第二章
それから僕と先輩は時々美術室で会うようになった。先輩も僕と同じように、絵をゆっくり描ける場所として気に入っているようだった。ここ何日かぼんやりと海辺の風景を写していた。時折、翼先輩は僕に絵の指導をしてくれた。その度に自分の力量の無さを思い知り、その度に新たな方法があることを知った。
「なんで翼先輩はそんなに色んなことをご存知なんですか?」
ふと口にした。どこか愚問めいてた気もするが、豊富な知識や惹きつける絵に少しでも近づきたい気持ちがあった。先輩は小首をかしげて、
「うーん」
と、唸ったあと、
「一番大きいのは美術予備校に行ってるからかな」
「美術予備校、ですか?」
「そう。聞いたことはある?」
首を横に振った。
「簡単に言えば美大版の予備校ね。普通の予備校みたいに、美大に合格するための勉強をするのよ」
知らなかった。そんなところがあったんだ。
「試験対策とかもちろんあるけれど、それ以上にデッサンとか絵の具の使い方とか、絵の歴史とか。たくさんのことを教えてくれるからかな」
そんなところがあるのか。ん? てことは、
「先輩は美大志望なんですか?」
「うん。まあね」
ストンと腑に落ちた。あんな絵をかける人が美大を目指さない訳がないと思った。
「先輩だったら絶対合格できますよ」
若干大げさめいたことを言ったが、
「そう? ありがとう」
大人のように僕への礼を口にした。それにしても、美術予備校については聞いているだけで興味を惹かれた。ずっと絵に触れられるなんて、どんなに素晴らしいのだろう。とはいえ、
「ちなみに……。美術予備校って結構お金かかりますよね?」
「ああ。まあ。うん」
先輩はオレンジが混ざった水平線のはるか彼方に目をやった。遠い目ってこういうことを言うんだろうな。
「あ、あと。小学生の頃から続けているから色々知っているっていうのもあるかな」
フォローするように半分慌てて話を元にもどした。ただ、僕も小学校から描いているんだけれど、この差は何なんだろうか。内心しょんぼりしていると、
「あとは」
一瞬恥ずかしそうに笑ったあと、
「絵が好きだからかな」
『絵が好きだから』か。
「自分がそれまで思いつかなかったような表現を自分が現れたとき、自分の技術が上がっていると感じたとき、そして自分の絵に惹かれたとき。多分あたしはそんな自分の絵をみたいんだと思う。あたしがあたしの絵の一番のファンだからかな」
先輩の瞳には曇りがまったくなかった。僕は直視するのが辛くなって、わずかに顔をそむけた。
「蓮君も絵のこと好きでしょ?」
氷水をぶっかけられた気がした。
「僕は……」
『好き』なのだろうか? そう答えようとしても、なぜか言葉が出なかった。好きな気持ちを思い出そうとしても、出てくるのは自分の絵の下手なこと、描いていて辛いこと、永遠にこのままではないかという焦燥感を覚えることだった。
『ホント、よくこんなのを平気で描けるな』
胃液が逆流してくる感覚を覚えた。冷や汗が流れているような心地も覚えた。僕は絵のことが……。
「そんなことより、蓮君が描いた絵はどうなったかな?」
教室の隅に歩いていき僕の絵を取り出した。キャンバスはすっかり乾いていた。全体的にありきたりなテーマなのは変わらないが、翼先輩が指導してくれたおかげで今までで一番マシな形になっていた。
「なんだか感慨深いですね」
どんな絵でも一旦完成すると肩の荷が降りた気になる。そして下手くそは下手くそなりによく頑張ったと内心褒めていた。
「この絵はどうするの?」
突然、僕に対して尋ねた。どうする? 真意を図りかねていたが、
「えっと。自分の部屋に置いておくかと」
真っ先に頭に浮かんだ言葉をひとまず答えると、
「あたしがもらっていい?」
思いがけない言葉が先輩から飛んできた。
「えっ。どうされるんですか?」
