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パラドックスと幸福の国

作者: 針間有年

「シュレディンガーの猫」「和風」「ヒーロー」という三つのテーマを元にした三題噺です。少し長めの短編となっております。よろしくお願いします。

「君が変われば、世界は変わる」

その言葉はウツツを惹きつけた。

自分が変わることで、世界は変わるのだろうか。この息苦しい世界は。


***


シェルターに囲まれた小さな国。それがウツツの世界の全てだ。

国の中央には、真っ白な塔が立っている。

この国の最高権力者であり、ウツツの育ての親であるマサナリの住む塔だ。


その足元の広場。

手入れされた美しい花壇を見ながら、ウツツは噴水のへりに腰掛けた。

食べかけのおにぎりをバックから取り出し頬張る。


今日も幸せはやってこない。ウツツはため息をついた。

道行く人は、幸福に笑顔を溢れさせている。

自分もああなれるのだろうか。ならいいのだが。

だが、やはり心は晴れない。


「お嬢さん。おにぎり落とすよ」


そう声をかけられ、ハッとして、落ちかけたおにぎりを持ちなおす。


「ありがとう」

「どういたしまして」


にこりと笑った若い男。

黒のジーンズに白のTシャツ。

そんな、モノクロの服装にアクセントをつけるように纏われた真っ赤な和柄の羽織。

背には何やら大きな木組みの箱が背負われている。


「失礼」


男はそういうと、ウツツの隣に腰を下ろした。

ウツツは、眉を顰める。

真っ赤な羽織。どう見てもこの国の人間ではない。

この国の人間は支給されたモノクロの服を着る。

それに、この男羽織だけでなく本人も派手だ。

赤い髪に赤い目。

この国の人間は、目は黒、髪の色は白だ。

怪訝な目で男を見ていると、男が深紅の目でこちらを見る。


「君、この国の外の人?」

「いや、この国の人間だけど」


そういうと男は目を見開いた。


「意外だなぁ」


男は感嘆の声を上げる。


「えらく難しい顔をしてるからさ、てっきりこの国の人じゃないかと思った」


ウツツは俯く。

確かにそうだ。自分はこの国の人間らしくない。


「私は間違いの子だから」


ウツツは答えた。

この国の人は、皆、幸せだ。他人と協調しあい、穏やかに日々を享受する。

皆、そうなるよう遺伝子的に調整され、試験管から生まれた人間なのだ。

この国は平和だ。

その平和を乱すもののことを間違いの子、とこの国では呼んでいる。


「なるほど。君は幸せじゃない上に、ひねくれている、と」

「まあ、そうだね」

「俺はそういう子の方が好きだよ」


男はさらりとそういった。ウツツは驚く。

今までそんなことを言われたことはない。


「ええ⁉私は間違いの子、パラドックスの子だよ⁉」


驚きのあまりまくしたてるように言うと、男が動きを止めた。


「パラドックスの子?」

「え?知らない?半生半死の化物・パラドックス」


遠くの国の話だ。

半生半死のこの世の理に逆らった人の形をした化け物。

それがパラドックス。


「私たち間違いの子もパラドックスのように、この世の真理に反してる。幸福という真理に反してるの。だから、皆はパラドックスの子って呼ぶ」

「パラドックスは子供いないと思うんだけど」


男は呆れた顔を見せた。気にするところはそこなのか。

それにしても、この国の人間はあまり見せない顔だ。

こんな表情をするとすれば―。

ウツツの心がチクリと痛んだ。

白い手の甲に星の痣を持った友達。幼き日の思い出が頭をよぎった。


「大丈夫?」

「え、ああ。それよりさ」


ウツツは話を逸らしたくて話題を変える。


「あなた…ええっと」

「俺はハイリ」

「ハイリはこの国の外の人なんでしょ?」

「そうだよ」

「何しにこの国に来たの?ってか、この木箱なに?」

「商売しに来た。で、これはその商売道具」


ハイリは得意げに木箱をとん、と叩いた。


「俺は運び屋。運び屋・ハイリだ」


したり顔のハイリ。

だが、ウツツは首をかしげる。

このご時世、荷物など瞬快移転装置であっという間にどこにだって運べてしまう。


「なんか、時代錯誤な仕事だね」


ハイリがきょとんとした顔を浮かべた。

ウツツはしまったと口を押さえた。

今のは失言だった。

ハイリの気分を損ねる言葉だったのだ。


「ご、ごめんなさい!」


ウツツは大きな声で謝る。

だが、ハイリは手をひらひらさせて答える。


「いやいや、そんな焦って謝ることじゃないよ」

「だって私、今、ハイリの嫌なこと言って」

「まあ、あんまり嬉しくない言葉だけど、でも事実は事実だしなぁ」


ハイリは顔をゆがめて笑った。ウツツは唖然とする。だがまだ安心できない。


「ねえ、ハイリ。まだちゃんと人間だよね?」

「ん?どういうこと?」

「パラドックスの子はね、悪いことをするとパラドックスになっちゃうの」


ハイリがきょとんとした顔を見せた。

そして、腹を抱えて笑い出す。


「あははっ!何それ⁉」

「なにそれって…」

「パラドックスになりようがないよ。君は普通の人間」


目に涙をためて笑い、ハイリはぽん、とウツツの頭を撫でた。


「それにさっきの言葉が悪というなら、この世はきっとパラドックスだらけさ」


と、ハイリが顔を上げた。向こうからやってくる影が一つ。


「これはまた珍しい組み合わせだ」

「お疲れ様です。マサナリ先生」


ハイリは、へらへらとマサナリに会釈する。マサナリは眉をしかめる。


「頼んだものは?」

「運んできましたよ。塔まで運べばいいんですよね」

「そうだ。それだけでいい。お前の役目はそれだけだ」

「はいはい。人使いの荒い依頼者様で」


ハイリはそう言って立ち去っていった。マサナリがため息をつく。そして、ウツツに視線を向けた。


「ウツツ、大丈夫か?」

「何がですか?」

「ハイリに妙なことを吹き込まれてないか?」


ウツツは笑顔を見せる。

マサナリを心配させないように。

育ての親でもあるマサナリ。妙な心配はさせたくない。


「大丈夫です。特に大した話もしていません」

「ならいい」


マサナリは、先ほどまでハイリが座っていた場所に腰を下ろした。


「ウツツ、決めてくれたか?」


マサナリのまっすぐな目がウツツを貫く。

ウツツはいたたまれずにそっと俯く。

マサナリは小さく笑った。


「大丈夫だ。ウツツ。ゆっくりでいい。だけど、変わった君が見る世界はきっと素晴らしく美しいよ。ウツツ」

「はい…」


ウツツは小さな声で答えた。


*** 


仕事を終え、支給された家に帰る。

真っ白な家具たち。必要最低限のものしかない。

この国の人間はそれで事足りる。それで幸せなのだ。

ウツツは違った。この部屋に帰る度に、息が詰まるような思いになった。


ウツツはベッドに転がる。

昼間のハイリとの会話を思い出す。

自分は確かにハイリの気分を害す言葉を言った。

あの時のホシナのように。


この国の人間は人の気分を害する言葉を言わない。

間違いの子以外は。

幼い頃に別れたホシナのことを思い出す。


ホシナはウツツと同じ間違いの子だった。

年も近く同じ間違いの子同士、ウツツとホシナは仲良くなった。

一五歳になったホシナは言った。


『こんな国、間違ってる。間違いの子は私じゃない。あなた達』


普段は優しい笑顔を浮かべている人々の表情が凍った。

その真っ黒な瞳に言葉にできない奇妙なものが蠢いていた。

今でもあの目は思い出したくない。


だが、ハイリは違った。そんな目ではなかった。

ウツツはベッドの上で寝返りを打つ。

 

