第五章
図書室はシーンと静まり返っていた。耳に聞こえるのはノートに文字を書く音と、ヒソヒソとした話し声だった。周りは受験を控えた三年生が溢れていた。
僕は諸先輩方の邪魔にならないように、隅の方の席に座っていた。テーブルには大きな絵画本を詰んでいた。結構重く、筋肉痛になりそうだった。
一枚一枚ページをめくって、どんな手法を使っているのか眺めていた。絵によっては『僕だったらこうするのに』ということが思い浮かんだので、ノートの片隅に控えていた。
その作業を何人もの作家の本で行っていた。マネ・若冲・レンブラント・ルノアール、そしてもちろん岡野治之も。特に岡野画伯の絵は念入りに見回していた。なぜかこの人の絵の中に僕の道標があるような気がしていた。
「ずいぶん勉強熱心ね」
いつの間にか目の前に翼先輩が座っていた。筆箱からはシャープペンシルが取り出され、世界史の参考書は開かれていた。ノートには既に何かが書かれていた形跡があった。ここに来てからだいぶ経ったのだろう。先輩に気づかないくらい集中していたのか。
「ええ。今度描く絵の題材を探していて。せっかくなので過去の絵のモチーフを上手く取り入れようかなと」
「へえ。意外な試みね。いつも自分の想像したものを描こうとしていたみたいだから。故きを温めて新しきを知るね。頑張って」
そう言っていつもの微笑みを僕に見せた。僕はぎこちなく頭を下げた後、
「先輩は受験勉強ですか?」
三年生になっても特に受験科目の勉強している様子はなかったから珍しく思った。
「まあね。美大志望だからあまり関係ないけど、一応センターの点数も見られるからね。多少は勉強しなきゃ」
チラッとノートを見てみると、几帳面にメモされていて、余白に自分の備忘録が考えていた。見た感じ高い点数取れそうだった。
「あ、そうそう。しばらく美術室に寄るのは難しいかも。あたしがいなくても寂しくならないで」
といってウインクした。
「べ、べつに先輩がいなくても寂しくなんてならないですよ」
嘘です。めちゃくちゃガッカリしてます。
「受験への備えですか?」
「うん。実技への備えを。今までは気分転換であそこでのんびり描いてたけど、そろそろ本格的に試験対策をしなきゃなって」
僕から見たらあそこでも本格的にやっていたと思うけど、息抜きだったんですね。すごいですね。
「幸運を祈ってます。もし合否がわかったら教えてください」
「もちろん。その時はお祝いか慰めをよろしく」
またウインクを僕に投げた。どうでもいいけれど、僕以外にもこの表情を見せているんだろうな。どうでもいいけれど。
とはいえ、僕としても好都合だった。今回のテーマは先輩には完成まで見せたくなかった。落ち着ける場所で先輩に見られるず描けると聞けてよかった。参考図書たちを眺めつつ、今度の絵の構図を頭の中で作り上げていた。
海の見える教室で僕は一人キャンバスに下書きを初めた。いつもはどうしようか悩みながら描いていたが、今回はスイスイと木炭が進んだ。
何度も何度もそれについて頭に浮かんで、何度も頭の中で修正していたから手に迷いはなかった。
今回のテーマはとある肖像画で、一人の女性がキャンバスに向かって真剣な目つきで筆を走らせている絵だった。黒く長く伸びた髪、切れ長の目、さくらんぼのような唇、すらっとした手足。初めてあの人を目にしたときの衝撃、あの人の絵に対するひたむきさを込めるだけ込めていた。
いつもより丁寧に、いつもより濃密に描き込んでいた。途中肩のあたりが凝ってる様な感覚が会ったが、僕は絵を描き続けたい気持ちが強かったため、一向に気にならなかった。
勢いだけで半分ほどの下書きが終わった。いつもは試行錯誤しつつ描き込んでいくから時間がかかるが、今日は早くしかもかなり詳細に塗られていた。
大きく背伸びをした。窓の外も日が暮れ始めていて、玄関には下校する生徒たちの流れが見えた。この絵を先輩とかに発見されないように教室の隅においてから、教室を後にした。