「部屋に飾ろうと思って」
ぽーっと血が温かくなってきた。恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちを同時に受け取ったような気がした。
「そんな。こんな絵なんて先輩の部屋をみすぼらしくするだけですよ」
つい口に出すと先輩は眉をひそめて、
「そんなこと言わないの」
僕を軽くたしなめた。
「蓮君がんばってたし。あたしはいいと思うよ」
今度は耳まで赤くなっているような気がした。
「それじゃ……。どうぞ……」
「うん。ありがとう」
もし天使をこの世で見ることが出来るのなら、こんな風に笑うんだろうなと思わせる、そんな表情だった。この展開を元から想定していたのか、大きめなキャリングケースの中へ大事に僕の絵をしまった。
「さてと。絵ももらったことだし。帰りますか」
外に目をやると夕闇色に染まった海が広がっていた。玄関にはパラパラと帰宅する生徒たちが通っていた。
「はい。今日もありがとうございました」
そうして片付けをしようと筆を手にとったら、
「あ、蓮君。このあと暇?」
「え?」
ちょうどスピーカーから下校の音楽が流れ始めた。
自宅とは逆方向に先輩と一緒に歩き出した。もうだいぶ薄暗くなっており、夜空には一番星が輝き始めていた。先輩は意外と歩くのが早いので、追いつくのが大変だった。
「どこまで行くんですか?」
「すぐそこー」
それだけ言ってあとはノーヒントだった。ちょうど今日の海は珍しく青白く光っていた。海にいる夜光虫というのが発するらしく、このあたりではたまに見る光景だ。結構幻想的な光景なので、多くの人が写真を撮っていた。
翼先輩は足を止めて青白く光る海を眺めた。
「何度見ても不思議な光景ね」
「そうですね」
そうして先生はカバンからデジカメを取り出して、夜の風景を撮り出した。ニコンの小型カメラでそれなりに値が張りそうなデザインをしていた。
「資料集めですか?」
「そんな感じね」
そしておもむろに僕にカメラを向けた。慌ててなにかポーズを取ろうとして手を上げかけたら、フラッシュが焚かれた。
「あはは。おかしい」
いたずらっぽくクスクスと笑っていた。
「からかわないでくださいよ」
「ごめんごめん。じゃあ、行こうか」
また歩き出した。ここが目的地じゃなかったんだ。観光客を背にして目指したのは、高校近くのコンビニだった。
「ここ? ですか?」
「そうそう」
二人して中に入ると、僕たちの高校の生徒たちで賑わっていた。みんな雑誌を立ち読みしてたり、お菓子を選んでいたりしていた。
翼先輩は冷凍ケースの前にたった。かごの中にはシャーベットにモナカに、チョコバーとたくさんの種類が並べられていた。そういえば最近アイス食べてないな。
「蓮君なにが好き?」
特に考えたことがなかったから、すぐには言葉に出せなかった。数秒思い巡らせ、
「ピノですかね? よく母が買ってきてくれたので」
あの小さなチョコアイスクリームを、夕食のデザートとしてみんなで突っついた記憶がある。
「ふーん」
そう言ってピノを手にとって先輩はレジに進んだ。そして会計を済ませたらすぐにコンビニを出ていった。結局これだけが用事だったのかな。追いかけて外に出てみると、まるで待ち構えるかのように立っていた。先方はピノを片手で僕に差し出して、
「はい。お礼」
と、一言添えた。
「お礼……ですか?」
「そっ。絵をくれたでしょ」
先輩の意図がようやく分かり、
「そ、そんな。わ、わるいですよ」
必死に差し返そうとするも、
「いいものにはちゃんとお礼をしなきゃ」
「いえ。あんな絵ぜんぜんいいものじゃないですよ」
「またすぐそう言う。あたしがいいと思ったのよ。勝手に値切らないで」
「で、でも。これは翼先輩が教えての出来ですし……」
『はー』っとはっきり聞こえるほど大きな溜息をつかいて、先輩は面倒くさそうに、