『パラドックスになりようがない』


ハイリはそう言った。

じゃあ、ホシナは何処へ行ったのだろう。

ウツツは目を覆った。


あの日以来ホシナの姿を見なくなった。

ウツツは、ホシナとウツツの育て親でもあるマサナリにホシナの行方を聞いた。

マサナリは答えた。


「ホシナはパラドックスになってしまったんだよ」


マサナリは、ウツツの肩を掴んでいった。


「いいかい。ウツツ。ウツツだけでもいい子でいるんだ。間違いの子は、パラドックスの子。道を踏み外すとパラドックスになる。いいね?」


ウツツは涙を流しながら頷いた。今まで感じたことのないほど心がざわついた。


マサナリはこの国で一番偉い。なんでも知っている。

だからきっとマサナリの言う通りなんだろう。

今日の自分の言葉はまだ、道を踏み外すには至らなかっただけだ。

自分は何とか、パラドックスにならず人間にとどまったのだ。


だから、やっぱり、直さないといけない。わかっている。

ウツツは頭を押さえる。

間違いを正す手術。

マサナリはそういった。ウツツは今年二〇歳になる。

マサナリは二〇歳になったウツツに提案した。

君の世界を変えよう、と。


間違いを正してくれる手術。

化物から人間になる手術だとマサナリは言う。

だが—


ウツツは自分の額をなぞる。

この頭にメスが入るのだ。痛みは嫌いだ。

だが、それ以上に何かがウツツに抵抗を覚えさせる。

ホシナが消えたあの時のように心がざわつく。


ウツツは、ベッドの上でため息をついた。


***


『おはようございます。今日も一日頑張りましょう』


マサナリの朝の放送で目が覚める。

国民に流される決まり切った朝の文句だ。

もう少しバリエーションを増やしたらいいのに。

そう言ったら周りの人間から怪訝な目で見られた。

ウツツは意見を言うことをやめた。


ウツツの仕事は、この国の清掃員だ。

朝から清掃車に乗って、町を綺麗にする。それだけの仕事だ。

周りの人間は、与えられた仕事を心から楽しんでいた。

だが、ウツツにとっては至極退屈な仕事だった。


昼休み。

まだ、手術の決心がつかないウツツはため息をついて、噴水のへりに腰掛けた。


「おう、ウツツちゃん」

「また会ったね。ハイリ」


ここ一週間、昼休みになると、ハイリに出会う。

ハイリがマサナリに届け物を終える時間とウツツの休憩時間は重なるようだった。

ハイリと話す時間は、ウツツにとって楽しみなものだった。

特に変わった話をするわけでもない。

今日の天気が悪いだとか、おにぎりの具は何がいいだとか。ただ、それだけの会話だ。


だが、ハイリは同調を求めない。

ウツツの意見はそのものして受け入れ、時にその意見にハイリ自身の意見を述べる。

皆、協調し、尊重し合う、そんな国で育ったウツツにとっては新鮮で、そして、懐かしかった。

ホシナと話しているかのようだった。


ハイリにだったら話していいだろうか。

ウツツは深呼吸し、ハイリに尋ねる。


「ねえ、ハイリ。心がざわざわするの。これ、ハイリの国ではなんていうの?」

「心がざわざわする?それは例えばどんな時?」


ハイリに尋ねられウツツは思い切って口にする。


「…友達がパラドックスになった時」

「え」

「昔、私には大切な友達がいたの」


ウツツは話し始めた。ホシナとの出会い。

彼女も間違いの子だったこと。

彼女の手の甲にあった星形の痣の事。

彼女の笑顔はまぶしかったこと。

そして、ホシナが消えたあの日の事。


こうやって誰かに話すのは初めてだった。また心がざわつく。


「これってなんていうのかなぁ…」


気付けばウツツの瞳から涙が溢れていた。


「それは…『悲しみ』だね」

「カナシミ?」

「そう。君はそのお友達が消えて悲しいんだ」

「カナシイ…」

「そう。胸が締め付けられて、心が痛む。涙が出てくる。うーん。うまく言えないけどそんな感じ」


ハイリが木箱のふたを開けた。中からハンカチを取り出す。


「はい。涙を拭いて。お嬢さん?」

「あ、ありがとう」


ハイリの優しい笑顔にウツツは自分の顔が赤くなるのを感じる。

これも知らない。

でもなぜか聞こうとは思えなかった。

ウツツがふっと真面目な顔をする。


「ねえ、ウツツちゃん。嫌だったら答えなくてもいいよ?」

「う、うん」

「その友達はどんなふうにパラドックスになったの?」


どんなふうに。

問われて首を横に振る。


「分からない。私は見てないから」

「…そっか」


ハイリが正面を見やる。


「きっと、その子はパラドックスにはなってないよ」

「え?」

「言ったろ?パラドックスにはなれない。どうしたってね」

「それは、どうして?」

「パラドックスの作り方を知っている人間が死んだから」


ウツツは目を丸くする。


「パラドックスって作るものなの?」

「そうだよ。パラドックスは一人の人間によって作られた。だけどその人間はパラドックスによって殺された。パラドックス自体も自分がどうやって作られたか知らない。だから、もうこの世にはパラドックスの作り方を知る人間はいない」


