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最終章

 体育館では全校生徒と教師、三年生の親御さんが集まっていた。先生方はある方々は黒いきっちりとしたスーツを着て、ある人はチマチョゴリで装い、ある人は和服姿で参列していた。吹奏楽部が『蛍の光』やら『仰げば尊し』やら『未来予想図Ⅱ』やらを演奏していた。

 今日は卒業式。三年生の方々の門出の日だ。先輩方の中には涙ぐんでいる方がいらっしゃった。教師の中にも泣かないように我慢されているような方がいらっしゃった。翼先輩はいつも通りの表情をされていて、ときどき同級生の方とにこやかに雑談をされていた。

 もう一年か。今年の春に先輩と出会ってから、今日まであっという間に過ぎていったような気がしていた。卒業証書を凛とした顔つきで頂いている先輩を見ながら、ふと振り返ってた。


 桜の花びらが海風に乗ってひらひらと揺れていた。外は透き通った青空が広がっており、絶好の卒業式日和だった。

『先輩、第二ボタンください!』

『ずっとずっと好きでした!』

『卒業しても私のことを忘れないでください!』

 窓からは聞いているこっちがこっ恥ずかしくなるような声が聞こえてきた。

 僕は一人美術室にいた。目の前にはここ数ヶ月かけた渾身の絵が置いてあった。いつもは描き終えても何かしら手直ししたい気持ちに駆られるが、今回ばかりはまったく加筆する考えが出なかった。それくらいやりきった感覚があった。

 この期に及んで僕はこの絵を先輩に贈ろうか迷っていた。実は先輩から見たら出来が悪いのではないか、置く場所に困るのではないか、そもそも『こんな内容な絵』をもらっても気持ちわるいのではないか。そもそも翼先輩と顔を合わせづらく、会うのに尻込みしていた。

「こんなとこで何グダグダしてるんだ?」

 ドアに寄りかかるように春樹が立っていた。制服からはボタンが全部なくなっていた。

「お前、ボタンはどうした?」

「先輩方がくれって言うから、全部あげた」

 普通こういうのは卒業する諸先輩が渡すものではないのか。後輩が渡してどうするんだ。内心つっこみつつも、いつものことなので特に触れないでいた。

 春樹は僕の前にある絵に視線を送った。ただ目を通すのではなく、細部までじっくりと観察するような見方だった。一分半ぐらい眺めた後、

「……。すごいな、その絵」

 ポツリとつぶやいた。ただお世辞を言うための声色ではなく、心の底から思ったときの声色をしていた。

「そっか。ありがとう」

 そう感じたからこそ、僕も謙遜でもないお礼の言葉を口にした。

「……。そこに描かれてるの、あの人だろ?」

「……。そうだよ」

 モチーフの人物は誰が見ても分かるようだ。

「……」

「……」

 しばしば気まずい沈黙が続いた。互いに言いたいことがあるのに口が出せず、互いにそのことを認識している沈黙だった。どこか相手が先に口火を切ってくるのを期待している時間だった。

「……。翼先輩からの告白断ったんだって?」

 先に声を出したのは僕だった。

「……。ああ、聞いたか」

 淡々と話すように心がけているようだが、その実どこか苦渋に満ちていた。

「……。どうして?」

 僕も平常心を装おうとしていたけれど、どうしても声が震えてしまった。

「別にあの人タイプじゃ、」

「タイプだよね。それもかなり」

 別に本人から聞いたわけではない。ただそれなりの年月来の友人としての勘が告げていた。どうやら図星だったらしく、また長考状態に陥った。今度は僕も返事を急かさず、辛抱強く待った。

「お前、俺と翼先輩が付き合ったら見守れるか?」

「そりゃもちろん、」

「もちろん無理だよな。お前はあの人に骨の髄まで惚れてるからな。俺とあの人が付き合うのだけは何よりも許せないはずだ」

「な!」

 自惚れるなよ、勝手に決めつけるなよ、僕のことは関係ないだろ。そんな言葉が頭に浮かんだが、どれも口に出せなかった。春樹が言っていることは、一字一句間違っていなかったから。

