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第三章

 以前、電車を使ったときに、駅の広告看板に有名な印象派の絵が大きく載っていた。見るとY浜の方で企画展をやると宣伝されていた。普段は中吊り広告とかは全く見ないが、こういう絵画関係のものはついつい目が言ってしまう。その日も開催期間中で予定が空いている日を確認し、すぐに手帳に目印を記入した。

 迎えた日曜の朝。外を見ると曇天となっていた。天気予報では雨が降らないとなっていたものの、なんとなく晴れない気分だった。街中を歩いていると、こんな時でも観光客が溢れていた。僕は人の流れに逆らって、駅に向かって歩いていた。

 K倉の駅は降りる人ばかりで、上り方面は空いていた。電車が来たら奥の方へ乗って、簡単に席に座ることが出来た。Y浜まで三十分ほど。それまでは時間が余るから図書館で借りた森見登美彦の小説を読んでいた。軽いタッチで書かれているため、肩肘はらずすいすい読めるから結構好きだ。


 最初の方は電車のゴトゴトとか乗客の話し声とかが一々気になっていたが、次第に何も感じなくなっていった。ただただ小説の描写を頭の中に浮かべているようになっていた。

『次はY浜ー。Y浜ー』

 いつの間にか目的の駅に近づいていたみたいだ。窓の外を見渡すと高いビル郡がそびえ立っていた。都会に来たという感覚を抱いた。

 ふと目の前に座っている女性に目を引かれた。脚にピッタリと密着したジーンズにブラウンのサマーセーターを着ていた。その人は文庫本を読んでいて、タイトルは『マラルメ詩集』と書かれていた。普段自分が手に取らないジャンルだけに興味を惹かれた。どんな人なのだろうとチラッと見てみたら、『あれ?』っと思った。

 僕は席を立って、大人っぽい雰囲気のある女性に声をかけた。

「どこか行かれるのですか?」

 翼先輩は予想もしない人物と目があって、驚いた顔をしていた。


 僕たちは美術館に向かって並んで歩いていた。後ろには『Y浜といえばコレ!』というビルがそびえ立っていた。こちらの街も僕の地元と同様に観光地であるため、周りは親子連れ・カップル・友人集団などで溢れて活気づいていた。

「まさか知り合いと目的地が同じだと思いもよらなかったわ」

「同感です。先輩もこの画家を観に行くんですね」

「まーね。ミーハー根性ね」

 そううそぶいていた。僕よりも遥かにこの画家の価値がわかると思うが。

「よく美術館に行かれるんですか?」

「ぼちぼちかなー。新しい展示が来ると観に行くし、たまにもう一回みたいなーと思うときもあるし」

 そして少し言いづらそうにして、

「多いときには毎週行ってるかな……」

 すごい。僕はそんな頻繁に行かないや。

「すごいですね。先輩の家、結構お金持ちですよね」

 画材とかも高価そうなものを使っているし、そこまで安くはない美術館に何度も行けるし。

「うん……。まあ……。世間から見ると恵まれてる方だと思うわよ……」

 歯切れが悪い言い方だった。あまり触れられたくない部分なんだろうな。

「そういえば先輩の好きな絵って何ですか?」

 話題を変えるためにとりあえず聞いてみた。

「好きな絵? そんなこと初めて聞かれたな」

 先輩は困ったように笑った。

「考え中。蓮君は?」

 問われてみてハタと気づいた。確かにそんなこと考えたこともなかった。結構難しいな、この質問。とはいえ、聞いた手前なにか答えなくては。

「ピカソの『ゲルニカ』ですかね」

「ゲルニカ? 意外ね」

 言った自分も『へえ』と思った。

「あんな壮大な絵をいつか描いてみたいなと思って」

 今の自分の実力には天と地ほどの差があるので、かなり山師みたいなことを言っているが。

「わかるわ。あたしもいつか見てみたいな」

 スペインの美術館に巨大な絵に引き込まれる自分を想像した。多分息をすることすら忘れるような気がする。そして一緒に見ている人と感想を言い合ったりして。その人の顔が翼先輩のように見えたので、慌てて想像を霧散させた。

「シンキングタイムは終了です。さて答えをどうぞ」

 先輩に話しかけて気を紛らわせさせた。

「うーん。そうね……。それじゃあ、ジャン=フランソワ・ミレーの『ダフニスとクロエ』かな」

 へえ。ミレーか。『晩鐘』や『落穂拾い』とかはよく聞くけれど、その絵は初めて聞いた名前だった。

「どんな絵何ですか?」

「小さい男の子と女の子が庭に座っていて、小鳥の面倒を見ている絵。二世紀から三世紀ごろにギリシャで書かれた小説から取られた絵よ」

 興味を持ったのでスマホで検索してみた。そしたら淡いグリーンがベースの、穏やかなタッチの絵が表示された。

「ひょっとしてこれですか?」

「そうそう。これ!」

 先輩はいつも激しい調子の絵を描くから、似たような絵が好きなのかと思ってた。

「なんか意外です」

「子どもの頃に美術館で見てね。それ以来妙に印象に残ってるのよ。これがっていう理由は言語化できないけれどね。ふふ。不思議なものね」

 好きな絵と描きたい絵は別なのかもしれない。自分と正反対だから惹かれるのかもしれない。

「さて。着いたわよ」

 眼の前にはクリーム色の細長い大きな建物がそびえ立っていた。著名な画家の展示会だけあって、多くの人々が入り口に吸い込まれていった。僕たちも流れに乗って、受付の方へと進んだ。僕たちは学生証を提示して、高校生チケット二枚を頼んだ。