一人Y浜の美術館にまた来た。いつものように著名な画家の絵が溢れていた。
『へえ。この人って絵の具を点のように塗っているんだ』
今回に関しては食い入るように見ていた。何か今度の絵に直接的に反映できることがないか、じっくりじっくりと観ていた。
印象派やシュールレアリズム、自然主義の絵を万遍なく触れ、どの塗り方が良いか頭の中でイメージしていた。
そのとき、『岡野治之』の絵を見つけた。珍しいタッチで、印象派・シュールレアリズムが混ざった様な独特な雰囲気を醸し出した。
その絵を僕は今日一番眺めたかもしれない。筆の構造、筆の走らせ方、色合いのバランスなど、僕の理想に限りなく近がかった。目に焼き付けるようにし、今日これっきりで集中して観ていた。
季節は淡々と過ぎていった。秋はあっという間にさり、寒い冬がやってきた。水は冷たくなり、手をかじかませながら筆を洗っていた。
それでも絵は少しずつだが形になってきた。四苦八苦させつつ一色一色加えていき、イメージしていた肖像画を形作っていた。
何冊もの本から今回のテーマに適した色を選んだ。特に『岡野治之』の絵からは隅々まで眺め、自分なりのスタイルとして使いこなせるような意気込みで臨んだ。
一月一日の朝五時。空は真っ暗で歯がガタガタ震えるような寒さだった。新年の始まりだけあって、こんな時間でも人はパラパラと歩いていた。僕は眠気をこらえつつK倉駅前にいた。
昨日の晩にいきなり電話をかけてきて、
『蓮君って明日ヒマ? もし暇だったら朝四時にK倉駅前に集合ね』
と、言ってきた。反射的に空いていると答えてしまい、すぐにぷっつん。どういう予定なのか聞けずじまいになってしまった。
今日ほどバックレようと思ったことはないが、それでも律儀に来てしまった。吐く息で手を温めつつ、あたりを眺めた。ちょうど空気が澄んでいる時間だから、月がいつもより真っ白に見えていた。
「蓮君。おまたせ」
やっと来た。声が聞こえた方を向くっと、何らかの物体がふわっと飛んできた。とっさにキャッチするとポカポカした熱が伝わってきた。
「わざわざ来てくれてありがとう。それはちょっとしたお礼」
ラベルを見るとミルクティーだった。
「すみません。どうもありがとうございます」
少し身体が冷えていたから遠慮せず口に入れた。甘さが芯まで染み渡り、さっきまでのぼやいていた感情が引いていくのを感じた。
「それじゃ、行こうか」
短く言った後、翼先輩はてくてくと商店街の方へとあるき出した。
「ちょ、ちょっと待ってください」
いつものように僕は慌てて先輩を追いかけた。
「どこへ行くんですか?」
「ひみつ。すぐわかるよ」
心なしか楽しそうな声で答えた。とはいえ、実は僕はなんとなく予想はついていた。一月一日でこの道を歩くということは、一つしかないだろう。
沿道にある店はほとんどしまっていたが、時折たこ焼き屋やクレープ屋などが営業していて、ちょっとしたお祭りムードが流れていた。僕たち以外にも数グループが同じ方向に向かって歩いていた。
商店街が終わり、少し開けた場所に出た。
「ついた。ここが目的地よ」
古びた大きな神社がそびえ立っていた。この街の名物で、いつも外からの観光客で賑わっていた。初詣のときは大変な混雑で、参拝するのに三時間もかかるという。昔、せっかくだからお参りしようかと思って付近までいったら、あまりの人の多さに回れ右した記憶がある。
とはいえ、朝五時だと思ったより人がいなかった。それなりの盛況はあるものの、昼時と比べると格段に落ちつていた。
「じゃあ、行きましょう」
そうして僕たちは長い石段を上がっていった。薄暗い中での神社は荘厳な雰囲気を持っていた。ときどき鈴のような音が響いてきて、なおさら正月の趣を出していた。
空いているとはいえ、流石に賽銭箱の前ではそれなりの列が出来ていた。僕は小銭入れを周りの人の邪魔にならないように出して、五円玉を探していた。あいにくないみたいなので、一円玉を五枚手の中に入れて順番を待っていた。