「だ、だからって。お前が気にする必要なんてないだろ」

 あんだけ女に囲まれているんだ。人間関係には全然困らないだろ。

 春樹はどこか寂しそうに笑った後、

「女は星の数ほどいる。女の代わりはいくらでもいる」

 いつも通りいけ好かない台詞を吐いた後、

「ただ、友人の代わりはそんなにはいない。それだけだ」

 と、短く言った。僕は何も言えなかった。また何とも言えない沈黙が続いた。春樹の方は肩の荷が下りたようなスッキリした顔をしていた。こいつはフーっと大きく息を吹いた後、

「その絵、すげえな」

 もう一回僕の絵を褒めていた。よほど彼の琴線に触れたらしい。

「悪かったな」

「何が?」

「中学のときに言ったろ、『ホント、よくこんなのを平気で描けるな』って」

 あー。そんなこともあったなあ。以前は鉛のようにのしかかっていた呪いが、今はすんなりと受け流せるようになっていた。

「あのとき、絵を描けてたお前が羨ましかったのかもな」

「羨ましかったって。お前、全然絵を描いてたなかったじゃん」

「ふふ」

 彼は楽しそうに笑った後、

「本当にな。リングにすら立ってねえ奴がよく言うわ、だよな」

 と、口にした。その顔はどこか今まで見たこともなく、スッキリとした表情をしていた。まるで憑き物が落ちたように。

「春樹、学芸員めざすんだって?」

「ああ。そうだ」

 ニヤッと笑ってあとは黙った。何か詳細な説明があると思ったが何も言わなかった。コイツの意を汲んで、僕は何も聞かないようにした。

「お前、絵を描き続けろよ。将来、絶対画家になれるわ」

「はは。ありがとう」

「学芸員になる俺の目に狂いはないぜ」

 いつものように調子いいことを言っていた。思わず僕は苦笑いをしていた。

「この後、今日はどうするんだ?」

「ここしばらくはここでのんびりしてるよ」

「そっか。邪魔したな」

 そう言って彼は出ていった。結局あいつは何をしにきたのだろうかと思わないでもないが、彼の安心したような後ろ姿を見てどうでもいいやと思った。ひょっとしたら、春樹は僕に嫉妬してたのかもしれないな。でも、あいつは絶対にそのことに話すことはないだろう。それについて気をもんだって仕方がない。僕は僕のことをまずは考えればいいんだ。

 絵を描き続けろよ、か。簡単に言ってくれるよ。ここ一年、考え続けていたことだった。受験に専念して絵を描くのをやめるか、それとも絵で食べていく道を探すか。僕は要領がよくないから両方は無理だとわかっていた。

 今回の絵は自分を振り返るいいきっかけになった。とりあえず選んだテーマで描いてみて、自分の画力の器も確かめてみた。そうしてやっと答えが見つかった。僕の絵に対する答えを。道が見えてからは、心が透明になった感触がした。

 さてと。そろそろあの人に会いにいかなきゃと思って立ち上がりかけると、

「蓮君。ここにいたのね」

 今まさに会おうとしていた翼先輩が目の前に立っていた。いつも通りの制服姿に卒業証書の筒を手にしていた。これで先輩は本当に卒業してしまうのだという実感をやっと抱いた。

「春樹君がここにいるって教えてくれたわよ。探したわよ。まったく」

 まるで困った子に呆れるような声色で話していた。とはいえ表情からはどこか楽しそうな様子が見られた。

「普通、こういうときは後輩から挨拶に来るもんでしょ」

 そう言ってこっちの方に歩いてきた。先輩が近づいてきても、いつもみたいにドキドキせずに冷静な気分でいられた。そして、翼先輩はキャンバスの前に立ち止まり、じっくりと僕が描いた絵を見つめた。春樹と同じように長く長く観察していた。息をするのも忘れているのではないかと思うほどに、真剣な表情をされていた。