「じゃあ、これ授業料ね」
そう言いながら箱を開けて、ピノを一口だけ頬張った。残ったピノを僕の手に押し付けた。
「残りが君の報酬。OK?」
有無を言わさぬ口調で話した。僕は反射的にコクコクとうなずいた。先輩はやっと頬を緩めて、
「じゃあ、食べなよ」
言われるがままに僕もチョコアイスを一つ口にした。久しぶりに感じる甘さが口に広がった。改めて食べると結構おいしいな。
「それが君の初めての報酬だね」
初めての報酬。その響きに背筋がしびれた。今まで無価値だと思っていた自分の絵に価値を抱いてくれた人が現れて、嬉しい気持ちを抱いた。それまで雲の上のように遠いと思っていた画家というイメージが、現金にも少しだけだが具体的な輪郭を帯びたような気がした。
「あら? いい時間になっちゃったわ」
時計を見てみると母さんが文句を言いそうな時刻を指していた。
「あたし、そろそろ帰らなきゃ。またね」
後ろ手で振って道を歩いていった。元気な人だな。遠ざかっていく姿を見送りながら、そう思った。月が太陽の光を受けてきらめくように、あの人の陽気さに触れていると、僕自身も温度が高くなっている感覚を抱いた。
先輩と別れた後、僕は一人家路についた。夜の道を満月が照らしていた。いつもと違うほんわかした気持ちと、いつもと違う甘い後味が残っていた。
「ただいまー」
家の中に入ると賑やかな声が聞こえてきた。玄関には普段より多い靴が置かれていた。そういえば今日は……。
「あ、れんちゃん。おかえりー」
黒いワンピースで着飾った姪が突進してきた。姪っ子を受け止めた反動でよろけながら、今日は兄さん家族が帰省してくる日だと思いだした。
「真央ちゃん久しぶりー」
頭をぽんぽんと叩くとキャッキャッと笑った。
「いくつになったの?」
「よんさーい」
元気な高い声で答えた。前にあったときよりも背が伸びている印象を覚えた。子どもの成長は早いなと思っていると、母さんがやってきて、
「蓮おかえり。ご飯準備しているから早く来なさい」
と、急かした。真央ちゃんと一緒に慌ててリビングに入ると父さん・兄さん・義姉さんが談笑していた。二人が僕に挨拶してきたので、僕も簡単に挨拶をした。
テーブルにはすき焼きが用意されていて、真央ちゃんは『にーくーにーくー』と調子はずれに歌っていた。全員揃ったところで、ご飯を始めた。
大人たちはアルコールが入ったのか大騒ぎしだした。特に義姉さんは誰よりも酒をがつがつ飲んで、
「れんちゃ~ん。まおちゅあんのメンドウみといてねー」
若干……というかかなり呂律の回っていない声で娘の相手を僕にぶん投げ、本人はヒートアップしていた。娘はそんな母親を冷たい目で見ていた。真央ちゃんは、
「つまんなーい」
といってふてくされ始めた。なだめるために気を紛らわさせるために、僕は昔買ってもらったアニメDVDを棚から取り出した。
「どれがいい?」
女の子の趣味に合うかどうかは自信がなかったけれど、ダメ元でとりあえず見せてみた。そしたら、
「あ、ドラえもんだ!」
一枚のDVDに興味を示してくれた。
「じゃあ、一緒に観ようか」
そう言って、DVDプレーヤーに投入した。姪っ子ちゃんはお行儀よくソファーに座って待っていた。
CMが流れ、冒頭の話が展開し、
「ドラえもんのこえへん」
真央ちゃんは率直な感想を示した。僕たちが観ている『のび太の結婚前夜』は声優が変わる前の作品だから、この子にとってなじみがないから仕方ないだろう。途中まで観ていた僕ですら違和感を覚えるのだから。
幼稚園のなんかのイベントで先生が見せてくれたのが初めてだった気がする。その後、何度もTSUTAYAで借りるもんだから、両親が買ってくれた記憶がある。