前の人達のガラガラを聞きつつ、心の中で何をお願いするか考えていた。人に話しやすいお願いや人に話にくいお願いを何個か思い浮かんだが、すぐに『これしかない』というのを見つけた。
「蓮君。順番来たわよ」
気づいたら僕たちの前には賽銭箱しかなかった。慌てて五枚の一円玉をチャリンチャリンと投げて、二礼二拍手一礼した。その際にお願いごとをするのを忘れなかった。それなりに混雑をしていたから、出来るだけ手短になるように心がけた。
それは翼先輩も同じらしく、僕が終わる頃には脇の方にずれていて、いつでも降りられる体制になっていた。僕が外れると歩き出し、石段を下っていった。
「先輩、何をお願いしたんですか?」
「一応受験生だから志望校に受かりますようにって」
そりゃそうか。先輩も意外とそういうことを気にするんだな。
「蓮君は何をお願いしたの?」
はたと気づいた。自分の願いは『人に言えない』たちのものだった。聞くんじゃなかった。
「それは……。秘密です!」
「えー。なにそれ。ずるい!」
からかいの微笑を浮かべながら、軽く小突いてきた。打ちどころが悪いと嫌なので、手で頭を守っていた。
『翼先輩がG大に受かりますように』
なんて本人に恥ずかしくて言えるわけないじゃないですか。二回くらいは聞いてきたが、僕が貝のように黙っていると、それっきりなにも言わなくなった。そして先輩は周囲をキョロキョロと見渡し、
「ごめん。おみくじを引かせて」
といって、またてくてくと歩いていった。本当にこういうの好きなんだなと思いつつ、ついていった。
売り場ではバイトと思われる巫女さんたちが対応していた。朝早くからお勤めご苦労さまです。百円払っておみくじを引いた。結果は『小吉』か。内容も差し障りのないことが書かれていた。
「翼先輩は何が出てました?」
「うん? こんな感じ」
手にとって見せてもらった。紙の上には『大凶』と書かれていた。って。え?
待ち人……待っても来ない
結婚……あきらめなさい
試験……思い通りにならないかも
散々なことが書かれていた。先輩って今年受験ですよね。これやばいでしょ。
「えっと。あの」
掛ける言葉をオロオロと探していると、
「いやあ。ラッキーだわ」
当の本人から爽やかな声が聞こえた。はい?
「こんなめでたい日には気を使って凶なんてなかなか入れないでしょ。そんなものにわざわざ当たるなんて、今年の運勢はこっちのものよ」
分かるような分からないようなことを言って、先輩は大事そうに財布の中におみくじをしまった。本人が良ければそれでいいのだろう。うん。僕の心配をよそに先輩の顔にはどこか自信がみなぎっていた。まるで、どんなときでも運を味方につけられるような、そんな力強さがあった。
神様にお祈りして、初詣をして、さあ帰ろう、という気持ちでいたのに。コンビニにで『緑のたぬき』にお湯を入れていた。ポカポカの湯気が漂って、僕の顔を蒸らしていた。
『初日の出を観ながら、年越し蕎麦を食べよう!』
と先輩が言い出し、そのままカップそばを購入する流れになった。もう年は越しているのではという無粋なツッコミをせず、黙々とついていった。今日はもうここまで来たんだ。こうなったらとことんお姫様に従おう。
僕たちは手で蓋を抑えながら、ゆっくりと歩いた。ちょうど学校の近くの通りで、沿道には初日の出を見ようとする人々で賑わっていた。
「こっちよ」
そう言って学校の方へと歩いていった。いつも通いなれている校舎が、日にちが日にちだけに神々しさを出していた。
先輩は玄関前の縁石のところにペタンと座り、そのまま割り箸をパチンと割った。
「あの。怒られせんかね?」
「ん? 別に悪いことしてるわけじゃないし大丈夫じゃない? 新年だし多めに見てくれるでしょ」
ケロッとした顔をしてズルズルと蕎麦をすすっていた。細かいことを気にしていても仕方ないと諦め、僕もズルズルと蕎麦をすすった。うん。外で食べる蕎麦は美味い。