ハイリはそう言って微笑んだ。

微笑みは幸福を感じているときに浮かぶものだ。

そのはずだ。だが、ハイリのその笑顔はなぜかウツツの胸を締め付けた。

これは何なのだろう。

『悲しみ』というものなのだろうか。

なぜ『悲しみ』を感じているのだろうか。

ウツツにはわからなかった。


ふたりの間にわずかな沈黙が訪れる。


「あのね、私、手術するの」


ウツツは呟くように言った。ハイリがこちらに視線を向ける。


「いい子になる手術。パラドックスにならないための手術だって先生は言ってた」

「は?」


ハイリの目が見開いた。

パラドックスにならないなら、どうして私は手術をするの?そんな質問はハイリの言葉にさえぎられる。


「手術?パラドックスにならないための?」

「そうだよ」

「ねえ、ウツツちゃん。この国の人が手術するのってどんな時?」


この国の人間は皆心身ともに健康だ。だってそう作られているのだから。

手術をするとき。そんな場面、一つしかない。


「間違いの子を正すときだけだよ」


ハイリが立ち上がった。


「ハイリ?」

「気が変わった」

「え?」

「壊してやる」


ハイリがぼそりといった。

低い声。ぞっとしたものが背に駆けた。

ウツツはぶるりと震えた体を押さえた。寒くもないのに。

戸惑うウツツに視線を向けたハイリは、ふっと表情を緩めた。


「ごめん。怖かったね」

「コワカッタ…?」

「それは『恐怖』という感情だ」

「どういうこと…?」

「ウツツちゃん、目の前で俺が死んだとしよう。どんな気分?」

「し、幸せじゃない」

「なるほどそう来るか」


ハイリが困ったように笑った。


「この国の人は幸せか幸せじゃないかで物事を図るんだね?」

「だいたい幸せなはずだけど」

「なるほど。どおりでこの国の人と話しかみ合わないと思った」


ハイリが姿勢を落とし、座っているウツツに視線を合わせる。


「ウツツちゃん。ごめんね。俺は今からこの国の幸福を壊すよ」

「どうして…?」

「気に食わないからさ」


それだけ言うと、ハイリはまた立ち上がった。

瞳と同じ色をした羽織を翻し、ハイリはマサナリが住む中央塔へ歩いていった。


ウツツは唖然としながらその背を見送った。

ハイリはこの国の幸福を壊すといった。

それはとても幸せじゃないことだ。

そうだ。おそらく『コワカッタ』というものだ。

この国の幸福が壊れるとはどんなことなんだろう。


また、体が震えた。

それはきっとやってはいけないことだ。

間違ったことだ。そうだ、これが『恐怖』だ。

ハイリにそんなことをさせてはいけない。

そう思った。ウツツは中央塔に走り出した。


***


マサナリの部屋は中央棟の最上階だ。

この狭い国一体が見渡せる塔の上。

ウツツは落ち着きなくエレベーターの最上階のボタンを連打する。

こういうことをしてしまうのが間違いの子なのだ。

意味がないと分かっているのにしてしまう。

矛盾している。パラドックス。

ウツツの頭に、そんな言葉が駆けまわる。


ウツツは足踏みをする。


『三十二階です』


無機質な機械音が最上階に到着したことを告げた。


「ハイリ!」


足を踏み入れるが、そこはいつもの真っ白な部屋。

机と椅子。それからこの国に流すための放送をするためのマイクが一本。

ウツツは高鳴る胸を押さえる。

そこでウツツは気づいた。

いつもなら閉ざされている部屋。

その部屋の扉が少しだけ開いている。


「ハイリ…?」


入ってはいけない。

マサナリから強く念を押されていた。

だが、この中にハイリがいるかもしれない。ハイリを止めないと。


「ハイリ、いるの…?」


ウツツは扉に向かって声をかけた。


「入っちゃだめだよ」


扉から声がした。それはハイリの声だった。


「ウツツ。君は入るな。絶対に、だ」


ガシャン。

扉の中で金属がぶつかり合う音がした。

ウツツは、驚き扉から身を引く。

中からうめき声が聞こえた。


「ウ、ウゥ…」


それは女性のうめき声だった。

意味をなしていない苦し気な呻き。そう思った。

だが、その呻きは形になっていく。