「二四〇〇円になります」

 あ、これは何となく男が出したほうがいいんじゃないかそうに違いない、と反射的に思って三〇〇〇円を払おうとしたところ、先輩も同じ額を出そうとしていた。

「あ。ここは僕が出しますよ」

「いいわよ別に。あたしが出すわ」

「いや。僕おとこですし」

「そんなのいっぱしになってから言うセリフよ。それにあたしのほうが上級生だし」

「そんな。でも普段教えてもらっているのに申し訳ないですよ」

「意外と細かいわね。こういうときは乗っておきなさいよ」

 気づいたら受付の人がクスクスと笑っていた。列の方もそれなりに長くなっているのが見えた。

「……。それぞれ自分の分を払いましょうか……」

「……。そうね」

 そうしてお互い自分の分のチケット代を払い、展示室の方に進んだ。すでにもうたくさんの人たちが絵の前に集まっていた。僕たちは次第に口数が少なくなって、それぞれが絵の方を見入っていた。

 壁には画家の絵が沢山かかっていた。肖像画、日常画、風景画。特にこの画家で有名な睡蓮の絵は目を見張るものがあった。タッチ、構造、色彩とかで論じることが出来るのかもしれないが、それ以前にただただ綺麗だった。シンプルな美がそこにはあった。

「綺麗ね」

「そうですね」

 先輩もどうやら同じ気持ちのようだ。僕たちは数多く飾られている睡蓮の絵を一つずつゆっくりと時間をかけて見ていった。出口を出た頃には日頃の疲れが取れて、爽やかな気持ちになっていた。

「面白かったですね」

「そうね。いい休日になったわ」

 僕たちは人の流れに沿って歩いていった。ほとんどの来場者は次の展示室に入っていった。

「まだ続きがあるんですかね」

「ああ。これはコレクション展よ。さっきの企画展は他の美術館からも絵を取りよせているんだけど、こっちはこの美術館の絵だけを飾っているのよ」

 へえ。展覧会にも色々あるんだな。

「さっきのチケットで行けるから、こっちも見ていきましょ」

 先輩は奥に進んでいった。僕もついていった。こちらは様々な画家の絵を展示しているため、さっきの部屋よりもまた別の雰囲気があった。テーマはさっきの画家に影響を受けた人と書かれていた。

「色々な人がいるんですね」

 さっきの画家の同世代の人や前の世代の人、ヨーロッパ人や日本人と飾られていた。こちらに関しては企画展と比べてインパクトが少し落ちるように感じられた。先輩はじっくりと一枚ずつ見ていたが、僕は早めのペースで進んでいた。

 ふと、ひときわ異彩の放つ絵を見つけた。周りの絵は色の豊かさや、複雑な構造を描いていたが、その絵は見返り美人の立ち絵というシンプルな構図に、色もモノトーンという枯れた雰囲気が出ていた。

 作者を見ると『岡野治之』とか描かれていた。確か十年くらい前に癌で亡くなった画家で、週刊誌では確か『日本最後の巨匠』と評されていたっけ。意外と新しい人の絵が飾られていることに興味を覚え、気がついたらその絵だけはじっくりと見た。

 先輩も興味を持つかなと探してみたら、いつの間にか僕を通り過ぎていた。根拠はないけれど、先輩はこういう絵は好きだと思っていたので、興味を示さないことを意外だと思った。

 次以降の絵はやっぱり僕のほうが早く見終わったので、いつの間にか先輩をまた抜かしていた。


 外に出ると青空が広がっていた。先輩は大きく背伸びをして、緊張を解いた。

「あー。おもしろかった」

 僕も充実した時間を送れた気持ちになれた。絵は描くだけじゃなくて、観るのも大事なような気がした。時計を見るとちょうど昼過ぎを示していた。ちょうどお腹も空いてきたので、どこかに食べに行こうかと頭をめぐらしていると、