東の空は暁色に染まり始めていた。海岸沿いに立っている人たちは、空にスマホを向けていた。僕と先輩はただ何とはなしに移ろいゆく空を眺めていた。普段朝焼けなど見ないから、新鮮な気持ちで眺めていた。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
隣の人がふと礼を述べた。
「こんなのお安い御用ですよ。誘ってくれてありがとうございます」
「よかった。試験対策をしているとね、たまに不安になるのよね。あたしの絵は認められないんじゃないかってね。たまには神様に祈りたくなっちゃった」
「へえ。先輩でもそんなときあるんですね」
「まあね。何でも自分でできると思うと、人って転ぶときにはすぐに転んじゃうしね」
何にも頼らず我が道を行きそうなオーラがいつも出していたので意外だった。
「先輩は美大を出た後は画家を目指されるんですか?」
ふと、頭に思いついた質問を口にしていた。
「そうね。それが一番自分にとってしっくり来そうだから」
なんでもなさそうに口にした。やっぱり、と思った。この人だったら苦もなく画家になりそうだな。
「蓮君はどうするの?」
「僕は……。まだ何とも」
なぜかこの人には中途半端なことを言うのははばかられた。先輩はちらっとこちらを見た。特に目を動かさず、特になんの感慨も持たず、
「そう」
ポツリとつぶやいた。
「春樹君って学芸員になりたいんだって」
「えっ!」
あいつが? 何で? いや。学芸員って分野がたくさんあるし。それより何で先輩がそんなこと知ってるんだ?
「あ、お日様が見えたよ!」
先輩が示した先に、ポワッと頭のほうが見えていた。周囲の人たちの話し声も大きくなり、ちらほらシャッターの音が混じっていた。
「きれいね」
さっきのことは忘れたのようにウットリと眺めていた。僕も一面の朝焼けに見とれつつ、どうでも良くなってきた。
「蓮君、ちゃんと絵を描いてる?」
「ええ。描いてます。ちゃんと完成したら先輩に見せるので楽しみにしてください」
「ふふ。期待しているわ」
僕が春樹に話していないことがたくさんあるように、春樹が僕に話していないこともたくさんあるのだろう。なら、気にしていてもしょうがない。なんか話すときになったら話すだろう。とりとめのないことを思いつつ、人生初めての初日の出に目をやっていた。
「へえ。いいじゃない!」
僕は美術室にて描きかけの絵を先生に見せた。先生は近くで見て、遠くで見て、と丁寧に眺めていた。
「ただ、ちょっと女の子の方を大きく描いたほうがいいね」
メモ帳を取り出して先生のアドバイスを、一つひとつ書き込んでいた。言われれば言われる程、僕の絵の弱い部分が見てきた。ただ今までと比べると、人に言われても自信が揺らがなくなってきた。もっと改善しようという前向きさが湧いてきていた。
「ただそれぐらいかなー。もう色をつけても良いんじゃない?」
「ありがとうございます」
筆を握りたい気持ちを抑えて、先生に礼を言った。
「いやいや。これも美術教師の仕事だし」
僕は会釈して部屋を立ち上がりかけると、
「安心して。ちゃんとモデルちゃんへの気持ちが込められてるよー」
と、言った。とぼけるか無視するか訂正するかを考えたが、何を言っても子どもっぽいと思ったので、
「良かったです。どうもありがとうございます」
時間を取ってくださった美術教師に素直に礼を述べた。
四六時中とは言わないまでも、ほとんどの時間頭の片隅では絵について考えていた。勉強中も寝るときもご飯を食べるときも。時たま注意が散漫になることがあって困った。
「こら蓮。しっかり食べなさい」
まるで小学生の様な叱られ方をされた。ぼーっと食べていたみたいだ。流石に誰かといるときには切り替えをしなきゃ。テーブルに置いてある唐揚げを丁寧に取り、ゆっくりと咀嚼した。
「そういえば蓮、そろそろ科目選択をする時期だろ? 二年から何を勉強するんだ?」
ああ、そろそろか。もう早いな。