「……。ここに描かれてるのって、あたしだよね?」

 軽くうなずき、

「はい。そうです」

 と、答えた。

「……。これ、蓮君が描いたんだよね?」

 もう一回うなずき、

「はい。そうです」

 と、同じ答えを返した。

「……。すごい」

 ポツリと呟いた後、

「すごいすごい! 蓮君、すごいよ!!」

 大興奮して僕の肩を掴んできた。

「すごい! この色合、この繊細さ、蓮君のいいところがよく出てるよ! すごい! こんなの描いてたんだ!」

 作者である僕以上に喜んでくださった。さすがに照れくさくなって、顔を掻くふりしてそっぽを向いた。

「たくさんの画家の絵を観たでしょ!」

「ええ。モネやルノアール、ムンクとかを」

 そして『岡野治之』の絵を。いったん落ち着くと先輩はちょっと照れ笑いを浮かべて、

「でも、あたしはこんなに魅力的じゃないと思うな」

 と言った。

「そんなことないですよ!」

 これは僕が見えた姿を嘘偽りなく描いたものだった。

「そう、ありがとう」

 先輩はまたニッコリと笑った。

「僕の最後の絵にふさわしいものになりましたよ」

 楽しそうにしていた先輩がふと無表情になった。

「……。どういうこと?」

「先輩が卒業するので美術部を辞めようかと。そして絵を描くのも最後にしようかと」

 前から考えていたんですよ、自分には才能があるかと。良い絵を描けるのかと。

「描いても描いてもありきたりな絵になりますし、面白みもなにもないですし。これから続けたとしても、せいぜいただの上手い人で終わるでしょう。だったらここで区切りをつけるのがいいかなと」

 そもそも、もう絵を描く理由がなくなっちゃったので。心の中で一言だけ付け加えた。

 改めて言語化すると今までのしがらみから解放されたような気がした。肩にのしかかってた重石も落ちて、スッキリした気分になった。これまで僕を縛っていた鎖がずれていた気がした。やっと気がついた。僕を縛っていたのは僕なんだと。もう自由になっていいのだと。筆を折って良いのだと、素直に認めることが出来た。桜が舞い散る風景を眺めながら、今日はいいターニングポイントになったと思った。

「……。……」

 僕は翼先輩が何も言わないことに気づいた。先輩は教室の床を凝視していた。手は握りこぶしを作り、わなわなと震えていた。

「……どうして」

 今までに聞いたことない低い声が先輩か発せられた。

「どうしてあんたは自分の絵を大事にできないのよ!! もっといたわってあげなよ!!」

 吐き出すように、叩きつけるように口に出した。目には溢れ出るように涙が流れていた。

「あんなに優しい絵を描けるじゃない! あんなにひたむきに絵に向き合えるじゃない! もっと自分を誇りなよ!」

 これ以上ないくらいの怒りを僕にぶつけてきた。

「僕の人生だからどうでもいいじゃないですか。僕は絵なんて好きじゃないですし」

 そう、いつもいつも描くのが辛かった。深海の中を歩いているような気分だった。ワクワクした感覚なんてほとんどなかった。惰性でキャンバスを埋めていただけだ。だから、僕は本当は絵を描くのが好きじゃないんだ。好きなフリをしているだけだったんだ。

「嘘を言わないでよ!」

 それでも翼先輩は僕の言葉と気持ちをピシャリと否定した。

「好きじゃない人が長く描き続けられるわけないでしょ! 好きじゃない人が好奇心を持って絵のことを聞かないでしょ! 絵を描くときの蓮君を見せて上げたいよ! こんなに絵が好きな人の顔をあたし初めて見たよ!」