「蓮君。このあと時間ある?」

「えっと。はい。今日一日は暇ですが」

「よかった。じゃあちょっと付き合ってよ」

 なんだろう。とりあえず翼先輩からの誘いは二つ返事で受けた。


 ついていった街も多くの人で賑わい、中華風の音楽が流れていた。赤い壁に瓦屋根の建物が並び、普段以上に漢字の看板が溢れていた。

「あちっ!」

 口にした小籠包から肉汁が飛び出し、火傷するかのような感覚を抱いた。

「焦るからよ。あちっ!」

「食べながらしゃべるからですよ」

 僕たちはY浜にある中華街にやってきた。先輩が小籠包を食べたいと言うので、僕はお言葉に甘えてついていった。

「おいしいですね」

「ねっ。蓮君がいてくれてよかったわ。一人だと何となく行きづらいから」

 確かに僕もY浜の方に来ても、中華街には一人で行くことがなかった。久しぶりに来て興味を持って、町を眺めていた。

「いやあ、それにしても今日は楽しかったですよ」

「そう? それはよかったわね」

「ええ。特に『岡野治之』がよかったですね。特に期待していなかっただけ衝撃が大きかったと言うか」

 と、さっきまで楽しそうな先輩が急に表情を消し去った。

「へえ。そうなんだ。それはよかったわね。でも、」

 と一旦区切った後、

「あたしはあの人の絵好きじゃないな。単調な構図の絵に、単調な色合い、モチーフもありきたりって感じ。正直なんであんなのが日本の巨匠として扱われるのか理解に苦しむわ」

 辛辣な評価だった。美術館では興味がないように見えたが、実際のところ嫌いというのがどちらかといえば近い気持ちだったみたいだ。

「先輩がそこまで辛口になるの珍しいですね」

「あら。そうかしら?」

「ええ。少なくとも『岡野治之』より数万倍下手くそな僕の絵に関しては根気よく親切に接してくれましたし、一つでもいいところを探そうとしてくださったじゃないですか。なのにあの人の絵に関しては取り付く島もないというか」

 非難しているように聞こえるかもと思いつつも、ついつい口に出してしまった。先輩も考えこむような表情をして、「確かにあまり聞いていて気持ちの良い言い方ではなかったわね。ごめんんさい」

 と、謝罪して来た。

「あ……。いえ……。僕の方こそ申し訳ありません。人の好き嫌いなんて踏み込んじゃいけないことなのに」

「いいのよ。正直、『岡野治之』はあまり好きじゃないからね。ついつい色々言っちゃったわ」

 そう言って先輩はグラスの水をぐっと飲んだ。やっぱり嫌いなんだ。

「なんか気を重くさせて悪かったわね。お詫びに今日一日付き合ってあげるわ」

「え、いいですよ。今日は充分楽しめましたし。それに無理していただくのも悪いですし」

「いいのいいの。ここまで来たらとことん遊びたい気分だし」

「そうですか。そこまでおっしゃるなら」

 そう言って僕たちは小籠包の店を出ていった。


 その後、僕たちはY浜の観光地を歩き回った。赤い倉庫の街、馬車が昔よく通った道、港がくっきりと見える公園とかで遊んだ。今日一日でY浜の知識がかなり増えた感触を持った。

 一日中歩き回ったから、身体中クタクタになっていた。K倉に戻った頃には夕焼け空になっており、眠気が催されていた。駅で先輩と帰り道が分かれるので、

「なんかすみません。今日は付き合っていただいて。どうもありがとうございました」

 行きずりの遊びにしては、かなり長い時間を過ごすことになったな。

「こっちもどうもありがとう。まるでデートみたいで楽しかったわ」

「デ、デート!? そ、そんなんじゃないですよ」

 ただ二人で美術館行ったり、ご飯食べたりしただけじゃないですか。

「ふふ。君ってほんと面白いわ」

 いつものようなイタズラめいた笑顔を見せた。僕もつられて苦笑いを浮かべた。

「また遊びに行きましょ」

 僕もなんだかんだと同じ気持ちだったので、

「ええ。ぜひ」

 と返した。

「今度はあのかっこいい君の友だちも一緒にね!」

 それまで楽しかった気持ちが一気に霧散した。黒く鉛のようなもやもやが湧き上がってきた。僕は平静を装いつつ、

「あ、いいですね。今度は三人で遊びに行きましょう!」

 と言った。我ながら動揺をうまく隠せたと思う。

「ということで蓮君セッティングよろしくね。楽しみにしてるわ」

 じゃあ。そう言って先輩は自分の家へと去っていった。別れる間際まで僕は笑顔を貼り付けられていたと思う。

 先輩が見えなくなったところで、仮面を外すことが出来た。傍から見たらどんよりとしたオーラを漂わせているだろう。なんでアイツのことを気にするんだよ。

 観光帰りで和気あいあいの人々の列をかき分けて、僕は自宅の方へと進んでいった。もうそこには『岡野治之』を見た高揚感は残っていなかった。



 朝のテレビを見ると有名ミュージシャンの不倫報道がされていた。その人は結婚しているのにもかかわらず、五人もの人々と関係を持ったと報道された。

 繊細で優しいメロディーと詞で多くの人に好かれ、僕自身も何曲かオーディオプレイヤーに入れいていたから、軽くショックを受けた。母も意外に思っているようで、食器を洗いながら、

「あんな詞を書いてたのに、なんでこんなことしたのかしら」

 父も憤っており、味噌汁を口の中にかきこみながら、

「まったく」

 と短く口にした。ここ最近不倫のニュースが多く、殺伐とした世の中になってきたのかもと感じた。そろそろ時間になってきたので、白米を急いで食べて僕は学校へと向かっていった。