最近の子どもは順応が早いようで、すぐに声になれたのかアハハと笑いながらドラえもんに夢中になれた。僕も久しぶりだから興味深く観ていた。そもそも話の筋がのび太が自分の結婚式当日ではなく、自分の結婚式の前日の様子を観に行くというのが不思議な感じがした。
話がトントンと進んでいき、いよいよ僕が好きなシーンが来た。静香ちゃんのお父さんがのび太君について評する場面で、いつの間にか言葉を空で覚えていた。
『人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人間』
のび太君が静香ちゃんと結婚できてなのは、これが理由な気がする。真央ちゃんも同じことを思ったのか、
「こののび太だけはかっこいいねー」
「そうだね」
自分もいつか誰かと結婚したら、彼みたいな人間になりたいと思った。ふと、その時の花嫁はどんな人なのか想像してみた。黒い髪が白いウェディングドレスに映え、勝ち気な瞳は少しだけ温和になり、人を惹き付ける笑顔はいつもと変わらなかった。頭に思い浮かんだ人のイメージが具体的になりすぎてきたので振り払おうとすると、
「れんちゃん。けっこんしたいひといる?」
姪っ子から直球に聞かれた。
「い、いない、よ」
なんでもないよう声色に細心の注意を払うも、
「あはは。かおあかーい」
あっさりとからかわれてしまった。どうやらポーカーフェイスは僕には無理なようだ。
「義母さん。もうお腹いっぱい」
「ちょっと環ちゃん。しっかりしなさいよ」
真央ママはすやすやとグッスリ眠っていた。いつもあの人は酒を飲んでは潰れるが、今日も同様のようだ。
「まったく。困った子ね」
母さんは呆れたように微笑みながら義姉さんのコップにミネラルウォーターを注いだ。真央ママはすぐに手に取り、美味しそうに口の中に入れた。
「蓮。ちょっと水をこの子の部屋に持ってってくれる?」
「はーい」
冷蔵庫にあるミネラルウォーターを取り出して、水差しにとくとくと注いだ。お盆に水差しとグラスを置いて、兄さん・義姉さん夫婦の寝室に運んでいった。酔っぱらいには水を飲ますに限ると母さんが良く言っていた。おかげで僕ももう習慣になっていた。
戻りがけに千鳥足になっている義姉さんとすれ違った。水を運んでいた僕に気づいていたのか、
「ありがとぅおー。レンきゅうん、いいお婿さんにさるゆぉー」
と言い、自分の寝室に潜り込んでいった。義姉さんがいなくなったことで、我が家は急に静かになった。こうして今日一日が終わったことを僕は実感した。
美術室は僕の最も落ち着く教室だ。絵の具の匂いが満ち足りていて、そこら中にガーゼルが置いてあった。石膏はちゃんと埃が払われ、壁には翼先輩の絵が立てかけてあった。
そんな教室でちょっとしたざわめきが広がっていた。僕たちは半円状に広がって座っていて、中央には彫りの深いきれいな女の人が佇んでいた。ピタッと身体に密着したトップスにデニムのショートパンツという身体のラインがわかりやすい服を着ていた。何人かの男子は堂々とじっくり見ていた。
「はーい注目」
白衣を着た美術教師がパンパンと手を叩いた。髪に白髪が混じってきて、微妙にボタンがほつれている、いかにもなタイプの先生だった。そして美術部の顧問でもある。初めてあったときは、
『へえ。美術部に新入部員が来たんだ』
『うちって活動らしい活動って、してないんだよね』
『とりあえず適当にやっててよ。欲しい画材あれば遠慮なく言ってね。予算だけは無理やり確保してるから☆』
見た目とは裏腹にかなり雑な説明をしていた。この部は外れではないかと戸惑ったのも、今ではいい思い出だ。
先生は生徒たちが教壇の方を向いているのを確認すると、
「今日はデッサンの授業のためにモデルさんが来てくれました」
と女の人を紹介した。モデルさんも先生の声に合わせてこくりと挨拶をした。
「エリザベートです。みなさんよろしくお願いします」