「ツツ…ウ、ツツ…ッ」


呼ばれている。


「ウツツ…っ、ウツツゥ!」


身の毛がよだった。その声は幸福ではない声。

心がざわざわして、心臓がひどくやかましい。

なのに、その声は酷くウツツを惹きつけた。懐かしい声だった。


ウツツはその声に引き寄せられ、扉を開けた。

そして、目に映った光景に絶句した。

部屋には檻が六台置かれている。

その中には年齢も性別もバラバラの人間が鎖で繋がれていた。

檻の中の人間は皆死んだ目で地面を見つめている。

ただ一人を覗いて。


一番奥の左の壁に面した檻、その中の女は酷く暴れていた。

獣のように息を荒げている。


「ウツツ…ウツツ…」


狂ったようにウツツの名を呼ぶ。

伸び放題の髪にやつれた体。

なのに、声は懐かしい。


ウツツは気づけば涙を流していた。

心の中に嵐がやってきた。そんな心境だった。

これは「恐怖」だ。ウツツは確信をもってそう思った。


「入ってくるなって言ったのに」


ハイリが、一番奥にあるデスクに配備された回転いすに座りため息をつく。


「これが君の末路だよ」


ウツツはびくりと体を震わせた。


「末路…?どういうこと?」

「マサナリ先生は、君達『間違いの子』を使って人体実験をしていたってこと。ですよね?マサナリ先生?」


ハイリがウツツの肩越しに何かを見据えた。

ウツツは振り返る。そこにはマサナリの姿があった。


「ハイリ。君の仕事は、僕のところに荷物を運ぶ。ただそれだけの仕事だ。ここには立ち入りを禁止したはずだよ?」

「まあそうですね。だけど事情が変わりまして」


ハイリが立ち上がる。ハイリの笑顔が崩れた。鋭い目でマサナリを睨む。


「俺が運んできたのは麻酔薬。病人の手術に使うって話じゃなかったっけな?」

「その通りだ。病人に使うんだよ」


マサナリが、部屋に足を踏み込み、ウツツの背後に立った。


「彼女のような、間違った考えを起こす『病人』に、ね?」


マサナリが懐から何か取り出した。

それが何か確認する前に、素早く足元が掬われた。ウツツの体は宙に浮く。


「え」


あっと思ったときには遅く、そのまましりもちをついた。


「ぎぇ!?」

「また、変わった声を上げるねぇ」


顔を上げると、くすくすと笑うハイリがいる。

ハイリがウツツの足元を掬ったのだろう。

不平を零そうとしたウツツだったが、ウツツは言葉を失った。

さっきまでハイリが座っていた椅子がどろどろに溶けているのが目に入ったからだ。


こけたウツツに、手を伸ばしながらハイリは言う。


「先生、レーザー銃なんて物騒なもの持ち出して、やめてくださいよ」

 

飄々とハイリは言う。

ウツツは青ざめる。

レーザー銃。聞きなれない言葉だがおそらく武器、というものだろう。

どこかで聞いたことはあるが、この平和な国では、見たことなどない。

マサナリがため息をついた。


「なあ、ハイリ。君はどこまで知った?」

「どこまでって…そうだなぁ。先生が試験管で作った子供たちの中で、自分の思い通りに生まれなかった子に、手術という名の人体実験をしていたことまでですかね?」

「人聞きが悪いな」


マサナリが眉をひそめた。


「言っただろう?彼女たち間違いの子は病人だ」

「俺には普通の子に見えるけど?」

「この国でいえば病人なんだ」


マサナリはレーザー銃を下ろす。


「彼女たちはこの国で生きづらいという。ならば、この国で生きやすいように僕が救ってあげるべきじゃないか?」

「救い?」


ハイリが笑った。なんだか嫌な笑い方だ。


「檻につながれて死んだ目で地面を睨んでるこいつらが救われたとでも、あんたは言うのかい?」

「彼らは失敗しただけだ」

「なるほど?成功するまで失敗し続けるつもりだ」

「それが、人類の歴史だろ?」

「あはは、そうかもな」


ハイリは舌打ちをした。


「反吐が出る」


マサナリの手がウツツに伸びる。


「ウツツ、君は大丈夫だ。君の手術は必ず成功させる。君が変わればきっと世界は変わるんだ」

「変わらないさ」


間髪入れずにハイリは言った。


「変わらない。君が変わろうとこの間違いだらけの世界は変わらない」

 