「ほんと、あれおかしいよな」

 昼休みのときに春樹に気づいたら強く主張していた。食堂ではスプーンと容器がカチカチと当たる音や、生徒たちの話し声、おばちゃんたちの大盛りの掛け声とかが響き渡っていた。僕はカレーを頬張りながら、なおも口にしていた。

「今日のミュージシャンもさ。散々歌詞で書いてたじゃん。『世界で君だけ』とか『命をかけて守るよ』とか『真っ直ぐな想いを』とかさ。何一つ守ってないじゃん。せめて言葉に対して責任を持てよ」

 僕の温度が上がるに連れて、春樹の温度は下がってきているようだった。最後の方にはいかにも聞いてますよという顔をして、右から左に受け流していた。

「ああ。はいはい。ほんとだよね。ひどいよね。ひどいひどい」

 答えも適当というトーンが混ざっていた。

「お前はそう思わないのか」

「興味ねえし。ミュージシャンが不倫しようがしまいが。曲が良ければそれで構わねえよ」

 クールだねえ。相変わらず。

「だいたいアーティストなんて遊んでなんぼだろ。遊んで刺激を受けて作っていくもんだろ。一種の職業病だと俺は思うがね」

 そういうもんかもしれないが。なんかモヤモヤしていると、

「そういう意味だと蓮の場合はアーティストの適正はなさそうだな」

 その時の僕はどういう顔をしていたのだろうか。一瞬の間のあとに春樹は『しまった』という表情をしていた。ぎこちない沈黙が流れてさてどうしようかと考えていたら、

「隣良いかしら?」

 涼やかな声が耳に響いた。隣を見ると翼先輩がトレーを持って立っていた。上にはラーメンが置かれており、湯気が黙々と立っていた。なんて言おうか迷っていると春樹が、

「全然いいですよ。どうぞどうぞ」

 いつもの上っ面ボイスで先輩を促していた。

「ありがとう」

 そういって先輩は春樹の横に座った。ずいぶん積極的ですね。春樹の方も綺麗な先輩が隣に来てルンルンと楽しそうな顔をしていた。さっきまでのブスッとした顔から一変しており、なんとも分かりやすい奴だった。

「いやあ。むさい男だけの食事でかったるかったっすけど、綺麗な先輩が来て一気に華やかになりましたよ」

 それには同意するけれど、よく歯の浮くような台詞をスラスラ言えるよね。

「こらこら。調子いいこと言わないの」

 と、口にしつつも、顔には僕には見せない種類の笑みがこぼれていた。出会ってから二回目なのに既に二人は仲の良さそうな雰囲気を醸し出していた。非常に面白くない気分を胸に押し込めつつ、昼食をかきこんでいた。

「そういえば蓮君さっき妙に熱弁していたけど、何の話してたの?」

 見てたんですかい。言うのに気が進まないで入ると、

「今日朝あったミュージシャンの不倫の話ですよ」

 春樹が答えた。

「アーティストは自分の書いた言葉に責任を持てよといってまして」

 人から聞かされるとむず痒いな。翼先輩も人格が破滅しているのも才能だとか言うんだろうな。

「あたしもそう思う」

 あれ?

「真の芸術家は自分の作品で多くの人を幸せにして、自分の生き方で身近の人を幸せにできる人だと思う。トレードオフになる能力かもしれないけれど、それでも周りの人と折り合いをつけて生活をしていくのも必要だと思うわ。でないとアーティストの周りの人があまりにも可哀想だと思わない? 絵のために犠牲にされたって。奥さんとかは構わないけれど、親を選べない子どもとかはどうするのよ」

 気づいたら僕も春樹も翼先輩のことをじっと見ていた。先輩は口調こそは淡々としていたが、どこかなにかを抑えている気配があった。それは前に中華街の時を彷彿とさせるものがあった。僕たちの視線に先輩も気づいたのか、

「とにかく。破滅的な天才なんてダサいのよ。ダサいダサい」

 無理矢理にまとめ始めた。春樹も、

「そうですよね。今の御時世、人格にも気を使わなくちゃですよね」

 と、先輩に意見をあわせ始めた。コイツ、さっきと言ってること違くね?