どこか無機質な声色と、異国情緒あふれる名前で幻想的な感じがした。教室はパチパチと拍手の音が響いた。
「どこの出身ですかー?」
お調子者系男子がさっそくちゃちゃを入れた。
「東京の築地出身です」
あれっ? という感覚がクラス中に流れ始めた。先生がフォローを入れるように、
「あ、この人の本名は高橋さんね。先生の昔の教え子なんだー」
一気に普通っぽく見えて、美術モデルという感覚はなくなってきた。先生はゴホンと軽く咳払いをした後、
「はーい。それじゃ、四十分のうちに描けるだけ描いてねー。デッサンは見ることが大事だから、しっかりエリチのことを見てねー」
それまで騒がしかった美術室は一斉に沈黙が広がった。ただ白いキャンバスに鉛筆の走る音だけが響き渡った。
モデルさんの方を見るとピクリとも動いていなかった。息していなんじゃないかと思うくらいで、まるで人形のようだった。もうこの人は築地の高橋さんからエリサベートに変身していた。
僕も課題に取り組み始めた。モデルさんをじっくり観察した。肩幅・顔の大きさ・足の太さ・身長・鼻の彫り深さ・まつげの長さを自分の目に焼き付けた。鉛筆を目の前に持ちながら、遠近感も図った。
『いい? デッサンはうまい絵を描くよりもじっくり観察すること』
先生と同じことを翼先輩から教わったことを思い出した。見たものを自分の中で理解し、画面上に表現することだと。そしてそれが画家としての表現の基礎の一つだと。ひょっしたら面白くないかもしれないけれど、しっかりやればかなり技術が伸びたらやったほうがいいことだと。
ある程度の形を頭に入れて構造を確立させてから素描に移った。四十五分という短い時間で終わってしまうから、普段の自分よりもすばやく描くことを意識した。まず輪郭をあら目に写し、モデルさんのプロポーションのいいスタイルを画面に映せるように、身体の比率を正確に画面に表せるように注意を払った。
『意外とあたしたちは見ているようで見ていないのよ。デッサンをするとそのことがわかるわ』
数秒描いたら数秒観る、数秒描いたら数秒観る。観察しながらキャンバスにエリザベートを再構築していった。服の皺、丁寧に整えられたネイル、右目の下にある泣きボクロ。じっくりと観察することで、意外と自分がものを大雑把に見ているか気付かされた。これがデッサンの大切なことなのか。翼先輩が力を入れて話していたのが、少しだけ実感できるような気がした。
「はーい。やめてください」
先生の号令により、一斉に鉛筆を置き始めた。緊張した空気が霧散して弛緩した空気が漂った。中年教師は一人ひとりの絵を確認して、良いところやもっと良くなるところを講釈していた。
自分の絵を見返すとまだまだという印象を受けた。若干肩が傾いている、影が少し薄い、手の組み方もなんとか体裁を整えているようでどうにもぎこちない。内心溜息をついていると、
「お、辻村くんイイね」
突然自分の絵が取り上げられ、飛び上がるような気持ちを抱いた。クラス中の視線が僕に突き刺さった。
「まず、ぎこちないながらもエリチの姿をしっかりとかけているね」
僕の絵を大きく掲げて周囲に見せると、
『ホントだー』
『似てるー』
『すごーい』
次々と賞賛の声が上がった。
「それに彼女のポイントをきっちり掴んでいる。服の色合いや整えられたネイル、あとは目の下のほくろとかね」
自分が意識していた点を次々と評価されて、逆に落ち着かない感覚を抱いた。
「辻村くんって美術部員だからデッサンたくさんやっているんだよね。やっぱりしっかりしているよ」
ビクッと肩が動いた。なんとなく人に言わないようにしていることを当てられただけに、どこかバツが悪い思いをした。
『キーンコーンカーンコーン』
授業終了のチャイムがなり、
「おっと、つい話しすぎてしまった。辻村くん、ありがとう」
そう言って僕に絵を返した。受け取ろうとすると先生は小声で、