ハイリが背中に背負った木箱を下ろした。

そして、羽織の中に手を入れ、十センチくらいの棒を取り出す。


「マサナリ先生、あんたは羽振りがいいし、運ぶものも小さくてやりやすかった。でもな」


ハイリが小さく棒を振った。

棒の先から三十センチほどの赤い光がまっすぐに伸びる。


「俺の怒りを買った。残念だ」


ハイリが、ひゅん、とその棒を振った。地面に掠った。

地面がえぐれている。

あれはレーザー銃と同じたぐいだ。

ウツツは息を呑む。近づきたくない。

マサナリ持っているのがレーザー銃なら、ハイリのものはレーザー刀だろう。


「ウツツちゃん、俺の後ろに下がっておきな。一応巻き込まないようにするよ」 


それだけ言うと、ハイリは足を踏み込んだ。

ウツツが返事をする前である。

マサナリがハイリに対してレーザー銃を打ち込む。

ウツツはそれに腰を抜かし、しりもちをついた。

その前にハイリがレーザー刀を構える。


「レーザー銃ってさ、製造中止されてもう百年は立ってるはずなんだけど」

「君のその刀だって同じだろ?」


マサナリは続けざまにハイリにレーザーを打ち込む。

ハイリはそれを刀で打ち消す。

どういった原理をしているのだ。

ウツツは唖然とその様子を見守るしかできない。


「避けないでくれるかな?」

 

マサナリの声にハイリは眉を下げて笑った。


「俺も痛いのは嫌なんでね」


ハイリが踏み込んだ。

スニーカーが、床と摩擦を起こしてキュっと音を立てる。

マサナリが銃を打ち込むが、ハイリはものの見事に避ける。


「こざかしい」


マサナリの顔が歪んだ。

だが、ハイリに勝機があるかと言われればそうでもない。

先ほどからハイリはうまくレーザーを避けているものの、マサナリに近づくことはできていない。

このままだと、疲れてきたハイリは射貫かれてしまう。

刀より、銃の方が有利じゃないか。


「ウツツ…」


その声と共に、急に腕を掴まれる。


「ぎゃっ!」


檻の中の女が、ウツツに手を伸ばしたのだ。

ウツツは慌ててその手を払う。

払ったと同時に、女の青白い手の甲が見えた。星形の痣があった。

檻の中の女はまだウツツを呼び続けている。


「ウツツ」


ああ、ひどく懐かしい声。

似ているだけだと思いたかった。 


ハイリと、マサナリは両者一歩も引かない戦いを続けている。

ウツツは覚悟を決める。

そして、体勢を低くし、マサナリの脚に飛びついた。


「なっ⁉」


マサナリが驚嘆の声を上げバランスを崩す。


「今だ!ハイリ!」

「おうよ!」


ウツツの声に答え、ハイリが刀を振った。

マサナリの手に握られた銃が真っ二つに割れた。


「ウツツ、何故だ…」


マサナリが唸るように言う。ウツツは立ち上がり、檻の女の方に視線を向ける。


「私が聞きたい」

「は?」

「ホシナに、ホシナに何をした…!」


ウツツは、ふらふらと立ち上がったマサナリの胸倉をつかむ。


「ホシナは消えたんじゃ、パラドックスになったんじゃなかったんですか!?」

「ああ、そうだよ。化物になったんだよ」

「なに言って」

「君はあの異常なものを人間だと言えるのかね」


マサナリの視線につられて、ウツツはホシナを見た。

目はうつろで先ほどからただただウツツの名を繰り返している。


「あれはもう化物だ」


得も言えぬ感情にウツツは、マサナリの頬を平手で打った。

マサナリが頬に手をやる。


「これは驚いた。僕に攻撃するまでに反抗心を起こしたサンプルは初めてだ」


マサナリが醜く笑った。


「これはいい」


マサナリの手が、ウツツに伸びた。ウツツは身を引いた。

だが、マサナリの手は届いてしまう。

目をつぶって、来ない感触に目を開けると、ハイリがマサナリの手をひねり上げていた。


「女性に乱暴を振るうのはよろしくないなぁ」

「君は紳士なんだね。だけど」


マサナリが空いた、右手を白衣の中に素早く入れ、そして、取り出した。

レーザー銃だ。


「それが、仇となったね」 

「まだ隠し持ってたのか⁉」


ハイリの叫びに答えずマサナリが引き金を引いた。


「ハイリ‼」

 