「だからね、蓮君」

 翼先輩は僕に目を向けて、

「女の子に縁がなくても、絵の良し・悪しとは全然関係ないからね!」

 そう言って僕に小さくガッツポーズをしてみせた。絵の才能を否定されなかったのはよかったが、なんか言外に男としての魅力ないと言われているようで、地味に傷ついた。

 ふと何気なく春樹の方に目を向けると、視線がぶつかった。すぐに向こうは目をそらした。気のせいかもしれないが、どこか羨ましそうな色を出していた。


 体育の授業中。僕と春樹はまったりゆっくりだらだらラリーを続けていた。軟式の緑色の球はゆるい放物線を描いて、背の高さほどのネットを超えていった。周りの生徒も弛緩しながらテニスラケットを振っていた。

「おーい。そろそろ試合始めるぞー」

 先生が号令を全体に向かって号令をかけた。そろそろ終わりにするか。最後に強い球でも打って、コイツに一泡吹かせるか。一球返してラケットを強く握っていたら、春樹は突然スマッシュを打ってきた。意表をつかれた僕は足が棒のようになって全く動けなかった。テニスボールはあざ笑うかのように僕の横をすり抜けていった。

「おい。きたねねぞ」

 自分の気持ちを棚に上げて、アイツのことを非難した。先方は口笛を吹くポーズをして、僕の声が聞こえないふりをしていた。

「お前ら、さっさと来いよ」

 一緒のグループのやつが僕と春樹に声をかけた。見れば他は切り上げて、一箇所に集まっていた。僕と春樹もみんなの方に急ぎ足で向かった。

「それじゃ、ダブルス始めますか。俺ら先にやるから、蓮と春樹は審判よろしく」

 簡単に言ってから、四人はさっさとコートに散ってった。僕らはスコアカードを持ったまま、人工芝生の上に座った。テニス部のやつが合図を出して、試合をスタートした。テニス部の彼はルールをしっかり把握していない僕たちのことを気づかって、つど大声で現在の点数を教えてくれた。僕たちは特に頭を使う必要もなく、機械的に点数をめくって行くだけでよかった。

 はじめは律儀に見ていたが、経験者がいるチームのワンサイドゲームになって退屈したものになってきた。春樹も同じ感想を持っているようで、あくびをこらえているような顔をしていた。眠気覚ましに話をしたいのか、

「少しは手加減をしろよな」

「だよなー」

 何回かはラリーを続けてはいるが、適当なところで臭いところをつくので、点数差は開くばかりだ。

「翼先輩とどこで知り合ったんだ?」

 唐突に聞いてきた。なんでもないようなトーンだが、前々から気になっていたのだろう。これ以上はぐらかすことでもないと言い聞かせ、

「あの人も美術部に入っているんだよ。最近、絵をよく教わってるんだ」

 と、なんでもないような声を意識しつつ正直に言った。

「そっか」

 ポツリと彼はこぼした。

「うまくなったか?」

「まあ。ぼちぼち。翼先輩が丁寧に教えてくれるからさ」

 本当にこんな僕によく根気よく付き合ってくれるよ。

「そっか。それは良かったな」

 また、半ば独り言のように漏らした後、

「翼先輩。あの人綺麗だよな。絵も上手いし」

 淡々と呟いた。そこにはいつものような軽薄な印象はなかった。絵の上手さとかを見ているとは思わなかったので、内心少し驚いていた。ふと翼先輩の約束を思い出して、思わず口にした。

「あのさ。今度翼先輩と三人で遊びに行かない?」

 春樹は僕の方に目を向け、どこか戸惑うような表情をした。


 小学生のときから人よりも絵をうまく描けていたと思う。美術の授業で提出した絵はよく学校の玄関に貼られていた。クラスメイトから褒められることも多かった。普段は特に目立たない生徒だったけれど、美術の授業ではちやほやされていた。今思うと子どもの頃は絵に関して天狗になってたと思う。

 中学校のある日、自由に絵を描く課題が出された。その時ちょっとした画家を気取ってた僕は、抽象的で尖った意味がわからない前衛的な絵を出した。そして僕はクラスメイトの連中、特に春樹に馬鹿に思いっきり馬鹿にされた。

『何だよ。この絵』

『何なのか全くわかんね』

『ホント、よくこんなのを平気で描けるな』

『プロってやつはどんな絵にも才能のかけらってのが見えるらしいじゃん』

『この絵にはかけらもねえな』

『蓮。お前才能まったくねえな』

 思えば難しい中学生の時期、僕と同じように彼らもどこか尖っていたのだろう。今ならそう思えるが、当時の彼らの言葉にズタズタにされた。思いっきり筆洗いを蹴っ飛ばし、イーゼルをそこら辺に投げ捨てた。

 なんとかそのときは周りの人が抑え込んでくれて、興奮を鎮めることが出来た。ただ、その後が大変だった。僕は全く筆を取ることができなくなった。絵を描こうとすると手が震えた。キャンバスにはいつまで立っても白地のままのことが多かった。完全に自信を喪失していた。

 そんな時期が一年ほど続いた。ある日なんの前触れもなく、なんとか描けるようにはなった。ぎこちないながらも絵の具を塗りたくるように出来るようにはなった。ただし、もう小学生の頃のようなのびのびとした絵は戻ってこなかった。どこか固く、どこかありきたりな絵ばかりを積み重ねていった。

 自分の絵に対しても自信が持てなくなった。どんなに上手くなってもどんなにテクニックを極めても、自分の絵を許すことができなくなった。

 今度三人で遊びに行くと決めたとき、そんなことをふと思い出した。



 多くの人が行き交う改札前にてそんなことを思っていた。時計は十五分前を挿しており、当然二人とも来てたはいなかった。

 近くのベンチに座って、文庫本を読んでいた。文章を眺めていたが、周りの雑音が気になって全く内容が頭の中にイメージ出来なかった。それでも時間つぶしにはなったのでとりあえずページをめくっていた。