「本当はこういうこと言っちゃいけないんだけれど」
と前置きして、
「絵がんばってね」
と、一言だけ口にした。
「はーい。じゃあ、片付けましょうか。今日描いた絵を前に持ってきてねー」
それじゃ僕も絵を返そうかと立ち上がりかけると、派手めな女子が僕の周りを取り囲んだ。何これ吊し上げをくらうの? ビクビクしながら構えると、リーダー格の子が僕の絵を手にとって、
「マジうめーな、このエリチ」
「ねー。本当にエリチみたい」
「このエリチかわいい」
あっという間にエリチの愛称は浸透したみたいで、女子たちは連呼しまくった。というかエリチって言いたいだけでは。
「辻村、おめー絵心あるな」
「辻ちゃん。才能あるよ」
「画家になったら買ってあげるー」
周りに絵を習慣的に描く人がいないだけだと頭では理解しつつも、べた褒めされると心地よく感じていた。ひょっとしてこの絵はいいのではと思いかけ始めていた。
「蓮。美術部に入ったんだな」
いつの間にか春樹がそばに立っていた。コイツの声を聞くと一気に体温が下がった気がした。
「あ、春樹ジャン。おめーも見ろよ」
「すごい上手だよー」
女子たちは僕の絵を春樹に手渡した。彼はスウと目を細めて、じっくりと見た。
「へ、へえ。う、うまいな」
硬い声で答えた。そこにはどこか無理しているニュアンスが聞こえた。
「返して」
少し無理矢理に絵を取り返した。女子たちはポカーンとした顔をしていた。春樹はどこか気まずそうな顔をしていた。彼女らのことは意識しないようにして、先生に絵を手渡した。その流れで逃げるように美術室を後にした。
全授業が終わってから再び美術室に入るときにいつもより強めにドアを開けた。すでに先輩は来ていて、驚いた顔をしていた。
「何? 大きな音を立てて」
「どうもしません」
先輩に八つ当たりしてもしょうがないのに、ついつっけんどんな対応をしてしまった。それについてあれこれ言い訳するのも気が進まないから、無言で画材を出していた。翼先輩は、軽くため息を付いた後、
「蓮君。今日体育あった?」
サッカーをやっていた。あまり得意じゃないのと、春樹のワンマンショーを見ていても面白くないのとで、グラウンドの端の方をうろちょろしていた。
意図がわからない質問にポカンとしつつ、
「ええ。ありましたけど……」
と、答えると、
「今日の美術部は屋外活動に変更です。ちょっとついてきて」
先輩はさっさと美術室を出ていった。慌てて僕も体育着やらカバンを手にとって追いかけた。相変わらず歩くのが早く、少し駆け足気味に歩いた。
階段をてくてくと降りて一階まで行き、玄関の方まで歩いた。更に玄関も通り過ぎてグラウンドの横を歩いていき、更衣室前にたどり着いた。
「はい、体操服に着替えたらここに集合」
そう言って、翼先輩は女子更衣室の中に消えていった。追いかけるわけにも行かず、不可解なまま男子更衣室の中に入った。中には運動部の生徒たちの荷物があちこちに置かれていた。勝手がわからないので、とりあえず僕は隅の方に荷物を置いて、今日使った体操服を手にとった。もうすでに汗で湿っていて、臭っていないか気になりつつも先輩を待たせていると思うので、さっさと着替えた。
外に出ると先輩は準備運動をして僕のことを待っていた。学校指定のシャツに学校指定のジャージを履き、髪を後ろに束ねていた。あまり見かけないスポーティーな姿に新鮮さを覚えた。
「お待たせしました」
こっちの方を振り向き、
「来たね。じゃあ、走ろうか」
「は?」
言ったかと思うと、翼先輩はぱっと走り出した。慌てて僕も追いかけた。公道に出て、坂道を降りていき、海岸線正面右に走っていった。他の運動部の生徒たちもランニングをしており、僕たちもなんとなくその流れに乗ることになった。