ウツツは叫んだ。

だが無情にも、レーザー銃はハイリの右顔面を溶かした。


「あ…あ」


喉から意味のない言葉が漏れる。

さっき、ハイリと話した。

もし、目の前でハイリが死んだらウツツはどう感じるか、と。

ウツツは答えた。幸せじゃない。


だが、これはそんな程度のものではない。

頭から血が下がっていく。

手足が瞬時に冷たくなる。

そのくせ心臓は早鐘を打ち、体はせわしなく震える。

なんだ、これは。どういう感情なのか。


「は、いり…」


ウツツの口から声が零れた。


「ああ、びっくりさせてごめんね。ウツツ」


溶けた顔から声が聞こえる。


「え」


ハイリの右腕が動いた。脳が解けているはずだ。動くはずがない。

だが、その右手は、溶けた顔をさする。


「これ、痛いんだよ。余裕ぶってるけど、ほんとは痛みに叫びたい感じ。レーザー銃痛いんだよねぇ」

「な、なんだ…⁉」


マサナリが叫びをあげる。

それもそうだろう。

半分顔のなくなった男が悠長にしゃべっているのだから。


「嘘だ…な、なんなんだお前は⁉」

「なんだ?そうだなぁ」 


ハイリがふっと笑った。


「俺はパラドックス。人類が生み出した半生半死の化物さ!」


ウツツは息を呑んだ。


「俺の名前使って色々悪さしてくれたようじゃねぇか。だが、一つ言っておく」

 

ハイリは、だん、っと強く足を踏み出した。


「パラドックスには子供はいない!」


言いたいのはそれだけか。

呆れた心地で、ウツツはそれを見やる。

パラドックス。恐ろしいバケモノだ。

それも顔が半分溶けている。

なのになぜか恐ろしさを感じない。

だが、それは、ウツツだけのようで。


「うわぁぁぁ!!」


マサナリは目の前の男に恐怖を感じたようで、半狂乱になって、レーザー銃を発射する。


「ひぇ」


狭い部屋の中で、乱射されたレーザー銃は反射しあらゆるものを溶かしていく。


「ウツツちゃん。俺が守るから近くにいて」

「た、盾にしていいの⁉」

「あはは、いいよ!」


ハイリは笑った。

レーザーにあたりながらハイリは痛い痛いと軽くこぼしながらも死なない。

その様子を、ウツツは唖然としながら見守っていた。


「チクショウ!」


マサナリが悪態を吐いて、レーザー銃を捨てた。

赤いランプがともっていた。


「エネルギー切れか。お疲れさん」


穴が開いた右手をさすりながらハイリが笑った。

マサナリは荒い息を上げて部屋の片隅に一歩一歩と下がっていく。


「く、来るな…!お前のような化物に裁かれてなるものか…私のような高尚なものが‼」


マサナリは叫んだ。いや、わめいているといった方が正しいかもしれない。


「この世界を平和にしたい。そのためにいい人を作るんだ!それは善のはずだ!きっとそれは!」

「いい人?」


ハイリが残った方の目でマサナリを睨む。


「あんたにとって都合のいい人の間違いだろう」

「ひ…ッ。裁かれてなるものか!この僕が…パラドックスなんかバケモノに…!」

「俺はあんたを裁かないよ。代わりに裁くのは」


ハイリが片手を上げた。


「あんたに『病人』に仕立て上げられた皆さんかな?」


ウツツはぞくりとしたものを覚え、ハイリにしがみついた。

マサナリが乱射した銃は部屋中のものを溶かした。そう、人が閉じ込められた檻も。


「いいよ。君達は自由だ」


ハイリがそういうと、檻の中に縛られていた人間たちは、皆マサナリに飛びついた。

何が起こっているのか。

見たくないのに凝視してしまう。

と、ふと視界が暗くなった。


「ウツツちゃん、見ない方がいいよ。さ、目を閉じて」


ハイリに言われるまま目を閉じる。

ウツツの手をハイリが握った。そのまま手を引かれる。


「はい、目を開けて」

 