 突然、本と僕の間に手のひらがにゅっと現れた。僕はびっくりして心臓が止まるような気持ちを味わった。見上げると翼先輩がニヤニヤしながら立っていた。

「君ってちゃんと早く来るんだね。感心感心」

「感心感心って。驚かさないでくださいよ。寿命が三秒縮まったじゃないですか」

「あはは。ごめんごめん」

 手をひらひらさせながら、ちっとも申し訳なさそうに口にされた。

 先輩は青いワンピースに白いカーディガンにポーチという、いつもと違って女の子っぽい服装をしていた。いつもと違ってふんわりとした香りが漂ってきた。ひと目でこの日を楽しみにしているんだろうなと思わされた。

 微かにどんよりした気持ちを抱いていると、

「春樹くんはまだ来てないの?」

 さっそくあいつのことを気にされていた。

「まだですね。彼はいつも時間ギリギリに来るので」

 早めに来て自分の時間を消費せず、かといって遅刻して自分の印象を下げることもしない。自分の利益の最適解を探しているような気がする。今日もいつものルーチンを守っているようだ。

「彼って絶対自分が損になるようなことはしようとしないんですよね」

 調子にのって先輩に対して軽口を叩いてると、

「そりゃそうだろ。利益の最大化を目指し、コストの最小化を心がけることが今の社会の基本だろ?」

 いつの間にか来ていた春樹にしっかりと聞かれていた。

「まあまあ。気にするなよ」

 こちらも特に謝ることもせずに切り返した。コイツは紺のテーラードスーツに、Tシャツ、チノパンをはいていた。街中の大学生がよくするような格好だが、憎たらしいことにコイツだと何倍も様になっていた。

「ちゃんと時間通りに来たからいいわよね」

「そうですよね。細かいことを言うなんで、こいつ小さいですよね」

 先輩は早くも春樹の側につき、二人は意気投合していた。それに比例して僕の気分も下降していった。あーあ。来るんじゃなかったな。

 そんな僕の内心など知らず、二人はちゃっちゃかと歩き出した。

「ほら。蓮君いくよ」

「早くしねえと置いてくぞ」

 いくらなんでも一人だけ取り残されるのは寂しいものがあるので、駆け足気味で二人を追いかけた。何となく今日は長い一日になるような気がした。


 正直遊びに行くと言っても、どこで何をすればいいか皆目見当がつかなかった。いわんや女性の先輩と遊びにいくなんて考えたこともなかった。僕は無い知恵をしぼって、予定を考えた。

 で、迎えたメインイベントでは、

「っ」

 先輩は食いいるように目の前の映像を眺めていた。高校生の遊びといえばカラオケと映画しか思い浮かばなかった。僕はカラオケが好きではなく、ましてや先輩での前なんて恥ずかしくて歌える気がしなかった。消去法で映画を選んだ。

 映画は映画で何を選べばいいか迷ったが、先輩は何を選んでも楽しんでくれるようなタイプに見えたし、春樹は観たい映画をポロッと漏らしていたので、それを選ばせてもらった。

「うわ!」

 予想通り先輩には食いついてもらえた。人を食う化物に身体を乗っ取られる人の話だが、話の展開や衝撃的な映像に興味を惹きつけられているようだ。

 春樹の方に目を向けると、

「……。へえ」

 真剣に映画を見ていた。前に漫画で読んだことあるといってたから、実は好きな作品なのだろう。あいつの好みからも遠く外れていない気がする。

 とりあえず、今日のノルマの第一段階はクリアした気になっていた。とはいえ、このあとはどうしようか。映画には全く集中できず、胃をきりきりさせていた。


 映画が終わったら近くのファミレスに入った。ちょうど昼頃になっていたので、それぞれが昼食を頼んだ。翼先輩がペペロンチーノ、春樹がマルゲリータ、僕がイタリア風ドリアと。

