替えはその間に用意しておくね。……あ、お風呂は階段を上がってすぐのとこにあるから」
そう言うとおにいさんは、食器を持ってキッチンへと向かった。
わたしもお風呂に入るため、リビングを出て階段を登った。
わたしはお風呂の椅子に座り、鏡を前にして頭を洗う。
どのシャンプーを使えば良いのかわからないので、軽く頭をお湯で流してからてきとーなやつを使う。
「……ん」
いつも通りてきとーに洗う。髪の毛は目障りだと肩くらいまでに短くされているので、洗うのは楽だ。
シャワーで泡を流したあと目を開けば、否応無しに鏡にはわたしの姿が映っているわけで。
傷だらけの細い腕、細い足、小さな身体。
肩までしかない灰色の髪は水を含んでいるからかテカテカとしていて、目はまるで死んだ魚のように光を映していない。
表情筋は生きているようで、笑おうと思えば普通に笑える。ただし、目は死んでいるけど。
「着替え、ここにおいておくからねー?」
突然聞こえたおにいさんの声に、思わず身体をびくっと飛び跳ねさせてしまう。
「……わかった」
後ろに振り返り、浴室のドアガラス越しに朧気に見えるおにいさんに返事をする。
それが聞こえたのかおにいさんは「ゆっくりとお風呂に浸かってね」と言って、脱衣所から出て行った。
「…………」
ふぅと息を吐き、鏡に向き直る。さっさと身体を洗い、お風呂に浸かる。
「……あったかい」
こんなにゆっくりと、お風呂に入れたのは初めて––––なんてことを思いつつ、わたしはそっと目を閉じた。
その後のぼせてしまい、おにいさんにものすごく心配されてしまったのは言うまでもないだろう。