 先輩は声に涙が入り混じりかすれ始めていた。僕もなんだか悔しくなってきた。

「もう、無理なんですよ……」

 僕は限界になっていた。

「先輩、僕を見てくれないじゃないですか……。春樹のことばかり気にしているじゃないですか……」

 いつの間にか僕の目にも涙が流れていた。もう取り繕う気なんて起きなかった。

「先輩に喜ばせたいから、先輩に近づきたいから、先輩に好かれたいから。この一年先輩が絵を描く理由だったんです。先輩に振り向いてもらえないのに、これから僕は何を理由に描けばいいのでしょうか……」

 もう、道がわからなかった。どこにも行けず袋小路にハマっている感覚があった。もう先輩に何を言われても描ける未来が思い浮かべられなかった。

 先輩も言うべきことが見つからないのか、うつむいた。こんな女々しいこと言う奴なんかに、掛ける言葉なんてないと僕ならば思うだろう。完璧にこの人に嫌われてしまった。

「それでも……」

 ポツリと先輩はつぶやいた。

「それでも、絵を描いてよ……。あたしのために描いてよ……。あたしにあんたの絵を見せてよ……」

 もうそこには普段の先輩の面影は微塵もなく、すがりつくような目をした、壊れやすく脆い少女の顔をしていた。

「ひどいですよ……」

 とはいえ僕も人のことが言えない状態だった。取り乱さないように自分を保つだけで精一杯だった。

「先輩ひどいですよ……。何でそんな事を言うんですか……。何で諦めさせてくれないんですか……」

 僕ももうボロボロだった。自分の弱さを隠す余裕なんてなかった。怯えや不安を先輩に見せてしまっていた。もう絵が怖くなっていた。そんな僕に対して消え入るような声でささやいた。

「あんた言ったじゃない……。人の幸せを願い、人の不幸を悲しめる人間になりたいって。なってよ……。あたしの幸せのためにも描いてよ……。父さんみたいに自分のことしか考えていない人間じゃなくても良い絵は描けるって、あたしに信じさせてよ……。お願いだから、あたしに見せてよ……」

 やっぱり先輩は父親の呪縛から逃れられていないみたいだ。誰よりも父親を憎んで、誰よりも父親を渇望している。僕はそんな先輩を助けるヒーローになんかなれない。だから先輩に弱々しい声で、

「僕は岡野治之の代わりになれませんし、ましてやお父様の代わりになんてなれませんよ」

 と、伝えた。その瞬間に目の前の人から絶望した表情が見えた。まるで信頼していた人に見捨てられたみたいに。僕の心臓はきゅうっと、締め付けられるように傷んだ。


『もうこれ以上、耐えられない』


 僕は美術室から逃げるために、先輩の横を通り過ぎて早足でかけていった。先輩の顔を見ないようにうつむいて歩を進めた。奥歯を強く噛み締めて、なんとか気を張っていた。

 外に出ようと引き戸に手をかけた瞬間、背中に何かがぶつかったような衝撃があった。続いて背中と胸にほんわかとした温かさが広がった。首のあたりには、さらさらとした長い黒髪が触れていた。

「……。ッツ……。ンク……。ヒック……」

 おさない子どもが愛しい人を二度と離さないとするように、強い力で抱きしめられた。メッセージは何一つ伝わらず、もう何も言うことができず、ただただ泣くことしか出来ない翼先輩がそこにいた。僕のうなじは先輩の涙で濡れ始めていた。

「うっ……。……っく。あぁ……」

 僕もあふれる涙を止めることが出来なかった。一体何やってんだろう。僕は何やってんだろう。

 今までなんで絵を描いてきたんだ? 誰かを喜ばせるためじゃないか。ほんわかしてもらいたいからじゃないか。九十九パーセント自分のためだったとしても、一パーセントは誰かのためになりた描きたかったんじゃないのか。こんな僕にすがりつく翼先輩の喜ぶ顔を何よりも見たかったんじゃないか。一体何でこんなことになっちゃったんだろう。

「うっ……。……っく。あぁ……」

「……。ッツ……。ンク……。ヒック……」

 新しい門出で浮足立っている空気の中、少し離れた美術室で僕たちは泣きあっていた。別れを悲しむのではなく、ただただ自分のためだけに僕たちは泣いていた。そんな僕たちにも等しく祝福するように、桜は優しく咲き乱れていた。