 二人は席に座ってすぐに、映画の感想を語り合っていた。

「いやあ、最近の映画はリアルだよね!」

「そうですね。特に最初の人を食うシーンは本物かと思いましたよ」

「話もちゃんと原作に忠実だったよね」

「ええ。丁寧になぞってましたよね」

「いやあ。お母さんの話よかったよ」

「俺この映画よかったっすよ」

 翼先輩も原作読んでいたのか。ちょっと意外だった。本当に満喫したらしくポンポンと感想が出ていた。僕の入る隙がまったくなかった。どこか居心地が悪い感覚を抱いていた。

「春樹くんは他にどんな映画を観るの?」

 翼先輩は積極的に春樹とコミュニケーションを取っていた。いつもより頬を薄く上気させて、いつもより楽しそうだった。そのことがまた僕の気を重くさせた。

「ミッション・インポッシブルとかスパイダー・マンとか。後はハングオーバーとかですかね。スカッとする映画が好きなんですよ」

 めんどくさいゴタゴタは日常生活に腐るほど溢れている。だったらフィクションぐらいは爽快な物を観たいって前に言ってたっけ。確かにそんなタイトルだ。

「あたしはね。カサブランカとか。レオンとか」

 僕でも聞いたことのある渋めのタイトルを並べていた。先輩らしいラインナップだなと思っていると、

「あとワンピースとか」

 一気にポピュラーなタイトルが出てきた。

「あたしもスカッとしたいものを観たいときがあってね」

 なるほど。カバー領域が広いなと思っていると、

「蓮君は? どんな映画が好き?」

「えっ!? ぼ、ぼくは」

 自分に話が振られるとは全く予想していなかったから、ドギマギしてしまった。とにかく何か言おうとして、

「ドラえもんですかね」

「へ?」

「ふーん」

 双方の目が僕に突き刺さったような気がした。すぐにもうちょっと格好ついたこと思いつかなかったのかと内心後悔したが、もう後戻りは出来なかった。

「特に『のび太の結婚前夜』が好きなんですよ」

 姪っ子とこの前観たから続けて口にした。

「結婚式ってこんな感じなんだろうなとか。親が子を持つってこんな感覚なんだろうなと、色んなことがわかるんですが。特に映画の中でののび太について評された台詞が好きなんですよ」

 もう勢いで話しているような感覚を覚えた。

「しずかちゃんがのび太を選んだのは正解だ。彼は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ人間だって。僕もそんな人間になれればなって」

 頭に浮かんだ言葉を全部出して一息つくと、二人のキョトンとした顔が目に入った。顔がかあーっと赤くなった感覚がした。自分の好きなことをダイレクトに話し過ぎた。案の定、春樹は温かい目をしつつ、

「うん。まあ。ドラえもん面白いよな」

 と、言いつつも、口元はニヤリと笑っていた。翼先輩の方を見ると、

「あたしもドラえもんよく観たなあ」

 と、遠い目をしつつ言った。先輩はどこか言葉を探している雰囲気を醸し出していた。自己嫌悪に陥っていると翼先輩が、

「なんか。その感覚いいよね」

 ポツリと言った。えっと思って先輩の方を見ると何やらニコニコ笑っていた。その真意を僕を量りかねていた。

「蓮君はどちらかというと絵が好きなんだよね?」

 急に話題が変わって僕はドギマギした。

「ええ。まあ」

 翼先輩以外とは絵についてはあまり話さないようにしているから、落ち着かない気持ちになった。

「この前、Y浜の美術館に行ったんだけど、そこでバッタリ蓮君と会って。そのままデートしちゃった」

「へえ、そうなんですか」

 春樹は微妙な表情でこっちを見た。僕も渋い気持ちで烏龍茶を飲んでいた。特にコイツとは絵の話をしたくないから、ついつい顔に出してしまった。

「春樹君は好きな絵とかある?」

 先輩は知ってか知らずか春樹に聞いていた。この人のことだから何か勘付いているかもしれないが。というか春樹にこんなこと聞いて答えが返ってくるのか?

 コイツは少しの間だけ逡巡した後、

「たしかロシアの方の絵だった思うんですけれど、『忘れえぬ女』というのが印象に残ってますね」

 ……。なにそれ? そんな絵があるの? 「イワン・クラムスコイ。帝政ロシアの画家ね。渋いところをつくわね」

 先輩はどうやら知っているみたいだ。僕は気になって検索をかけてみた。画面にはかすんだ背景に、愁いに満ちた瞳をした女の人が描かれていた。今まで色んな女の人が描かれた絵を見たが、この女性の美しさはどこか一線を画していた。

「なんか友人に連れられて美術館に行ったことがあって。そのときに見かけたんですよ。絵のことは全然わかんないっすけど、妙にこの絵に惹かれて」

 髪の毛をグシグシといじくりつつ言葉を探しながら話していた。本当になんて話せば良いのか、わかりかねているようだった。

「ふふ。絵は予備知識を持って見るのもいいけれど、まっさらな気持ちで見るのも楽しいものよ。あたしは先入観が入りすぎちゃってるから春樹君が羨ましいわ」

 そしてにっこりと笑った。いつも美術室で見せてくれる温かみあふれる笑顔だ。

「この女の人に惹きつけられるのもわかる気がするわ。この人はレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』をモチーフにしたという説もあるの。ロシアの方々はこの絵に見果てぬの女性を見てるのかもしれないわね」