「政治経済と生物を取ろうと思ってるんだ。国立の法学部を目指そうかなと」
ぼんやりと考えていること、僕だったらこう言うんだろうなと考えていることを口にした。
「そっか。公務員を目指すんだっけ」
「うん」
これでいいんだろうな。自分で喋りながら、全くワクワクしないことに気づいていた。現実を見たいい子ちゃんな回答だな。
「あのさ……」
一瞬口が滑った。
「うん?」
「いや。なんでもない」
美大も視野に入れようかと話そうとして、バカバカしくてやめた。
「はあ……」
親は怪訝そうな顔を見せた。僕はそそくさと食べ終わって、自分の部屋の中に入っていった。
改めて部屋を見ると、自分の絵が沢山飾られていた。これだけの量になったことについて感慨深いものがあった。現在取り掛かっている絵は今までで一番良いものになるという確信があった。
冬の寒さがだいぶ収まった。晴れた日が続き、時折暖かい日が来るようにもなった。そんな日だから授業を聞いていると、ウトウトした眠気に誘われるようになった。少しだけ春が近づいてる気配がした。
気分転換で校舎横の自販機でコーヒーを買っていると、トントンと肩を叩かれた。振り返ってみると、耳の頬に指が刺さった感触がした。
「蓮君、ひさしぶり」
そこには翼先輩が立っていた。しばらく見ない内に先輩は少しだけ大人っぽくなっていた。
「ご、ご無沙汰しています」
緊張して口が上手く回らなかった。
「ふふ。元気だった?」
朗らかな笑顔は変わらなかった。その顔を見てまた心臓が大きく鼓動した。僕の緊張に気づいたのか、先輩はニコニコからニヤニヤに変わってきた。
「そういえば受験はどうでした?」
先輩の視線から逃れるように、話題を変えた。
「あ、G大受かったよ」
あっさりと報告を受けた。いつものように落ち着いた話し方だった。
「え!! 本当ですか!?」
逆に僕のほうが興奮してしまった。浪人するのが当たり前とも言われているG大に、現役で受かるなんて。改めて先輩はすごいと思った。
「ここ最近ずっと絵ばっかり描いてたからクタクタよ」
そう言って肩を叩く動作をした。
「それじゃ、パーッと遊びに行きますか」
調子に乗ったことを僕が言うと、
「あ、いいね。春樹くんと三人で遊びに行こう!」
先輩は晴れ晴れとした表情で口にした。僕の心がピキッとひび割れた様な感覚を覚えた。そうだった。そうだったよね。
「はい。ぜひ行きましょう!」
いつものように心の動揺を隠して、いつものように丁寧な対応をした。
「ありがとう。あたし蓮君のそういうところ好きよ」
僕は先輩のそういうところが嫌いですよ。何も言い返すことができず、いつものように心の中でため息を付きながら、春樹をなんと言って誘おうか、またどこに行こうか頭の中で考えていた。なんか貧乏くじを引いた様な気分だった。
フロアは人々の話し声と肉を焼く音で賑わっていた。店員さんもオーダーの声が響き渡り、活気に満ちあふれていた。
僕たちの目の前には人数分の皿とソフトドリンクが並べられていた。僕は烏龍茶を手に取り、
「それじゃ、先輩の合格を祝しまして乾杯」
と、言った。
「「乾杯」」
と、翼先輩と春樹の声が続いた。グラスをぶつけ合った後、僕たちはそれぞれ肉をつついた。
「すごいですね、G大に受かるなんて」
春樹が祝いの言葉を口にした。
「たまたま運が良かっただけだよ」
先輩は手をひらひらさせながら言った。この人だと絶対そう言うだろうなと思った。
「いやあ、翼さんは有名な画家になりそうですね。今のうちに媚び売っとこうかな」
「じゃあ、あたしのモデルになる?」
「いやあ、それは恐れ多いですね」
あははと二人は楽しそうな声で笑った。いつもと同じように打ち解けた雰囲気になっていた。この前と同じように僕は貝のように黙り込んでいた。ただ肉を裏返して、パクパクと口に運んでいた。
「そのかわり秘密の部屋で先輩のモデルになりたいですね」
「なに言ってんのよ」