 映画やドラマならお互い無様にさらけ出したあと、良いタイミングでエンドロールが流れるが現実は厳しい。僕たちは泣き合ったあと、次第に冷静になっていった。よく考えたらかなり恥ずかしいことをしていたことにふたりとも気づき、顔がリンゴのように赤くなっていった。

 なんとも言えない間が数十秒流れ、先輩と僕はほぼ同時に咳払いをした。

「ま、まあ。そ、そこまで言うなら絵を描き続けてあげましょう」

「そ、そうよ。た、たまには先輩の言うことを聞きなさいよね」

 双方とも微妙な空気をかき消そうと躍起になって、冗談めかしたセリフを口にした。ただ僕は半分本気で先輩に対して宣言をしたつもりだ。

 生まれて初めて誰かに期待されていると感じた。生まれて初めて誰かにすがられていると感じた。現金なもので、それだけでなんとか踏ん張れるのでは、なんとか絵をまだ描けるのではないかと思った。

「先輩みたいに才能があるのかなんてわかりませんが……」

 とはいえまだ弱気な言葉を吐いてしまう。はっとするようなテクニックを持っているわけでもないし、独特の観点を持っているわけでもない。平々凡々な絵描きの一人だ。そんな僕の言葉に対して翼先輩は小さく首を横に振った。

「あたしだって才能はないよ。ちょっと他の人より絵がうまかっただけ。光るものを持っている人たちはたくさん見てきたよ。何でこんな絵を描けるんだろうっていうくらい、独創的な人たちもたくさん見てきた。でもみんな辞めてっちゃった。何でって思うくらい」

 短く区切った。次第に落ち着いてきていた。

「もし才能というのがあるとしたら、続ける才能というのがあった。続けられたから、君に気に入られる絵を描くことができた。続けられたから、色んな景色を見ることができた。そして続けられる才能は君にもあるよ」

 僕にも才能がある?

 先輩は手を伸ばして子どもをなだめすかせるように僕の頭をなでた。

「大丈夫。描けるよ。蓮なら絶対描けるよ。時間はかかるかもしれないし、たくさんの人に追い越されるような気がするだろうけれど、長い時間をかければ良い絵描きになれるよ。たとえあたしがいなくても」

「……はい」

 か細くなんとか短く答えた。先輩は安心したようにかすかに笑った。

「絵を続けること、諦めないこと、辛くなってもあたしのことを思い出すこと。約束よ」

「……はい。約束します」

 ある意味では呪いだ。この先ずっと絵のことを考え続け、絵のために生き続けるだろう。なぜか確信があった。それでも同じくらい、僕はこの時間を生涯忘れず、絵のために生きることに全く後悔しないことに、確信があった。目の前には泥だらけでも花が咲き乱れている道が見えていた。先輩の言葉は祝福でもあった。

 翼先輩は僕の目の前にある絵を手にとった。

「これ、あたしへのプレゼントでしょ?」

 さも当然のように聞いてきた。

「はい、そうです」

 そのつもりで描いてきたから特に否定しなかった。

「ありがとう。いい絵だね。なんて題名?」

「はい。『絵を描く少女』とつけました」

 先輩と行った美術館でみた『岡野治之』のと同じ名前にした。なんとなくこれ以外のタイトルはないと直感していた。先輩は大事そうに絵をなでて、

「そう。あたしはその題名好きだな。まるで父さんの絵みたい」

 慈しむような目を『絵を描く少女』に向けていた。かつての『少女』が成長した姿を微笑ましく思っているかのように。



 家の中はいつものように明るい光が漏れていた。父さんが雑誌を読んでいて、母さんが料理の準備をしていた。

「あ、蓮。おかえり。ちょっと準備を手伝って」

 僕は皿を並べたり、サラダにドレッシングをかけたりした。今日の料理はカレーのようだ。

「と、できたみたいね。父さん、ご飯よ」

 家族三人がテーブルについて、カレーを食し始めた。父さんと母さんは職場の話をしていた。誰々さんが異動になった、誰々さんが昇給するだろう、新しくこんな施策をするだろう、云々。僕は口を挟まずに両親の話を聞いていた。頭の中で切り出したいことがあったので、タイミングを図っていた。