 優しげにまた微笑んだ。その目はどこか『忘れえぬ女』の目と同じ光が出ていた。

「なるほど。俺もついつい見とれてしまうわけですね。あーあ。いつか永遠の女性を見つけたいなあ」

 おちゃらけた口調で言い、ちらっと翼先輩を見つめた。その目はいつになく寂しさと真剣さがにじみ出ていた。まるでやっと見果てぬ女性と出会えたような顔をしていた。



 結局、僕はどこか疎外感を味わいつつ、二人が仲良さそうにいる近くでポツンとしていた。

 ファミレスで食事して終わりだと思ったが、二人は興が乗ったのか、今度はカラオケに行こうと言い出した。

 これで解放されると思っていただけに、正直げんなりした。好きではないカラオケだったが、今日の言い出しっぺのために渋々とついていった。

 二人はカラオケでもノリノリで歌っていた。最新の曲やオーソドックスな曲をガンガンと入れて、のびのびと歌っていた。時折デュエットをして、息もピッタリとあっていた。僕も渋々何かを歌えということで中島みゆきを歌ったら、微妙な空気が流れた。ここでも息が詰まるような時間を過ごしていた。



 家に帰ったらベッドの上にバタンキューとなった。酸欠状態だった空間から戻ってきて、やっと空気を吸えるような気分を味わった。自分の時間を取り戻すために、美術書を適当に手にとってパラパラとめくっていた。色鮮やかな絵や不思議な構図の絵を眺めていると、自然と落ち着いてきた。

 先輩はどこか人とは違う、達観したところがあると思っていた。絵に夢中で今どきの高校生みたいに恋愛とかには興味がないと思っていた。それは僕の勘違いだった。

 先輩だってワンピース読むし、JPOP歌うし、かっこいい男に目がなかった。あの人だって人間なのだから、普通の女の子みたいな気持ちを持って何ら不思議がないはずだ。ただただ僕が勝手に神格化させていただけだ。頭ではそう理解出来るが、気持ちの上では全く追いつかなかった。

 疲れているからか、いつもよりも思考が斑になっていくのが、早いような気がした。あー、自分はこれから眠りに落ちていくんだ。そう思いながら、気が遠くなっていった。



 先輩は僕の手を引っ張って、前へ前へと歩いていった。意外と先輩の手はひんやりとしていた。

「蓮。行こうよ」

 軽く上気した顔で、陽だまりなような笑顔を僕に向けていた。周りを見渡すとそこは美術館だった。廊下にはゴッホの『ひまわり』にダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、ムンクの『叫び』、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』などの名画が所狭しと並べられていた。

 いつもだったら目覚めて初めて夢だと気づくが、このときは夢の中で夢だと気づいた。こんなにも沢山の名画が一箇所に集まる訳がない。それに先輩がこんなに僕に親しく接するわけがなかった。

 それでも僕は目覚めようともせず、ただただたこの空間に浸っていた。夢とはいえ、先輩が僕だけを見ていることが、とても嬉しかった。先輩を独り占めにできるのがとても嬉しかった。夢でも覚めないでほしいと思った。

「ほら。早く早く」

 前に前にと進んでいった。廊下の前方は霞がかっていて、どこまでも続くように見えた。横には次々と絵が過ぎていった。途中で止まってみたかったけど、先輩は目もくれず真っ直ぐに歩き続けた。まるで何か一つの目的があるように。

「どこまで行くんですか」

「進めばわかるよ」

 自信満々な答えが返ってきた。僕はひたすら先輩の背中に目をやってついていった。次第に晴れてきて、奥にあるものの輪郭が見えてきた。どうやら黒っぽい大きな絵が飾られているみたいだ。

 近づいていくにつれて絵の内容もクリアになってきた。歪んだような白い絵が黒い背景に描かれていた。白いものは人の姿や牛の姿みたいだ。それらは苦痛に満ち溢れているように見えた。

 と、先輩はその絵の前で止まった。僕も改めてじっくりと見ることができた。間違いない。パブロ・ピカソの『ゲルニカ』が飾られていた。

 夢なのに限りなくリアルに見えた。手を伸ばせば触れられるような気がした。いつか僕が見たいと思っていた絵が目の前に迫っていた。僕は息を呑んで憧れの絵を見つめていた。

「いつか僕もこんな絵を描けるかな」

 ついぼそっと口にした。自分の中の世界でも弱気になっている僕に思わず苦笑していると、

「描けるよ。蓮なら絶対描けるよ」

 強く僕の手を握りしめ、息がかかりそうな程顔を近づけ、翼先輩は力強く口にした。自分の願望が先輩にこんなことを言わせているんだろうなと自覚したが、それでも先輩の言葉は身体中に染み渡った。

「できますかね」

「できるよ。あたしが認めた人なんだよ。胸を張って」

 不思議だ。この人に言われると自分が何でも出来るような気がしてくる。

「ちゃんと絵を描き続けてね。約束よ」

 僕の目をまっすぐに見て口にした。

「ええ。約束します」

 先輩にそんなことを言われたら、断れるはずがなかった。そうして僕に向かってニッと笑った。


 周りを見渡すと学校のカバン、自分の描いた下手な絵と壁にかけたしわだらけの制服が見えた。カーテンからは朝日がこぼれていて、窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえた。

 夢の内容はあっという間に忘れてしまった。ただ、先輩と現実ではありえない距離感で接していた感覚だけ記憶していた。胸の穴がぽっかり空いたようで、僕は頬を涙で濡らしていた。

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