無心の気持ちを保つのには相変わらず苦労した。
「それじゃ、また」
「また今度」
そう言って僕と春樹は先輩とは逆方向にあるき出した。あたりはすっかり宵の世界になっており、半分の月が海をぽっかりと浮かんでいた。
「毎度悪いね。付き合わせて」
今日も来てくれた友人に一言礼を述べた。
「問題ないさ。どうせ暇だし」
嘘こけ。ひっきりなしに遊んでるくせに。そんなことを思ったが黙っていた。
「蓮。ところでさ」
「うん?」
「お前、翼先輩のこと好き?」
背筋がすうっと冷たくなった。春樹の目を見ないように自分の影を見ていた。こいつにだけは話したくないことを聞かれた。
「……。ああ。好きだよ」
同時にこいつにだけは隠していても仕方ないとういう気持ちがあった。誰かに口にすることでスッキリした気持ちに少しだけなれた。
「そっか」
それっきりこいつは何も言わなくなった。てっきり冷やかしとかが来ると思ったから、僕は拍子抜けした。春樹の方に顔を向けると、口を真一文字に結んでなにかを考えている様な表情をしていた。
「悪い。野暮用を思い出した。先に帰っててくれ」
彼は踵を返して元来た道を進んでった。はて。何かあったのだろうか。気になりはしたが人それぞれ事情はあるだろうから、僕も特に詮索はせず一人帰路につき始めた。
三月とはいえまだまだ夜の風は身体を冷えさせた。寒さをこらえるために手をポケットに突っ込んだ。そのときにふと違和感を覚えた。
「ケータイ忘れた……」
思わず独り言が漏らしてしまった。たぶんさっきの店に置いてったのだろう。後ろを振り返ると春樹の姿は見えなかった。仕方がないので僕も踵を返して焼肉屋の方に歩を進めた。
「いやあ、早く来てくれてよかったです」
店員さんはにこやかな顔をして、僕のケータイを手渡しした。
「ご迷惑おかけしました。どうもありがとうございます」
気まずい思いからさっさと外に出て、夜の空気を吸い込んだ。店の眼の前には砂浜が広がっていて、家族連れやカップルがぽつりぽつりと立っていた。羨ましいなという気持ちをぼんやりと持ちつつも、そこそこ遅い時間になってきたから足を急ごうとした。
と、思わず足を止めてしまった。海辺の一角に見知った二人の後ろ姿を見かけた。あの長髪は翼先輩? もう片方の人は春樹に似た体型をしていた。胸の奥に鈍痛が走った。あの二人はいつの間にかそんな仲になっていたんだろう。
月明かりに浮かぶ二人のシルエットは絵になっていた。いつかはこんなことになるだろう。そう自分に言い聞かせて、さっさとこの場を離れようとした。眺めていても心の傷が広がるだけで、良いことなんか何一つないのだから。
ふと、翼先輩らしき影が走り出した。相手方の方は微動だにせず、去っていく影を眺めていた。先輩は顔のあたりに手をのせていた。まるで涙を拭うように。
気がついたら僕は先輩の方に早歩きで向かっていた。そっとしたほうがいいのでは、声をかけられるほうが傷つくのではと思ったりもしたが、それでも僕は今この場で動かないと後悔するような気がした。
砂が靴の中に入る感触がした。ザクザクという鈍い感触があり、なかなか思うように前 に進めないもどかしさがあった。潮風が肌にまとわりつき、ベタついた感覚があった。先輩は少し外れた岩場に腰掛けた。僕は二十歩ぐらいのところまでに近づいた。十歩、五歩、四、三、二、一。
「こんなところで座っていると風邪を引きますよ」
ありふれたドラマみたいなことを口にして、もっと気の利いた言葉があるだろうにと思った。それでも当の本人はこんな展開を予想していなかったようで、びっくりした顔で振り返った。目の縁には濡れた痕があった。数回ほど目をパチパチとさせた後、
「ふふ。蓮君まるでヒーローみたいだね」
そんないいもんじゃないですよ。先輩の頼りになりたいと思うと同時に、先輩の気を惹きたいという下心がありますから。僕の心の中などを知ってか知らずか、
「春樹君に振られちゃった」