それは中央棟の放送スペースだった。

奥の扉は閉じられている。

中から、マサナリの断末魔が聞こえた。

ハイリはそれを気にせず、軽い足取りで、マイクに向かう。


「ウツツちゃん。ここの放送ONにする方法知ってる?」

「うん」


ウツツは放送のスイッチを入れた。ハイリがマイクに口元を寄せる。


「えー、国民の皆様、聞こえますか?」


ハイリは話した。マサナリがしようとしていたこと、全部全部。


「これを聞いたうえであなた達はどうしますか?自分で考えて動いてみましょう!さあ、俺の話はここまで!」


そういってハイリは電源を切った。


「さあ、これでこの国は終わりだ!ざまあみろ!」


そういって、ハイリは楽しそうに笑った。

ウツツには分からない。

ハイリがなぜ楽しそうなのか。

そんなハイリにウツツは尋ねる。


「ハイリ。ハイリはマサナリ先生のしている幸せじゃないことを暴いた」

「うん、そうだね」

「ハイリがこれから私たちを幸せにしてくれるの?」


そういうとハイリは一瞬、きょとんとした顔を見せた後、腹を抱えて笑い出した。


「まさか!そんなことあるわけないだろ!」。


ハイリの赤い目が細く歪む。


「気に食わなかったから壊しただけ。本当にそれだけ。あとは知らない! 」


子供の様に言い放ったハイリ。ウツツは目を見開く。


「そんな…!酷いよ!」

「君は俺に何を求めてるんだい?」

「何を…?た、助けてよ!」

「あはは。残念!俺は、正義のヒーローなんかじゃない。そんなものこの世にはいない。君の前にいるのはパラドックスっていう化物だ!」


ふと、ハイリが断末魔の聞こえた部屋を見やる。


「しまった。荷物箱あの中に置いてきちまった」


そういうと、扉の中に入っていく。

真っ赤に染まった箱を持って出てきたハイリはひらりと手を振った。


「じゃあね、俺は行くよ」

「ま、待って!」


ウツツはハイリの羽織の裾を掴む。


「私たちはいったいどうすればいいの⁉」


今までずっとマサナリの言葉に従ってきた。

それだけで生きてきた。

マサナリが死んだ今、何をどうすればいいのか見当もつかない。

落ち着かなくって、これは幸福ではないものだ。


「なあ、ウツツちゃん。俺言ったろ?」

「何を」

「君が変わっても世界は変わらないって」


ああ、確かに言った。


「同時に世界が変わっても君は変わらないんだ」

「何言って」

「だから君が変わらないと君は変われない。さあ、ウツツちゃん。この変わった世界で君はどう生きる?」


ハイリがふっと前を見つめた。

ウツツもつられて顔を上げる。

大きな窓越しに一望できるこの国。

人々が右往左往している。

皆、事態が飲み込めずに混乱しているのだろう。

ウツツはぼんやりとそれを見ていた。


『三十二階です』


機械音に振り返ると、ハイリがエレベータに乗り込み、こちらにひらりと手を振っていた。


「じゃあね、ウツツちゃん。また会う日まで」

「待っ―」


ウツツの言葉より先にエレベーターの扉は閉まった。

追いかけようと、エレベーターのボタンを押す。だが、追いつけないだろう。

追いつけたとしても引き留めることはできないだろう。なぜかそんな気もした。


「ウツツ…」


後ろから声がしてハッと振り返る。

真っ赤に手を染めた女が扉から覗いている。

分からない。だけど、きっとそれはホシナ。


真っ赤に染まったその手をとる勇気はウツツにはなかった。

ホシナに悪い気はする。

だが、それでも足が動かない。

女はくぼんだ目でウツツを見つめる。


「ごめん。ホシナ」


ウツツは、涙を流した。

ホシナの後ろに、マサナリに実験台にされた人々が、ウツツをうかがっている。


逃げ出そうか。もう何もかも捨てて。

そうだ、ハイリを引き留めることはできなくても、連れ出してはくれるかもしれない。


『三十二階です』


電子音が聞こえた。ウツツはエレベーターに足を向ける。


「ウツツ」


その声に足は止まってしまった。ウツツは振り返る。

髪はぼさぼさ。落ちくぼんだ目にやせこけた頬。言葉だってろくにかわせない。

それでもやはりホシナなのだ。

彼女を捨ててはいけなかった。

このままウツツが彼女を見捨ててしまえば、彼女は確実に死ぬ。


そこでウツツは気づいた。


もう一度窓の外に目を向ける。

幸福しか知らなかった人々。

このままだったら彼らも死ぬ。

何もかもがマサナリの指示通り動いていた。

食料の管理も、衛生管理も、何もかも。

彼らは人の言うことに素直だ。だけど、考えない。

そういう風に作られているから。


息苦しい国だ。人々も嫌いだ。

だけど皆、いい人だ。悪い人ではないのだ。


ああ。


ウツツは理解してしまった。今、この場でこの事態を治めることができる可能性がある人間は、自分しかいない。


ぞっとした。「恐怖」を感じている。


今から自分がしようとしていることに。


「ホシナ。私、ちゃんとできるかな?」


返事なんか帰ってこないと分かっている。

だけど、ウツツは尋ねた。

そして、マサナリの部屋に目を向ける。


きっと、あの部屋にこの国を動かすヒントがあるはずだ。

ウツツは部屋に足を向ける。

その体は震えている。


部屋の前で立ち止まる。

実験台にされた人々がウツツを凝視する。

身体から嫌な汗が噴き出す。

思わず目を閉じる。


手をぎゅっと握りしめた。

その手に触れるものがある。

ウツツは目を開ける。

星形の痣が目に入った。


「ウツツ」


ホシナが、ウツツの震える手に手を重ねていた。

ホシナの目は相変わらず生気がなく表情はない。

だけど、それでも、その手は暖かかった。


「ありがとう。ホシナ」


ウツツはその手を握り、部屋に足を踏み出した。


***


とある国の、政務室。


「ウツツさん、面会希望者です」

「えー、今度は何処の国のお偉いさん?もうやだよー、疲れたよー」


ウツツの言葉に秘書は眉を顰める。


「ウツツさん、あなたはこの国の代表なのです。しっかりしてください。それが、幸福なことのはず―」


秘書は口元を押さえた。


「すみません。私はまた…」

「いいよ、いいよ。癖みたいなものだもん。オッケー、その面会希望者通して!今日はその人で終わりだからね」

「かしこまりました」


秘書が通信機で連絡を取る。

さて、今日最後の来客はどんな人なのだろう。

ぼんやりと窓の外を眺める。


活気にあふれた国。

人々は色とりどりの服を着、様々な家に住む。好きな仕事に就き、好きな人と結ばれ、子をなす。

この国は奇跡の国と呼ばれた。

各国から賞賛を受け、各地のお偉いさんがひっきりなしにやってくる。

だが、問題はまだまだ山済みだ。ウツツは山になった机の上の書類を見て苦笑した。


「ウツツ」


その声に振り返ると、ホシナがいる。

ホシナは、どんっと机の上に書類を置いた。


「たまってる。仕事。たくさん」

「言われなくても分かってるよぉ」


マサナリに実験台にされた彼ら。

彼らが何をされたのか。それははっきりとはわからなかった。

また、彼らが元に戻る方法もわからなかった。

ウツツはこの国を立て直す傍ら、必死になって、彼らを救う手立てを探した。


そこで、ウツツは一人と再会する。


『三十二階です』

 