「蓮もまた学年が一つ上がるのか。早いものだな」

「本当ね。この間まで高校受験だと思っていたら、あっという間に大学受験が見えてきちゃったわね」

 話題が僕の学生生活に移った。緊張して手に汗が滲んてきた。

「確か蓮は文系受験を考えてるんだっけ?」

「公務員めざすのよね。がんばりなさいよ」

「あ、あのさ」

 チャンスはいまだ。一旦、一呼吸を置いた。冷静になれるよう意識した。

「僕、美大に行きたい。そこで絵を勉強したいんだ。受験に備えて来年から予備校に行きたいんだ。父さん、母さん、すまないが予備校代を出してください!」

 頭の中でいくつも想定問答が浮かんでいた。


『お金は余分にかかるが?』

『働いてから必ず返します』


『将来食べていけるのか?』 

『イラストレーターやグラフィックデザイナーとかの仕事を見つけてなんとかやっていきます』


『そもそも受かる見込みはあるのか?』 

『ある尊敬する画家の方から才能があると保証されました』


 どんな言葉が返ってきても良いように身構えていると、

「わかった」

 父さんは短く言った。

「え?」

「後で予備校の申込用紙を持ってこい。必要事項を記入するから」

「え? え?」

「いやあ、我が家からアーティストが誕生ね。今のうちに私の肖像画を描いてもらおうかしら」

「え? え? え?」

 両親はあっさりと僕の願いを聞き入れてくれた。そしてまた普段と同じように職場の話を始めた。僕は逆に不気味に思えてきた。

「えっと。お金余分にかかるよ」

「お前が思っている以上に蓄えはある。心配するな」

「えっと。えっと。将来食べていけるかわからないよ」

「イラストレーターやグラフィックデザイナーとか絵が求められる場面はたくさんある。なんとかなるだろう」

「えっと。えっと。えっと。そもそも僕に才能があるかわからないよ」

「才能あるかなんて人生の最後に初めて分かるものだ。いま気にしても仕方ない」

 すらすらとよどみなく答えていた。まるで想定問答を考えていたように。母さんが横から入ってきて、

「蓮がそのうち美大に行きたいと言い始めると思ってたから、いろいろ調べていたのよ。お金も、まあ、何回か浪人しても大丈夫よ。何回かは。何回かは」

 父さんはカレーを食べつつ、

「まあ、そういうことだ。私達のことは気にせず好きなことをしなさい」

 ボソリといった。簡単に今日一番の懸念事項が解決していて拍子抜けしていた。一気に身体中の力が抜けていった。

「父さん、母さん。どうもありがとう。しっかり勉強に励みます」

「いいのよいいのよ。子が後悔のない生き方をするのが親の喜びよ。胸を張って歩きなさい」

 今日ほどこの人たちに感謝したことはなかった。自分のやりたいことをやらせくれる親に、頭の上がらない思いをした。

「しかしわからないな。何で僕が美大に行きたいってわかったんだろう」

 思わず独り言をつぶやくと、両親はキョトンとしたあと、近所迷惑になるぐらいに大声で笑った。

「ま、まあ。あれだ。世の中には未知のことがたくさんあるということだ」

「そ、そうね。いつかわかるときが来るかもしれないわね」

 頭の中ではてなマークがいっぱいになっていた。まだまだ親の心はわかならないみたいだ。

 それはそうとして、美大受験を目指すことで心が浮足立つのを感じた。今日この日から自分の人生の明確な形が出来た気がした。先輩と同じ景色が見れるかもとワクワクしていた。まず頭では次にどんな絵を描こうか構想を練っていた。

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