最初はぎこちなさがついてまわったが、それなりに走り始めると気持ちよさが出てきた。潮風が吹いていて、ほてり始めた身体を優しくなでてくれた。トンビがピヒョーっと鳴き、穏やかな春を感じさせた。汗をかいて海辺の街を眺めてみると、馴染みのある景色なのに妙に鮮やかに感じてきた。いつの間にかモヤモヤしていた気分も晴れていた。
西側の海岸で結構目立つ岩山が見えてきたところで、
「はーい、ストップ。ここで休憩しよ」
先輩は一息ついた。海風が吹いてきて、身体のほてりを冷ました。波の音を聞きながら、なんとなく空を見上げた。
「どう? 気持ちいいでしょ」
「ええ」
無心になれます。
「よくランニングをされているんですか?」
「週一くらいねー。体力つけるためにね」
冗談めかして力こぶを作ってみせた。確かにじっくり見てみると、ほどよく筋肉がついていた。
「絵を描くには体力が必要ってやつですか?」
冗談めかして聞いてみると、
「そうなのよ! さすが鋭いね!」
すごく褒められた。テキトーに言ってみただけなのに。
「一つにね。絵を描くのに集中力が必要なのよ、集中力」
そういえば、じっくりと絵の具を塗り終わった後、妙に脱力した感覚をいつも持っていたな。
「二つにね。これはテクニック的な話になるんだけどね」
と前置きして、
「G大の油画科の実技試験があるんだけどね、一日七時間ぐらいぶっ通しで絵を描かなければならないのよ」
「七時間も!?」
自分の人生がかかっている中でその時間は倒れてもおかしくなさそうだ。
「予備校でもね、受験シーズンが近づくと模擬試験をやるみたいよ。たくさんの人が七時間くらい集中するから、重ーい重ーい雰囲気になるみたい」
この春空にふさわしくない光景を想像してブルリと震えた。自分がその場にいたら疲労で倒れる前にプレッシャーで倒れるだろうな。受ける気もない試験のことを考えていると、
「というわけで蓮君。これから後二年ランニングを頑張れば、まず実技で倒れることはないと思うよ」
「いやいや。僕美大受験なんて考えていませんし」
先輩は一瞬『えっ』という顔をした。すぐに持ち直して、
「美大受けるかどうかは別として、適度に運動している男の子はかっこいいと思うよ」
そういって僕の上腕二頭筋をつっつき、
「こことかちょっと筋肉あるといいと思うよ」
「本当ですか?」
くすぐったい感覚を抑えながら答え、
「本当よ」
と返ってきた。うーん、じゃあ今日から筋トレを始めようかなと思っていると、
「ずいぶん楽しそうだな」
聞き慣れた声が耳に入った。振り返るとそこには春樹がサッカー部のユニフォーム姿で立っていた。整った造形と相まって、爽やかな雰囲気が自然とできていた。顔にはニヤニヤした表情が貼り付けられていた。
「最近遅く帰っていたな思ったら。部活始めただけじゃなく女も作ってたのか」
「ば、ばか。お前」
みるみるうちに顔が赤くなっていくのを自分でも実感した。焦って先輩の方をちらって見てから、
「こ、この人とは何でもも、ないよ。へ、へんな、なこと言、うなよ」
なんとか自分の意見を伝えたところ、
「動揺しすぎだろ」
「動揺しすぎでしょ」
お二方と同時に突っ込まれた。
「この子っていつもこんな感じ?」
「ええ。なんかどこか自信ない感じありますね」
「ちょっとからかうとすぐテンパっちゃって。そこがかわいくもあるんだけどね」
「いつも周りからいじられてますねー」
お二方とも僕ことについて言いたい放題に評していた。さすがの僕もカチンと来たので、とりあえず春樹に、
「おい。お前いいかげんにしろよ」
釘を刺しておいた。チェッという表情をして、何も言わなくなった。
「君、蓮君のともだち?」
「ええ。小学校からの友人になります」
「コイツとはただの腐れ縁ですよ」
先輩とコイツが打ち解けているところを見ていると、訳もなくイライラしてきた。
「おい、お前いいのかよ。こんなところで油売って」