と、簡潔に結論を述べた。『やっぱり』と『何で?』が入り混じった感情が芽生えた。翼先輩は春樹への好意を隠してなかったけれど、春樹がこの人を振るとは全然思わなかった。あいつのタイプの人だと思ってたのに。
「先輩。知ってます? 世界の半分は男でできているんですよ」
また月並みの台詞が口に出て辟易していた。もう少しこの人にかけられる言葉があるだろうに。それでも先輩のツボに入ったようで、クスクスと笑っていた。
「蓮君。詩集とか貸そうか? もう少し気の利いた言い方を勉強したほうが良いと思うわよ」
翼先輩も同じことを思っていたようだ。夜でよかった。顔が赤くなるのが多分ばれないだろう。
「ここに春樹君を呼び出してね。こう言ったのよ。『あたし君のことが好きなんだ。あたしと付き合ってよ』」
「先輩もレトリックも何もないですね」
「直球が一番いいのよ」
冗談めかしていった後、愁いを帯びた息を吐いた。
「彼からの返事は至極単純。『ごめんなさい。先輩って俺のタイプじゃないんですよね』。以上」
そうなのか。どこか違和感を覚える話だった。
「正直賭けだったから残念だったな。あたしね、女を泣かすような男がタイプなのよ。自由気ままで、自己中で。そういう男って何だかんだ魅力的なのよね。まるで父さんみたいで」
初めて先輩の口から父親のことを聞けた。
「先輩のお父様って『岡野治之』さんですよね?」
「母さんから聞いたのね」
短くそれだけ言って、髪の毛をいじくり始めた。この話を深掘りするつもりはないようだ。
冷たい夜風が僕たちに吹いた。さらさらとした砂が軽く舞った。先輩はくしゅんと軽くくしゃみをした。見るとカーディガンだけを羽織っていて、夜の寒さには心もとなさそうだった。
反射的に僕は自分が来ているパーカーを先輩の肩にかけた。気持ち悪がられるのでは、距離感を間違えているのではと思ったが、身体が先に動いていた。
一瞬、先輩は驚いた顔をしたが、すぐにクシャッと破顔して、
「ありがとう」
と、短く言った。それ以降、先輩は何も言わず海を眺めていた。僕も特に話そうとせず、無言で波の音を聞いていた。今日の海は静かで小さくザザアという音が時折するぐらいだった。
三分経ったか、十分経ったか、ひょっとしたら一分も経っていないかもしれない。沈黙の時間に浸っている中、突然先輩が、
「ねえ。蓮君ってあたしのこと好きでしょ?」
口にした。ちらっと先輩の方を伺っても、特段表情を変えていなかった。今日はこういう話をすることが多いな。
「ええ。好きですよ」
嘘偽りない気持ちを短く言った。特に気負いもせず、緊張もせず、透明な心で口にできた。話したことについても、特に後悔の気持ちは湧き上がらなかった。
隣の女性は淡々とした表情をしており、何の感情も読み取れなかった。口を真一文字に結び、一言も発しなかった。僕も特に何かの答えを期待せず、先輩に合わせて口をつぐんでいた。
また幾ばくかの時間が過ぎた後、
「あたしもね。蓮君のこと好きになれればいいのにな、ってよく思うんだよね」
なんとなく想像していた返答が来た。思ったよりも穏やかに受け止められた。僕のことをそういう目で見ていないことは百も承知だった。
「ごめん」
先輩は短く言った。
「いいですよ。こんなに良くしてもらえるだけで、僕には充分過ぎるほど幸せな時間を過ごさせてもらえましたよ」
心からの言葉だった。どこか憑き物が落ちたような気がした。どこか自分の気持ちに整理がついた感覚がした。
そのとき、肩に何かが乗っかってくる感触がした。横を見ると先輩が自分の肩を僕にひっつけてきた。まるで猫が身体を寄せて温めて来るように。
先輩は顔を下にして、長い髪の毛で表情を隠していた。数秒だけ先輩に視線を渡した後、僕はただただ前を向いた。肩の震えから何かをこらえているような気配がした。
それから僕は飽きもせずに海を眺めていた。雲ひとつない月が輝く空。もう何度も何度も見てきた故郷のハズなのに、このときばかりは優しく包み込む様な景色に思えた。