相も変わらないそっけない機械音がエレベーターの到着を告げる。

エレベーターの扉が開く。


「お疲れ、ウツツちゃん」

「なんだ、ハイリか」


ウツツは笑った。


彼らの救済法を探していたウツツ。

とある国の大臣から、どんな異常も直せる神の手を持つ医者の噂を聞いた。

なんでも、手紙を出して、仕事を依頼するらしい。

だが、その手紙の送り先は分からない。

ウツツが諦めかけた時、ふらりと現れたこの男。


「あの時はどの面下げてきたんだと思ったけどね」

「でも役に立ったろ?」

「腹立つけどそうだね」


ウツツは笑った。

藁にも縋る思いで、ハイリに医者への手紙を渡したウツツ。

返事と医者をハイリが運んできたのはそれから十年後だった。


ホシナがハイリに頭を下げる。


「ありがとう。ハイリ。さすが、運び屋」

「例には及ばないよ。きっちり代金は頂いたからね」

「そういうとこ。なかった。だったら。尊敬。できた」


ホシナが眉を顰める。

実験台にされた彼らは、完全な回復はできなかった。

ホシナの言語障害のようにそれぞれ何かしらの背負ったものはあった。

それでも今は皆、自分が生きたいように生きている。


「それにしてもハイリは若いなぁ」


ウツツはこぼした。ハイリは笑う。


「ウツツは年喰ったな」

「当然でしょ。前回ハイリが来た時からもう十年。初めて会った時から四十年は経ってるんだから」


ウツツはホシナに同意を促すように顔を見る。

ホシナもその皺の増えた顔で頷く。

それに比べ、ハイリは出会ったあの時のままだ。

ハイリがふっと寂し気に微笑んだ。


「それでいいんだよ」

「そうかなぁ」

「そうだよ。それでいいんだよ。人間は」


ハイリはそう言って笑った。


「じゃあ、そろそろ行くよ」

「来たばっかりじゃん。もうちょっとゆっくりしていきなよ」

「いや、顔見に来ただけだからさ」


そういってハイリは赤い羽織を翻す。ウツツは寂しさを覚えた。


「ねえ、ハイリ。次はいつ来る?」

「わかんないなぁ」

「私が生きてる間に来てよ」

「それも保証できない」 


飄々とハイリは言った。

もう何百年も生きているハイリ。

そんなハイリにとっては自分など過ぎ去る風景の一部分でしかないのだろう。

悔しいものだ。


エレベーターを待つハイリの背を見つめる。


もう会えないだろうな。

なんとなく、そう思った。


「ねえ、ハイリ」

「なんだい?」


ハイリが振り返らずに尋ねる。ウツツは放つ。


「忘れないでね」

「忘れないさ」


ハイリが、笑顔でウツツを振り返った。


「いつか言ったよな。世界が変わっても君は変わらない。君が変わっても世界は変わらないって」

「言ったね」


こんな未来が待っていようとは思っていなかったあの日。

不安、焦燥、そんな言葉すら知らなかった若き日のころ。

ハイリがにこりと笑顔を浮かべる。


「だけど、一人が変わって変わる世界があることを知った」

「え?」

「君が変わって、世界を変えてしまったんだ!」


ハイリが手を広げた。赤い羽織が広がってゆらゆらと揺れる。


「俺は俺を生み出したこの世界が大っ嫌いだ。だけど、変えられることがあることを君は教えてくれた。ヒーローなんていないと思ってた。でも、いたんだ」


まるで舞台上の俳優のようによく通る声で放った。


「ウツツちゃん、君は俺のヒーローだ!」


大げさなふりで、ハイリはくるりと踵を返す。


「じゃあな、ウツツちゃん。俺は君の事を決して忘れない」


『三十二階です』


無機質な機械音と共に扉が開く。

ハイリはエレベーターに乗り込み、最後に笑顔を見せた。

それは、映画の一場面のようにくっきりとウツツの心に残った。


政務室に静けさが戻る。


「相も変わらず嵐のような人ですね」


秘書がため息をついた。ウツツは頷く。


「本当にそうだよ。この国も人の人生もめっちゃくちゃにしてさ」


それでも、ウツツの口元には笑顔が浮かんでいた。

ウツツは小さく伸びをする。


「じゃあ、あと少し、頑張って仕事終わらせようか」

「うん。手伝う」

「かしこまりました」


ウツツは机の上の書類に手を伸ばした。


終わり


閲覧いただきありがとうございました。

この三題噺のテーマは、のんびり創作グループ「ぐだぐだ座談会」の月課題のものです。

来月も、違うテーマで三題噺を書きます。


針間有年ツイッター(@harima0049)でぐだぐだ座談会の報告などもしております。

よろしければどうぞ。



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