「いいわけねえだろ。こっそりやってんだよ、こっそり」
そう言いつつ、すっと立ち上がった。
「さてと。おじゃま虫は消えますか。蓮、あとで詳しく教えろよ」
S高の方面へ走っていった。サッカー部だけあって、僕たちよりも全然早かった。ふう。やっと行ってくれたか。内心の緊張を解いていると、
「ねえ。さっきの子って何ていうの?」
「春樹のことですか? 小学校の頃からの同級生です」
「ふーん。あの服だとサッカー部かな?」
「そうです。なんかレギュラーになりそうって言ってましたね」
「すごーい。付き合ってる子いるのかな?」
それは微妙だから答えづらい。というかさっきから春樹のことばっかりだな。翼先輩の顔つきを意識してみると、あいつの周りにいる女子たちと同じ顔つきをしていた。それこそ少女マンガだと『うっとり』という擬音が描かれていそうな感じに。
この人もか。心の中で嘆息をした。春樹と知り合いになる人たちは高確率で好きになり、高確率で泣かされる。今まで何回も見てきたし、多分これからも見る光景なのだろう。翼先輩はどこか人と一線を画した雰囲気があっただけに、俗っぽいところ見えてが出て残念だった。
「どうしたの蓮君? 怖い顔をして」
怖い? 特に自覚していなかっただけに、ビクッとした。せっかく気が晴れたのにもったいない。
「なんでもないです」
そう言って振り切るように走り出した。
「ちょっと。待ってよ」
後ろから先輩の声が聞こえたが、気にしないようにした。絵のこと、翼先輩のこと、進路のこと、春樹のこと。嫌なことを全部吹き飛ばすように走った。
往路のときよりも多少ペースが上がったのが、周りの景色がどんどんと過ぎていいた。肺がキュッと痛くなるような気がしたが、それでもスピードを緩めずに走った。
気がついたらS高の正門が目の間に見えていた。無我夢中で駆けていたから、あっという間な気がした。
ホッとしたら急に胸のあたりがさらに痛くなり、足がガクガクとした。身体に無理をさせていたのを実感した。膝に手をのせて体重をかけて、ぜえぜえとさせて息を整え始めた。汗がびっしょりと溢れ出し、身体中に熱を帯び始めた。
「あーあ。言わんこっちゃない」
そんな声が聞こえたかと思うと、頬に冷たい物体があたる感覚を抱いた。顔をあげると翼先輩が呆れた顔をしながら、手にポカリスエットを持っていた。
「ふだんランニングしないくせに。そんなに飛ばしたらバテるに決まってるでしょ」
小さい子をあやすような言い方で口にした。そのまま僕に向かってペットボトルを投げた。あわててキャッチしたら、
「それあげる。飲んで落ち着きなさい」
と言った。飲んでみると水分がすーと身体に染み渡る気がした。それに伴い息も落ち着いてきた。
「なに? あの子と喧嘩でもしたの?」
直球で聞いてきて、しかも見事にあたっていて。とりあえず受け流そうと、
「なんでそう思ったんですか?」
返してみた。
「ん? なんとなく教室と海岸のとき同じように眉間にシワが寄ってたから」
デッサンの賜物ですか。観察眼すごいですね。とりあえずだんまりを決めていると、
「まいっか」
聞くのは諦めたようだ。ホッとしていると、
「今日は蓮君の珍しい姿見れたし」
「珍しい姿ですか?」
いつもどおりに過ごしていたつもりだったけども。なんだろう。
「春樹君だっけ? あの子に対してはずいぶん打ち解けた話し方をしてたなーって」
打ち解けた?
「特に変えているつもりはなかったのですが」
「うんうん。『コイツ』とか『お前』とか乱暴な言い方してたわよ。蓮君も男の子なんだなーって」
全然気づかなかったや。
「いやあ。ホント。仲のいい友達がいるのいいわね」
なんか先輩の口調にからかいの色が混じり始めていたから聞こえないふりをした。仲の良い友人言葉ほどしっくりこないものはなかった。